「女王に刃向かう愚か者」
   その声には怒りというよりも苛立ちがあった。当然平伏すると思っていた者が予想外の行動を起こした腹立たしさが男の目に閃き、堂々とした体躯が内側から威圧感を吹き上げる。
   木屑を撒き散らし、青年がヨロヨロと立ち上がった。
「女王に跪かず、本当に女王のためになることが何なのか、わかろうともしない愚か者めが。おまえ自身、翼手であろうが。それをなぜわかろうとしない。己の女王の気儘に従い人間の傘下にくだるとは。わかっているのか。ジョエル・ゴルトシュミットはおまえたちを実験動物として眺めていた。その男の血縁になぜすがるのだね。なぜ人間と言うくだらない枠に捉われようとするのか。愚かな・・・。おまえも、小夜も。微笑ましいほど愚かだ。
   だが私は違う。私の女王のために私はすべてを捨て、すべてを支配しよう。私のディーヴァは歩き始めた。あるべき世界を求めて。真に相応しいモノを求めて。私の生きる目的もそのためにある。そのためにこそ、私は私の女王のすべてを知ろう。私は私の女王のすべてになろう。そんなことがおまえにできるかね。ハジ。
   ディーヴァに跪かぬ者に価値はない。美しく輝かしい私の翼手の女王を見るがいい」
   半ば陶然となりながら男はディーヴァを見つめて微笑んだ。よろめく足を踏みしめて青年が相手を睨みつける。だがそんな青年に少女が笑いながら声をかけた。
「姉さまはあのときも、いつだって本当の私を見ようとしなかった。本当のことを知ろうともしなかった。ただ私を解放してくれただけ。震えていた私の手を取ろうとして、結局取らずに他所を見つめただけ。――でも。今は姉さまの方が私を追い掛けてくれる。私だけを見つめてくれる。私、それが嬉しい。本当に嬉しいの。だから、私はね、今満足なのよ。たとえ姉さまと直接会えなくてもね」
   一呼吸力を溜めて、ハジは再びディーヴァに向かって今度は高速で移動した。しかし、目的の場所に達する前に彼の身体は同じ大きさの衝撃に襲われた。空気が大きく振動している。目の前にアンシェル・ゴールドスミスがいた。
「おまえだけかと思っていたのかね、高速で移動できるのは。同じシュヴァリエならばこそできることも同様、いやそれ以上だとどうしてわからない?」
   だが青年はものも言わずにそのまま素早く一歩下がると、ディーヴァの騎士に対して利き腕を突き出した。体術は『動物園』にいた頃からたしなんでいた。領主然として恵まれた生活をしていたゴールドスミスの当主に劣るはずはない。だがその突きをアンシェル・ゴールドスミスは余裕で受け止めた。わずかの驚愕の後に唇を噛み締め、反対側を払う。人間の視力では捉えることのできない戦いだった。突きも払いも、そしてなぎ払うその手刀すらもアンシェルははじいてみせた。軽くかわされてたたらを踏んだ青年を軽く突き放す。青年の方はバランスを崩して膝をつきそうになるところをかろうじてこらえた。
「どうした。それだけかね。せっかくシュヴァリエになったというのになぜ力を尽くさない。それでは私に勝つことなどできない。翼手の力はこう使うのだよ」
   そのとき、ハジはアンシェルが力を呼び起こしている様を見た。その意志の力が空間を徐々に捻じ曲げていく。それが球形に錬成されていく。空気圧の差が放電となって稲妻の光のようにちらちらと内部が輝いている。指一本動かさず、アンシェルはそれをやってのけた。何が起こるかわからないうちにそれが自分に向かって一直線に走ってくるのを青年は見た。呆然と見ていたハジにはそれを避けることもはじき返すこともできなかった。至近距離で胸の真ん中にまともに喰らった青年は再び地面に叩きつけられた。肉の焼けるような嫌な匂いがしていた。激痛のあまり声を上げることもできずに青年が身体をよじって内臓を抉り出すかのように激しく咳き込むと、その唇から大量の血が飛び散る。青年の胸をまともに狙った光球はその勢いのまま、彼の胸を焼き肋骨を折り、そしてそれが肺腑を傷つけていたのだ。だが何秒か経つとその傷は自動的に修復し始める。これが翼手と呼ばれる種族の特長だった。
   アンシェルは嗤った。
「力の解放もせず防御も不完全。そんなことで私と戦おうというのかね。すべてを出し切ってこそ女王を守れる」
   傷がすべて治り切る一瞬前に、青年は渾身の力で地面を蹴った。だが一瞬早く、今度は風圧のようなものがその身体を吹き飛ばす。ハジは背中から岩に激突して再び咳き込んだ。そのままその圧力は青年の手足を拘束する。肋骨が軋むような圧迫感。内臓が押しつぶされそうになるところを必死にこらえる。
「どうだね、動けまい。殺さんよ。殺す価値もない。女王はおまえを拒んだ。さもありなん。おまえはただおまえの主に盲従するだけの、愚かで卑小な存在だ――。だがまだまだおまえにも利用価値はある。
   小夜の騎士として小夜の眠りを支えるがいい。あるいはディーヴァの考えが変わるかもしれん。あるいは・・・・。そう。小夜の子供を考えるという手もある。
――どうした、顔色が変わったな?」
   青年の怒りの波動が無意識のうちにアンシェルの圧力を跳ね飛ばした。拘束を解かれて、だがハジは膝を突くように地面にひざまずいたまましばらくは動けなかった。右手が地面の上で固く握られ、その目の中に激しい怒りと焦りがある。まだまともに動かない身体を引きずり起こすように青年は起き上がった。
   そこへ再び凄まじい圧力がかかる。思わず青年の口からうめき声が漏れた。
「おまえごときがどうこうできると思っているのかね。もちろん小夜の子供のことも考えたことはある。女王と対のシュヴァリエの交配を試みるというのならば、私と小夜のケースも考慮に値するのだろう。だが私はジョエルとは違う。私にはディーヴァがいるのだ。ディーヴァこそ私のすべて。次世代の女王を産み出すというのならば、ディーヴァこそそれに相応しい」
「小夜を・・・・、どうするつもりだ」
   もがきながら青年は言った。骨という骨が軋みを上げている。今度こそ立ち上がる力もなくなっていた。衝撃が回復力を上回り、一旦受けた傷が少しずつ広がっていく。口の中に血の味がしみてくる。
   すさまじい苦痛に身を焼かれながら、だが彼は視線だけはアンシェルからはずさなかった。
「どうにもせんよ。彼女は今眠りの中だ。私のディーヴァにももうすぐそれが訪れる。我ら騎士には黙って待つことしかできまい。
   それより自分のことを心配したらどうだね。人間などに身を寄せるなど。とんだ茶番だ」
   『ボルドーの悲劇』を引き起こした片割れが、対翼手の組織である『赤い盾』に身を寄せる。その矛盾をアンシェルはさもおかしそうに指摘した。いつ、『赤い盾』の面々が彼ら自身を不要だと断じるかわからない。そんな不安定な状況になぜ甘んじているか。
「小夜が・・・・望んだことだ」
   しわがれた声を絞り出すように青年は吐き出した。小夜がなぜそれを望むのか、青年は知っていた。恐らく知っているのは、理解しているのはハジだけだったろう。
「ハジ。だからおまえは愚か者というのだ。そんなことが女王のためになるものか」
   殺された『動物園』のジョエル。その後を継いで翼手の悲劇を終わらせるためだけに「ゴルトシュミット」の力を使おう言ったゴルトシュミットの当主。同時に翼手である小夜を受け入れる決意をも彼は固めた。人間以上の、自分たちを滅ぼし得る能力を持つ翼手という種族を受け入れた『赤い盾』の長官。その決意の大きさは尊敬に値する。しかし小夜の、秘められた決意をハジは知っていた。ディーヴァを滅ぼしたとき、自分自身も滅びること。そのために『赤い盾』の力を借りること。それはあまりに悲しい決意であり、人間に対する不安定な信頼だった。だがすでに自らの滅びを見つめている小夜にとって、何が問題になるだろうか。小夜が翼手であることを知っていながら、彼女を全面的に補助する組織であるという一点。それが何より貴重なのだった。彼らは単に「ディーヴァの眷属を殺せる血を持っている唯一の存在」だから、小夜を補助するのであってそれ以上のものではない。それもわかっている。だが青年はそれらすべてを受け入れて、小夜のため、小夜の望みのために小夜の傍らにいることを決意したのだった。
「貴様に何がわかる」
   苦痛のさなか、青年は鋭い視線でアンシェル・ゴールドスミスを見据えた。純粋な怒りと今まさに吐き出しにされた獰猛さ。手も足も出ないというのに、その反抗的な激しさは、だがアンシェルを面白がらせただけだった。
「ほう。本性を剥き出したな。おまえのそんな目は何年ぶりか。そうだとも。おまえは決して従順でも上等な人間でもない。おまえの本質は、もっとずっと粗野で下卑たものだ。習い覚えた作法で上辺だけそれを取り繕っているにすぎない。
   己の女王を護るだけの力も及ばず、対の女王の相手をする器量もない。おまえは自分の女王の後ろを尻尾を振ってついていくだけのただの犬なのだ。
   そして、その女王である小夜ときたら――」
   青年の目が怒りに一際蒼白く輝く。
「アンシェル」
   そのとき不機嫌そうに少女が男の名前を呼んだ。たちまちアンシェル・ゴールドスミスは青年を拘束したまま、少女に視線を戻す。少女は少しばかり唇を尖らせていた。
「つまらないわ」
   少女の姿をしたものは、青年を蔑みの目で一瞥するとゴールドスミスの当主の腕に甘えるようにしなだれかかった。少女にしてみればアンシェルの関心が自分に向けられていないことが不快だったのかもしれない。取り戻すように男の瞳を覗き込む。
「殺さないんでしょ? じゃあもう遊んでやることもないじゃないの。本当は腕の一本か足の一本でも捥いでおくのもいいのかもしれないけれど。こんなに弱すぎじゃあちょっと興ざめね。そんな気にもなれやしないわ」
   姉さまのシュヴァリエなのに。少女は不満そうに言ってからアンシェルを促した。
「ねえ、行きましょ。アンシェル」
「待て」
   だが動かない手足を無理にでも動かして追いすがろうとした青年に向かって最後の、最大のすさまじいばかりの空圧がかかった。ちりちりと空気が鳴る。空間が曲がっていく。その様が目に見えるようだった。
   空気が圧縮され、その圧力差により電圧が生まれる。それが青年に向かって発せられると、その巨大な電圧は青年を飲み込んだ。翼手であっても実際の筋肉の構造は変わらない。放電のただ中に放り込まれたかのような苦痛に青年の全身がありえないほど激しく痙攣を繰り返した。神経が焼き切れる。苦悶の呻きが青年の口から洩れ、次第に大きくなっていった。それが突然途切れた。
   電圧の放つ光に少女の瞳が照り輝いている。
「死んだの?」
   唇に微笑を浮かべながら少女が言った。電撃を収めながらアンシェルはハジの姿から目を離さなかった。ポケットからハンカチーフを取り出して、手を拭ってからその場に捨てる。
「いいや。残念ながら。シュヴァリエは心臓が止まってもまたすぐに再生します。じきに動きだすでしょう」
   ぴくりとも動かない身体を冷ややかに見つめながら彼は言った。
「今だけでも精々我々を邪魔立てしないようにおとなしくしていてもらおう」
「馬鹿なシュヴァリエ。・・・・こんなに弱いくせにどこまでも姉さまを慕って、どこまでも姉さまを護れると思い込むなんて」
   少女の口調は嘲笑にみちたものだった。
「そうね。でも、もしも・・・・」
「ディーヴァ・・・?」
   だがそこで少女は涼やかに笑い上げた。
「アンシェル。どんなになっても私はこの子を選ばないわ。だって、私の小夜姉さまは――」
「彼を連れて行くことも可能ですが?」
   男の声色にわずかに何がしかの色が滲む。だが少女は首を振った。
「ううん。いいの、アンシェル。行きましょ」
   その言葉を最後に二人の姿はその場からかき消えた。




   アンシェルの言葉通り、青年がうめき声を上げて息を吹き返したのはそれからしばらく経ってのことだった。小さな声で女の名前のようなものをつぶやくと、ゆっくりと目を開ける。身体を起こして、よろめきながら彼は立ち上がった。あれだけの衝撃を受けたのに既に身体はほとんど回復している。ただ異様な喉の渇きだけが意識され、青年は必死にそれを噛み殺した。
「小夜・・・・」
   喉の渇きは益々強くなっていく。目の前が飢えで真っ赤に歪む中、青年は意識だけは正常に保とうと務めた。自分の身体の特異性が、それを考えまいとする青年に現実のものとして突きつけられる。次第に尖っていく牙。身体の異常な震え。身体の内側からせり上がってくるような餓えに吐き気すら覚える。内面の力すべてを使って青年はそれを捻じ伏せようとしていた。自制。制御。本能を規制する。いつかは限界になるかもしれないこの自分自身との葛藤に、だが青年はどうしても打ち勝たなくてはならなかった。小夜の悲しみを見たくない。飢餓感は想像以上に青年を苛み、吸血への欲求で内臓が裏返りそうになっていた。からからに乾いている喉が、反射行動のように嚥下を繰り返す。・・・・が欲しい。その一線を超えてはいけない。青年は低くうめき声を上げた。『赤い盾』から血液を補充することすら、本当は――。喉の渇きが。唇のひび割れがそんな自分を嘲笑う。受容することも否定することもできない。この生命の矛盾を抱えながら、それでも歩みを止めることは青年にはできなかった。先程アンシェル・ゴールドスミスが言ったように、自分は翼手なのだ。あの小夜とは対の翼手の女王たちとの邂逅は、青年に認識していたこと以上のものを突きつけた。あれがディーヴァ。そしてアンシェル。以前ジョエルの館で最後に会ったときと同様に尊大さに溢れた人物であることには変わらないが、それが魔物のように底知れない恐ろしさに変わったように思えた。あれがシュヴァリエに変わるということなのだろうか。それならば、自分は・・・・。女王の血はすべてを変える。喉の渇きと共に思わずぞっとした。自分の中にもあんな部分があるとしたら・・・・。現にこの吸血への欲求は身体の隅々に耐え難いほどの飢餓感と渇望をもたらしている。それにもしも負けてしまったならば――。
   だがそのとき。胸の奥でひっそりと小夜の声が甦った。哀しげに意志を込めて、自分を見つめる瞳。
――あなただけしかいないの。―― ささやくようなあの言葉。絶望の望み。滅びへの言葉。
(小夜・・・)
   砂山がなだらかになっていくようにいつの間にか徐々に、飢餓感が薄らぎ始めた。
   あの二人には小夜の悲しみを理解することは決してできないだろう。翼手である小夜の生きることの苦しみと悲しみ。それに寄り添いながら少女を護ると自分は誓った。護り、支えることを自分のすべてで引き受けて。――後悔はしていなかった。小夜の意志を護ること、それは動物園から続く青年の在り方だった。苦しみはあった。この世で一番大切な者を、彼女の唯一の願いによって殺さなくてはならない運命。だがそれが青年の引き受けた運命だった。青年は耐えることを知っていた。
   何も変わらない。ただ変わらずに小夜の傍らに立つ自分がいるだけ。その誓いは絶望と共にひっそりと、本人も知らぬ間に青年の存在を変わらぬ高みに押し上げる役割を担っていた。
   小夜への想いに守られているように思えてハジは目をつぶった。ディーヴァもじきに眠りに落ちてこの世は再び鎮まるだろう。だがすでに翼手はこの世に解き放たれた。
   小夜の願いの悲しさを痛いほど感じながら、青年は今は眠る小夜に想いを馳せた。いつまた目覚めるのかわからない彼の女王。
「小夜・・・」
   彼のつぶやきに誰も応えず、ただその青白い頬にかかる髪を冷たい風が乱していくだけだった。





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2010/04/01 初稿脱稿

2010/07/02 掲載

終わりました。色々と不備はあるものの、私はとても書いていて楽しかった。アンシェルとか、ディーヴァの性格は書き易いのです。実はハジ小夜よりも。。。(このサイト、ハジ小夜サイトなのに。。orz。) だからこそ彼らを書くのをしばらく待ってました。ハジ小夜をしばらく頑張ってから・・・・。と思ってましたので。このたびようやく自分的に解禁して書いてみました~。
 BLOOD+ Festa4(2010 Comic City プチオンリー)開催記念に。


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