再び死体が起き上がる事件が起こったという情報が入ったのは、北フランスの海に近い地方の村からだった。
   きっかけは些細なことだった。あるとき、村の若者たちが何人か冬祭りの後、突然いなくなり、ちょっとした騒ぎになったのである。彼らは2日後に何事もなかったように戻ってきたが、それから急に彼らが以前生活していた周囲でバタバタと人が死ぬようになった。それも朝元気だった者が夜には起き上がれなくなり、そのまま昏睡して亡くなるのである。その死体には一滴の血も残っていなかった。誰からともなく帰ってきた彼らの様子が以前とは違っていると言い始めた。だが帰ってきた若者たちの家族は彼らを庇い、それならばまず自分たちがおかしくなるはずだと言い張った。どういう訳か当の本人たちの家族は全員無事だったからである。だがその数日後、ついに若者たちが同じように昏倒し、そのまま目覚めず死者の仲間となった。葬儀が厳かに執り行われた。彼らを責めた者たちは後悔した。彼らが原因ではなく、彼らも犠牲者のうちだったのか、と。だが彼らの死体からは血は失われず、生き生きとした往時の表情を留めたままだった。その翌日。恐ろしい現象が起こった。若者らの死体が起き上がったのである。起き上がった死体はたちまち変形を遂げ、化け物の様相となって人々を襲った。今度は最初に犠牲となったのは、若者たちの家族であった。犠牲者の数はそれほど多くはなかったが、その情報を得た時点で『赤い盾』は直ちに事態の確認を行い、すぐさま対策を講じることとなった。


   そのとき、小夜はすでに眠りの中いた。

邂  逅かいこう



  翼手が発生したと推定される出来事は『赤い盾』にとっても予想外のことだった。小夜が眠りに就いたならば、当然同じ生態を持っているディーヴァも眠りに就いたと判断し、このような『死者が起き上がる事件』の発生は収まると予測していたのだ。このことについて、いくつかの予測が立てられた。一つは小夜にだけ眠りが訪れ、ディーヴァは起きていること。もう一つは小夜とディーヴァの眠りに就く時期のズレ。あるいはディーヴァが眠りに就いた後でも何らかの影響を及ぼす手段がディーヴァのシュヴァリエによって考え出されたか。
   どの予測が正しいのか、彼らはそれを検証しなければならなかった。そのために『赤い盾』は彼らの切り札の一つ、小夜のシュヴァリエであるハジをその場に派遣することにしたのである。




   人里離れた荒地で青年は、自分の背丈より一回り大きな巨体に対峙していた。静かな緊張をもって身構えている青年に対して、相手はひどい興奮状態に陥っており、荒々しい息を鞴(ふいご)のように吐き出して、落ち着かなげに身体を前後に揺らしている。ひしゃげたような顔。土気色の外皮。突き出した眼球。威嚇するように尖った牙が剥き出しになっている。だらしがなく開いた口元から涎がぼたぼたと滴っていた。変形されている四肢は明らかに翼手の特徴を持っていた。人間の様子をほとんどとどめていないが、元来人間であったものの成れの果て。決して人の目には触れてはならない存在だった。
   見出されたこの異形の存在が、『起き上がった死者』が最終的に取る形態だった。ディーヴァの恐らく血液によって変化させられた存在。小夜やディーヴァ、そして彼女たちの眷属たち。それらを『赤い盾』は翼手と呼んでいる。
   発見したときに青年がまず取ったのは、一刻も早く人のいる所から引き離して人目の無いところにまで連れ出すことだった。被害を止めるため、そして翼手同士の戦いを人間の目に触れさせないために。相手をおびき出すのに苦労するだろうとも思っていたが、いざ対峙してみると対の女王である小夜のシュヴァリエだとわかるのか、相手はひどく興奮して、あからさまに敵愾心を吐き出しに牙をむき出した。ほとんど知性を失った身体がこのときだけ目的を取り戻したように青年に向かってしきりに威嚇の声を上げている。それは人間としてのすべてを剥ぎ取られた憐れで痛々しいものだったが、人間性という制御をはずされた彼らの力は侮られるべきものではなかった。張られた弓から矢が飛び出すように、一直線に相手は青年に向かって襲い掛かった。
   ハジはただ相手が自分に襲い掛かってくるにまかせ、振り上げられた腕を顔色一つ変えずに片手で受け止めた。力の差は歴然だった。巨体を持つ翼手よりも、ほっそりして見える青年の膂力の方が相手を上回っている。じりじりと押し返し、そのまま力任せになぎ払うと、相手は大きく投げ飛ばされた。爪が岩肌に何本か線を残している。けれども相手はすぐに起き上がった。青年を『倒すべき相手』と認識している。異様な声で吼え上げるとその巨体は再び青年に向かって走り出した。それは死への助走だった。ハジはぎりぎりまで引き付けると跳躍した。相手の肩先を踏み、高く飛び上がるとその勢いを利用して担いでいた荷物を肩からはずす。そのままそれを槌のように振り上げ、相手の首筋に向かって振り下ろした。すさまじい腕力だった。
   その勢いに首の細胞が一瞬にして押しつぶされる。半ば以上切断されていながら、相手は未だ生きていた。だが地面に叩きつけられると同時に駄目押しのように岩塊のようなものが降ってきてその頭を押し潰す。頭をつぶされればいかな翼手といえども生きられるものではなかった。断末魔の痙攣が翼手を襲った。
   これでもう起き上がることもないだろう。わずかな返り血を拭いながらハジは小さくため息をついた。この人は解放されたのだ。
(これが人だと言えるとしたら・・・・)と彼は暗い思いで考えた。既に人間としての思考も形態も奪われて、獣同然に身を堕としている。そしてこのまま永劫にさ迷い続ける。血に餓えながら。
――こうして倒すことによって、唯一その苦痛から解き放ってあげられる。それが私の役割だから――
   小夜が自分に言い聞かせるようにつぶやいていた記憶が甦る。つらそうに背を向けながら、視線を落として吐き出すように小さな声で言った。だが彼らと自分と、何が違うというのか。人の生き血を必要とする身体。驚異的な身体能力。死を知らない身体。決して望んで手に入れたわけではない。違うといえば、人間であったときの記憶を保ち続け、考えることも感じることも、その記憶に依っていることだけだった。血を摂ることにも慣れ、傷を受けてもすぐに回復することにも慣れた。ただそれを目の当たりにしたときの小夜の視線の痛々しさに胸がさいなまれる。だからこそハジはぎりぎりになるまで血を摂取することを避け、血を摂り込むときにもできるだけ小夜の視線を避けるようにしていた。
   不意にハジはこれまでにない疲れを感じている自分に気がついた。人間ではなくなってから、眠りを失ったと同様に疲れも感じなくなったというのに。
一人きりで翼手に対するのは初めてのことだった。こんな風に虚しさすれすれの孤独を感じることも。少女の不在が改めて青年にのしかかる。
(小夜――)
   あの日以来、小夜は笑わなくなった。最後に見たその表情は淋しく哀しげだった。涙を溜めたような瞳のまま、小夜はゆっくりと目を閉じてそのまま眠りに落ちていった。少女の笑顔を見なくなって一体どれ位経ったのか。たまらなく青年は小夜の笑顔が見たいと思った。振り仰いで青い空を見つめた真っすぐな眼差し。朗らかな笑い声。無邪気に輝くあの笑顔に会いたい。




   そのとき突然青年の全身が緊張にこわばった。やわらかい想いににじんでいた目がたちまち鋭さを取り戻す。風が何かを伝えようとしている。彼は身構えるように周囲を見回した。誰かが自分を見ている。それも興味と蔑みに満ちた目で。今までに味わったことのない悪寒に青年は襲われていた。じっとりと汗がにじんでくる。それは青年が人間ではなくなってから初めて感じる感覚だった。試されているような、観察されているような。
   落ち着かなげに身構える青年の背後から豊かな深い色をした低い声がかすかに響いた。
「ほう。気が付いているのか?」
   人間の耳には捉えられないほどの声だったにもかかわらず、はっと青年はそちらの方を振り返った。同時に切り裂くように青年の手からナイフが飛び、一本の立ち枯れた木に突き刺さった。
「気が付いたようだな」
   今度は反対側からはっきりとした声で響いた。ナイフをしっかり握り締めながら青年は再び身構える。その声には聞き覚えがあった。忘れもしない、聞き間違いようもない声。かつてまだ少年だった自分を汚泥のような生活拾い上げ、日の光の下へ、小夜のもとへと連れ出した――。
「あなたは・・・」
   アンシェル・ゴールドスミス。青年にとっては主筋に当たる人物だった。しかし彼こそディーヴァの第一シュヴァリエ。『動物園』の惨劇を引き起こしてから後のディーヴァの行動はすべて彼と共にあると言ってよかった。翼手への彼のあくなき興味は、ついに彼自身を翼手となさしめ、そして――。起き上がる死体。シュヴァリエ以外の翼手の発生。彼らが何の目的で翼手を作り出しているのか、誰にもわからなかった。だが起こっていることの禍々しさ。小夜の悲しみと苦しみ。この世の中に許されないことがあるとしたならば、まさにこれがそれだった。
   アンシェル・ゴールドスミスは姿を現すと、ゆったりとした足取りで青年へと歩みを進め、手前の方で立ち止まった。紳士然とした優雅な足取りは以前と変わりはしなかった。
「おまえ一人か」
   力強さと尊大さ。侮蔑と興味。それらすべての綯い交ぜとなった視線で青年を眺めている。およそ人間を見つめるような目つきではなかった。まるで実験動物を見つめるような奇妙な目であった。
「では小夜は――」
「そう・・・・。姉さまはもう眠りについたのね」
   不意に鈴を転がすような美しい声がした。同時にアンシェルのすぐ隣に舞い降りたように一人の黒髪の少女が姿を現す。とたんにアンシェル・ゴールドスミスの視線は青年を離れ、少女に移った。その目が幾分和らいでいる。
「わかるのですか?」
   アンシェルが。あの尊大な人物が敬語を使っている。恭しさと憧れと、所有欲といとおしさ。彼がこんな声でモノを言う姿を初めて見た。青年の知っているアンシェル・ゴールドスミスはジョエルに対してすらもこのように畏敬を籠めては話さなかった。
「わかるわ。だって。私も眠いもの」
   アンシェルの傍らに寄り添いながら少女が微笑みを浮かべている。その顔がこちらを向いたとき、青年は息を呑んだ。小夜?・・・いや、違う。あれは・・・・。一瞬の混乱が青年を襲う。燃える『動物園』の日々。赤く崩れ落ちるジョエルの邸。ちらりと見たあの姿。小夜は呆然と立ちすくんでいた。
「まさか・・・・。ディーヴァ」
   なぜ――。小夜は眠りに落ちたというのに。当初の『赤い盾』の予想にもかかわらず、彼は一瞬茫然となった。彼女は小夜そっくりの顔で艶然と微笑んでいた。だがその微笑みは――底冷えのするような得体の知れないものがその中にあった。人間のものとは思えない、どこか怖れにも似た感情を起こさせる微笑み。にもかかわらず、どこか引き寄せられる。計り知れない、引きずり落とされるような感覚が眩暈のように青年を襲っていた。似ている。小夜の微笑とはまったく異なっているというのに。それは惑乱と蠱惑に満ちた美しい魔性の微笑だった。アンシェルがやさしいとも言える表情で彼女を見つめて微笑んだ。
   青年の背筋に何かわからぬ悪寒のようなものが走る。翼手が小夜の血で滅ぼされるのと同様に、ディーヴァの輝く血は自分を滅ぼす。だがハジはそのディーヴァの青い目から目を離せなかった。胸の奥で嫌悪さえ感じていると言うのに。
   アンシェル・ゴールドスミスは再び青年に目を向けた。
「小夜は眠りの中か――。不思議かね? 小夜が眠りに就いているというのに、ディーヴァが起きているのが。まだまだ翼手の女王の生態にはわからぬことも多い。面白い事象だ。これは双生児とは言え女王同士の生態はそこまで同期をとっている訳ではないという一つの実証なのだよ」
   興味深い、と男は笑う。そのとき傍らで少女が身じろいだ。
「アンシェル。・・・・でも私ももうすぐ眠るわよ?」
   青い目が輝きをまとって男を見つめる。振り返った男は恋人でも見つめるような熱さでディーヴァを見つめ返した。
「ディーヴァ・・・・」
   約束された愛人。運命を共にする者。従属と庇護。研究と愛情。不可解で離れがたい絆がそこにあった。それでも彼らの間にも眠りは介在する。
   やがてアンシェル・ゴールドスミスはディーヴァを傍らに、冷徹な目でハジを見据えると言った。
「おまえ一人ならばちょうどよい。小夜と引き離し、おまえを我々のものにするのも一興」
   彼にしてみると、小夜がいない今こそシュヴァリエであるハジをその手にする機会かとも思ったのかもしれない。女王の交配相手として自分たちの手駒にするのも意味がある。今まで小夜の傍らに置いてやっていたように。
   あくまでアンシェル・ゴールドスミスは主筋の人間であり、ハジは単なる従者であった。自分の自由にできる者。逆らわれることなど範疇外の存在。
   だがそのとき、ディーヴァが口を挟んだ。
「だめよ。アンシェル。私はいやよ。なんで私があんな子を選ばなくちゃならないの。いらないわ。そうよ、おまえなんていらないのよ」
   ディーヴァの青い目はハジを見つめて冷たく輝いていた。憎悪と言うよりも嫌悪に近く、もっと突き放した感情がその中にあって青年を見つめている。
「私はおまえを知っているもの。私が塔の中にいる間、おまえはずっと姉さまの傍にいたわね。子犬のように姉さまの後をくっついて。おまえはそうやって姉さまの行くところどこへでもついて行ったね。あそこにやってきてからずっと。
   でも知ってる? 姉さまの初めての友だちは私。おまえじゃないの。私はおまえよりずっと長い間姉さまを見ていた。どうして姉さまが赤い薔薇を好きだったのか、知らないでしょう? 一人で歩くとき姉さまがどんな景色が好きだったのか、わからないでしょう? 私は知っている。知っているのよ・・・・」
   一瞬、ディーヴァの表情は遠い記憶を辿るように輝いた。
「塔の中で私、姉さまの気配をずっと追っていた。姉さまがいつ来てくれるのか、いつもいつも心待ちにしていたのよ。真っすぐで綺麗な光の欠片みたいな姉さまの心。姉さまは知らない。とうとう気がつかなかった。私がどんな思いで姉さまを見ていたのか。大好きで、大好きで、そして――。ああ。姉さまはわからなかった。愚かしいほどわからなかった。だからこそいとおしい、私の姉さま。本当に、どうにかしてしまいたいくらい。
   ねえ、なんでおまえなんかが姉さまの近くにいるの? 私と姉さまと。この世に二人だけ。それが本来の姿だった。本当なら姉さまもおまえなんて必要なかったの。友だち? そんなもの! 友だちなら私がいたし、姉さまには何もかも与えられていた。だって私の姉さまですもの。だから、本当は姉さまはおまえなんかいらなかったの。
――私もおまえなんかいらない。いらない子。おまえは誰からもいらない子なのよ」
   ディーヴァの言葉は青年の中のどこかを深く抉った。傷つけられたように一歩下がる。
「動揺しているのね?」
   面白そうにディーヴァが笑った。青年の中に怒りに似たものが閃いた。小夜の悲しげな声が頭の中に響く。
――私がディーヴァを狩ったら――
   二人きりだというのならば、なぜ小夜はあんな風に追い詰められなくてはならなかったのか、あの無邪気なやさしい少女が刀を手に闘いへと身を投じなければならなかったのか。気が付くと考えるより先に身体が動いていた。
   青年もまた人間ではなく、その跳躍力は一瞬で少女との距離を詰めた。しかし、その手がついに少女に届くことはなかった。青年の力以上の腕力で青年の横面を張ったものがあった。予想外の力に青年の身体が大きく跳ね飛ばされ、そこにあった大木を粉砕して止まった。





<続く>



2010/04/01 初稿脱稿

2010/06/28 掲載

すみません。前項編で。。。
 書いていて実はとっても楽しかったです~~。こういうアンシェルとディーヴァを観てみたかった~←私一人だけかと思いますが。。さて。今回はディーヴァのターン(「いらない子」というのがポイント)。次回はアンシェルのターンです。。ああ。楽しい。。。


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