1.

   その教会へ行ってみようと思ったのは、その建物が取り壊される予定だと聞いたからだった。かつて。ディーヴァとの最後の闘いにおいて、ロンドンの薄暗い空の下でその場所を仮の宿として過ごしたことがあった。
   それは遠い遠い昔の出来事のなりつつある。だがあの百年の闘いから長い年月が経ったというのに、少女はその時代のことを良く憶えていた。青年には何も言わなかったが、少女はあのときの辛い記憶を忘れないと決意しているようだった。




「ああ。ハジ。雪が降ってきたよ」
   見上げると薄い羽のように、真っ白な雪が天上から舞い落ちてきた。少女は小さな声できれいとつぶやきながら天を振り仰いでいる。空に向かってやわらかな唇から漏れ出す息は雪に劣らず真っ白だった。その黒い髪にも瞼の上にも唇の上にも雪は降り注ぐ。小夜は目をつぶってその感触を楽しんでいた。顔中に注がれる、かすかな冷たい接触。唇に、頬に、睫に。温かな少女に触れると雪はたちまち溶けていった。少女の顔に広がっていく薄い水滴。小夜はしばらくそうやって天からの贈り物を楽しんでいたが、やがてはっとなって傍らの青年を振り返った。少女の傍らに佇んでやさしい目で見つめていた青年の、肩といい髪といい、雪がわずかな間に積もっている。体温の無い青年の身体には少女のそれよりも多くの雪がまとわりついているように見えた。
   小夜は息を呑んでハジに駆け寄ると、急いで背の高い青年の肩から髪から、雪を払い落とそうとした。青年がわずかに目を見開く。
「小夜・・・・?」
「ハジ。雪が――」
   何故か必死な少女の様子を見ると、青年は腕を上げて自ら雪を撒き散らしながら緩やかに首を振った。野生の獣の仕草にも通じる無駄の無い動きだった。懐かしいその動きに一瞬少女は目を奪われる。それは『動物園』の時代から続く青年独自の動きだった。闘いの間も、それ以降もずっと一緒にいたというのに、懐かしいと感じる。あの時代、そんなことすらも振り捨てて、ただひたすらに闘いの結末へと走って行ったのだろうか。あるいはそうやって身にまとう小さな癖も、闘いの無い平和な時代のものへと変わっていくのだろうか。
   目の角をかすかな笑みに染めながら、青年がいたわるように少女に声をかける。
「大丈夫です。それに私は寒さを感じませんから」
   しかしその言葉に、ひるんだように少女は身体を強張らせた。そんな身体にしてしまったのは――。かつては人間だったハジ。人間以外のモノにしてしまい、人間の持つ当たり前の生の営みからも、眠りの安らぎからも死の救いからも、遠ざけてしまった事実は今尚少女にとって悲しみの一つだった。本来の健やかな、人間としての生命を知っているからこそ余計に・・・・。
   自分の言葉が却って少女に痛みをもたらしたと知った青年の顔に、少女の痛みが映るようによぎる。その顔を見ることができなくて少女は目を背けた。人間を翼手にすることの罪深さ。翼手とはどういうものか、身をもって知っているだけに少女は余計にその重さを感じていた。それがどんなことなのか。時間の流れから取り残され、それまでのあらゆるものから切り離され。あちらの世界からこちらの世界へ。踏み越えてはならない一線を踏み越えて。
   謝罪の言葉を口にすれば、そんなことはないと言ってくれるだろう。シュヴァリエになったことに後悔などしたことはないと。いつも必ずそうやって少女の心の負担を取り除こうとするハジのやさしさも知っている。彼が心の底からそう思っていることもわかっている。そうやって謝罪の言葉と引き換えにやさしさをもらって、それに甘えて自分の罪が許されたように錯覚する。だけどそれは自分が安心したいだけの、自分勝手な感情なのだと小夜は思っていた。自分が行ったことはなかったことにはならず、一方で決して許されない行為というのはある。
   そんなこともわかっているのに、ともすればやさしい言葉にすがりつきたいと思ってしまうのは、自分の心の弱さの現われなのだろう。少女は唇を噛み締めた。ハジの想いに甘えて、ハジの心にすがって。シュヴァリエが主人の意思を尊重しないはずはないと知っているのに。求めることが止められない。この自分の浅ましさ。これは少女の生の中にある後ろめたさにも通じる所があった。
   喜びと後ろめたさと、それが今の少女の人生の形だった。これからの生の輝きと今まで産み出してきた死の重み。青空の下の祝福された太陽と、焔と燃える累々たる死体の山。あまりにも対極にある光景が少女一人の心の中にある。忘れられない生命の重み。翼手であるということは永遠に過去の重さを背負うことなのだろう。それを承知で生きている、生きることを選択したのだとわかっているのに。その覚悟も何も決めかねて。生きることの重さに潰されそうで・・・・。それでも生きていて欲しいと言ってくれたハジ。今までの悲しみも、これから小夜が味わう苦しみも、すべてを深く理解した上での言葉は、少女の心の深い部分を揺さぶった。心が痛くて、でもなぜか嬉しくて。だから少女は目覚めるたびに、生きることを選択する。
   少女は閉じていた目を開いて前を見つめた。その目の中にやわらかな意思が宿る。その鮮やかな変化を青年は見守っていた。
「行こう・・・・」
   青年はうなずいた。少女の中の苦しみが深いということを今更のように思い知らされる。弱々しく羽ばたく冬の蝶のようなか弱さで、前を向こうとしている少女の心あるいは魂。翼手である自分たちに果たして人間と同じような魂があるのかはわからなかったが、青年はいつも少女のそれを心の中で固く抱き締めていた。




   街を歩きながら少女は色とりどりに飾られた店舗のクリスマスの飾りを見つめて、そう言えば今日はクリスマス・イブだったと思いだした。この世の救い主が産まれたお祝いの日だと言う。街全体が普段とは少し異なる華やいだ顔を見せていた。様々なモールや紙細工で飾り付けられ、きらびやかな電極。降ってくるような祝祭の高揚した気分。うっすらとご馳走の匂いが鼻をくすぐる。つい先ほど食事をしたばかりだというのにお腹が鳴ってしまいそうになり、小夜はごまかすように慌てて道を急いだ。
   賑やかな繁華街からぽつりぽつりと明かりが減り、次第に郊外へと足を進める。ふとあの教会にもクリスマスがやってくるのだろうかと言う考えが頭をよぎった。祝福されたというよりも、打ち捨てられて今は取り壊される時間を待っている教会。他のところから取り残されたような場所。華やかな空気の中をその教会に向かっていることが何だかひどく自分たちに似つかわしいような気がした。
   その教会は港に近いロンドン郊外の道外れにある。中心地にあるウェストミンスター大聖堂とは比較にならないほどひっそりとしたたたずまいを持つこの教会は、かつてディーヴァを求めて翼手を狩りながら、毎晩猫のように身体を縮めて眠りをとっていた記憶があった。
「あの教会。今もまだあったなんて・・・・」
「あれから一度、区画整理の恩恵で教区再建されました。一時人口も増えたそうですが、再度過疎化が進み、建物も老朽化してきたそうです。そのために今回壊されることになりました」
「・・・・そう、なんだ」
   30年の眠りに陥る少女にとっては、事物の変化に時折感覚的についていけなくなることがある。ハジの答えにはハジしか知らない時間の手ごたえがあった。少女は知らないハジだけの時間。
「小夜?」
「ハジは、私が眠っている時間・・・・。ううん。なんでもない・・・・」
   少女が言いかけた言葉が何だったのか、青年にはわかるような気がした。けれども少女は青年の中の憂いの色を見るや慌てたように手を振って否定の仕草をした。
「なんでもない。・・・・なんでもないって。ハジったら気にしすぎだよ」
   30年の戦いが終わった後、少女の方こそひどく青年のことを気にするようになった。 今まであえて顔を背けてきたことの反動のようにも思えて、そんなとき青年の無表情な顔がわずかに硬くなる。自分を気遣う青年の表情にいたたまれずに少女は目を伏せた。言葉と想いはどうして上手く伝わらないのだろうか。少女は何も言えずに黙ったまま足を前に進めた。いつの間にか一旦止んでいた雪が再び降り始めていた。
   沈黙が雪のように二人の間に降っていく。雪は少しずつ多くなり、地面には二人の足跡がわずかに残るようになっていった。
   だが目的の教会が目の前に見えてきたとき、少女はぱっと顔を輝かせて青年を振り返った。
「ハジ。あれ――」
   何十年も経っているというのに、その教会はほとんど外見を変えていなかった。自分たちの記憶通りの様相に小夜は嬉しそうに微笑む。少女にとってはまるで自分たちが行くまで待っていてくれたようにも思えるのだろうか。小夜は、早く行こう、と青年に言いながら少し急ぐようにした。青年も少女に合わせるようにして歩調を速める。少女の素直すぎるほどの性格はいつだって青年にとっての救いだった。先ほどのちぐはぐな空気が嘘のように晴れ、雪の寒さに少女の吐息が白くこぼれてわずかな風に流れている。すでに夜の帳がじっとりと落ちている中で、華やいだような少女の表情はその周りだけほんのりと灯りが点っているようだった。その小さな灯りを頼りに永い、昏い道を自分は歩いていくのだろう、と青年はそう思った。少女の悲しみも苦しみもすべて共に背負いながら。それは百年の闘いの間も、その後も、青年にだけ許された静かな永い道程だった。
   二人が到着したときは既に夜中と言ってもいい時間だった。クリスマス・イブだというのに寂れた風情に他には明りもなく、教会そのものは昔と同じように末枯れの木の陰に立っている。今は周囲の木々も葉を落とした中で、舞い落ちる雪の中に薄く白い化粧を施し、洗いざらしの布のように清潔で簡素に見えた。雪の中だというのに、昔の寒々しさが薄れていると思うのは、闘いが終わった後、二人で改めて訪れようとしているからだろうか。ハジの説明では本来ここは由緒のある教会らしく、だからこそ二度にわたって修復が試みられたのだという。それでもとうとう来年に取り壊すことになった。
「なんだか残念」
   そう言いながら小夜は教会の外門をくぐった。それはずっと以前ここをアジトとしていたときには無かったものだった。思っていたよりもずっとりっぱな造りに少し驚く。その間にハジは少女の先に立って、中が安全かどうかの確認をしていた。
   教会の中は長い間閉鎖されていた建物特有の少し籠もった匂いがしていたが、思った以上にきれいで清潔だった。
「最後にここを離れた人たちが丁寧に扱っていたのでしょう」
「それなのに壊してしまうなんてもったいないね」
   人間と翼手とは感じ方が違うからだろうか。それともこれは自分だけの感じ方なのか、少女は少し迷っていたが青年に向かって口に出した言葉はそれとは全然関係ないものだった。
「ねえ、ハジ。今夜はここに泊まってみよう」
「ここで?」
   青年はためらった。すでにロンドン市内に宿を取っていたのである。
「うん。いいよね?」
「しかし・・・・」
   部屋も寝台もなく、ただ寒々とした空間に少女を休ませることに青年が躊躇しているうちに少女は先に立ってさっさと奥へと入っていってしまう。そう言えば教会ってみんな同じようだ、と言いながら少女は荷物を置いて、埃を被った椅子を動かして眠れるかどうか試していた。
「昔もこうしてここを宿にしていたよね」
   微笑みながら言った少女の言葉に物静かな青年の顔が一瞬表情を失くす。辛い時代の中でも特に厳しい時期の思い出だった。翼手である少女を受け入れてくれた養父を失い、同じように受け入れてくれた弟、シュヴァリエにしてしまった弟を失った重苦しい絶望の中。あのときの少女はもう自分自身の躊躇ためらいや逡巡を省みる余裕すらなくなしていた。
   ・・・・光などすべて拒絶していたような記憶の中の出来事だったというのに、今、少女は振り向いて青年に笑いかける。小夜にとって確実にあの日々が過去の出来事になった証拠だった。あのときから一体どれくらいの歳月が経ったのだろうか、と青年は思った。長いような気もするし、あっと言う間だったような気がする。女王である小夜自身、30年眠ってはまた三年の覚醒期を過ごすという生態を持っている。歳月の流れの中ではなく、眠りの中でだけ痛みを癒す小夜にとって、あの時代の傷は簡単に癒えないことを青年は知っていた。だが今少しずつ、過去に向き合いながら少女は微笑を取り戻そうとしている。背の高い青年は少女に手を貸すためにその長い手を伸ばして椅子に触れた。




   蝋燭の明かりが闇を払うと寒々とした空間も柔らかく温もる。手馴れたようすでハジが寝床をこしらえている隣で、小夜は荷物を解いていた。しばらくすると青年が物置のような所から使えそうな毛布を何枚か調達してきて埃を払いながら言った。
「あまり快適とはいえませんが・・・・」
   やはりきちんとした宿に、と言う青年に少女は首を振る。
「ううん。ここでいい。これで十分だよ」
   眠れる場所があるだけ良い。特に悲壮な決意があるでもなく、自然な言葉に顔を上げると、少女の目が笑っていた。ゆったりとした寝台も、こうして堅い椅子の仮庵も、小夜にとっては同じだった。人間の間でときを重ね、多くの時間と人々が二人の間を過ぎ去っていった。留まることもあれば流れゆくときもあり、その間にあった百年の闘いの間には獣のように野宿することも崩れかけた廃墟でわずかに雨風を凌いだこともあった。それに比べれば、ここはあのときと同じようにしっかりとしたつくりになって一夜の眠りを得るには申し分ない。手入れされていないとはいえ教会の備品もそのままだった。埃を拭えば何とか使えるし、と少女は楽しそうに微笑んで、その微笑みに青年の眉がわずかにしかめられる。半分キャンプ気分でこの様子を楽しんでいる小夜と異なり、ハジは決してこのしのぎ場に満足しているわけではないのだ。いつもながらこういうときのハジは決して主人と従者の域を踏み越えてこない。かしずいて、献身を捧げて恭しく手を差し伸べる。友人と言う名の大切な女主人として、まるで一線を引いたように。そのことに気がついて、少女の眉もわずかに曇る。
   昔の、『動物園』時代の「友達」という名の上下関係は、後にそのまま女王とシュヴァリエの主従関係に同化してしまった。そして今。ディーヴァとの闘いから解放されたにもかかわらず、時間を逆行したように、時折ハジはあの時代と同じように小夜を遇するときがあるのだ。互いにただ一人、すべてを分かち合い、結びついている。誰よりも理解しあっている誰よりも近しい存在。思慕や親愛や、愛とか恋とか、そんな言葉に形作ることのできないほどの大切さで傍にいる――そう思っているのは自分だけなのだろうか。少女は急に不安になった。肌を合わせ、互いの心音を直接聞き合い、それまでとは別の意味で心を通わせたとき、上下関係でもなく、後悔でも罪でもなく、新しい絆の形が浮かび上がるのだろうと思っていたのに。どうしてハジは・・・・。そこまで考えて小夜は自分勝手にそんな関係を期待していた自分に気が付いてはっとなった。こんなときにも出る自分自身の我が儘に慄然とする思いだった。想いを受け、想いを返し、それだけで十分すぎるはずなのに。ハジに何を期待して――。この一線の淋しさに自分自身の醜さを痛感する。ハジにもっと傍にいて欲しいと。ハジとの距離をもっと詰めたいと。ずっとずっと近くに、ずっとずっと一緒に。眠りに攫われるから、余計に。こんなこと。ハジを縛り付けるなど、この血の運命だけで十分な筈なのに。淋しさと自己嫌悪に少女はうつむいた。ハジの顔を見ることができない。
   小夜は目を伏せ、顔を曇らせると間に合わせの寝台に潜り込んだ。こうしてハジがシュヴァリエとして共にいることが自分にとってどんな意味を持っているか。少女には自分の心がわかっていた。人間ではなく、長い時間を生きる翼手としての自分に、同じように長い時間を刻むシュヴァリエとして共にいてくれるのが他の誰でもなくハジであること。短い時間の連続であってもそれをも肯定してくれるハジ。たとえ眠りの期間であっても想いは変わらないと言ってくれたハジ。どんなに自分がハジを必要としているか――。
   だが従者としての忠実な態度。それがハジ本人も気がついていない保護欲と所有欲の表れだとは、小夜には思いもよらないことだった。苦しみも悲しみも、少女の心を深く尊重して必要なとき以外は立ち入ろうとしてこない、ハジの控えめだが強い支えが少女には必要だった。そのハジの知られない少女への独占欲。それは小夜への忠誠のように見えながら、やわらかく彼女を包み込み、他の者には踏み込ませないように細やかな配慮でおおっている。ハジ本人も気がつかないほどの繊細さで。それが少女の淋しさを呼んでいるとも気づかずに。







つづく。
聖夜2へ



2009.12.25

  今回少し長さが中途半端でしたので、思い切ってふたつに分けてみました。少しは見やすくなるといいのですが。。。
   擦れ違う切なさで、お互いに向く方向が違っているところで切ってみたり。後半少しは盛り返そうと頑張ったのですが。。。

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