その村は一体どういう村だったのだろうか。


 山道を越えて行き、霧が出てきてどこかで休まなくてはと思ったところまでは憶えている。気が付くと霧は薄らぎ、人の踏み跡の少ない道に立っていた。少女と青年。当て所なく、目的もない旅とは言え、既に日は暮れかけおり、心細いようなその道を辿っていくと、地図にも載っていないような小さな村が二人の目の前に表れた。少女は確認するように、傍らの青年を見上げてうなずくと、まっすぐ村へと続く道を辿り始めた。
 ほとんど廃村と言ってもよく、踏み跡の少ない道を歩いている間もすれ違う人もおらず、遠くの方でわずかばかり人の気配がして、かまどの煙が細く立ち昇っている。そのことだけが、かろうじてその村が生きていることを示していた。入り口の壊れかけた家を見つけ、その裏手に廻ってみると、壊れた柵と崩れかけた壁が半分ほど家の内部を埋めていて、足を踏み入れることもできなかった。
 家畜を飼っていたらしい裏手の跡には、半分ほど崩れかけた土塀が傾いており、伸び放題に雑草が侵食して、それだけが生命の力強さを感じさせる。そこから少し離れたところにも同じ様な廃屋があり、天井が落ちたその家の中は打ち捨てられた物の寂しさがこびりついているようだった。夕闇の気配が色濃くなったが、さすがにここで夜を過ごすのは躊躇われて、青年は少女を促して廃墟を後にした。
 闘いと追跡に身を投じていた日々とは異なり、今は何の危険も無かったが、こんな所で日暮れを迎えてしまっては身動きが取れない。少女には休むところが必要だった。次に彼らが向かったのは小高い丘の上にある古びた教会だった。ここも他の所と同様に、壊れかけ、人もいない。隣に建てられていた司祭館は既に朽ち果て、うらびれた陰鬱さが漂っていた。教会の聖堂の方は造りもがっしりしている。ふと小夜はロンドンを思い出した。ディーヴァを狩っている時。ねぐらとしてこんな教会を選んだこともあった。想い出は物悲しい記憶を運んでくる。少女の目の中に悼みの色を見つけた青年が、慰めるようにその小さな手を握りこんだ。
「大丈夫」
 小夜は赤みを帯びたその瞳を上げてハジを見つめた。想い出は胸の中にそっとしまっておくのが一番いい。何も言わないまま小夜は教会に足を踏み入れた。うっすらとかび臭く、薄暗い建物だった。奥の方に採光用の丸窓があり、そこにはこの中で唯一と言っていいほど美しく、洗練された手法でステンドグラスがはめこまれていた。その色ガラスの美しさに傅かれて、祭壇と十字架が据えられている。夕日の最後の一筋が扉から射し込み、十字架に反射して少女の目を射た。
 打ち捨てられたようなこの世界の中で、こんなにも美しいものがある。寂しさと貧しさの中にあって、かつて多くの祈りがここで捧げられてきたのだ。自分の居た世界の裏側で。その想いに跪きたいような気持ちになる。同時に小夜の胸の中に浮かんできたのは、これまで数多くその手にかけてこなければならなかった翼手たちの姿だった。元は人間の。まったく関係の無いその二つが、少女の心に寂しさと諦めと、それから何故だかわからなかったが深い慰めを運んできて、彼女は目を瞑って頭を下げた。あの時は。あのロンドンの日々ではそんなことも考えに浮かばなかったのに。――ジョエルの館には教会がなかった。ジョエルらしい。一般的な知識として、もちろん小夜にも教理は施され、屋敷に教会はなかったが、幾度かジョエルに外の教会に連れて行ってもらったこともある。ジョエルとしてみれば、小夜がそれらにどのような反応を示すか多分に興味があったのだろう。青年は祈らなかった。もう長い間。祈るような気持ちで日々を過ごし、その果てに。この空虚に満ちた空間ではそんな気持ちにはなれなかった。
 そうやってしばらく首を垂れて動かずにいる小夜を見つめていたが、やがて青年は転がっていた蝋燭を拾い上げて火を灯し、少女のために古い毛布を見つけ出した。彼がためらいがちに名を呼ぶと、彼女ははっとしたように顔を上げて照れたように微笑みかける。まるで悪戯を見つかった子供のように。
 だから彼女が大人しく毛布に包まり、眠っているものとばかり思って、楽器の手入れを始めていた時、突然声をかけられて彼ははっとした。
「ハジ。そう言えばそのチェロって、ボルドーの頃からのものだよね」
 小夜の意図がわからず、いぶかしみながら肯定すると、彼女は少し身体を起こして、灯りに艶やかに輝いている楽器の表面を眺めた。昔からよく小夜はこんな風に突然、思いついたように声をかけたものだった。何も知らなかった『動物園』の時代から。
「古いもの、なんだよね」
 自分たちが歩いてきた時間そのもののように。その声は拭いようのない寂しさを孕んでいた。かすかに息を吸い込む音がする。
「ごめん。邪魔しちゃったね。なんでもない」
 言うなり少女は毛布の中に潜り込み、小さく丸くなった。自分が口に出した言葉に戸惑っているのだろうか。闘いの時代は終わり、彼女の表情は以前よりずっと柔らかくなったが、その奥底に存在している悲しみが消えることはなかった。それがこの廃村の持つ寂しさに共鳴している。
 青年は楽器を片付けると立ち上がり、少女の枕元に歩み寄って、そっと毛布の上から彼女に触れた。その身体の強張りが無くなるまで何度も、何度も。やがて彼女の身体から余分な力が抜け、小さな寝息が聞こえると、労わるような眼差しはそのままに、静かにチェロを取り上げると教会の外に出て行った。
 ――その夜。少女の眠りは柔らかな楽器の音に護られた。




 翌朝は良い天気だった。十字架の後ろにある採光用のステンドグラスから虹色の光が差し込んでいる。教会の通路に満ちたその光の帯を眺めながら小夜たちは旅装を整えた。今日はもう少し先まで進めるだろう。せめて今日中に、もう少し大きな街まで出られたら。この村はあまりに人気が無さ過ぎて、足元が覚束ないような気分にさえなってくる。
 教会を後に村を抜ける道へと行きかけて、ふと何かに呼ばれたように小夜は振り返った。小高い丘の教会に向かって、小さな点のようなものが登っていく。眺めているうちにそれが人の影だとわかった。誰もいないようなこの村の中。昨日は一体どこにいたのだろう。さらに目を凝らすと、翼手の視力は相手の姿を捉えることができた。小夜よりもずっと小さくて華奢な姿。白いエプロンが似合いそうな幼い少女が、背中に薄い金色の髪を流し、そこらで摘んだ野の花を腕一杯に抱えながら歩いている。風にスカートが翻る。スキップでも踏みそうなくらい軽い足取りで。しかし。
「ハジ・・・」
 小夜は眉根を寄せて青年の名を呼んだ。彼もその小さな姿に気がついていた。この寂れた村にはあまりに似つかわしくない小さな姿。風に乗って少女が軽く鼻歌を歌っているのが聞こえる。途切れ途切れで、ほとんど聞こえないような声ではあったが、翼手である二人にははっきりと響く。
 青年が踵を返した。お互いが考えていることがわかってしまう。この違和感は何なのだろうか。自分だけが感じている訳ではない、この不可思議な感覚。何が起こるのかわからないまま、小夜は教会の扉を細く開いた。




 誰もいない教会の中で、少女は祭壇の前に跪いて花を供えていた。壇のすぐ足元に、そして祭壇の上に。鮮やかな色彩が色硝子の光の中で輝いている。夢中になっているため小夜たちが入ってきたのにも気がつかず、祭壇の周辺を飾り終わると少女は腕の中に残った花を周辺に撒き散らすように飾っていった。全て飾り終えると、今度は花々と採光窓の色硝子の光を交互に眺めていたが、硝子の形作る影を踏んで遊び始める。青い光から青い光へ。赤い光から同じような赤の光へ。足元を染める光の加減が面白いのか、時折小さく笑い声を上げていた。前後、左右へ。一定のリズムを刻みながら、次第にステップが踊りを成していく。くるくる、くるくる。踊りながら、少女は再び歌い始めた。澄んだ声。無邪気に、それでいてある種の繊細さを潜ませて。
 そのうちに光に遊ぶのに飽きたのか、少女は軽々と飛び上がると祭壇の上に乗り、更に高くすえつけられている十字架に、遊びかかるようにしがみついた。脆くなっていた壁がみしみしと音を立てる。
「危ない!」
 青年が押しとどめるよりも早く、腰を浮かせて小夜は叫んでいた。その声に少女は振り向くと、今度は思わぬ用心深さでするするとしがみ付いていた所から降り、こちらの方へ向き直った。そのまま歩いてくる。
 幼いくせにその足取りは迷いが無かった。
「あなたは、だあれ?」
 そのいくらか舌足らずな口調に小夜は微笑んで、肩の力を抜いた。まだ小さな子供に、何を警戒しているのだろうか。しかしハジは用心を解くことが出来なかった。少女の何かがどこかおかしいという最初の印象が去らない。少女はこざっぱりとした衣服に身を包み、柔らかな頬。血色の良い顔立ち。大体この廃村に、こんな子供が居るのだろうか。過疎の村は若者からいなくなるというのに。
「あなたは? この村の子?」
 小夜の問い掛けに、少女は如何にも村の子供と言った風情で、小首を傾げて無邪気な顔で逆に聞き返した。
「おねえさんは? 旅の人?」
「そう」
 少女は答えを聞くと嬉しそうに小夜に笑いかけ、手を差し出した。小さなその手を握り締めようと、反射的に小夜は一歩を踏み出す。その無防備さに青年は小夜を庇うように前に出た。
 黒衣を纏った背の高い男の姿に、今度は少女が怯えたように後ろに下がる。
「ハジ・・・」
 咎めるような色を含んで小夜が言った。こんな小さな子に・・・・。しかし青年は警戒を解こうとはしなかった。
「このような所に、子供がいる筈がありません」
 二人のやり取りを見つめている少女の瞳が面白そうに瞬いた。先ほどの、見知らぬ大人の男に怯えていた様子がなくなっていた。
「おねえさん」
 少女が声をかけた。一言だけだったのに、纏っていた雰囲気をかなぐり捨てたような物の言い方に、さすがの小夜も何かが変だと気がつく。少女の目の奥底に支配するものの驕慢さと、ある種の尊大さが映っていた。
「あなたは・・・誰・・?」
 小夜の問いには答えず、少女は微笑みながら、外見に似合わない言い方で言葉を放った。
「いいね。あなたの騎士はとっても用心深い。それにあなたが傷つくことをとても恐れている。怯えていると言ってもいいくらい・・・」
 その瞬間、青年の手から鈍い光を引きながら、銀拵えの短剣が少女に向かって投げつけられた。少女はいとも簡単にそれをかわすと、瞬時に祭壇の上に飛び移った。
「気をつけて」と少女は言った。
「ここは安全な所じゃないもの。早くこの村から出て行った方がいい」
 ひどく力に満ちて、それでいて幼い。ハジが再び身構える前に、少女は明るい笑い声を小さく上げると、祭壇から大きく躍動してどういう手段かそのまま姿を消した。二人がその場に駆け寄った時、少女が備えていた花々と、その緑濃い匂いだけが残っているだけだった。
「あの子はまさか・・・。あの子も翼手?」
 青白い顔で小夜が問いかける。ハジは首を振った。
「翼手の気配はしませんでした」
 百年の闘いが終わった後も、このように形を変えて小夜の宿命が彼女を訪なうことを青年は痛ましい想いで見守ることしかできなかった。因縁から解き放たれたとしても、自分自身からは逃れられない。
「小夜・・・」
 青年の目の中に、心配の影を見つけた少女は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だから。ハジ。行こう」




 当初の目的どおりこの村を抜けてもう少し大きな街へと向かうか、それともあの少女を追ってもっと村の内側に行くか、行動を起こす前に小夜は迷った。けれども二人が再び向かったのは村の中だった。少女が何者なのか知りたかったし、この村に他に人がいるのかどうかの確認をしたいと思ったからである。再びあの少女に会って言葉を交わしたかった。なぜあんなことを言ったのかも知りたい。小夜のその言葉を聞くと、青年は黙って楽器を担ぎなおし、小夜の先に立って歩き出した。
 昼間の光の中で改めて見る村の様子は、昨日のとおり閑散とした佇まいで、光がすべてを白茶けて映し出していた。空虚さと存在感の無い様子が、この村の現実性を希薄にしている。半ば予想していたが、誰にも出合うことがないままに二人は村の道をまっすぐに歩いた。昨日はそれでもわずかばかり人の気配がしたものを。
 その時突然小夜は立ち止まった。その瞳が赤く輝きはじめる。
「ハジ・・・」
 当然のように青年がうなずいた。血の匂いがしていた。
「遠くはありません」
 走り出しながら小夜は血の匂いが益々強くなってくるのを感じ、流されている血の量を推測した。一人二人ではありえない。この過疎の村のどこに。そんなに沢山の人間がいたのだろうか。それに何故。何が起こっているのだろうか。
「小夜」
 青年の言葉に足を止めたのは、大きいが大分古い家の前だった。昔ながらの家の造り。石と土壁のどっしりとした造りは村の中でも由緒ある家であることを示している。隣接して納屋と貯蔵部屋が複数建てられていた。微かに開いている母屋の扉に歩み寄り、中を覗いてみて小夜ははっと息を呑んだ。床の上は一面血の海だった。一部の家具が倒れていて、そこで乱闘があったらしいことを示している。その家具にも、壁面にも、血痕は飛び散っていて、濃い血の匂いが部屋全体に充満していて気分が悪くなりそうだ。頭の芯がしびれ、眩暈が喉の渇きを連れてきて、よろめきながら外に出ると、別の所を見に行っていたハジにぶつかりそうになった。慌てて身を引くと、さりげなく青年が自分の身体で行く手を遮るようにする。
「小夜・・・あちらへ」
 だがその肩の隅から一瞬彼女の目は彼が遮ろうとしたものを目撃してしまった。納屋の向こう側。壊れた壁のあちらの方に、何人もの人間がぴくりとも動かずに倒れている。死体だった。十人以上もの死体がそこに投げ込まれ、そのまま打ち捨てられている。腕がもげたり、顔が削げたり。完全な状態のものはひとつとしてない。まるで気まぐれな獣に喰い荒らされたあとのように、それも中途半端で。弄ばれ飽きては捨てられた玩具のように放り出されているのだ。遺体のむごたらしさよりも、そこに籠められた悪意のようなものに小夜は胸が悪くなった。
 二人ともこういう惨状を見るのは初めてと言うわけではない。ディーヴァを追い、翼手を斬る日々に、目を覆いたくなるようなもの、顔を背けたくなるるような異形の遺体も数多くみてきた。事実、自分たちも多くの死体の山を築きつつ時の流れを歩いてきたのだ。だが今や闘いの時代は遠くに過ぎ去り、記憶の中にのみ存在するものとなったとばかり思っていたのに。
「これは・・・」
「翼手ではありえません」
 残されていた痕跡からは大量の血液が確認された。普通の翼手であるならば、このように勿体ないことはしないだろうというのが青年の意見だった。
「ハジ。あの子は?」
 小夜はあの少女の安否をまず気にしたが、彼は首を振った。
「ここにはいません」
 ではどこに? あの時、危険だと言ったのはこのことを指してだったのだろうか。それとも・・・。二人は肩を寄せ合うようにして周囲の気配を探った。どこにも、生きている人の気配はしなかった。昨日していたかすかな生活の痕跡さえも。その時だった。不穏な空気が圧縮されたように密度の濃い殺気が生じた。辿る間も無く、憎悪の塊が二人に向かって襲い掛かる。
 突然の殺気に飛び退いた小夜は、一回転しつつ態勢を整えた。青年も優雅な身のこなしでその攻撃をかわしたのがわかった。殺気に対応して身体が引き締まってくる。左手がどっしりした重みを恋しがった。
「ハジ」
 言葉と同時に刀が差し出される。殺意の主は影の中に身をひそめながら、低い位置からこちらを伺っていた。楽器のケースを抱えた青年と刀を構えた少女。どちらに先に狙いを定めようかと迷っているようだったが、次の瞬間、ぴたりと小夜に視線を向ける。闇の中から白く白く。狂気が瞬いた。
 鞘から抜かないまま、刀を掲げて小夜は相手が暗がりから姿を現すのを待った。刃のような緊張が小夜の身体を走り抜ける。のそりと姿を現したのは、その背を小さく縮こませた、醜悪な人間のような姿をした生きものだった。子供のような背丈しかなく、太い骨格に皮だけがはりついており、前かがみになったその腹はそこだけが大きく前にはりだしている。髪にあたるものは、艶なく頭皮にまばらにはえており、目だけが突き出したように大きく顔の中にあって、ぎらぎら光っていた。
 小夜が音もなく刀を抜くとそれは裂かれたような口を大きく開いて鳥とも獣ともつかない擦れた声で威嚇してきた。生臭い匂いがした。その瞬間に信じられない速さで飛び掛かってきた。速い。翼手である小夜の能力を以てしても避けるのがやっとだった。
 それを見るや青年の黒衣が風をまとい、異形の相手に襲い掛かる。だが相手の姿は消えていた。彼らの移動能力を越えているのだ。青年がかばうように少女の前に出た。
 小夜は足元に鞘を落とし、両手で刀を握って腰を落とした。気配を探る。だがその隙に、化け物は青年の腕をかいくぐり、小夜に肉薄した。かろうじて小夜は日本刀で受け止めていた。しかし、小夜の力よりも相手の力の方が強い。小夜の刀ごと、相手は大きく腕を振り上げた。勢いのまま振るわれる相手の力に、小夜の軽い身体は振り上げられ、なぎ払われた。そのままいくつかある納屋のひとつに背中から叩きつけられる。息ができなかった。相手が殺気を撒き散らしつつ向かってくるのがわかっていても、体勢を整えられない。その前を青年が身体をはって止めた。楽器のケースが異形をせきとめ、ぎりぎりと金属音を響かせる。
 だが次の瞬間、横なぐりにケースが払われ青年の肩を蹴って小さな影が背後に移った。ためらうことなく青年は楽器を捨てた。そのまま、ようやく立ち上がった少女の前にその身をさらす。小夜をかばった彼の身体に容赦なく何かが突き立てられた。彼女の見ている目の前で、ざっくりとハジの背中から胸に、めり込んでくるもの。血が飛び散った。思わず手を差し伸ばした小夜の目の前から、串刺しにされた彼の身体は障害物のように投げ飛ばされる。その勢いのまま母屋の壁に激突した。衝撃で大きな石造りの壁が青年の上へ降り注いだ。
 その一瞬。小夜は動くことができなかった。脳裏に浮かぶのは、過去の記憶。ニューヨーク。メトロポリタンのオペラ座で。崩落する壁。血に染まった背中。青年はやさしい響きに彩られたあの言葉を残して、小夜の目の前から消えた・・・。
「いや」
 小夜はつぶやいた。かすかに頭を振る。すべての血が引いて、その場に縫い止められたように動けなかった。自分の身にどんな危険が迫っているかも意識せず、ただ固まったように青年が打ち付けられた方向を見つめている。その少女に化け物が迫った。青年の血に染まっているのは、禍々しくひきつれたような鉤爪だった。
 華奢な少女の身体にそれが触れようとした時、空気を切り裂くようにして、別の刄がその間に突き立った。同時に瓦礫が崩れて青年の黒衣がゆらりと立ち上がるのを小夜は見た。
「おねえさん」
 幼い子供の声がした。
「早く出て行った方が良いと言ったのに」
 まだこんな所でうろうろしているなんて。それは叱責だった。ここは私の狩場なのに。それからちらりと異形の方に視線を向ける。少女が投げつけたのは、短剣と言うには刃が広く、剣と言うにはかなり短い刀だった。独特の血の匂いをさせながら、先ほどの異形は姿を消していた。断ち切られた腕一本をそこに遺したまま。
「あの傷が癒えるまで、もうしばらくは襲ってこない。でもしばらくは、まだこの辺りは騒がしいままだと思うから」
 あと半日位かな。あれが動けないで居るのは。その間にどこかに避難しておいた方がいいと思うの。事も無げに言い放ちながら、少女は地面に突き刺さっていた刃を引っこ抜くと、血を拭って持っていた鞘に収めた。それから千切れた腕を無造作に掴んだ。手馴れた仕草だった。
「あなたは・・・誰・・・?」
 小夜の言葉を聞いているのか、いないのか。少女は顔中でにっこりと小夜に笑いかけると
「できたら、あと一日。じっとしていて」
 囁いたまま、再びかき消すように姿を消した。




後編 につづく・・・



2008/08/07

 おかしい・・・。甘いハジ小夜を書こうと思ったところから出発したのに、どうしてこんな話になっているのでしょうか?? 甘くも無く、「ワケノワカラナイ」ストーリー展開に。。。。ど、どうして?? しかも長くなってしまったので二つに区切りました。後編は少々お待ちくださいませ。

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