琥    珀





 2. パリ 1843年 : ジョエル



 私の名前はジョエル・ゴルトシュミット。私の家系は両替商から身を興し土地や葡萄酒などといった取引で成功した後、先代からは選帝侯の庇護の下大きな財をなしてきた。既にゴルトシュミットの影響力は世界に通じるほどにまで高まり、それを私は誇りとともに眺めている。
 だが私の今の関心は人間に見えながら、人間ではない生き物の生態にあった。美しい人間の子供に似て、その行動形式も生態も人間のそれとほとんど変わらない。私が庇護を与えてやらねば生きていけないだろうこの美しい生き物に対して、私が感じているのは保護欲と満足感。そしてこれだけは当初から変わらぬ探究心。この愛らしい生き物に感じているのは決して愛情などではない。例え見た目が人間そっくりであろうとも、ここにいるのは人間に擬態したものなのだ。彼女達を生み出した母体の事を考えてみよう。アレは人間ではありえなかった。そして「あの子」は人間の食事だけでは育てる事は出来ない。一度人間の糧食だけを与えてみたところ、十日過ぎる頃からかなり顕著な衰弱が見られ、再び人間の血液を与えざろうえなかった。そう、決してアレらは人間ではない。私のこの感情は仮初のもの。決して愛情などではないのだ。
 けれども私は同時に思い出すことがある。彼女達が繭から孵ったすぐ後に、一瞬だけ訪れたあの不思議な少女。白銀の髪と琥珀の瞳を持ったあの子供。あの子供が言った警句。
『もうこれ以上手を触れてはいけません。彼らは既に過去のモノ。そっとしておいてやるのが一番です』
『どうか私の言葉を忘れないで。決してアレに手を触れてはいけません』
 なぜあの子供はあんなに悲しそうな目でそんな台詞を言ったのだろうか。あの子供が言ったとおり、「あの子」には人間の血の摂取が必要だった。だが一方でそれ以外はほとんど人間となんら変わることが無い。利発で愛らしい少女そのもの。私が「サヤ」と呼ぶ度に嬉しそうに慕い寄ってくる少女。まるで父親を慕うように・・・。
 私には未だ分かっていない事が多い。「あの子」の生態も、自分自身の心情も。いつの間にか「あの子」の成長に喜びを感じている。これは単なる研究対象の無事なる成長への喜びなのだろうか。それとも・・・。
 私にはパリにれっきとした家族がいる。だがこのボルドーの地にいると、こここそ自分の本来の場所なのだと思える時もあるのだ。時折無性にあの時の琥珀色の目をした子供に逢いたくなる。逢って聞いてみたいのだ。「あの子」がどんな風に成長していくのか。あの子達と人間はどんな風に違ってくるのか。あの子達は一体何者なのか。人間は一体どこへ行くのか――。



 それはパリ、社交界。とある園遊会の席上だった。心はボルドーにあったとは言え、社交も私の大切な仕事の一つである事には変わりは無い。情報とはいつの世にも重要な要素の一つである。二、三の顔見知りとの挨拶の後は、向こうの方から私に対して挨拶に来るのが最近の傾向でもあった。
 その日も知人の一人と話をしていると、給仕の者が控えめに声をかけてきた。その手の盆に載せられた一枚のカードを取り上げると、見覚えのある封印がなされている。私は知人に会釈をして会話を切り上げると、小さなカードの封を切った。中には几帳面な字でたった一言こう書いてあった。
『お会いしたく存じます』
 サインは無い。それに女の筆跡のように繊細な筆跡。覚えは無いが。カードの印章に眉を顰めながら給仕に向かって案内するよう身振りをすると、あらかじめ言われていたのか低頭すると先に立って会場から歩き出した。この印章の主であるならこのような回りくどいやり方をしなくても、十分私を呼び寄せることができるはずだが一体何事が起きたのだろうか。しかし確かに好奇心は刺激される。そしてそれは私の好みのやり方だった。
 案内されたのは宴会会場からそれほど離れていない小部屋の一室だった。普段は控えの部屋として使われているのだろう、ひっそりとした空気が流れている。
「お連れしました」
 その声にそれまで窓際に佇んでいた影がこちらを向いた。小柄な女性の、白い簡素な衣。修道女のように頭を覆う布。だが逆光になっていて顔までは見えなかった。あの印章の持ち主の伝手を使えるとは、どこの淑女だろう。
「ゴルトシュミットのご当主?」
 その声で、彼女がまだごく若いことに気がついた。その発音には微かに覚えがあった。
「どなたです?」
「憶えていらっしゃいませんか」
 そう言いながら、ゆっくりとこちら側に歩いてくる。
「お久しぶりです」
 光の中からこちら側に歩み寄ると、光がようやく対等に届く。顎のとがったほっそりした顔立ちは奇妙に貴族的で、しかし頭を覆った頭布からはみ出している髪は白銀の色を帯びている。まったく見覚えの無かったその造作の中で唯一記憶にあるものがあり、それが私の目を引き付けて離さなかった。私の顔はその時きっと驚きにゆがんでいたのだろう。まさか、このような所で逢おうとも思わなかった人物。
「まさか・・・あなたは・・・」
 琥珀の瞳。光の中がその中にちらちらと踊るような。あの時の、占い師の子供。
「いや、大きくなられた」
「あなたはお変わりにならない」
 まだ子供の面影を残しているとは言え既に背は私の肩ほどもあり、そろそろ大人の仲間入りをしても良い年齢になりつつある少女の顔立ちは微笑を浮かべている。だが目は笑っていなかった。
「あなたが私を呼ばれたのか」
 約束通りあれから時折、事業に対して助言のようなものが彼女から度々届けられ、その概ねは適切で私の事業の助けになった事もある。
 彼女は頷きながら僅かに頭を傾けた。
「ゴルトシュミットのご当主があまり会場を離れている事もできないでしょう。時間がありませんので余計な挨拶は無しにしましょう。私の助言はお役に立っていますか?」
「ええ。もちろん」
 そして言った。
「彼女達は元気にしていますか?」
 そのとたん、背筋がぞっとした。その事を私は細心の注意を払って隠してきたつもりだったし、彼女にも伏せていたつもりだった。十年前でさえ、彼女にはあの子達の母体しか見せてはいないのだ。
「何を・・・」
「私はあなたの地下室にも行きました。一度触れてしまえば、私のようなものに隠し事をする事はできませんよ。
――私を謀りましたね」
 琥珀の瞳に剣呑な光がちらつく。しかしながら、彼女の言葉には不安定な部分も感じ取れた。まだ少女の域を出ていない彼女に比べてそれでも私は多くの敵意を相手にし、そしてこの世の中が通り一遍のものではない事も知っている。すべてを見通せると言うのならば、なぜ十年前のあの時あの子達の事を知る事ができなかったのか。なぜ私に必要な知識を渡さないのか。
 この少女には限界があるのだ。
「謀ったつもりはありませんよ。ただ言わなかった事があるだけです」
 当たり障りの無い、ありきたりの会話の続きを語るように何気ない調子で言ってみた。
「あの時私は言いました。彼女をそっとしておいて、と。人が触れていいものではない、と。あなたのその行動が人の世界を変えてしまうこともあり得るのです」
 それならば何故最初の訪問の折にそれを言わなかったのかと私はその時思った。私を慕う「あの子」の愛らしさを否定されたような気がして無性に腹が立った。あの愛らしさが、悪いものであるはずが無い。あの子らにそのような力があるならば、この十年の間に人間の成長以外の変化が現れなかったのは何故なのだ。外的な刺激ならば「あの子」の片割れに、考えられるあらゆるパターンを施している。それでも「あの子」にも「あの子」の片割れにも何の変化も起きないのだ。
 ある程度の生態観察は既に「あの子」に対してもされている。「あの子」の片割れ同様に、「あの子」にも異常な回復力、生命維持力が存在していた。そして何よりも「あの子」自身の純粋さと美しさ。人間に次の段階があるとしたら、それは「あの子」達のような存在なのかもしれない、そう夢見る事に何の問題があるだろうか。
 あの二人を見ていると、まるで私の心の在り方を表しているかのような錯覚に陥る。一人には愛らしい夢の子供のような天使を見て、もう一人には・・・・。私はいつも思っている。この身に巣食う探究心というのはどこまで深いものなのだろうか。原罪のように生まれながらに人間が持っているものを私はただ機会を与えられたから発現しているだけであり、私のこの心すら、私にとっては興味深い対象の一つとなっているのだ。これは一体罪なのだろうか、あるいは崇高な使命感なのだろうか。だがその事に深い喜びを感じていることは事実だ。そしてそれが必ずしも崇高な感情ばかりではないことも。
「それではあの子達を葬り去れと、そう言うのですか?」
「いいえ」
 思いがけず少女はため息をついて首を振った。
「生きている者の命を奪うのを肯定する事は出来ません。産まれてしまったなら、そして生きているのなら、もうどうする事もできない。けれどもどうか愛情を注いであげて。大切にしてあげて欲しいのです。昔、私が申し上げた事を覚えておいでなら。――彼女達は人間に大きく影響を受けます。それも育てられた者に。彼女達がどんな存在になるかはそれにかかっているとも言えましょう。ですからどうぞ、自分の娘達に対するように彼女達に接してください。暖かく、優しく、人間とともに居ることの喜びで満たすようにして」
「大丈夫ですよ。大切にしてます。自分の娘のようにね」
 その言葉に嘘は無かった。「あの子」に関しては。ただ言わない事があるだけで。すると少女は再び軽く眉を顰め、私を見つめた。落ち着かない、この黄色い瞳。けれども私は目をそらさなかった。
 その瞬間、この少女には何も見つけられなかったと私は判断している。
「そして・・・」と彼女は最後に囁いた。
「彼女達をどこにも出さないで。人の世に触れさせずに安全な囲いの中に安らげてそのまま眠らせてあげてください。この世界はどんどん狭くなっていく。悲しいことに彼女達が真に平和に過ごせる世界はもうこの世には存在しないから」
「それはどういう・・・」
「ゴルトシュミットのご当主。もう会場にお戻りください。他の方々の関心を引くのは良くない」
 今度は彼女の方が有無を言わせぬ口調で私の言葉を封じた。
「また、お目にかかりましょう」
 琥珀の瞳が何の感情も入らぬ様子で閉じられた。







またもや続く・・・






2007.10.17




 何だか上手く行かない。本当は3話位で終了させたかったのですが、もしかして5話位になりそうな・・・。ジョエルの一人称。しかも・・・やっぱり固有名詞が少ない。(だからオリジナルって言ってしまっても大丈夫だとも思うんですが)





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