少年は領主の七番目の子供だった。一番上の兄は穏やかで思慮深く、将来領主となる十分な資質を備えていた。二番目の兄は快活で社交性に長け、兄を良く助けていた。三番目から五番目は姉で、上と真ん中の姉はそれぞれ近隣の領主にすでに嫁いでおり、下の姉は信心深くいつも心穏やかに日を過ごしては少年にやさしく話しかけた。すぐ上は兄で身体が弱く、床に就いていることが多かったが、弟を可愛がって二人は良き話し相手だった。――小さなこの領地の中で一番下の少年は皆に可愛がられて好奇心旺盛な子供に育っていった。
   少年は街中に出ては領民たちとよく交わり、特に同じ年頃の子供たちに混じって度々遊ぶこともあったが、同時に夢見がちな性格で、時折人知れず一人で町外れにある廃墟の草原に座り込み、過去の時代や草の音に耳を傾け、物思いに耽ることがままあった。
 ――少年が「彼女」と出会ったのはそんな風に一人で草原に座り込んで風の音を聴いていたときだった。




「こんな所であなたのような子供が、なにをしているのですか?」
   初めに声をかけてきたのは「彼女」の方だった。一人でぼうっとしていた少年は、何かの悪戯を発見されたときのように、たちまち真っ赤になって声のする方に跳ね上がった。女は当世の風習どおり髪を布で覆い、服装も流行のもので、そこそこの素材を見慣れている少年の目からも高価で洗練された装いをしていた。
   さぞ高貴な貴婦人であろうと想像されたが、不思議なことに供の一人だに連れてはいない様子だった。
「あなたは誰? お父様のお客様ですか?」
   すると女は少年の細い声に興味を引かれたのか、面白そうに瞳を輝かせて逆に問い掛けた。
「あなたは?」
   そこで少年は自分の名前と家族の名前を告げると礼儀正しく女に言った。
「お父様のお客様ならば、僕が家までご案内いたします」
   というのも、少年は女が我が家の客人であり道に迷ったのだと考えを巡らせたからだった。だが女は緩やかに首を振った。
「この地を訪れたのは確かですが、私はあなたのお家の客分ではありません。もうじき日が暮れます。あなたのような幼い方がこんな所にいるものではない。もうお帰りなさい」
   気がつくと太陽は既に低く傾き、少年の目にも夕方が迫っているのが見えた。
「あの・・・・。では」
   また明日もここにいらっしゃいますか? と問いかけようと少年が振り返ったとき、既に女の姿はどこにも見えなかった。




   次の日、少年が再び「彼女」と出会ったあの廃墟の草原へと抜け出そうとしたところ、父親と兄たちにそれを見咎められてひどく怒られた。父親である領主はひどく難しい顔をしていた。その前の晩、領地の中で奇妙な人死にがあったという報告があり、その内容が領主を非常に悩ませていたからだった。
   ある村の若い者が酒をしこたま飲んだ後、一人で帰路についたまま行方がわからなくなり、翌朝死体で発見されたのである。何でも野犬のようなものに首を食い千切られていたというが、この領地内でそんな獣の出現は今までにないことであり、何よりも恐ろしいことに、その死体には血が一滴も残っていないことだった。
   この小さな世界になにやら異物が入り込んだようないびつな予感が、領主の胸に今までにない不安を芽生えさせていた。不吉な事はまだ続いた。なぜだか村人の要請で特別に司祭が招かれ、その遺体は教会で幾重にも儀式を施されて念のため十字路の隅に埋められたというこというのである。この領地内ではそのような前例がなく、おりしも周囲の領地では奇妙な病が発生しており、領主にとっては目の前に何重にも苦慮すべき出来事が重っているように見えた。
   その日から少年は館の外に出ることを禁じられ、姉たちに混じっておとなしくしていることを命じられた。少年の好奇心と、物怖じしない態度とを父の領主が心配したからだった。せめて何か状況が落ち着くまで、この好奇心の強い末の息子を外に出さないほうがよかろうと、家族全員がそう考えていた。
   姉たちと過ごす日々は穏やかだが退屈だった。年上の兄たちはひそひそと声を潜めて何かを検討あるいは対策を立てているように見えたが、少年には危険すぎるということで決して打ち明けてはくれず、それどころかなるべく彼の耳に入らないように注意しているようにも見えた。姉や病弱な兄は大人には大人の事情があるのだと少年を慰めたが、大人たちの言葉に少年は疎外されたように感じずにはられなかった。
   遊びたい盛りの少年は初めのうちこそ外に出ることを我慢していたが、一週間も経つと広がる空と草の匂いが恋しくてたまらなくなり、次第にそわそわし始めた。館が次第に重苦しく自分にのしかかってくるように思え、外の空気が呼んでいるような気さえした。
   あの不思議な雰囲気の女性のことも気になっていることの一つだった。誰だったのだろう。どこに滞在しているのだろう。何の用事でこの地に来たのだろう。
   だが少年の想いとは裏腹に領地ではますます不穏な出来事が続いていた。領地の外にあった病が少しずつ、今度は領民たちを襲っていたのである。それは命に別状はない奇妙な病だった。ただ気だるさとうつろな眼差しと。そして真っ白な顔。だがほとんどの者は二、三日すると治ってしまい、元通りの生活に戻っているという。だが、中にはそのまま衰弱して死に至る場合があるとも言われていた。そしてもう一つ。この病にかかったものに典型的な症状があった。首筋に必ず二つの傷跡ができるのである。尋常なことではなかった。領主は大きな教会から司祭を呼んでこの病に備え、同時になるべく外出することを禁じた。
「どうしても仕方が無いならば出かけるのは構わないが、必ず三人以上で行動するように。なにやら不穏なことを言う輩もいるのでな」
   領主はそのように釘を刺したが、館の中をよく動き回っていた少年にとって大人たちの目を盗むことなど朝飯前のことだった。小柄で身の軽い少年は大人が抜け出せないような小さな隙間を難なく通り抜け、館の外へと忍んで行った。もう家の中に大人しくしているのはうんざりだったし、何か事件が起こっているのならば自分の目で確かめてみたいという気持ちも多分にあった。向かった先はあの日、あの女性と出会った廃墟の草原だった。何の確証もなかったが、あそこへ行けば彼女に会えるかもしれないという淡い期待のようなものが少年の胸を占めていた。それが漠然とした未知のものへの憧れだったのか、あるいは幼いながら彼女に対して、あらゆる女性的なるものが秘めている神秘性を見出したのか。ただ会いに行かずにはいられなかった。周囲に満ちている重苦しい雰囲気の中で、そのことだけは蝋燭の光のように少年の胸の中に日々の輝きを落とすのだった。
   館の中から外に出ると、広々とした青空が広がって少年を歓迎した。自由に呼吸ができるように心が広がっていく。歓声を上げて走り出したかった。草原の向こう側。空の果てが見えるところ。あの人も、そこにいるかもしれない。子供らしい楽しい予感と未知の感覚とを抱えながら少年は走った。あの寂しい廃墟へと。
   少年の予感は正しかった。
   風がつかみかかるような草原の中に立ち、その女性は一人でじっと空の向こう側を見つめていた。少年のように風の音に耳を澄ませるではなく、ただじっと何かを待ち続けているようにそこに佇んでいる。黙っているその口元さえ見えるような気がして少年は立ちすくんだまま声をかけることができなかった。
   いきなり振り向いたのは今度も女のほうだった。
「まあ。あなたは――」
   女は驚いたように眉を上げた。それを見た少年は急いで言った。
「この辺りは危ないと、それを伝えに来たのです。あなたはご存じないかもしれませんが、領地で騒ぎが起こっています。皆がなるべく家に閉じこもっているのです。あんまり出歩いては危ないと、お父様も言いました」
「それを私に伝えに? おひとりで? あなたも危ないかもしれませんのに」
「だって。僕は男で、あなたは女性だから・・・・」
   一瞬、笑われるかもしれないと少年は思った。だが女はじっと少年を見つめると真面目な顔で言った。
「ありがとう。あなたは勇気があるのですね」
   その言葉は少年にとって何よりの勲章だった。少年が頬を紅潮させて微笑むと彼女はそのすぐそばにやってきて隣に座りこんだ。それによって彼女が思っていたよりもずっと若いことに少年は気がついた。すぐ一番上の姉よりもほんの少し上だろうか。少女の域をようやく抜け出そうとしているような若々しい顔立ちをしているのに、その目はもの思わしげで思慮深い。だから最初の印象は随分年上に感じられたのだ。――彼女の動作に従って花のような良い香りが辺りに漂って少年を今までに感じたことのない不思議な気分にさせていた。不愉快なものではなく、まるで羽毛でくすぐられているかのような気分だった。
「私には心配はいりません。私はあなたが思っているよりもずっと・・・・、その、強いのです」
「それでも男性は女性を守るものです」
「あなたは騎士のようなことを言うのですね」
   小さな子供に対するようではなく、女性は少年に対等な口調で語りかけた。
「昔はあなたのように高潔な心を持つ者が沢山いました。私たちにとっても彼らは難攻不落の岩山ようでもあり、一方で慕わしい身内のような存在になった者たちもありました」
   女は昔話でもするような口調でそのことを話した。すでに時代は下り、すぐれた騎士もその精神もおとぎ話の中にしか存在してはいない。少年は幼かったが非常に聡かったので、そのこともよくわかっていた。女がなぜ郷愁を込めてそんな昔の話をするのか、少年にはわからなかったが、彼女が心からそれを残念に思っていることはわかった。
「私は自分の騎士を探すように言われて来たのです」
「ここへ?」
「この世界へ・・・・」
「じゃあ、僕があなたの騎士になってあげます!」
   身を乗り出すようにして言う少年のあまりにまっすぐな言葉に、彼女は目を見張った。
「今は・・・・まだ無理かもしれないけれど――」
   彼女に見つめられたとたんに自信を無くした少年が小さな声で付け加えると女は首を振った。なぜだかその様子はひどく悲しげに少年の目には映った。そのとき伏し目がちになった女のまつ毛が長いことと、被り物からうっすらと覗く髪が漆黒だということを少年は初めて知った。
「・・・・あなたは騎士ではなく、天使様なのかもしれませんね」
   しばらくすると女は顔をあげ、少年に微笑みかけながらそう言った。それは少年が初めて見た女の笑顔だった。
「天使ならば、俗世の者が触れることなど能わないから――」
――このままそっとこの地に留めておきましょう。――
   謎かけに答えるかのように彼女は言ったが、少年はこの謎めいた言葉に、その年頃特有の鋭さで指摘した。
「もしもそうでなければ、僕をあなたの騎士にしてくれたの?」
「私の騎士になれば――」と女は歌うように言った。
「永遠に私と共に流れていくことになるでしょう。あなたのやさしいご家族にも、友だちにも別れを告げなくてはなりません。あなたの穏やかでやさしい所も、聡明な所も、みんな彼らからもらったものだから。あなたには幼すぎてわからないのかもしれない。でもあなたがあなたとして成長するためには、この場所が必要なのです」
「じゃあ、僕が大人だったら連れて行ってもらえたの?」
「連れて行く?」驚いて女は言った。
「軽々しくそのような言葉を口にしてはいけません。連れて行かれたならば、二度と戻れず、親にも兄弟にも二度と会うことが叶わないのです。独りぼっちになってしまうのですよ」
「でもあなたがいるのでしょう?」
「そう。私がいます。私だけしかいません。それはとても孤独でさみしいもの。そんな人生が・・・・」
「――あなたもさみしいの?」
   女は息をのんでまじまじと少年を見つめた。長い間その瞳の中、その言葉の響き、一つ一つを見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振って言った。
「野に咲く花を摘んでしまえば、それは二度と元には戻らない。私は摘まれた花よりも野に咲く自然の花の方を愛でる方がよい」
「それでは。それでも、そのお花の方があなたを好きだと言ったら?」
「あなたはご自分が何を言っているのかわかっていらっしゃらない。この世にはあなたの知らない暗いことが数多くあるものです」
   そう言うと彼女は立ち上がった。
「もうお帰りなさい。私も数日うちにはこの地を発ちます。いつ出発するかは言いません。ですからここでお別れしましょう」
「また・・・・、会える?」
   だがその言葉に女は黙って首を横に振っただけだった。




   その晩の出来事だった。領主の館は捕り物に、俄かに騒がしくなっていた。人間を貪り食う化け物が住むという場所がわかったというのだった。
「まだ若い女の姿をしているそうだ、その化け物は。いつの間にこの領地に住みついたのか――。人を惑わして害をなす化け物」
「その住処は? わかっているのか?」
「町はずれの廃墟です。今、屈強な男たちを募って支度をさせています」
   その言葉を聞いたとき、少年にはなぜだかそれがあの女性のことを指しているだと直感できた。あの不思議な、現実感のない女性。少年に向かって天使のようだと言った本人の方が、この世の者ではないように感じられた。けれども少年には決してあの女性が危険な存在だとは思えなかった。もっと悲しげで、もっと何かを堪えているような・・・・。その彼女を捕らえようとすることの方が間違っている。それは確信だった。あなたの騎士になる。少年は彼女にそう言った。今、その言葉が試されているのだ。彼女に一刻も早く知らせなくてはならない。少年は焦る心を抑え、姉や兄たちの目を誤魔化しながら、暗くなるのを待ってこっそりと自分の部屋を抜け出した。
   抜け出すことは得意とはいえ、夜中に家を出たことがなかった少年にとって、夜の世界は不思議だった。怖くはなかった。用意しておいた明りに照らし出された道は昼間とはまた違った世界を映しだしているようだった。細い光だけが闇を払い、けれどもその闇の中は暖かくやさしいもののように感じられた。夢の中に踏み出したようだった。足元は不安定でそれでも先に続いている。向こう側とこちら側の境目がわからなくなる。その向こう側にあの人がいるのだと少年は思った。
   廃墟にたどり着いたとき、少年は明りを吹き消した。たちまち辺りは闇に包まれて自分がどこにいるのかもわからなくなった。足元が暗くて移動することもできない。だがここにあの女性がいる、そんな根拠のないことも夜の中では確信に変わっていくようだった。しばらくすると薄い月明かりの中で、覚束ないながらぼんやりと周囲の輪郭が分るようになってきた。闇に目が慣れてきたのだ。その中をそろそろと少年は移動始めた。声を出すこともためらわれる夜。それでも廃墟の中を手探りで大分進んだ頃だろうか、もっと奥のほうから人の話し声が聞こえてきた。一人は女性、もう一人は低くほとんど聞き取れないほどだったが、確かに男性の声だった。少年は緊張に身体を強張らせながら身長に歩みを進め、その声が聞き取れるほど近くへと進み、壁際にぴったりと身体を寄せて様子を伺った。好奇心が恐怖心を凌駕し、怖いもの知らずの勇気が少年の背中を押す。
   思ったとおり女性の声はあの人の声だった。もう一人は黒い闇をまとうようではっきりとは見えない。忍び込んだ壁の向こうで女ともう一人は何かを言い争っているようだった。
「なぜなのですか。私たちの掟は人間にわかるように狩りをしないということでしたのに。おまえたちはなぜ・・・・。それにあんなに獲物を増やさなくてもよかったはずです。これでは人間たちに私たちのことがわかってしまいます」
「あなたも生き血がなければ生きていけないはず」
「だからと言ってあんな風にむやみに人間を狩っていたら、私たちの方が逆に狩りの対象になるとわかっているのに」
「あなたのためです、女王よ。あなたは女王。あなたは騎士を選ばなくてはならないというのに、ただ漠然と日々を費やしている。我々はあなたを追い立てなくてはならない。もしも騎士がいないようならば、次の土地へ。あなたが騎士を選ぶまで、永遠に続けられる」
「おまえたちは私の騎士ですらないというのに――」
「そのとおり。だが騎士を持たぬ女王は、一人前とは認められぬ。だから私たちが差し向けられた。お分かりになっているはずだ。あなたの姉妹は既に騎士を得られた。あなたにもその義務が生じている」
   誰なのだろう。何を言っているのだろう。なぜこんな暗がりに彼らはいるのだろう。ほぼ月明かりのみに照らし出されて、彼女の姿も相手の姿もおぼろげにしか見えず、不意に少年は本来見てはならない恐ろしいものを見ているような気がした。あの女性も、その相手も、父親や兄が話していたような恐ろしい呪われた存在なのかもしれないと、ひらめくような考えが頭の中に浮かんでいるのに、その一方で彼女のしめやかな物腰と幾分悲しさを含んだような瞳がその本当の姿なのだとどこかで理解しており、その二つに縛られたように動くことができなかった。
「もうすぐ人間たちがこの場所にやってくる。我々がそのように仕向け、物事は常のとおりに行なわれる。あなたはここから逃げ延びなくてはならなくなる」
「逃げずに捕まるという選択もあります」
「それは賢明な選択ではない。あなたは死ぬことはない。だが苦痛は感じる。そして苦痛が耐え切れないほどになったとき、あなたはあなたではなくなるだろう」
   深いため息が聞こえた。
「おまえたちと争うことは無益なこと。心配には及びません。私も明日の朝には発つつもりでおりました」
「ではごきげんよう。未だに騎士を持たぬ女王よ」
「ごきげんよう。次の土地に私が赴くまで、おまえたちが無事でありますように」
   女の言葉は皮肉に彩られていたが、その言葉を受け取ったのを最後に影の気配は溶けたように消え失せた。再び女がため息をついたとき、少年は彼女がひどく疲れていることを知った。
   そのまま女は思索するように思いに閉じこもったまま部屋の中をゆっくりと歩き始めた。あの影の気配は逃げなくてはならないと警告していた。少年は彼らの会話のほとんどを理解することはできなかったが、父親たちが狩り取ろうとしているのがこの女性であることだけは灯された炎のようにはっきりと理解することができていた。このまま父親たちがここへやってきてしまったら彼女はどうなるのだろう。一刻も早く立ち去らなくてはならないと、あの人もわかっているはずなのに。なぜ待ち受けるようにここでじっと考えに沈んでいるのだろうか。
   居ても立ってもいられずに少年が勇気を振り絞って手探りで彼女のもとへ行こうとしたとき、一瞬少年は何かにつまずいた。思っていないほど足元の何かが大きな音をたてた。
「あなたは――」 彼女は驚いて声をあげてから、もの思わしげに眉をひそめた。
「なんということを。どうしてここへ? いいえ。それよりもよく彼らに見つからなかったものです」
   彼女の声色には非難と安堵の両方があった。
「ここは危険です。早くお家へお戻りなさい」
「あなたこそ。僕はあなたに危険を知らせようと思って来たのです」
「いつからそこにいらしたのです?」
   そのとき女の瞳に赤い色が混じっていることに少年は気がついた。夜なのに、なぜその鮮やかな瞳が見えるのか、そんな疑問はなぜか湧かなかった。
「さっきから。あなたが誰かと言い争いをしているときから」
「勇気は時に愚かしさに通じます。あなたは私に危険を知らせようと思ったと言いました。けれどももうわかったでしょう。私こそその危険。あなたはそうとは知らずに当の危険の大元にたどり着いてしまったのです――」
「危険? なぜ?」
「あなたもご存じでしょう? 今、あなたのお父様の領地に起きている不吉な病。首元の傷。失われた血。私こそがその根源なのです。あなたのお父様はその根本を断とうとしていらっしゃいます」
「お父様は皆を集めて、あなたを追いかけて捕まえようとしている。 そしてあなたは――」
   少年の澄んだ声に女は首を振った。
「もうわかりましたね。私は人間ではありません」
「あなたは危険な人なんかじゃない」
「私たちはこうして言葉を交わすことができる。同じような心を持っている。でも。私は人間ではありません。私は人間を害するもの、あなた方人間にとっては危険な存在のです」
「でもあなたは僕に親切だった」
「それは単なる気紛れです」
「お話もしてくれた」
「独り言のようなもの」
「独りぼっちだと言ってくれた」 女は息を飲んで少年を見つめた。
「ねえ。独りぼっちは、さみしいのではないの?」
   女は戸惑いに支配されていた。こんな人間の少年のか細い声が、こんなにも心を揺さぶるものとは彼女は思ってもいなかった。
「いいえ。いいえ・・・。そんな風に私に話しかけてはいけません。あなたは私がなんなのか、全く分かっていない。私はあなた方から見れば化け物なのです。私は本来あなた方人間の生き血を吸わなくては生きてはいられない存在。そして私の本当の姿は醜く歪んだものです。その姿を見ればあなたもきっと悲鳴を上げて逃げ出すでしょう。それほど私の姿は恐ろしく、醜いのです。ですから早く。私を置いてここから離れるのです。私とともにいることを知られたならば、あなたは誤解される。誤解されたらただではすみません。私は人間の内面の醜い部分もよく知っているのです」
「醜いなんて。あなたはこんなに綺麗なのに――」
「ではその綺麗な姿のままであなたの中に私をとどめておいてください。私に本当の姿を曝させないで・・・・」
「あなたがどんな姿でも、あなたはきっと綺麗だよ」
「なぜ。そんなことを言うのです? 私をなぜ追いつめるのです? あなたは何もわかっていない。私の本質も、私の本来の姿も」
「本当の姿?」
   無邪気な問い掛けに不意に女の中に怒りにも似た何かが膨らんだ。
「なぜわかってくれないのですか? なぜ私の心を揺さぶるの? いいでしょう。お見せしましょう――私の本当の姿をご覧なさい」
   女の声色は怯えたようであり、その怯えのままその姿は女の皮衣を脱ぎ捨てた。美しい女の姿はその一瞬でほとびて消えた。頭を覆っていた布が滑り落ち、衣服の一部が脱ぎ捨てられると同時に、白く透き通るようだった皮膚の内側から赤黒く血に染まったもう一つの皮膚が盛り上がった。すべての歯が刃となり、目が引っ込むと同時に口元が前に突き出し、横に大きく引き裂かれたように広がった。爪がとがり、豊かな髪が皮膚の一部のように変化した。
   女の形態の中で唯一変わらなかったのはその瞳の色だった。最初から赤く変化していたその瞳は、昼間廃墟で出会った時のように悲しげでもの思わしげだった。その瞳の色はすべてを引き換えにしても余りあるほど美しく澄んでおり、少年はそこから目を離すことができなかった。
「どうして怖がらせようとするの?」少年は心底不思議そうにそう言った。
「あなたはそんなことしたくないと思っているのに。怖がっているのはあなたの方なのに」
「怖くないのですか?」
   女の声は震えていた。
「あなたは綺麗だもの」
   異形の姿が次の瞬間、変化して元通りの女がそこにいた。ただ被り物だけが破れ落ちて、豊かな黒髪が地面すれすれにこぼれていた。
「それでも僕を連れて行ってはくれないんだね」
「あなたを連れて行くことはできません。私は今も野にある花を摘みたくはないのですから」
「でもあなたは・・・・」
「私は独りでもよいのです。さあ。ご自分のお家に戻りなさい。あなたのお父様がもうすぐここへやってきます。私にはその足音すら聞こえるのです」
「あなたはどうするの? ここから逃げないの? ずっと独りでいるの?」
「心配することはありません。私はすぐにここから消えますから」
「また・・・・・・。会える?」
   女は目を伏せて首を振った。
「これは幻なのです。幼いあなたが見た夢のようなもの。忘れる方がよいのです」
   少年には女が立ち去ろうとしているのがわかった。引き止めたくても引き止め方がわからず、ただ少年は大きく目を見開いたまま、その瞳の中に女の姿をとどめようかとするかのように何も言えずに女を見つめていた。涙が後から後からこぼれ出て、女の姿をゆがめさせる。にじむ輪郭の中で、少年は女が不意に近づいて優しい手つきで額に触れるのを感じ、次の瞬間何もかもわからなくなっていた。




   気がつくと朝だった。少年は自分がきちんと部屋で眠っていたこと。着替えも何もかも済ませていたことを知った。あれは不安が見せた夢だったのだろうか。父たちはどうしたのか、あの廃墟はどうなったのか。
   だがその時、起き上がった少年は今まで自分にかけられていた布に気がついた。自分のものではないというのに、豊かな色彩の布地で織られたその布に少年は確かに覚えがあった。それはあの女性が頭を包んでいた被り物の一部だった。ただ一つの残り香。ただ一つの思い出。それでも残していってくれたのだ。



   頬を当てるとまだ温かいその布からはかすかにあの女性の匂いがしていた。






END



2010.08.20

久々のOut of BLOOD+モノです。。。実は。この話には続きがあります。。。書いているうちに長くなってきたので、すっぱり真っ二つに分けて別々の作品にしてみたと言う。。
  いつになるかわかりませんが、後半部分も書いてみたいと思ってます。まあ、よくあるといえばよくある話で。

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