霧深い夜。輪郭をゆるがせて路地に連なる街燈。じっとりとした建物の肌を滑るように流れていく影。時折交差する事物が時の歯車に剥がれて内なる活力がほとびていく夜更け。
 男は急ぎ足で歩きながら身体の隅々に漂う血管からの音を伺っていた。動悸。そして充実。興奮が脳内のアドレナリンの分泌をさらに促して男の足取りを速めたが、やがて彼はそれを意識して緩め、普通の足取りにまで落とした。呼吸。穏やかになりつつある胸の音。そして興奮から解放された後に来る脱力感と平安。
 男は内ポケットから煙草を取り出して火をつけた。まだ少しばかり手が震えている。その拍子に抱えていた包み、新聞紙にくるまれた小さな包みを取り落とし急いで拾い上げた。
 一瞬の呼吸の乱れとその後に作られた沈静を男は自分のものとした。そうでなければならない内面の規律のようなもの。それから煙草をくわえながら通りを歩き出す。ゆっくりと後ろ側から車が追いついて追い抜かしていった。途中で若い女が急ぎ足で擦れ違う。艶やかな長い黒髪。ほんの少し垣間見えた造りは、繊細な美しさ。うつむきがちの女を目で追いかけると、彼女は向こう側からやってきたタクシーを掴まえてすぐに乗り込む。男は口元にうっすらと笑いを浮かべた。印象的な柔和な微笑。そしてさらに先へと向かう。目的があるわけでもなく、急ぐ訳でもない道筋だった。
 やがて行く手に明るい光を見て男は目を眇めた。イルミネーション。点灯する明り。そちらに近づいていくと何件もの小さな食堂やらコーヒーショップが立ち並び、その広場の真ん中に劇場の入り口があった。先ほど通った通りとは比べ物にならないくらいの賑わいがそこにはあった。肉の焼ける匂い。ビールの匂い。あらゆる雑多な匂いの溜まり場。
 劇場の看板が大きく瞬いていた。男はその入り口に近づいた。ピカピカのイルミネーションの間には塗料の禿げた板が貼り付けられて幾ばくかの寂しさを感じさせる。入り口のガラス張りの張り出しにかすれたような広告が並べられていた。


 恐怖。本物にせまる迫力。上映最後の機会。


 安っぽい謳い文句がポスターの上に張り出されている。男は貼紙を上から下まで舐めるように眺める。そのとき、隣にもう一人客が並んで立つ気配がした。ちらりと眺めると、まだ若い。上背はあるが太ってはいない。引き締まった身体はむしろやせている方だった。彼はポスターを一目見るとひゅうと口笛を鳴らした。男がわずかに眉間にしわを寄せてそちらを見ると、向うも気がついて唇の端を吊り上げるようにして笑いかけてきた。
「裁判所の決着がついたばかりだっていうのに」 彼は柔らかな口調で男に話しかけてきた。
「もう上映。まったく気が早いったら」
 男が何のことかと眉を寄せると彼は再びポスターの方へ向き直った。
「この映画。丸っきりの上映禁止だったはずなんだけど――」
 そしてにっこり笑った。
「先日勝訴してね。でも多分すぐに上映禁止でしょうよ。また上告されたって言うから。あなたは幸運だってわけ」
 観たがっているんでしょう? そう言われて男はうめくように答える。
「いいや、俺は――」
「面白いのに。きっとあなたの気に入ると思う」
 そう言って彼は映画館の入り口へ入っていった。取り残されて男は一人逡巡していた。ちらちらと映画のポスターを仰ぎ見る。確かに興味はあった。慣れ親しんだけだるい平安が男を捕らえる。しばらく見つめていた後に、男は再び唇に柔らかな微笑を浮かべて映画館へと入っていった。




 映画館は思った以上に空いていた。むしろがらがらだった。独特の空気のこもった匂い。ジャンクフードとどぎつい飲み物の混じった甘さ。あちらこちら修理していない穴が剥き出しになった壁に薄汚れがこびりついている。男は上映スペースに入り込むとかなり後ろの方に席を陣取った。場末の物悲しさに濃厚な嗜好が変成されて奇妙な居心地のよさを感じる。事が終わった後にも似た満足感と安らかさ。神の平安。
 だが男の横を別の人影がよぎった時、男ははっとして夢想にも似た居心地のよさから揺り動かされた。前を行くのは黒髪の女性だった。およそそぐわない映画にこの時間。あんな若い娘が一人で。いぶかしみと保護欲。所有欲とそれから対抗意識。そういえば、先ほどすれ違った娘によく似ている。同じような髪のうねり。ちらりと見たときの雰囲気。佇まい。戻ってきた? それとも? 少し考えて、彼は別人だという結論に達した。道は一方通行でタクシーに乗ったならばぐるりと回ってこなければここへはたどり着けない。そうするには時間がかかりすぎる。女性は黒髪を腰まで揺らしながら、ふわりと真中当りの椅子に腰を下した。仕立ての良いトレンチコート。黒いブーツ。眼が引き寄せられる。かすかな拮抗。
 彼は抵抗するように映画に集中しようと椅子に深く腰を下ろした。
「ねえ」
 突然つつかれて我に変える。まだ映画は予告編すら始まっていなかった。
「やっぱり観ることに?」
 彼は先ほどの若い男に曖昧にうなずいて、うつろに微笑んだ。その妙に明るい白々しい笑顔から顔を背けて視線を彷徨わせると、夜の艶やかさを持つ黒髪が目に入る。彼女はやはり映画を観るときも一人っきりだった。待ち合わせなし。当然だろう。動悸と磁力を感じる。
「まったく悪趣味だとは思わない?」
 その若い男は彼に向かってしきりに話しかけてくる。
「わざわざ、と言う意味で・・・・?」
「そう。本物には本物でしか出せない何かがある。それが彼らの謳い文句。でも実際にこうやって私たちは足を運んでくると言うわけ。
 ねえ。そういうのが生物の本能なのかもしれない。知っている? 草食動物は群れの中の一番弱いものが殺されていくのを観察するときに一番興奮するのですって。それをじっと見ているそうよ」
 ぞくりと背筋に戦慄が走る。
「そうやって群れのストレスを解消するってこと」
 若い男は淡々と話した。
「弱いものが襲われて死んでいくのを快感を持って眺めているなんて。本当に、人間なんて・・・・・」
 彼は答えずにただじっと前方の黒い髪を見つめる。既視感。奇妙な、そして馴染み深い感情。そのとき照明が落ちた。
「ほら、始まる――」
 ほっとしたことにようやく映像が始まった。小さな映画館特有のちりちりとフィルムが回るかすかな音。最初はなんの変哲も無い風景が映るだけ。淡々と時間が過ぎていく。この日常と同じように。彼は何かわからぬいらつきが胸の中に湧き上がるのを感じ、それが消化不良の不安定さなのだと分析する。これはただの安っぽいB級映画だったのだろうか。だがあの上映最後の機会という謳い文句と裁判という言葉に惹かれるように座席を立つのを我慢する。映像と必ずしも合っているとは言えない音楽が徐々に大きくなっていく。
 館内は反射光に虚ろで静かだ。すべての行為が一点に集中していく。その情熱の行為に。それを認識したとたん、彼の背筋には戦慄が走り、うなじの毛が逆立つように感じた。首筋が冷たい。約束された一瞬の直前、男はようやく何が起ころうとしているのかを感じ取った。なぜ上映禁止なのか、なぜ裁判なのか。
 男の手が固く肘掛を掴んで握り締める。映像の中で女が一人、歩いてくる。怯えたように。後ろを振り向き振り向きしながら、その仕草はまるで来るべき時を待ち焦がれているかのように見えた。高まってくる期待と同調してくる動悸。館内は静かだった。まるで別の世界に運び込まれたように。誰一人として身じろぎすらしない。白々とした映像の反射光に、周りの人間の顔が超自然の虚ろさで浮かび上がる。陳腐な音楽に合わせて約束されたことが行なわれる。男は自分の頬が冷たくなっていくのを感じていた。
 夜。悲鳴。物音。そして喘ぎ声。流れ出す血。カメラがその揺らぎを冷静に見つめている。それはある意味淡々と行なわれる出来事だった。男の中で思っていたとおりに。クライマックス――。やがて悲鳴が途絶え、人体が明らかに死を迎える。秘めやかなエクスタシー。生命の宿っていたものが一つの物体になっていくようすをカメラは映し出す。
 それから唐突にエンドタイトルが流れ始める。黒い運河のような画面の流れに、男はようやく体の緊張を緩め始めた。同調、拡散、そして沈降。ある種の至福。終わりの中に潜む佇まい。
 無言で肩をつつかれて、男ははっとして深く腰を下していた椅子から身体を起こして振り返った。件の若い男の笑顔が後ろに在った。
「どうだった――?」
「いや、それは・・・・」
 口ごもりながら言葉を捜すその目の隅で、あの若い女が黒髪を揺らしてふわりと立ち上がった姿を捉える。何だか喉が乾いたような気がして、意識がそちらに向いた。
「素晴らしい・・・・」
「そうでしょう!」
 無意識のうちに賛同すると、すかさず同調が返ってくる。
「ねえ、どう? これから一杯」
 と杯をあおる仕草をする若い男の表情を気にも留めず、彼は急いで立ち上がろうとしていた。
「いや、もう帰らないと・・・・」
 それは満足と、これからへの期待からなのか。あの映画は実に本物の殺人を、そのまま映像に映したものだった。嘘偽りの無い真実の画像。実際に体験したものにしかわからない、興奮と記号。作り物には無い清清しい冷淡さがある。
 冷たい空気を追い風に感じて男は立ち上がる。新聞紙の包みをしっかりと握りなおしてコートの内側へとくるみこむ。ぼんやりと若い男の傷一つ無いようななめらかな手が自分の肩から滑り落ちるのを感じていた。なぜか茫洋とした表情で自分を見上げる男の顔を一瞥しながら彼は外へと急いだ。映画館の赤茶けた扉を通り、明るい廊下をくぐって暗い外へと足を進める。一瞬の光の洪水に目を細め、そして間違いようの無いあのシルエットを探し出す。まるでほのかに香る麝香のように甘く蠱惑的な存在。長い艶めく黒髪。誘うような肢体。決して肉感的ではない。むしろ少女のような無垢さ。何かがある。なんと言ったか、男を吸い寄せるような芳香の持ち主。黒いブーツの踵が鳴る。光の中を、やがてすべての輪郭が滲む、あの霧の仮面をつけた街の隅へと。
 今夜は特別な日だと感じる。禁じられた映像。日常に潜む禁忌。そう。もう一つ禁じられた行為へと収束する流れを感じる。完全なる流れ。まるで何かの儀式のようにも思える。その不思議さに突き動かされて男は心に思い描く虚像へと向って歩き出した。神話の女神のような輝かしい生贄に向って。
 霧の中へと足を踏み出したとたん、一瞬だがどこか別のところへ踏み込んでしまったような感じがした。乳白色の光の世界。動物性の甘い香り。女が豊かな黒髪を揺らしてわずかにこちらを向いたような気がした。心臓の音。耳元に響く動悸。待ちわびた時間の中の興奮一歩手前の冷たさ。内側からの圧力が心臓の苦痛を訴える。
 男は上着の襟元をしっかりと押さえると、少しだけ足を速めた。女は相変わらず先に立って揺れる黒髪を背中に流している。随分と歩いてから男はようやくおかしなことに気がついた。男の足が速度を速めたというのに女との距離が縮まらない。女の方はのんびりと、まるで散歩をするように歩いているというのに。不協和音。何かが身体の中で砂になっていくような不快感。耳の後ろの辺りで毛が逆立つような感じがしている。
 居心地の悪さと徐々に分泌され始めているアドレナリンの効果で男は益々足を速めた。二、三歩で既に小走りに近くなっている。意志の持つ力が興奮状態を制御し始める。目を細めるようにして前方の女を眺めると、女の方もようやく足を速めた。小走りに目の前を走っていく。髪の間からのぞく顎筋と細い首筋。ちらりと見えた赤い唇が微笑みを形作っているようにも感じる。それが何を意味しているのかを考える間も無く、女は霧の中から突然出現した壁の向こう側へ大きく左折して姿を隠す。慌てて後を追った男は、そこが元の交差点であることに気がつく。女の影はおろか気配すら消え失せ、日常の毒性を帯びた灰色の喧騒が現れる。何もかもが霧の中の幻のように流れすぎ、男は胸の中にある微かな虚無感とともにため息をついた。上着の中にしっかりと持っている新聞紙の包みの肌触りに触れる。落としそうになったそれを再び男はしっかりと握り締めて歩き出そうとする。
 そのとき、背後に笑い声が聞こえた様な気がして男は振り返った。視界の先に消えたと思った少女の横顔が笑っていた。揺れる黒髪。髪に隠れて見えない瞳。身体を覆うトレンチコート。印象的な微笑。しかし視線以外のものが彼に注目しているようで、その証拠に彼が動き出すのを待っているかのようにじっとそこに留まっており、彼が足を踏み出したちょうどそのタイミングで女は再びもと来た道を戻り始める。あの映画館のある方向へ。何も考えることは無いという本能の声。なぜか背筋に寒気が走る。美しい女のその残り香のように。男は一歩を踏み出す。もう一つの内ポケットの中に在る、あるものを握り締めながら。平安。耳の奥で響いている賛美歌。
 女の足取りは霧が流れていくようだった。とらえどころ無く、それでいて心に纏わりつくような。乳白色の影。闇に虹彩がいくつも散っているような。これは聖堂へと続く道なのだと彼は思った。自分だけの、自分と女だけの道。まるで婚礼の道のように。あるいは葬送の道のように。そのとき女は再び立ち止まった。今度は斜めに後ろを振り返り、男には女の顔の頬の部分までが良く見えた。朱をはいた唇。白い頬。成熟と未成熟の間に横たわる滑らかな顎の線。通った鼻筋。上品な小鼻。残念なことに瞳だけがまだ見えない。黒髪に隠されているその両の眼。その形状がわかるような気がする。その色を見たいと不意に男は思った。美しいのだろう、その目は。わずかな期待。不安。そして興奮。
 だが突然女は再び前を向き、今度は小走りに走り出す。そのときまで女が自分を誘っているとは露とも思い浮かばなかった。女との距離は近くなり、また遠くなった。女は楽しんでいるようにも見え、笑っているように思えた。その後ろを必死になって走っていく。ちらりとこんなに距離があるのはおかしいと感じたが、そのうちにようやく本格的に女との距離が縮まり初めるとその感覚も虚ろになった。幻の中に存在する奇妙な現実感。夢と夜霧と。だが女は現実だった。
 最後の加速で男が距離を縮めると女はたやすく男の手に捕らえられた。はっとするほど華奢な腕。男の手に掴まれた腕は少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうだ。水分を含んで女の髪から独特の芳香が立ち昇った。心臓の鼓動を変化させる香り。
 乳白色の闇の中で男は自分の手が懐のジャックナイフを取り出したのを意識した。手に馴染む、自分の一部のようなその刃物は、よく拭ったはずなのに既に今日一度目的を持って使ったためにうっすら油が浮いている。こんな汚れた刃で『儀式』を行なうのにはこの女は美しすぎる。女の豊かな髪の間から、青い青い目がのぞいていた。はじめて見る底の無い藍色の泉のように、光も闇もすべてを飲み込むような深い青の瞳だった。ふくよかな唇は朱に艶めいていた。柔らかな頬。失われるのが惜しいほど。だが永遠に美しいものなどない。それならばいっそ美しいまま終わりを迎えたほうが親切なのではないか。女の吐息が彼に触れた。吐息に血肉の輪郭がにじむ。生きている証。肉体の中に閉じ込められた焔。
 彼は一方の手でしっかりと女の腕を固定し、もう片方の手にナイフを握り締めた。じっとりと汗ばんでくる。馴染み深くなった鼓動。血管の中を流れる音。今こそ脳内物質を活性化させる時だった。利き手がナイフを引き抜き、ゆっくりとした時間の中で男は女をしっかりと拘束すると抱き締めるように胸の中の正確な位置にその刃を埋め込んでいった。
 肉を断っていく手ごたえすらも、彼にとっては味わい深いものだった。衣服を裂いて、骨をかすめるようにしてその位置にナイフを進めていく。優しい感覚。女が何かをつぶやいたような気がした。最後の吐息。肉体からの焔の解放。女がこの世で感じる最後の感触が自分の腕とナイフの刃ざわりとは。男は満足げに微笑んだ。断末魔の痙攣さえも無く。端から見れば、恋人達の熱い抱擁にも見えるかもしれない。まさにこれは生命と生命との抱擁だった。何人もその間に入ることのできない繫がり。あの映画のことが頭をよぎる。本物には本物にしか出せない味がある――。




 その時、ぐったりともたれかかっていた女の腕が動いたような気がした。偶然なのか、それとも遅くにやってきた痙攣なのか。背中に当てられた腕の感触。突然男は感じる。これは、違う。何かが違っていると。間違った時間、間違った目的。夢見るような瞳で女が顔を上げる。その目の中に火が踊っていた。艶々となまめかしい唇。微笑みは刃のように熱く、死のように冷たかった。現実が溶け出すように、焔に包まれている。耳元で声がした。
「こんなものでは、私は死なない――」
 甘やかな笑いを含んだ声だった。次の瞬間、男は首筋に鋭い痛みを覚えた。焔が真っ黒な色を上げ男の周りで踊る。男の上着から大切に包まれた新聞紙の包みが引き抜かれた。
「本当に、いい趣味してるんだから」
 どこかで聞いたような若い男の柔らかい声。後は暗転――。





 気を失っていたのは一瞬だったか、かなりの時間だったのか。気がつくと男は地べたに仰向けに倒れ伏していた。身体が重く、腕が上がらなかった。ぼんやりとした視界の中で、あのとき映画館で出会った若い男が微笑みながら自分を見下ろしていることを認識する。
「気がついた?」
「なぜ・・・・ここに・・・・?」
 かすれた声で問いかけながら、彼は相手の右手の中にあの幾重にも包まれた新聞紙の包みがあることを知った。言葉を発しようと思ったがなぜか声は上手く言葉にならない。首筋が冷たかった。冷たい中で一箇所だけ燃えるような箇所がある。炎を受けたように。
「ああ。これ?」 飄然とした様子で若い男は手にした新聞紙を振って彼に向かって笑いかけた。
「これがあなたの大切な宝物ってわけ?」
 微笑んだまま突然その手が掴んでいるモノを片手で握りつぶす。大して力を込めたようには見えなかったが、指の間から破裂したようによどんだ色をしたモノが飛び散った。粘着性のある赤黒い液体がしたたる。肉片がバラバラになって地面に落ちる。倒れ伏した男の口から声にならない叫びが洩れた。ビニール袋に包まれ、その上から新聞紙に包まれたものは、ある種の肉の塊である。いくらなんでも卵のように片手で潰せる訳がない。
「つまらない・・・・」
 血まみれの手がゴミでも払うように、まとわりつく新聞紙を振り払った。その残骸が男の目の前に濡れ落ち葉のように張り付いている。その見出しが嫌でも目に入る。
――現代の切り裂きジャック。ロンドンの怪。失われた心臓――
 大きな白抜き文字でそこにはそう記されていた。自分のものではないように重い身体をわずかに身じろがせ、彼は問い掛けるように若い男の顔を見上げた。無邪気さと無防備さ。若い男は噴出すようにして笑い出した。
 そのとき微かな声と共に何かが落ちる音がした。金属の欠片のような。彼が動かない視線を必死でそちらに向けると、あの女が胸からナイフを引き抜いて投げ捨てたところだった。ベージュ色のトレンチコートの真ん中に彼女自身の血が花のように広がっている。美しい大輪の花だった。黒い髪の色とそれは対照的な美しさであり、女の徴のようにも見えた。
「これだけ血の匂いをさせていれば、誰だってわかるわね」
 異常殺人者さん。若い男が唇を独特な皮肉に歪めながら話しかける。既に彼には言葉を発する力も残されてはいなかった。
「だから待ってと言ったのに」 残念そうに若い男はつぶやく。その薄い金髪が白い霧に中で後光のように光っている。
「あなた、獲物を間違えた」
 それから若い男は白い闇の中に立つ女の姿をうっとりと眺めた。女はそこにいた。その場に悠然と立ち、目を伏せて、落ちているナイフに視線を止め。冷静さの中の情熱。氷のような焔。女の目の中にはすべてがあった。
 女は――完全だった。男が想像したこともないほどに。
「さて」 若い男は彼を見下ろしながら楽しそうな口調で言った。
「あなたは選ばれるのかしら。あるいは選ぶのかしら?」
 風が衣擦れのように小さな気配で流れ出していた。霧が流れ始める。その中で女の顔がゆっくりとこちらを向き、その青い目が愛のように自分を見据える。女が深く美しい微笑を浮かべるのを男は陶然と見つめていた。






END



2009.10.16

すみません。。。。一応ホラーなのですが。。。ハジ小夜を書いていると、反動のように突発的にこういうモノが書きたくなる私。後味の悪くなるようなものを目指していたとは言え、ちょっ・・・・大分グロくてすみません~~。。。
  書き方もちょっといつものものと変えてみたり。扱っている題材がちょっとアレだったり。なんだかもうすみません、と言うしかないような作品。でも個人的にはこういったものを書いていると楽しい。。。。かも。『BLOOD+』の要素にはこういう部分も存在していると思うのです。あの世界観の匂いのようなもの、すべてがかなり好きなので思わず書いてしまいました。。

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