四月の風。春の嵐。少女は風に乗るように走りながら心でつぶやいた。耳元では暖かな風が鳴り、命の明け染めの空気が甘く香った。
  夜!春の夜!木蓮もくれんが香り、夜露がこぼれる。誰にも会わず、誰からも離れて、星明りだけを頼りにして。少女は走る。遠くで犬の鳴く声が聞こえ、それが近くなりまたすぐに遠ざかった。誰よりも速く!誰よりも遠くへ!私は春の夢。まどろみの時節。四月の魔女。少女の胸の中で、誰かが踊った。嵐の時期。恋の季節――。つばくらめが啼き、雲雀ひばりさえずる。。誰かが言った。今は恋の季節。恋をしてごらん。
  すぐに少女は足を止める。。少女は未だ恋をしたことが無かった。少女の双生児の妹は、すでに相手を見出して最初の騎士としたというのに。
  大丈夫。あなたもすぐに。と慰め顔が言う。きっと絶対。と人々が口々に。そういう口の端から期待と好奇心をのぞかせて。姉妹の騎士はほとんど同時に出現するというのが種族に伝わる言い伝えだったから。――だけどそれは本当にそうなのだろうか。と少女は考える。一方に騎士ができたとき、もう一方は無理やり騎士を作らせられるのではないか。望む、望まぬにかかわらず。
  恋をすればいいのよ。誰かが言う。恋をすればなぜ自分に騎士が必要なのかがわかるから。恋をすれば。そうしてそれが上手く育てば愛に成る。そうすればあなたの手元には騎士がやってくるから。
  。姉妹を愛するように、あるいはそれ以上に。相手を欲して自分を投げ出してもいいような気持ち。自分のことよりも相手のことが気になって、自分で自分のことが分からなくなる気持ち。今の自分が掻き乱されるような。なぜそんな未知の気分を受け入れなくてはならない? 今は四月。この世はすべて生命で満ち満ちているのに。恋の季節? それはいかにも面倒で、わずらわしいもののように思えた。妹の問い掛けるような、申し訳ないような、そして労わるような視線もたまらなかった。あの子が悪い事をした訳じゃない。むしろ自然な・・・。
  でも置いて行かれたくないでしょう? その問いかけは痛いところを突いてきた。あまり時間が経ってしまうと、妹に眠りの時期が訪れる。片割れを眠りの中に置いたまま、長い時間を起きている気分というのはどういうものだろうか。それは恋というものと同じくらいに怖いもののような気がした。
  何かに追い立てられて。わずらわしさも、好奇の目も、何もかもから逃れるように、少女は一族の住処から飛び出した。空気になる。自由になる。


  恋をしてごらん。さあ。人間の中から。でも慎重に、ね。いよいよとなるまで、私たちが私たちであることを悟られてはならないよ


  少女は風になった。飛ぶように木々の先端を掠めて駆ける。遠くから甘い香りがする。麝香じゃこうの香りのような。人間達の牧場が近い。急に臆病になって少女は立ち止まった。風の声。春の香り。私は何をしようとしに行くの?
  だって。恋の季節だもの。風がささやいたような気がした。そう、恋の季節。好奇心の季節。ただ人間が何をしているかを見に行くだけ。それだけ。少女は思い切ってまた走り出した。
  人間たちの村が近づく。夕暮れ時の気配。黄昏の光の中で一人。井戸端で腰を下している娘を見つけた。夕日がその顔立ちをやんわりと照らしている。
  飛び切り美しいというわけではなかったが、生き生きとした顔立ちの娘だった。生命の溌溂とした輝きが内側から放たれている。なんて美味しそうな。と少女は思い、それから違う、と取り消した。娘は井戸端で一休みし、手を洗い、その冷たい水を飲み干してため息をついた。誘蛾灯に惹かれる虫のように、少女は娘に近づいた。娘に見つからないように、後ろ側から静かに忍び寄る。その尋常ではない気配に娘が気がつく前に、少女の細い手が娘の顎を捕らえ、やさしく傾けて首筋をあらわにすると頚動脈をたどって、その瑞々しい音にくちづけを落とした。
  素晴らしい味だった、娘の血液は。その首元から唇を離すのに苦労するくらい。少女特有の自意識と繊細さと夢と苛立ちと。それらはすべて林檎と無花果とお菓子の匂いがした。葡萄酒とチーズと。娘そのものがチーズケーキでできているようなものだった。唇を離すと、少女は娘の着ているブラウスの衿を直してやった。たった今自分がつけた傷口が隠れるように引き上げる。不自然ではなかった。娘はぼんやりとしていたが、少女が目の前に立っていることを当然のように受け入れる。
「ねえ」
  少女は甘くささやいた。
「今夜はこのまま家に帰って、いつも通りにお風呂に入って眠るの。少しだけ早めにね。明日、誰かに何か言われても思い出しちゃダメ。夕べはふらふらしていてあまり覚えていないと答えるの。
  そう。夕食の時、少し葡萄酒を多めに飲んでみればいいわ」
  娘はうなづいた。
「早く帰ってお風呂に入って、寝る」
「葡萄酒を忘れずに」
  少女は素早く言った。
「葡萄酒・・・」
  少女は満足そうに娘を眺めた。娘は少女の言葉どおり,一刻も早く帰りたそうにしていた。その時、少女の耳に車の音が聞こえてきた。素早く樹の影に隠れると、そのままぼんやりと立っている娘を一人残して様子を見る。やがて頑丈なつくりの白い車が姿を見せた。
「アニス」
  中から出てきたのは日焼けしたがっちりした体格の若者だった。彼の呼びかけで少女は娘の名前を知った。一番知りたかったもの。すなわち血と名前と。少女は微笑んだ。
  しかし娘は若者の呼びかけに、たちまち目を見開いた。その目に反感と依怙地いこじを閃かせて。
「ジョゼフ。なぜここへ」
  娘の言葉には苦々しさが満ちていた。
「君こそ、どうして?もう日が暮れるというのに。すぐに真っ暗になってしまうよ」
  対する若者の声は穏やかで、押し付けがましくない心配を含んでおり、少女は好感を持った。
「あなたなんか、知るもんですか」
  娘は小さくつぶやいた。少女の中の彼女の血が、若者に対する娘の反感と、その奥底に眠っている娘自身も気がついていない微かな好意を伝えてきた。少女は好奇心を持った。
「とにかく送っていこう。夕食前には家に着けるから」
  そっぽを向いた娘に、少女は小さく語りかけた。
(だめよ。アニス。彼の厚意をはねつけちゃダメ。幼馴染でしょう?)
  娘はいやいやながら若者の方に向き直った。
(送ってもらいなさい。小さな事でしょう)
「そうね、こんなの何でもないことよね」
  重い手足を引きずるようにして、娘は若者の無骨な白い車に乗った。それは若者の人柄を表して実務的な洗練されていない車だったが、手入れはきちんとされており、日向のにおいがしていた。井戸端に置きっぱなしにされていた小さな自転車は若者が車の荷台に詰め込んだ。
  ものの15分も走らないうちに、娘の家が見えてきた。その少し手前で若者は車を止め、自転車を下ろして娘に渡そうとしながらわずかにためらうようにした。
「あの・・・」若者は口を開いた。
「よければ今夜。友達のうちで集まりがあるんだけれど、一緒に行かないかな? いつもならばこんな風にお願いする事はないんだけれど、今夜はちょっと特別だから」
   特別という言葉に反応して、娘の眉がひそめられた。
「せっかくだけど・・・・」何か警戒するような口調で言う。
「行け・・・・」
(いいえ。アニス)風の中で何かがつぶやいた。
(行くのよ)
「・・・・行くわ」
  そのまま娘は家のほうへと駆け出した。娘が混乱している様子を少女は感じ取り憐れんだ。
「今夜。ジョゼフが迎えにくるから」
  母親に言いながら娘は何か落ちつかな気に首元をさすった。
「どうしたの? アニス。あなたはジョゼフを避けていたんじゃない?」
「そういう訳じゃないわ。ああ、喉が渇いた」
  言いながら娘は夕食時でもないのに自分で葡萄酒の栓を抜き、一気に何杯かあおった。母親が止める暇もなかった。なぜかそうしなければならないように思ったのだった。
「じゃあ、支度してくるから」
  そう。だって、今は春だから。そう思いながら自分の部屋に戻ると、すきっ腹に葡萄酒の効果はたちまち現れ、ぐるりを部屋全体が回ったような気がして寝台の上に転がり込んだ。少し疲れた様な気がしていた。ほんの少し。少しだけ目をつぶって、休んでもいいだろう。そう思いながらゆっくりと目を閉じる。
  娘は窓からそっと入ってきた人影が、優しく自分の身体を寝台に入れて、自分の着るはずだった洋服にするりと袖を通し、軽い足取りでドアから出て行くのを知らなかった。




  ジョゼフが呼びにきたとき、アニスはすっかり支度を終え、綺麗にめかしこんで彼の元へ駆け寄ってきた。花の香り、甘やかな風。だって季節は春だから。アニス自身も花のようだった。
  ちょっとしたパーティの夜。ジョゼフは仲間たちにアニスを引き合わせ、彼らも暖かな歓迎と眼差しで二人を見つめる。春の夜。春のパーティ。心地いい会話。虹色の光。頬を紅潮させて。
  アニスはため息をついた。
「退屈なのかい?」
  ジョゼフが訊いた。
「いいえ。素敵な夜だと思って」
  うっとりとアニスが言った。
「何だか、君は・・・」
「なあに?」夢見心地でアニスが言う。
「何だか君はいつもと違っているように見えるよ」
  まるで別の人のように・・・。アニスはくすくすと笑った。
「ええ。全然別かも」
  突然ジョゼフが一歩だけ娘から離れてまじまじとその顔を見つめた。
「君の目・・・」それから言った。「どうもわからない」
「私の目?」
  アニスは悪戯っぽく問い返した。
「いいや。なんでもない。もう遅い。君のご両親がそろそろ心配するだろうから。送っていこう」
  若者は娘を導いて車の方へ行った。車に乗り込む前に、若者は立ち止まり、アニスの柔らかな目を見つめて言った。
「アニス」その声はアニスの、いやアニスの姿をした少女の心にまっすぐに染みとおった。
「アニス」優しい声に、少女は青ざめて若者の瞳を見返した。
「ずっとずっと。まだ小さな子供の頃から、僕は君が好きだった。たぶん。君は気がついていて、だから僕を避けていたね」
   少女は瞬きもせず若者を見つめていた。
「だから。今晩誘ったのは、単に昔のよしみというか、思い出のひとつというか、記念写真のもののような気持ちだった。それ以上でもそれ以下でもない。
  だけど、迎えに行ったとき、君が僕の元へ駆け寄ってきた時、君は何というか違ったように見えたんだ。今までの君とはがらりと違って。柔らかくて、優しくて、真新しい服のように綺麗で――」
  そこまで言って若者は自分の言葉に赤面した。
「僕はまた君に、その真新しい君に恋をしてしまったような気がする・・・・」
  アニスの口元が震え、何かを言いかけようと開き、それから噛み締められた。
  ジョゼフは娘に近寄り、その頬にそっと手を当てて言った。
「僕は遠くに行かなくちゃならない。牧場の経営も思わしくないから、親から離れて遠くに就職する事にしたんだ。その方が稼ぎがいいし、そうすれば少しでも助けになるからね。
  アニス。僕がいなくなったら、寂しく思ってくれるかい?」
「寂しい・・・」
  少女は答えた。寂しい、寂しい、寂しい・・・。すると娘の気持ちが伝わったかのように、若者が身体を傾け、そっと唇で娘のくちびるに触れていった。少女の震えている、不思議なくちびるに。
  そしてはっとしたように、身体を離した。
「君は・・・・」
  それから何度か首を振って、弱々しく娘を見つめた。
「何?」とアニスが訊いた。
「なんでもない。さあ、送っていこう」
  車に揺られながら、少女は思った。今のくちづけも、さっきの言葉も、自分に向けられたものじゃない。すべてアニスに。あの林檎の頬をした、生気溢れるあの娘のもの。そうわかっていながら、少女は思った。でもキスしたのは私の唇。見つめたのは私の目。
  なぜ私は私たちのくちづけをこの人にしないんだろうか。
「ジョゼフ」
  沈黙を破ったのはアニスだった。
「約束して欲しいの。今日の、今夜のことを絶対に忘れないで欲しいの」
「そりゃあ、もちろん」
「一生?」
「どうしたの?今日の君は・・・・」
「一生、忘れないで」
  若者はいぶかしみながらも、娘の眼差しの中にある哀しみに心を打たれた。
「お願い・・・」
「わかった」
  若者の言葉を聞くと、娘は今度は自分から身体を寄せ、若者の唇にくちづけした。羽のように軽いくちづけだった。若者は娘から身体を離すと、その目を見つめその奥をじっと覗き込んだ。若者の表情からいぶかしげなものが消え失せ、和らぎ優しいものとなった。この新しい、やさしい、羽のように繊細なアニス。これは自分に訪れた、この夜一晩の感傷の見せる自分の夢の中のアニスなのかもしれない。不用意に触れてしまえば消えてしまうような。若者はそのまま彼女に触れることなく、ただ唇にやさしい微笑を浮かべた。
「さようなら。アニス」
  そうして若者は去っていった。




  後には少女がただ一人。自分のものではないドレスをまとい、月明かりに照らされてひとりぼっちで立っていた。
  私のものじゃない思い出。私のものじゃない記憶。でもあの人は私に気がついたわ。いいえ。そうかもしれないと思っただけ。日向の匂い。人間の、土と生命に溢れた匂い。
  あの人は、あの子の、妹の騎士とは違う。日を追いかけて、時間と共に歩みを進めるのが似合っている。夜に属し、人間とは異なる生を生きる私たちとは違う。
  恋しい、少女は思った。共に連れて行くのは簡単だが論外だった。彼はアニスを見ていただけ。アニスの間に見え隠れしていた私に興味を持っただけ。朝(あした)に起き、夜に眠る健やかな生。野性の花と同じように、無理に摘んで連れて帰ったら、彼は彼ではなくなってしまう。それだけはわかった。
  。――少女はその場に蹲り、春の夜のただ中で一人声を押し殺し、すすり泣いた。





END



2009.04.10

ちょっと変わったものを書いてみたくて。ブラッドベリへのオマージュ。
  続きがあるような、無いようなお話。こうやって知らないうちに翼手たちは人間の血を貰っていたりして。それでほとんど意識しないうちに=ある程度、吸った相手の意識を操作できるから:その傷口は治っていて気がつかれることもなかったりして。私的吸血鬼モノ。(でも『BLOOD+』の世界観で)

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