それは一年で一番穏やかな季節だった。人々は街中のそこかしこに市場をたて、都は活気に満ちている。特に今年は祝祭の年とあれば、あちこちから巡礼が、また芸人やら商人やらがこぞってこの神々の社が集う都へとやってくるのであった。寺院の打ち鳴らす鐘の音が遠い山々にこだまする。
   舞手、軽業、格闘士の数は百余にもおよび、人々は未だ見ぬ世界の様々な香気に酔いしれていた。都は数多くの神殿に溢れており、今はどの神殿も一番奥に位置する黄金色の輝く神殿の祝年にあやかろうと、こぞって山車を繰り出し祝りはふりを始めていた。
   祝祭の日々のただ中であった。その旅人がやってきたのは。一頭のやせ衰えた騾馬らばに乗り、破れた衣をまとい、それが無ければ単なる物乞いと思われていただろう古びた月琴(阮咸)を後生大事に抱え、その旅人は城壁を通り、最奥の神殿にまでやってくると、磨き上げられた階段の下で警備の兵士に遮られた。
「私は」と旅人は言った。そのかすれた声は頭から被っている衣の奥にくぐもって、男の声にも女の声にも若者の声にも年寄りの声にも聞こえた。
「長い年月、様々な土地を流離ってきた楽師歌舞をする者です。こちらでは何十年かに一度の祭事があり、世々の技を持つ者たちが広く集っているとか。そこで是非とも私も、せめて唄の一節、舞のひとさしをと思い、遠くの地よりはせ参じました」
   兵士がそれを神官に伝えると、神官らはいたく興味を引かれて早速にその者の歌を聴こうということになった。すでに祝祭の日々は幾晩も重ねられ、さしもの神官たちも歓楽に飽きつつあったからである。折りしも地平ではその日の名残が消えていくところであり、山影にその最後の茜色の光を投げかけているところだった。
   忍び寄ってくる夕闇の中で旅人は神殿の外に騾馬を繋ぎ、兵士らに案内されるまま神殿の奥深くに通された。神殿の奥のそのまた奥では、一柱の神がその記念となる年を迎えて鎮座ましましている。
   燭台に油が注がれ、灯心には火が灯された。宴たけなわの広間の中央は旅人のために空けられ、この襤褸ぼろをまとったみすぼらしい旅人が引き起こす、何がしかの刺激を今か今かと待っていた。大半のものが旅人の歌舞に期待を寄せてはおらず、ただ彼が引き起こすだろう嘲笑と揶揄が、この宴にわずかな香料となるかもしれないとの期待を持ってのことだった。




   旅人は彼らのあざけりの空気に全くの無頓着だった。彼は琴を取り上げると、調子を合わせるためにいくつかの和音を響かせ、調律をし、それから改めて抱えなおした。
   旅人の右手が空気のように動くと、月琴の弦が瑠璃の響きを発した。その音のあまりに澄んだ響きに、宴の物音が一瞬、静まり返った。
   空気を震わせて、楽師が来る。艶やかな楽の音を響かせて。再び弦がはじかれると、旅人の喉からそれに合わせて歌が流れ出た。若い女の澄んだ声だった。弦の音が瑠璃ならばその声は鈴の音であり、二つは唱和して夜空の中に澄んだ音を響かせた。異国の、意味の分からぬ言葉。それさえも曲の美しさを際立たせる一要素に過ぎず、呪文のように不可思議で、謎めいた雰囲気を聴き手に運んできた。
   歌い手もまたひとつの楽器のようだった。琴の音に合わせて正確無比に奏でられるその歌は、神殿にいる者たちの間を響き渡り、一瞬彼らに自分たちがどこにいるのかも忘れさせた。それは砂漠に吹く黒風のように荒々しくもあり、春の泉のように清々しくも優しくあった。それは言葉にせずに紺碧の天に流れる星々を歌い、群青の海の荒々しさとそこに潜む神秘を歌い、野の花のかぐわしさを歌い、雨の慈愛を、太陽の激しさと美しさを歌った。
   神々のようだ、と誰かが思い、それから自分の考えに呆然とした。それほどまでにその歌は神々しく、清らかで、彼らの精神を満たしていた。
   いまや歌い手は深く被っていたその汚れた被衣かつぎを取り去り、その面をあらわにしていた。薄紗で髪を覆い、玉と瓔珞でその身を飾り。しかし、その瞳の中に輝きほど美しい宝玉は無く、その肌ほど細やかになめらかなものは無く、その唇ほど麗しくも紅いものは無かった。娘がその白い腕をはらりと翻すと、襤褸切れのような外衣がするりと抜け落ちた。娘はゆるく胸を覆う布と、ゆったりとした洋袴しか身に付けていなかった。娘が一歩を踏み出すと、鏘然しょうぜんと髪の薄紗を飾る歩揺ほようが鳴った。次いでもう一歩。そして腕が上がり、その指が天を指し美しく周囲を巡る。娘は身体を傾け、音律によって足を踏みならし、歌いながら旋廻した。薄紗と共に髪がなびき、腕につけた金環が間奏を奏でた。娘の視線が嫣然と民衆に流されると彼らは一瞬息を呑んだ。娘の動作すべてがその場を支配している。それは非常に簡素でありながら優美な舞踏だった。高まる歌と共に歩揺が鳴り、金環が響く。
   娘の容貌は異なる空の下の遠い月を思い起こさせた。神々もかくやと思われる美しい娘。見たことのない美。異国の歌。異国の風。異国の神の娘。その歌と舞。
   不意に旋律が一際大きくなったかと思うと、月琴が銀のさざなみを奏で、娘が美しい声で最後の一節を歌い終えて琴の共鳴をゆっくりと押さえた。――静寂が広間を埋め尽くした。娘の歌声の、その余韻だけが列柱を廻り、壁に共鳴して流れていった。人々は娘の歌舞をこぞって讃えればいいのか、それともそのあまりの完全さに畏怖すればいいのかわからずに、沈黙を守っていた。娘は自分の歌が終わっても、わずかほどにも息を乱さず、ただ彫像のように黙って立っている。うつむきながら。何かを待っているように。
   やがて沈黙を破るように神官長が立ち上がり、一つ、二つ、賞賛の拍手を送ると人々の間からまばらに拍手が沸きあがり、次第にそれが広まり始め、最後には割れるような拍手となって神殿すら揺るがしかねない音響となった。娘は自分の歌舞が値を払うに相応しいものとして、受け取られたことを知った。
「望みのものを」
と神官長が言った時、娘は月琴を胸に抱き、元の襤褸布で肩を覆い、彼の前にひざまずいた。
「私の舞など、この神殿におわします尊き御方に比べれば、いと小さく何の価値も無いものでございますれば。私には今のお言葉で十分でございます」
   その言葉は神官長の心に適っており、彼は満足と共に再度言った。
「何者も自分を低くするものは高くされ、自分を虚しくするものは満たされるものである。望みを申すが良い。叶えてしんぜる」
   再度の求めに娘はようやく顔を上げ、神官長の瞳を見つめて言った。
「何でも宜しゅうございましょうか」
「何であっても叶えてとらす」
   異国の娘は流暢なこの地の言葉で神官長に語り、人々はそれを支持した。そのために神官長は気がつかなかったのである。自分の言葉が翻すことのできない誓いとなっていることを。おまえの望みを叶えよう。それが何であったとしても。
   それでは。と娘は言った。
「この神々の住まわれる都の奥深く。一柱の生ける女神がいらっしゃると伺ってまいりました。時を止め、力を持ち、美しさに満ちた神がおわすと。私も楽師の端くれ。この世の語りに是非ともその神の御座の前、御目の前にて歌を歌い、舞を奉納させていただきたく・・・・」
   神官長は眉をひそめた。
「それならばここで十分ではないか」
「いいえ。御神は今年目覚め給われたと。これはそのための祝祭であると聞き及んでおります。目覚められた御柱の前で是非とも我が舞のひとさし、歌の一節を」
「神を見る者は目が潰れるというぞ」
   神官長が言ったのは、己の言葉が己を縛ってしまった事に気がついたから。そうして娘を怖がらせて自分からこの申し出を取り下げるよう仕向けたかったからだった。
「構いません」
「おまえは神々のなんたるかを知らない。神は気まぐれにおまえをお取りになるかも知れぬのだぞ」
   しかし、娘は言った。
「私はそのためこそに、七つの海を越え、千もの頂を越えてこの地に到ったのです」
   神官長は青い顔をして人々を見回した。すべての人が神官長の言葉を聞き、その誓いを知っていた。ついで神官たちを見ると、こちらは恐怖に満ちた目で、こちらを見つめている。神官長の誓いは神聖なものであり、破られる事は凶事を意味していたからであった。ついに神官長は言った。
「望みを叶えてつかわす」




   こうして彼らの神の小さな社は、奥殿の帳から引き出され祭壇の上部に据えられた。黄金の御簾が開けられ、その前に几帳が置かれる。さらに祭壇の下方には人々から一段高い壇が設けられ、その上には円盤が。こうして人々が見ることの叶わぬ高座の上に、娘の舞台が設えられたのだった。しかし若い神官はともかく、神官長は知っていた。彼らの神は、決してやさしいばかりの神ではないことを。目覚めに応じて、生贄の血をも求める神であるということを。
   最初に祭壇の前に導かれて出てきた娘の姿を見て、人々はその変貌に息を呑んだ。娘の目は真っ白な布で覆われ、そこからは未だに止まらぬ血がじわじわとにじんでいる。神官長の言葉通り、神の御座の前で歌を歌い舞を舞うことと引き換えに、娘は目を潰されていたのだった。
   足元もおぼつかなげに引き出された娘は、他人の手を借りてようやく階段の上、急ごしらえの舞台の上に辿り着いた。円盤の中央に残された娘は、しかしにこやかに口元には微笑みさえ浮かべ、神官と鎮座まします神だけが見守る舞台の上に立っている。銅鑼が鳴り、始まりを告げた。月は夜空の中天にさしかかり、星々すら固唾を呑む夜だった。
   娘はその時までその肩を覆っていた襤褸を投げ捨てた。その覚束無い足元が、月琴を掲げて一掻きしたとたんに一変する。娘の声は前に聞いたときよりもさらに透き通り、その琴の音は益々冴え渡った。音の一つ一つに輝きが満ち、力がこもる。と、その時、娘が身体を旋回させた。盲目であるというのに娘の動作は目が見えているときと同様、優雅で洗練されたものだった。娘はある時は激しく、またある時は優しく繊細に琴の弦を掻き鳴らしながら歌い、それと共に身体を揺らし足を上げ、また踏み鳴らして足をさばいた。それは闇夜の中の星の光であった。夜に群がる蝶の舞であった。細い三日月の鋭い刃のようであった。
   祭壇の下から、人々はただ娘の歌声のみを耳にするだけであったが、神官たちは違った。彼らは娘の歌を聴き、そして舞を見た。彼らの神に捧げられる娘の祈りを感じた。微かに神の几帳を揺らす娘の澄んだ歌声は、銀と瑠璃、夢と目覚め、誘いと導きに満ちていた。彼らは娘が彼らの神に語りかけているのを知った。彼らの神を乞い、神を敬い、神に捧げる。捧げられているのは娘の存在そのものだと知った。今この瞬間、娘は神を奉る神官たちよりも、深く深く、彼らの神と結びついていることを彼らは感じ取っていたのである。彼らは何も言えず、また指一本も動かす事ができなかった。
   娘の舞踏は長い時間続き、娘の歌もそれに合わせて金銀の輝きを振りまいた。夢が現を歌い、また現が夢を破った。月が真上に輝き、そして山の端に傾いていった。やがてうっすらと闇の中に紺碧の色が交わり始めた頃。旋律が響き娘の足が円盤を高らかに踏み鳴らし、目を奪う舞踏にもようやく終末の兆しが漂い始める。すると娘はその髪を覆っていた薄紗を取り払い、地面に投げ捨てるようにした。歩揺が地に落ちて蕭然と鳴り響いたかと思うと、娘が付けていた飾爪がその手首を切り裂いた。細く血の雫が滴った。瞼の血潮と手首の血潮。娘は歌いながら身体を低く伏せるようすると、腕だけを高々と掲げて生神の鎮座まします几帳の向こうへと差し伸ばす。赤色の雫は舞台に落ち、深紅の血溜りを形成した。それから娘は長い長い呼吸で、最後の音をその細い喉から搾り出した。まるで全てを捧げつくすかのように。音が彼女であり、彼女自身が願いだった。歌の最後のその音が神殿の壁にこだまして銀波のように流れ落ちる。
   その時、静まり返った几帳の向こう側でひっそりと何かの物音がした。神官たちはぎょっとしたようにそちらの方を振り向いた。彼らの神は血と力の神。祭壇の下では人々が不吉な予感めいたものに動かされて息を凝らして待っている。




   やがて小さな衣擦れの音。ため息のような気配。それが社の内側から届き、何かの気配がゆっくりとその尊き御座所から動いていくのが感じられた。社の帳が動き、小さな足が磨き上げられた祭壇を踏みしめるかすかな音がする。いとも無造作に綾織の几帳が破かれた。
   そこに立っていたのは一人の少女だった。頭から足先まで、金糸で綾織られた絹と磨き抜かれた宝玉とで飾り尽くされ、胸には瓔珞。目には朱の隈取。額には染料で祝福の呪文が描かれ、同じ文様が両手足の甲にも施され、手足には金環。足もとは金のサンダルを履いていた。雪白の肌。黒曜石の瞳。これこそ彼らの神だった。30年に一度の目覚めの時を迎えた力ある神。美と破壊の永遠の乙女の神。その沼のように深く、何の感情も映さぬはずの瞳が、今はひたりと娘に向けられていた。舞を舞い終わったばかりの異国の娘。神の御前にかしずくようにひざまずいている娘。娘の手と目元からは血が滴っている。
   少女の姿をした神は、ゆっくりと一歩一歩、その歩みを確かめるようにして娘に近づいていった。最初はおぼつかなげだった足取りが、次第にしっかりと目的を持ったものに変わっていく。神は娘の前に来ると、二、三歩離れた位置でしげしげと娘を眺めて小首を傾げた。
   絹と玉で飾り立てられ、力ある化粧を施されているにもかかわらず、神官長は自分たちの神が目の前の娘と瓜二つと言っていいくらい、よく似ていることに気がついた。雪花石膏アラバスターの肌。黒檀の瞳。異国の麗しい容貌かんばせ。姿かたちが似ているだけではない。その持つ雰囲気といい、かもしだす空気といい。次に何が起こるのか誰にもわからず、神官たちは祭壇の下にいる民衆共々固唾を呑んで見守ることしかできなかった。少女の形をした神は一種の野生の獣のように、娘の流した血を見るとその赤い舌で艶やかな唇を舐めて潤した。明らかに娘の血が少女の興味を引いたようだった。極上の生贄。自ら捧げられることを望んで。いつの間にか神の瞳が娘の足元にある雫と同じ、深紅に染まっている。神という名の獣は娘の顔を持ち上げて、その頬をやさしいともいえる手つきで撫で上げた。しばらく少女はそうしていたが、おもむろに娘の細い顎を傾けると、そのむき出しの喉下に鋭い歯を当てる。かすかな音が娘の喉から漏れた。
   娘の血は尊き神の喉を潤し、渇きを癒し、身体と精神を満たしていった。神の唇を喉に受け、娘の顔には徐々に恍惚とした表情が現れる。何人かの神官がその凄まじい光景に顔を背けたが、神官長だけはこのことが果たして吉兆なのか、凶兆なのか、いぶかしみながら、奇妙な冷静さでその状況を眺めていた。彼は娘が神の御前で舞いたいと申し出た時から半ばこのことを予感していた。神が、自分たちの生きている神が、自ら望んで捧げられた、この若い女を摂り込んでいる。神の口の端から娘の血潮が滴り落ちると、娘の腕が上がって少女の身体を抱きしめた。
   神のくちづけは長い時間続き、やがて満ち足りた表情で少女は娘の喉から口を離した。目元の朱金同様に、その口元が朱に染まる。陶然と神の為すままに我が身を与えていた娘が、その時顔を上げた。布に覆われ血に染められた娘の眼を、同じ赤に瞳を染めて少女はじっと見つめていた。
   娘が彼らの神に向かってささやいた。
「お探ししました」
   何年も何年も。この地上の半分を覆うくらいに。その口調には熱がこもり深い想いを秘めており、娘が過ごしてきた歳月を物語っていた。
「お迎えにあがりました」
   そう言った娘の目から汚れた布が捲れ落ち、次の瞬間その姿は娘の形をとどめていなかった。そこにいたのは背が高い、一人の若者だった。なめらかなその首筋には血の跡さえも残されてはいない。少女の眼と彼の瞳。朱と黒と。二つの瞳が交わった。
「遅い」
   と言いながらも、少女は笑みをこぼした。
「待っていた。何年も何年も。幾度の眠りの間も。意識の奥底で。まどろみながら」
   恭しく、若者は少女の手の甲に口付けを落とす。それから二人は見つめ合い、固く固く抱き合った。まるで一対の神像のように。
   その時、ようやく白み始めた東の空から、一筋。朝のまばゆい光が神殿の窓を刺し貫いた。明け染めの光。そのまぶしさに彼らの姿が一瞬人々の目から見えなくなる。肉を断つ音と共に大きな翼が羽ばたく音が聞こえたように思え、次の瞬間。彼らの姿はその存在さえも人々の前から消え失せた。




   祭りの名残はそこかしこに残り、だが主はおらず。後には古びた月琴が一本、持ち主のないまま転がっているだけであった。





END



2009.01.16

   お正月早々、血みどろなものを書いてしまいました~~。反省。
   またしても『BLOOD+』のキャラクターは全く登場せず。翼手の女王を騎士が迎えに行く話でした。血まみれだけど、ハッピーエンドということで・・・許してください。

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