そういうものの存在を知ったのはいつだったか。私は覚えていない。私の記憶は人間の想像つかないほど長きに及ぶ。私の種族そのものも様々な名前で呼ばれてきた。すなわち、化けもの、悪鬼、吸血鬼、あるいは翼手。
   その私でさえそういうものの存在は人伝えでしか聞いたことがなく、ましてや実際に自分がその存在と出会おうとは思っても居なかった。

   『それ』は女の形をとって、物悲しい夕暮れになると、淋しい魂を求めてこの地上に降り立つという。そしてその淋しい魂が好む姿に身を変えて、完全なる慰めをもたらすのだ。代わりに『彼女たち』はその魂の持つ最期の輝きを求め、捕らえ、吸収し、自らのものとして摂り込む。淋しい魂は『彼女』の中で永遠の満足と平安の中にひとつになっていくのだ。それは永遠の安らぎを得るための代償と言っていいのだろう。『彼女』に出会った者は、このしかるべき代価を払って、『彼女』の与える慰めを(たとえそれがひと時のものであろうと、慰めを求めるものにとって、『彼女』たちの与えうるもの以外の何がこの世に意味をもたらすであろうか)得るのである。また『彼女』はそれを求める魂を求めて、この世を彷徨っているのだとも伝えられる。淋しい魂、すなわち死に焦がれる魂を。
   私がこれから語る話は、『彼女』についてのこと。私が『彼女たち』の一人にどのように出会ったのか、そしてその出会いがどのように終わったのかを語ったものである。




   その時、私は私の属すべき女王が眠りに入ってからの長い時間を、一人きりで過ごしていた。朽葉色の秋の気配が色濃くあたりに立ち込め、残照は半ば崩れた城壁を淋しく照らし出している。昼の時間が過ぎ去り、夜の時間の匂いがした。
   その光は薄ぼんやりとした影の中を、今にも途切れそうな光を放ちつつ、不安定な揺らめきで土台石のひとつに降り立った。一瞬季節外れの蛍かとも思われたが、見守っているうちに、光は粒子を大きくし、円錐形の流体となり、やがてそれも崩れて中から一人の美しい女性の姿が現れた。純白の衣服を身に着け、折れそうな細い身体に亜麻色の髪。およそ考えられるすべての美しい要素を寄せ集めて作られた人形のようだった。女は辺りを見回して誰もいないと悟ると、その石に座り込み、顔を覆ってさめざめと泣き始めた。人間ではない私でさえ哀れをもよおす声だった。
   不意に私は好奇心に誘われ、あるいは女王不在の無聊を慰めるためにか、女の前に姿を現した。彼女にとって人間以上の移動速度を誇る私は突然現れたように見えただろう。女はびっくりして泣き止み、涙をぬぐいもせずに私を見上げた。
「あなたはどなたなのですか? 今の今までここには私しかいませんでしたのに」
   想像通りその声も驚くほど美しく豊かだった。わずかに古びた言い回しが、その女の古典的な美貌を際立たせた。
「何故泣いていたのですか?」
「ここには私しかいないと思いましたし、自分の感じたものが、実は間違っていたと知ることは悲しいことですもの。それに、私はとても疲れ切っています」
   それが『彼女たち』特有の手練であったとしても、そのときの彼女は非常に疲れ、また嘆いていたことは確かだった。私は彼女を慰めたいと思った。私の女王は既に眠りの中にあり、私は自分が何をしたいのか、あるいはすべきなのか、見失っていたのかもしれない。私は彼女の手を取って、自分の「ねぐら」へと導いた。
   私の女王が眠ってからは、私は落ち着く場所を必要としなかったが、人間たちに溶け込む必要に迫られればそれなりの住まいを整えなければならなかった。彼女を導いたのは、その中の一つだった。彼女は私の「家」に入ると珍しそうに辺りを見回した。
「ここに住んでいらっしゃるのですか」
「ええ。たぶん」
「たぶん?」
「当分ここに住む事になりそうだと思ってね」
   ほとんど人の気配がなかった場所に、女は微笑んで言った。
「ここには、その。あまり・・・あなたの匂いがしないものですから」
   『彼女たち』の嗅覚は鋭い。しかし私は彼女に笑いかけ、年代モノの葡萄酒の栓を開け、それから簡単な食事を作ってやった。「人間らしい」食事をするのは久々だった。私は人間の男のように良く食べ、しかし彼女はほんの少ししか口にしなかった。彼女の主食がなんであるか、私は知っていたが黙っていた。どのみち彼女がその主食を摂ろうとする時はまだ来ていない。
   食事を共にすることによって、私たちの間にはまるで旧知の仲のような打ち解けた雰囲気が漂い始めた。女は柔らかな声で私の名を問い、自分の名を語った。女は自分のことを話すよりも私のことを聞きたがった。どうしてここにいるのか、何をしているのか、どんなものを好んでいるのか。私は当たり障りのない話をして、適当に場を盛り上げようとした。長い年月生きていれば、その場その場にあった会話の処し方がわかってくるものだ。
   しかし女はそのままじっと、その大きな目で私を見つめて言った。
「あなたの中には私の理解できない空虚があるのですね。それは私が知るどんな人間にもないもの。あなたは確かに人間なのに、それなのにどうしてでしょうか。私たちのように、人間の生を超えたところにある一種の平穏と喜びと虚しさとを知っているような気がする」
「あなたは正しい」
   それ以上何も言わずに私はただ微笑んだ。すると女は黙って立ち上がり、私の前をすり抜けると、この家の寝室に当たる部屋へ滑り込んだ。鍵はかけられていなかった。彼女の「儀式」が始まったのを悟って私は彼女のあとについて寝室に入った。扉は閉めなかった。
   女は寝台の上に腰かけて、私を見上げて言った。
「私はあなたを慰めたいと思うのです」
   食事も葡萄酒も、私の身体に熱を注ぎ込むことは決して決してない。にもかかわらず私は自分の皮膚の下に熱を感じ、自分の胸の下に飢えを感じた。女が白い腕を差し出すと私は引き寄せられるように彼女を抱きしめた。彼女たちの能力が私のようなモノの上にも有効だとは思わなかった。いや、そうではない。私は単に人恋しかっただけかもしれない。女王の不在は長く、だが私は未だ好奇心に溢れ、女王不在の無聊を慰める伝手を心底求めていた。そして私の女王は自分の騎士がこういう楽しみを求めることを認めている。


   女の唇は甘く鋭く、その白い腕は柔らかく頼りなく、だが決して私を放そうとはしなかった。女の声の中に私は自分の高ぶりを感じ、女が呻き、身を捩るさまに自分の喜悦を感じた。女の肌を自分の牙で傷つけないように気をつけて吸い上げてやると、女が甘い吐息とともに潤んだ瞳で見つめてくる。女は私を暖かく抱きしめ、柔らかく締め付け、離さぬように絡みついた。
   あくる朝、太陽が昇ってくる角度を数え上げ、私は身を起こした。女もまた眠ってなどいないことを私は知っていた。だがその事実を私が知っていることなど、おくびにも出さずに私は女に微笑みかけた。
「あなた」女は言った。「私はあなたの慰めになったでしょうか?」
   おずおずとした問い掛けは媚薬のように効いた。
「ああ。私は君に満足している。こう言えば君が満足すると思ったからではなくて、心から」
   すると彼女はほっとしたようにため息をつき、再び私に寄り添うように身を寄せた。




   それから数日。私は不思議な夢の中にいるようだった。まるで遠くの自分自身が自分に呼びかけてくるように、人間だった頃の自分の記憶が私の感覚を呼び戻している。最初は何の変化も無かった。夜毎の交わりの他には。女は私のためにわずかな食事を作り(二人とも少ししか食べなかった)、私の好きな詩を朗読し、私が好む歌を歌い、身の回りのものを整えた。私の生活は彼女の喜びに満たされ、今では見ることのない夢に似たものを感じ始めた。だが私はまた知っている。彼女たちのようなモノは、自分たちが吸い取る生命の見返りとしてこの夢の日々を提供しているに過ぎないと言うことを。彼女は私の命を掠め取ろうとしていることを。けれども日毎に彼女の腕は優しくなり、彼女の唇は甘くなり、そのくちづけは抗いようのない悦びに満ちていった。快楽の洗礼。夜毎の情熱。そして来るべき究極の忘我。
   これは何と言う感情なのだろうか。愛ではない。愛ではありえない。私の愛はすべて私の女王に捧げられている。しかし。この愛に似た何か。
   彼女は私のこの葛藤を知らず、しかし私を抱きしめて優しく愛撫した。その無知と献身に、私は彼女を固く抱きしめる。そうして私たちの日々は、私たちの周囲にはためいているのだ。彼女は私にとって、ただ一つを除く、すべてのものであった。そう。ただ一つを除いて。
   彼女は赤ん坊であり、母親であり、娘であり、恋人であり、友であった。また責め苦であり、炎であり、真珠であった。私は大いに慰められた。その果てにある究極の慰めを、その日々の中に見出すまでに。どうしてそれを見てはいけないのか。私たちにとって、生命はかりそめであり、女王の不在は私たちの存在を虚しいものへと変える。
   しかしまた私にもわかっている。これは。この日々こそかりそめのもの。私たちのようなモノは常に心の奥底に一つの存在を抱いているのだと。そのことを除き、私は自分自身がまるで人間の男たちと同じように、彼女の魔力に取り込まれつつあるのを自覚していた。時が日を刻むごとに、自分の体力とでも言えるものが衰えてきたからである。
   けれども一月の期間が過ぎた頃、女は私の腕の中からその潤んだ瞳で私を見つめて言った。
「あなたのような方は初めて。私の愛にこれほど耐えていらした方はいませんでした。それにあなたの中には普通の人間にはないものがあります。教えてくださいませんか? 何があなたをそのような存在にしているのでしょう」
「私のようなモノの話を聞いたことがないのかね?」
   彼女は首を振った。これは奇妙なことだった。私のほうは彼女のような存在を知っているのに、彼女の方では知らないとは。だが私は言った。
「よくご覧。私はある意味死んでいるのだよ。私たちは私たちの女王によって生命を与えられたもの。私が君の触れる時、私の手の冷たさを君は感じないか?」
「よく・・・わかりません」
「私たちは私たちの女王が眠っている間、その眠りとともに死んでいると言ってもいい存在なのだ。だが私のことなどどうでもいいこと。今は女王の眠りの時であり、私はできるだけ君を喜ばせたいと思っている。
   さあ、私にくちづけしておくれ」
   けれども女は首を振った。
「これは契約なのです。私は私の持ちうるすべてのものであなたを慰め、そしてその代わりに最後のものを摂るのだと」
   そのとたん、女の髪の色が変わり、女の顔立ちが変化した。私の心の中、見慣れた、慕わしい・・・。いや、それは女であった。それでいながら――。
「私の女王・・・」
「さあ」女王は言った。
「今こそ心の底に秘めたあなたの望みを、あなたの真に求めるものを・・・」
   私の心の底にあった、神聖で侵しがたく、絶対的な存在。私の存在意義。私の女王。このようなものを望んだことはない。いや、それとも自分の気がつかないところでそうなのだろうか。だが私の願望などどうでもいいことだった。私の尊い、いと高き存在――。
   私は両手を彼女に向かって差し伸べた。女は微笑んでいた、最後の最後まで。私の口元に牙が煌めき、彼女の受肉された女の身体に牙をたて、その首元を喰いちぎりながら私はむせび泣いた。腕の中の存在が光の粒子となり、地面に吸収されるように落ちていくのを感じながら。
「なぜ。この姿になった? この姿でなければ、私は君を手にかけることはなかったのに」
   唯一の絶対不可侵の存在を。私は彼女を思って泣いた。彼女と過ごした日々のことを思って、私の女王のことを思って。そしてこれからやってくる日々の虚しさを思って涙した。




   『彼女たち』が私たち女王の騎士のことを知らなかったのも無理はない、と私は思う。『彼女たち』はその習性から相手の真に望むものの姿を取る。そして心に女王を抱かぬ騎士が在るだろうか。『彼女たち』と騎士の邂逅はすべて『彼女たち』の消滅で幕を閉じる。
   女王を冒涜された騎士がその義務を果たさぬことはない。

   こうして私の物語は終わる。私は今でも、もしも彼女が私の女王の姿を取らなかったらどうなっていたかと考えずにはいられない。この私の、人間のものではない生命を、彼女に投げ出していたのだろうか、それともやはりこの手で彼女の滅ぼしていたのか。だがもはや時は過ぎ去り、彼女はただ私の想い出の片隅に存在するのみである。我々騎士は女王の存在なくして存在し得ないものなのだから。
   妖女、泣き女、ローレライ、キルケー、リリス。夕暮れ時になるとやってきて、夜を過ごすモノ。その呼び名もまた私たち種族同様、様々に存在する彼女たちの種族。彼女はこうして私の思い出だけに残り、またひとつ、私たちの種族の間で『彼女たち』の伝説が増えた。想い出はまた私たち種族にとって、永遠の面影を刻み付けるからである。





END



2008.10.29

   「色っぽいものを書く」というテーマでハジ小夜を書いてみたのが『静寂』だったのですが、ハジ小夜でそういうモノを書くのが妙に私には難しかった。そうしてその七転八倒の副産物として出てきたのがこの話です。ヘタレなシュヴァリエを書いてみようと。。思ったのかどうかは既に憶えてませんが、色っぽい話を目指してみました。
   ハジでもネイサンでもそのほかのシュヴァリエたちでもなく。『BLOOD+』のキャラクターは全く登場してません。『BLOOD+』の世界を借りたオリジナルと考えていただいて良ろしいかと・・・。相変わらず奇妙な話ですみません。。。。。

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