1934年 冒険家であるスウェン・ヘディンは、長い間携わっていたロプノール周辺における発掘のためにその地に留まっていた。




   以前は砂漠の大地だった場所に、今は満々と水を湛えた湖が出現している。ロプの大地に湖が戻ってきたのだ。彷徨える湖の、コンチェダリアの水辺のほとり。伝説と神秘に彩られたその町外れに、タマリスクの柱の根本に彼は彼女を発見した。長葦の船の形を模った小さな棺。その中に幾重にも色鮮やかな毛布に包まれ、眠る美女。
 ヘディンは彼女を『ロプノールの王女』と呼んだ。




   予想に反して発掘は重労働となった。棺は粘土質の岩盤に覆われ、それを崩して棺を取り出すのに多くの手間と力が必要だったのである。折りしもロプ湖は水辺となり、足場の悪さも災いしていた。
   砂漠の発掘のはずだったのに、なぜこんなに水に苦労しなくちゃならないんだ、という愚痴も度々聴かれたが、ヘディンとしては自説であるロプ湖の満水期が証明されたことに満足していた。しかも今回ははっきりとした埋葬跡。木乃伊が発見される可能性さえあるのだ。
「教授」
   声をかけてきたのは癖の強い金の髪を当世風に短くしている若者だった。ヘディンと同じくスウェーデンの出身だと名乗ったその青年は、なるほど北欧によくいる風貌をしていたし、彼の故郷の話にもよく馴染み、しかもこの発掘についても驚くほど知識豊富だった。
   飄然とした風貌ながら、さりげなくヘディンの話に上手く乗り、とうとうこんな発掘現場まで付いてくる。しかもそれを厭う訳でもなければ、よくあるような発掘の栄光に預かろうとする野心もあまり見られない。もっともそれを見せないだけなのかもしれないが。だが学説の合間の中傷やら批判やらにうんざりし、既に六十を過ぎた老年だったヘディンにとって、彼は気の置けない友人であったし、非常に重宝する人材であることは確かだった。
「岩盤が緩み始めましたよ」
   彼は泥だらけの手を、あまり衛生的だとは言えない水で洗い流しながら、独特の柔らかな口調で言った。
「あと二、三日もすれば棺を取り出すことができるでしょう。もっともアレが棺だという教授の説が正しければね」
「傷つけないようにしないと」
「それは大丈夫。彼らは上手くやってくれるでしょう」
   彼が自分の事を最近もらった貴族の称号ではなく、教授と呼んでいることも満足している。恐らくこれが自分にとって最後の発掘になるだろう今回の発掘隊は、何もかもがついているような気がしていた。
「君が来てくれてから、色々なことがとんとん拍子に進んでいるような気がするね」
   彼にとっては精一杯の労いの言葉に、若者は年齢に見合わぬ気軽さで肩を竦めて見せた。
「私も見てみたかったのですよ」
――遠い奥津城に美女眠りき――
   それは古い子供時代の子守唄。
「随分と古い唄を知っているね」
   彼の言葉に若者は再び肩を竦めただけだった。




   若者の言葉通り、それから三日目の五月六日。午前中。ついに棺は喰いこんでいた粘土質の地層から取り外され、吊り上げられて丁寧に固い地盤に下ろされた。粘土質の地盤は天然の封蝋ともなっていて、自然と棺を密封している。周囲の泥が丁寧に取り除かれ、ついに棺の蓋が開けられる段階に達した時、ヘディンは我も無く子供のように興奮している自分を感じていた。
   古代の夢が凝れる宝石のように、このカヌーの形をした柩に納められているのだ。慎重に取り扱われた蓋がついに完全に内部を開いた時、周囲の者達は皆感歎のため息をついた。
   その中にはまるで今眠りに付いたばかりのように、麗しくいきいきとした女性が横たわっていた。彫りが深く、美しい顔立ち。瑞々しい肌の木目細かさもはっきりとわかる。まだうら若い。頭布のような帽子から覗く髪の色は栗色だった。目も鮮やかな毛布に幾重にも包まれ、彼女がどんなに大切に扱われていたか、その片鱗が見えるようだった。
   だが彼らがうなずきあって、恭しい手つきで女性に触れた時、その毛布は歳月の重みに耐えかねてたちまち風化し、塵となって飛び散った。一度にすべての年月がかかったかのようだった。
   彼らは無念のため息をつくと、再び丁寧に女性の素肌を被う衣類から調べ始めた。するとシャラシャラと音がして、彼女の首元から玉と石を繋いだ首飾りが滑り落ちた。それらを繋いでいた糸が、やはり風化し千切れたのだ。それらは柩の底に当たって、カラカラと渇いた音を立てた。まるでされこうべの立てる音のように。その時ヘディンが言った。
「諸君。私は彼女をこれ以上暴くのは止めにしようと思う。彼女は数百年、いや千年以上も前から我々を待っていてくれた。ここで。この『さ迷える湖』のほとりで。我々は今、彼女に出会えた。それで十分ではないか」
   ロプの湖の秘密を説いたヘディンの言葉はその場を支配し、彼らは『彼女』の写真を撮り、そのまま元通りに彼女の衣服を整えると、棺に納め、そして再び丁寧に封印をして棺を埋め直した。後に再び彼女に遭う者達があることを思いながら。
「だから私はあなたが好きなのよ、教授」
   若者がそっと呟いているのを耳にした者は誰もいなかった。




――遠い黄昏が、風とともに湖のほとりに落ちかかる。――
   黄昏は遥かな昔の追憶を、風の中に呼び起こした。


   真夜中過ぎになって。風の追想にひかれるように若者は一人、発掘隊のテントを抜け出し、かの『王女』が埋めなおされた墓場にやってきた。満点の夜空には雲ひとつ無く、星々だけがそれを観ている。


   何千年も昔。湖の町『楼蘭ろうらん』にはうら若い王女がいたという。「絹の道」と後に呼び習わされる交易の豊かな町には人が溢れ、人々は蠱惑と幻影に彩られた繁栄を享受していた。それでもその繁栄の後ろ側には黒い衰退の陰が常に潜んでいる。その頃から囁かれていた。この湖は神々の気まぐれにより大地をさ迷い、移ろい行くものだと。その証拠のように年々湖の水量が減り始めたのはいつの頃からだったろうか。
   そしてそれらと同調するように、遊牧の民の来襲がひそやかに噂されるようになった。後の匈奴と呼ばれるようになる民は、その頃も力強く、定住者を軽んじ、独自の法を持って大地を往来していた。
   その族長が交易の隊商から『楼蘭』の若き王女の噂を聞きつけた。定住の民と遊牧の民。その則も理も異とする二つの民族に、交わりがあるとすれば一体どのようなものであろうか。けれども噂は万里を超える。ある時その美しき城塞の門の下に、馬のいななきと共に精悍な遊牧の族長が、多数の騎馬武者と共に現れた。
「美しき湖の、美しき町に、何よりも美しい宝として、瓔珞と金環と絹とで飾られた王女がいると聞いてきた。この湖の町の平和と引き換えに私が望むものはそれである」
   遊牧の、騎馬の民の荒々しさ、残虐さはオアシスの町にはつと知られている。遊牧民の『王』からその王女を望まれた湖の国の王は逡巡し、ある時ついに王女を呼び出して尋ねた。
「我が宝。我が王女よ。この町の平和と引き換えに、遊牧の『王』がおまえを望んでいる」
   『楼蘭』の繁栄の象徴にも相応しい気高さと、どこか人を寄せ付けぬ気品に満ちた『王女』。その美貌は砂丘を越えて東西に響き渡る『楼蘭』の王女は言った。
「天は巡り、定めはその杯からこぼたれる。私はどこにも嫁ぎません」
   王女の首に下がっている瓔珞がきらりと日の光に煌めいた。王は知らなかった。あるいは知っていても知らない振りをしていた。王女には常に付き従う者がいることを。
   ある者は二人を恋仲だと囁いた。だがある者は首を振った。二人の仲は恋のように甘くは無く、さらに深く、さらに切実なものとして二人の間を結んでいた。王女の身に付けている瓔珞は、彼からの贈り物だったのである。
   そして人々は誰も知らなかった。真夜中に「絹の道」を旅する隊商のうち、一人二人がいつの間にか消え失せているのを。その実、秘かに城の奥深くに招き入れられ、明け方近くに戻ってくるか、あるいは二度と戻ってこないというのを。戻ってきた者は、その間に何があったかを語ることは無く、戻って来ない者は言うまでも無い。砂漠では珍しいことではなく、物事は知られないうちに過ぎ去って行く。
「私の『女王』」
   たくましい若者が、恭しく湖の『王女』の前に膝を折った。若者の髪は黒く、瞳も崑崙の玉のように黒かった。彼こそは王女に付き従う者であった。
「遊牧の民が攻めて来ます。『楼蘭』は落ちるでしょう。もはや、この地にいる意味も失せました。本来の姿に戻り、ここを立ち去る時が来たのです」
   『王女』はまだ少女と言っても良い程だったが、黙って自分の右手を差し出し若者に委ねた。若者の冷たい皮膚にもその手は冷たく感じられた。
「わかるでしょう?」
   甘えるような口調で少女は微笑んだ。
「これが私が遊牧の『王』の下へ嫁けない理由。ここを動けない理由」
   時がやってきたのだった。少女の時。束の間の、永い眠りの時が。人間の感覚で三十年。少女は眠りに攫われる。
「私たちは永い時間を共に過ごしてきたわ」
   少女が言っているのが、自分達が過ごしてきた時間の事と若者はわかった。
「楽しかった、とても・・・。でも。いいのです。もう、あなたはこれ以上私を待たなくても良いの」
「それは・・・」
「次の目覚めはないかも知れない。だから、ね」
   あなたに自由をあげましょう。――美しい湖の『王女』。若者の『女王』は自分の寿命を言っているのだ。
「いいえ。私の女王よ」
   若者が言った。
「私は待つでしょう。何年も。何回も。なぜなら待つ事が私たちの性なのですから」
   彼女は限りなく遠く微笑んだ。
   その夜。『楼蘭』は騎馬民族の矢に曝された。激しい戦いは三日三晩続き、四日目の朝。ついに堅牢なその城門は破られ、町は火に包まれた。
   闘いの最中、『楼蘭』の『王女』を求める呼び声が城塞に遠く響き渡ったが、それに応える声はついぞ聞かれなかった。


   『楼蘭』の王女が。戦いの源となったその『王女』が城からいなくなったことを誰も知らなかった。城が落ちた頃。湖のほとり。湿地の墓場に。カヌーの形をした棺に身を横たえ、王女は幾重にも包まれて仰臥していた。
「私の『女王』」
   すでに彼女からは起きている力も失われていたが、まだその目は見開かれており、若者の瞳とその瞳を見交わしていた。やがて若者は自分の首にかけられていた瓔珞をはずして、王女の首にかけた。王女の持っていた瓔珞と若者の瓔珞が重なって、鏘然と鳴り響いた。
   若者の冷たい唇が、すでに冷たい王女の頬に捺された。やがて彼女の瞼が落ちると、若者は静かに棺の蓋を閉じ、それを丁寧に湿地に埋めた。傍らにタマリスクの柱を埋めて。

   やがて湖のそのものが失われ、風が大地を吹きぬけ、砂漠を連れてきた。砂は流れ、時も流れ、湿地を埋め、タマリスクの柱も埋めた。
   永い長い年月が経ち、しかしついに若者は来ず、また『楼蘭』の『王女』もついに目覚める事は無かった。星々は夜毎に砂漠の夜空に輝いている。若者に何があったのか、彼の女王に何が訪れたのか。今はただ、沈黙があるのみ。
   満点の夜空には雲ひとつ無く、星々だけがそれを観ている・・・。




   一つの影がテントの中から進み出た。
「こんな処であなたのような人に出逢うなんて・・・。幸運なのかしら? それとも、不運なのかしら?」
   そう言って彼は飄然と微笑んだ。これは運命だと。
「だから。あなたが望んでいる事を、私がしようと思うの」
   星々が空から落ちそうな夜だった。そのうちに一際大きなかがり火が赤々と燃え上がり、遠い砂丘も人々のテントも茜色に照らし出した。不思議な事に人々は誰も起き出しては来なかった。かがり火は一晩中燃え盛り、『王女』の亡骸も、そしてその首にかけられた瓔珞も、流れてきた歳月さえ包み込み、燃え上がり、やがて黒っぽい灰だけが残った。





   現在、新疆しんきょうウイグル自治区の博物館にはヘディンが埋め戻したとされる木乃伊が展示されている。後の世になって再発掘されたというその木乃伊は、しかし防腐の処理のせいか、ヘディンが発掘した当時の瑞々しさは失われ、その肌は黒っぽく変色しているという。それが本当にヘディンが発掘し、埋め戻したとされる木乃伊かどうか。


   それを知っている者は誰もいない。





END



2008.04.28

   どこかで読んだ事があるような話。ちょっと翼手に絡めてみました。こうして私が書くものは伝奇ものになっていくという典型的なお話。(好きなんです・・・)
   基本的に翼手というのは、もう太古の昔から存在していて、人間の歴史の中に密かに歩みを残していたというのが、私の妄想世界の基本となっております。
   色々と考えられるし・・・。でもこれって『BLOOD+』の世界では既に無かったり。(だからこそのネイサン客演)

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