神々は気まぐれにして、その言葉は空虚に響く。




   その男は雨の夜にやって来た。つばのある帽子を目の上まで下げ、こんな辺鄙な田舎街の、それでもいくつかある安宿の一つの扉をくぐると、彼はそのまま部屋を借りた。カウンターに寄りかかるように腕を付くと、フロントマンに声をかけたまま、ハミングでもしそうな雰囲気で手続きの書類を待っている。鬱々とした夜だというのに、その姿はどこか気楽で、この状況を楽しんでいるようにすら見えた。
   フロントマンはこのよそ者の様子を胡散臭そうに見ていたが、自分はどんな人間にもこんな風に当たるのだとでも言いたげに、鍵を放り投げるようにこちらへ寄越した。男は空中で器用に鍵を受け止めて部屋の番号を確認すると、フロントマンに軽く会釈をして階上の部屋へ向かった。
   いかにも安宿らしい殺風景な部屋に、こもったような独特の臭い、それでも糊のついたベッドリネンがかかり、小さなサイドテーブルが置いてある。上着の滴を丁寧に拭うと、持っていた書類入れからも雫を落とし、男は軋み声を上げる寝台に足を投げ出した。この様子だと今夜は街の様子を窺うことは出来ないだろう。上着の内ポケットから取り出した旅行雑誌をパラパラと捲ってみる。
   どうせ今夜は眠れそうに無い。彼はさらにもう片方のポケットを探って持ち物を取り出した。財布、サングラス、IDカード入れ。そして最新式のモバイル。タッチ操作の簡易性と音声機能が商品の売りだ。それを操作してどうやら電波が届かない事を確認すると、予め予想していたのか肩をすくめてサイドテーブルの上に置く。それからもう一度手を伸ばすと、今度はよく使い込まれた手書きの手帳を取り上げて、何かを調べ始めた。地名と△と○印。だがほとんどが×印になっている。各項目の下にはびっしりと何かの書込みがしてあった。それらを丹念に目で追いながら反芻していく。やがて確認するように微笑むと手帳を閉じて目を閉じた。
   雨の街はあらゆるものの輪郭がほとびて柔らかく緩む。それは存在の活力が曖昧さに移行している証拠なのだ。期待が一種の平安に変わっていく。こんな夜は嫌いでは無い。
   やがて雨の気配が遠くに過ぎ去り、薄暗い夜明けの気配を感じると、男は明けていく夜の静寂が、朝の喧騒に移り変わっていく様子にじっと耳を傾けていた。こんな小さな街でも人間の生活と言うのはあるものだ。生活がリズムを刻んでいく様に調子を合わせることは、生涯を旅と共に過ごしている自分にとってごく身近な慣習となっている。やがて朝食を摂るのに不思議ではない時間となると、彼は上着を取り上げ階下に降りて行った。
 下ではフロントマンがもう起き出して、なにやらぶつぶつ言いながら書き出しをしている。そこへ声をかけると、新聞を一部購入し、街の中にあるコーヒーショップと中央広場の場所を確認してから男は宿を後にした。




   観光と言うわけでも取材と言うわけでも無い。男はコーヒーを注文すると、熱い飲み物をすすりながら新聞に目を通した。地方新聞にはたわいも無いゴシップと、彼らにとっては遠い世界である中央の政治のごたごたが記されているだけだった。
「今日もまた何事も無し、か・・・」
   彼はモバイルを取り出して、再び通信圏外である事を確認してから上着にしまうと、手帳を取り出し、書類入れの留め金を開けた。新聞の切抜きのコピー。いくつかの死亡記事。そして旅行者用の地図。手帳にはこの街の名前と日付。彼がそれらを並べて確認しようとした時、突然朝の喧騒をついて場違いな声が聞こえてきた。
「恐れるがいい。裁きの日を」
   朗々と響く声が男の耳朶を打つ。今いるコピーショップの向こう側には中央広場があり、その真ん中には古い井戸の後に幾代か前の市長が寄付したという聖ゲオルグの銅像が立っている。その前に痩せた中年の男が一人。大きく手を広げて立ちはだかっていた。その声はこちらからでも良く聞こえた。
「あれは?」
   男は通り過ぎようとしたウェイターを捕まえて、質問を発した。
「助祭の神父様です」
   ウェイターは迷惑そうな顔をして、このよそ者を見つめたが、構わず財布から何枚か紙切れを取り出してやると、躊躇いながらも受け取って仕方なさそうに答えた。
「穏やかな神父様だったのですが、つい半年ほど前からでしょうか。あんな風にあそこに立って、よくわからないお説教を始められて」困ったものです、と彼はため息をついた。
「そのうちに終わりますよ。いつもお昼過ぎると大人しく去っていかれますから」
   街を行く人々は垣間見ては見てはいけないものを見たように足早に去っていった。
「話はできる?」
   ウェイターは首を傾げた。一刻も早くこの話題から解放されたがっているようだった。
「助祭様よりも司祭様にお伺いになった方が・・・。いつもは隣の街に住んでいらっしゃるのですが、助祭様がああなってからは、金曜日の晩から日曜日にかけて、この街においでになってます」
「この街にと言うのは、司祭館に?」
「ええ。本当は隣街の主任司祭様なのですが、後任が決まるまで兼任ということで特別に頼み込んで来てもらっているのです」
「後任?」
「はい。実は」と彼は声をひそめた。
「前の主任司祭様がやっぱり半年前に亡くなったので代わりに」
   主任司祭が死に、助祭があんな風。半年前。ウェイターに礼を言うと、男は面白そうに口元を吊り上げた。自分の嗅覚はまだまだ当てになるらしい。
「さて、と・・・」
   男は帽子を被ると、コーヒーショップを後にした。
「神父様」
   まっすぐに銅像の前まで行くと、試しに彼に声をかけてみた。
「神の裁きを恐れよ!

『あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、
そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、
ついには滅びに至るものである・・・』」
「神父様!」
   叫んでみたが、神父の目は男を素通りして何も見ていない。肩をすくめると彼は中央広場を後にする。

『ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。』

   神の裁きを恐れよ!」
   声だけがその背中に響いた。




   司祭館を訪ねてみると丁度司祭は留守にしていた。今日は金曜日。司祭が隣街からやってくる日である。しかしまだ朝と言ってもいい時間帯だったので、隣街の神父はまだらしいと判断し、男はそのままふらふらと教会の周辺を廻ってみた。古くからある街の多くがそうであるように、教会も市庁舎のある中央広場の隣のブロックに建てられている。思ったとおり、他の街とそう違いは無い。石と土と木からその建物は出来ている。古くからある建て方だった。教会の裏手からは街外れまでまっすぐに道が作られており、それは山麓へと繋がっていた。
   山の陰影は暗く沈み、この街を覆いつくそうとしているようでもある。男は肩を竦めると、次の目的地に向かって足を運んだ。
   男が次に選んだのはこの街に住んでいる、たった一人の開業医だった。多くの医者と同様に彼の家も古くから医者の家系で、今は両親も亡くなり、彼自身まだ独り身で病院を兼ねた家に一人住まいしていた。
「怪我をした人ですか?」
「ええ。この半年の間に。どんな小さな怪我でも」
「難しいですね。そんな事ならば日常茶飯事ですから、いちいち憶えていられませんよ。第一その全部が私のところに来るわけじゃなし」
「首元でも?」
   と言いながら男が差し出したのは、半年前の新聞だった。そこにはいかにもゴシップ然とした見出しで『吸血鬼か!?』と書かれ、首元の傷。そして失血死と記されていた。
「これですか・・・」医者は眉を顰めて言った。
「覚えています。いやなゴシップのネタだった。今の時代に吸血鬼! たまたま首元の傷からの出血が死因になったからと言って、面白おかしく書き立てられていい迷惑でしたよ。首の動脈を傷つけられれば誰だって――」
「この街の人間だったとか」
「山に住む一人暮らしのおじいさんで、時々街まで降りてきました。狼か野犬にでも襲われたのでしょう。山間にはよくある話です。詳しい事なら私より警察へ行って訊いた方がいい。
   そんな事よりあなたは? 具合が悪くてここへ来たのでしょう?」
「そうそう。そう言えばちょっと体調が・・・。そう思って来てみたのですが、どうやらドクターとお話させていただいている間に良くなってしまったようです」
   気軽な調子で言い終わると、男は帽子を手に取った。
「お世話をおかけしました。それでは失礼。ドクター」
   気がつくとあっけに取られた医師が一人だけ、その場に取り残されていた。




   雨上がりの曇り空はそのまま陰鬱な気配が残り、全てがおぼつかなく揺れている。世界はなべて不安定に揺らぐ。男は食堂と市場でも同じような質問をした後、宿に戻る前に司祭館に寄ってみた。
   重そうなドアノブをノックすると中から今度こそ人の気配がして、鍵を開ける重そうな音がする。恐らく何世紀も同じような鍵を使ってこの建物は守られてきたのだ。
「どうしました?」
   扉の向こうには中年の恰幅の良い、いかにも人の良さそうな顔した神父が立っていた。
「こんにちは。神父様」
   男は帽子を取ると礼儀正しく挨拶を交わした。
「ちょっと教会の中を見せていただきたいと思いまして」
「それはそれは。ご丁寧に」
   やや張り出した腹を揺すりながら、神父は先に立って男を案内した。
「『求めよ、されば開かれん』
   神の家というものは来る意思を持っているならば、あらゆるものに開かれています。どうぞご自由にお参りください」
   辺境の街ほど教会は生活の中心となり、人々の精神的な支柱ともなる。この教会もそのようだった。古くても丁寧に使い尽くされた感じが、あらゆるところからしている。稚拙ながらも補修の跡がそこかしこに感じられた。時代が変わっても、わずかしか変わらないものもある。
――教会は日向の匂いがしていた。
「古いものですね」
「まあ、それだけが取柄のようなものですからね」
「神父様の本当のお住まいの方もそうなのですか?」
   神父は少しばかり驚いたようにしていたが、すぐに微笑んだ。
「外の方にしては耳がお早い。私はまあ、仮の主任のようなものですよ。ですが良い処でしょう、ここは」
「いっそ担当を替えられて、正式にここの主任になられたら良いのに。助祭様はああですし」
「ご覧になりましたか。哀れなものです。半年前になにが起こったのやら」
   ため息のように神父は言った。だが彼が知ったのは結局この神父がそれ以外の事を何も知らないという事だけだった。
   得られるものがほとんどないまま、男は教会を後にした。途中で助祭に会うかとも思ったのだが、あいにくと彼は帰ってこない。いつの間にか中央広場にもいなくなっていた。もう昼時近いのだろう。随分長い時間神父と話し込んでいたらしい。雨後の湿気はようやくなくなり、晴れとは言えなくても散歩するにはちょうど良い気候になってきた。この辺境の街をふらつくのも一興かもしれない。当ても無くさ迷うことはほとんど彼の習い性になっていた。
   小さな街の半分ほど崩れかけた門扉に手をやると、そこから道はまっすぐに山麓へと向かっている。黒い山陰は彼を招いているように深く、奥知れないものに感じられた。今からだと夕暮れ時までには帰ってこられるだろうか。のんびりとそちらに向かって歩みを進めた彼の足が、ある時点でぴたりと止まった。
とっくに気配には気がついていた。街を出ようとした辺りから付けられて。三人の男達が彼を取り囲むようにしている。皆一様に顔色が悪く、陰湿な雰囲気を漂わせた男たちだった。それなのにその顔には虚ろな笑いが貼り付けられており、その落差に歪んだものを眺めているような、ひどく不自然な感じを抱かせる。
「何か――」
   用かと彼は言った。男たちが一歩前に出て、彼との距離を縮める。この寂れた街には似つかわしくない異様な雰囲気が立ち上った。あまりにベタすぎる展開。芸が無い台詞のように陳腐な寸劇を思い起こさせ、思わず笑ってしまった。その笑いに男達の顔から表情が消えた。かれらの唇が捲れ上がると白っぽい犬歯が目に付く。そのまま何も言わずに彼らはいきなり彼に向かって殴りかかってきた。
   三人がかりならば人一人、黙らせるには造作ないということなのだろうか。
「大人しくしていれば良かったのに」
   軽くかわしながら彼は素早く彼らの首元に二つの瘡蓋になったような小さな刺し傷があることを確認した。
「おやおや」
   血を吸われた者が血を吸った者の眷族になる。そんな可愛らしい伝説が人々の間に存在する事は知っていた。民間伝承の、いわゆる『吸血鬼』でもあるまいし。そんな事がありえないことは彼が一番よく知っている。だが彼らは半ば正気を失い、取り付かれたような目で彼を見返していた。
「すっかりその気だと言う訳か」
   呆れて物も言えないという風に彼は額を手で触れた。人間は自分の信じているものに従って行動を選択する。倫理観しかり。法律しかり。信仰しかり。そしてまだまだ伝統や伝説が確信となって行動に、あるいは生態にすら直結している処も存在するのだ。特にこういった辺境の場所では。本来はそうではないのに。血を吸われた者は、単なる食糧。感染する事など滅多に起こらない。
   彼を取り囲んでいる男達は、低い呻り声すら上げていた。まるで今にも瞳が赤く染まりそうだ。そして吸血でも始めるのだろうか?

   本当にそうだったら、また面白いのに。呟きながら彼らを見返す男の目が、その時赤光を放った。





『ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。
   それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。
   ・・・。』

   助祭は細い肩を強張らせて、息切れさせながら誰も聞いていない言葉をぶつぶつと口の中で唱えていた。そうしながら下を向いて通りを歩いていく。

『わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。
   その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、
   また、それに七つの頭と十の角とがあった』

   身体そのものを重い荷物ででもあるように不器用に引きずり、神父は教会の入り口に差し掛かると、司祭館の方をちらりと見て、それからそそくさと聖堂の中に入っていく。
「助祭の神父様」
   かけられた声にびくりとその細い肩が上がった。誰もいないと思っていた聖堂の中に人がいたのだ。
「お会いしたかった・・・」
   教会の窓から射す夕方の光は柔らかく、古いガラスごしに訪問者を照らし出していた。金色の髪が天使のように光っている。神父彼は何事かに怯えるように、眩しいものでも見るように片方の肩を竦めて男を避けた。
「神父様。『意思ある者すべてに開かれる』それが神の家だと言うではありませんか。ここでは恐れる事は何もありませんよ」
   しかし神父は首元をまさぐり、震える手で十字架を取り出すと、それしか縋り付くものが無いとでも言うかのように握り締めた。
「畏れよ。神の摂理はどこまでも追ってくる。

『あなたの見た十の角と獣とは、
   この淫婦を憎み、みじめな者にし、
   裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽くすであろう。』

――去るがよい。神の裁きの日を恐れるなら」
「裁きの日?」男は言った。
「一体いつになる事やら」
   それから信じられないほどの速さで助祭の傍らへ移動すると、抵抗する暇も与えずにその首もとのカラーを毟り取った。
「やっぱり・・・」
   そこには二つ。棘が刺さった跡のような傷が薄い瘡蓋に包まれて存在していた。男はその辺りには手を触れないようにしながら、神父を引き倒して別人のように深い声色で言った。
「おまえの『傷の主』はどこにいる?」
   その様子に神父は初めて正気に戻った人のように、怯えた視線で男を見つめた。
「なんの・・・・事だ・・・」
「はっきり言わないとわからないのか? おまえの血を吸った者だ」
   神父はその言葉にひいっと悲鳴を上げて胸の十字架を掲げると顔を覆った。
「知らない。私は知らない。私は穢れたものじゃない」
「わかっている。ナンセンス。作り話じゃあるまいし、血を吸われただけで何が変化するわけじゃなし」
   そういう偏見は人間が作るもの。そういいながら男は神父の襟元を掴んでぐいっと引き寄せた。
「私が知りたいのは、あんたにその傷をつけた者の話。美しい女だった?」
   言いながら彼は神父の変化を見守っていた。
「それとも男?」
   神父のその口から悲鳴のような叫びがこぼれた。
「知らない!私は知らない!神よ!そんな事あるわけ無い!」
   言うなり彼は口から泡を吹きそうな勢いで取り乱し、そのままつっぷして意識を失ってしまった。
   男が神父を掴んでいた手をゆっくりと離した。人間のやわな神経に半ば同情し、半ば呆れた表情で見下ろす視線には、なぜか悼みの色が籠もっていた。




   宿を出た時には既に空は暗さを増しており、街の建物の漆喰と木。あるいはコンクリートで補強された建物が光を遮って、まだらの闇を映し出していた。山間部の夜は冷え込むが、彼は邪魔な上着を着るのはやめ、身軽な服装で夜道を辿った。街の、半ば崩れかけた門扉からするりと身体を押し出すと、そこだけ黒々とした影になっている山々を見つめる。暗いその影の中を点のように動いていくのは一際暗い彩を放つ人影だった。この距離ならば追いつく事など造作も無いこと。彼は微笑むと闇の支配する世界へと駆け出した。靴が軽く地面を蹴り上げる。彼にとって、力を解放する機会は少ない。久々の開放感だった。
   宵闇の山中は昼間とは異なり柔らかな湿り気と、生き物の匂いがしていた。遠くを野生の獣達が徘徊する。遠吠え。そして彼の発する気配を避けて、足元の下生えを這い逃げるモノ達。それは夜の世界であり、人間のいない世界でもあった。それらすべてを見通す目を、彼は持っている。
   その中に蠢く者を、その気配を彼は追った。街から出て行く時をずっと見張っていた。相手が目指すのは恐らくこの山中だという予想はしていたが、虱潰しに調べ上げるのは自分の流儀ではなかった。相手に案内してもらう事が一番の近道だろうと彼は考える。相手には気づかれていない自信はあった。
   距離をおいて付けていたはずだったが、山道を辿るうちに相手の速度がそれまでよりずっと遅くなっているのに気がついた。もうそんなに距離が離れてはいるまい。気づかれないように気配を殺し、相手の黒々とした後姿だけを見つめていると、やがてそれは山道を逸れ、夜目にはわかりづらい獣道を辿り始めた。獣でも狩るのかと冗談のように思ったが、そうではなく、やがてその前に大きな岩の下に作られた一軒の小屋が現れた。ほとんど朽ちかけたような、木と石で出来ている小屋の中に、微かな人の気配がしている。彼は目を細めた。
   感覚の鋭い彼にはわかった。中から血の匂いが濃厚にしている。そして呻き声。女の・・・。いや、男の呻き声。衣擦れの音。人の気配。吐息。中で行われているのが何か想像がついて、彼は嫌悪に眉を顰める。それは彼にとってすら、通常の出来事だとは言えなかった。許されない行為とはどんなものについても、何かしら確かに存在するものだ。    すべての推測がゆっくりと形を作り、確信になっていく。それでも彼は慎重だった。確認をしなければならない。すべての時間は彼の味方だった。待つと言うことは彼のような者にとって、ほとんど苦にならない。息を殺し、闇と同化しながら彼はひたすら待った。相手が出てくる事を。そしてこの彼の待つ時間に答えを出してくれるのを。
   小さな空間での濃密な時間が過ぎ去り、ぼんやりとした倦怠感とある種の平安が漂い始めた頃。ようやく黒い人影が小屋を出てきた。中にいるものに優しい視線を投げかけると、名残惜しげに扉を閉めて背を向ける。深々とため息をつくその身体が月の光に映し出されて、こんな所に似つかわしく無い太った恰幅の良い体格をあらわにした。
「神父様。意外な処でお目にかかりますね」
   先に声をかけたのは彼の方だった。こちらの方をまじまじと見ながら相手は覚束無げに言葉を繰り出す。
「これは・・・昼間の」
   心底驚いた様子だった。その姿は昼間に見た温厚な主任神父の姿そのまま。それなのに、血の匂いだけがきつく漂っている。
「こんな時間にどうしてこんなところへ?」
「それは・・・。私はこの地の主任神父だから。時にはこういう処に来ることも必要なのですよ。それよりこちらの方が訊きたい事です。あなたこそ何故ここへ?」
「あなたの本当の姿を見に」
「え?」
   彼は口元で笑った。
「それは冗談。――実は、あなたの事はどうでも良かった。最初は。私が会いたかったのは、女王様だったから」
「女王?」
   何の事かわからずに神父は眉を顰めた。
「ああ。こういう言い方だとわからない? 私が言っているのは『彼女』の事。あの、小屋の中にいる・・・」
   それを聞いたとたん、神父の雰囲気が一変した。
「何の事だ――」
「ほら。そんな風にむきになる。何故認めない?それともあの小屋の中にいる『彼女』を引きずり出した方が良いとでも?」
「やめろ!」
   思わず言ってから、神父は唇を噛み締めた。まるで若者のように。
「あなた。本当はまだ若いのね?」
   彼は女のように柔らかな口調で、悟ったようにそう言った。
「血を吸えば、吸った相手の姿になれる。そうでしょう?隣街の神父様の血を吸って、成り代わってあの街へやってきた」
   うっすらと彼は笑った。最初から気がついていた。ただ知りたかったのは、女王の居場所。女王の状態だった。
「あの、かわいそうな助祭の神父の血を吸ったのもあなたね? 街の若造達の血を吸っていたのも。そしてここに住んでいた老人の血を吸って殺したのも。あなたの体からはもはや人間の匂いはしない。隣街の神父に成り代わって、あなたは何をしたいの?」
「何を。言っているのですか?」
   神父は自ら、その職業の印である白いカラーをはずし、襟元を寛げた。
「血を吸うなどと。この現代に『吸血鬼』など。いるはずがない。第一、御覧なさい。私には穢れた徴もない」
   彼は首を振った。
「それこそが証拠になる。――女王もその眷属も、人間とは異なる身体を持つ。あらゆる外傷はその身体を素通りし、跡も残らない」
   それが眷属の特権。だがこの男は。神父の姿をしたこの男は。
「あそこにいるのがあなたの女王」彼は小屋を顎で指した。
「それならば、あんな所になぜ閉じ込めておく? あれが彼女の望み? いいえ。違う。あなたは彼女に一体何をしたの?」
「違う。最初から――」
   その時、小屋から言葉の無い、子供のような声が聞こえてきた。同時にまろび出るように白い身体が現れる。その姿を見るや神父は叫び声を上げ、瞬時に彼女を抱き上げた。まるで宝物でも扱うように。けれどもその時彼は見た。見てしまった。童女のようなその少女のその瞳が、狂気に彩られているのを。虚ろな、焦点の合わない視線。怯えたように男の腕の中でもがいている。
「狂って・・・いるのか・・・」
「違う。やめろ。我々を放っておいてくれ」
「道理で・・・こんな・・・」
   余裕のあった彼の顔にその時初めて、焦りにも似た沈痛な表情が浮かんだ。狂った女王。人達の間に置けない女王。だからこそ神父は彼女を隠し、そして自分は人間を狩り、その身体に血を蓄えては女王に差し出していたのか。
「こんな拙いやり方で――」
   だが既に女王には限界が来ている。二人を眺めて彼は首を振った。これ以上このような生活を続けていける訳が無い。しきりに神父の腕の中から解放されようともがく少女の首元には、傷すらついてなかったが、まだ乾いていない血の跡があった。狂った女王。そして・・・。
「それにあんたはシュヴァリエでもない。哀れな不適応者。兆候はもう出ているというのに。その右腕に気がつかないとでも?」
   言われた神父の右腕は黒い皮の手袋に包まれていた。前にはなかった。擬態が解け始めているのだ。
「黙れ!私は・・・」
「種族の女王は人間に寄り添うべく存在する。そして人間を傅かせる為にね。人間の多くはそれに魅了される。
――女王に魅せられたのでしょう?女王を自分のものにしたかった?」
   たとえ狂っていたとしても。そして狂っていたからこその出来事が起こった。
「そうして女王の血を吸った? 与えられてもいないのに」
   その意志に反して。無理やりに。人間が女王を侵害するとは。
「彼女は最初から正気を失っていた。だから私は。ただ彼女を助けたいと思った。そう思っただけなんだ。私は・・・」
   温厚な神父の擬態が解けて、元の人間。若い男の姿が表出してきた。
「彼女は私のものだ。私達は永遠に――」
「永遠?」彼は哂った。
「それはまた永い台詞だな。永遠の何たるかも知らず、またそれを知る資格もない者が」    神父の姿を奪った者は、女王に出会い、彼女が『何モノ』であるかを知り、憐れに思い。だが自ら、その血を奪い取って飲み干した。その習慣は今でも続けられているのだろう。女王の意志に反して。
   求める者のすべてを得たい。そういう欲求はどこからくるのだろうか。どこで歪みがくるのだろうか。
「おまえは誰だ?」
「誰?」鸚鵡返しに彼は言った。
「さあねえ。誰でもない・・・。あるいは誰かではある。たぶん」
「何を・・・」
「私も自分でも、自分が何モノか分からない時があるからね」
   だがもはや相手はその言葉を考える事も、さらには自ら言葉を発する事もしなかった。抱えていた少女の姿をしたものを、恭しげに、大事そうにその腕から降ろすと彼は胸を張った。全身に力を籠めると、内包していた力が表出してくる。その身体が肥大化し司祭服が裂け、醜い爬虫類のような皮膚が露出された。禍々しい空気が立ち上る。
   今やその身体は倍以上の大きさに膨れ上がり、特にその両腕は鋭い鍵爪によって武装されていた。人間が把握している生物の中には存在し得ない、爬虫類とも猿人ともつかない顔の口元からは鋭い牙が覗き、そしてその目は黄色く濁っている。それが見る間に赤い光を帯び始めた。
「それがあなたの本当の姿?」
   だが彼の微笑みは崩れなかった。
「醜いものね・・・」
   神父だった者の姿は力を帯び、超常の存在としての姿を現している。だがその身体は半分以上まだ人間の皮膚を持ち、爬虫類の皮膚と同様に変色してはいても、やわらかく、何の力も発しているようには見えなかった。中途半端な不協和音が感じられる。歪な脆い存在がそこにあった。
「黙れ!」
   その叫びは半ば獣の咆哮だった。
「殺す価値もないけれど、仕方が無い」
   彼は獣を見つめながらため息をついた。獣の叫びは最早言葉にならず、人間以上の力が不可視の速さで彼に襲い掛かる。だがその鋼鉄の一撃は地面を深くえぐっただけだった。低い、含み笑いが聞こえてくる。獣が吼えた。
   彼はほとんど身体を動かしていないように見えた。それなのに、その笑いが聞こえてきたのはすぐ脇からだったのだ。焦りと屈辱に身の内が猛り狂ってくる。こんなに素早く移動するとは、人間には出来ないはず。だが怒りのあまり、その判断すらどこか遠いところにある意識の片隅に追いやられていた。
   獣の叫びが喉元から毀れた。破壊の衝動が身体を支配し、本能が人間性を凌駕し始めているのだ。その瞳の赤い光が強くなっていく。その爪が男の居場所を一気に薙いだ。しかし再びそれは宙を切る。本能的に相手が余裕を持っている事を理解して、再び獣が吼えた。
   猛り狂う咆哮が宙を貫き、再び渾身の力で獣の姿をした者が、彼に向かって襲い掛かった。だがその時。――その足が一瞬止まった。ついでよろよろとよろめきながら前に進む。先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
「やはり。ね――」
   獣が苦しげに喉元を掻き毟ると、その鋭い爪が人間の肌に当たってひどい掻き傷を作った。
「言ったでしょう。シュヴァリエもどき――女王の血に適応できなかった者。あなたは女王の血に敗れたの」
   獣の足がくず折れて、苦しそうな目で彼を見上げた。
「女王の血分けは女王の意志によって為される。おそらく女王は本能によって自分の血に適応できる人間を見分けているのだと言う者もいた」
   無理やり取り込まれた血は人間を壊してしまう。
「『全てのものに代価がある』神父様。これも神の摂理の一つでしょう?」
   彼は目を細めて笑った。
「支払いはされなくてはならない」




「女王様」
   赤い目が瞬かなくなると、彼は疲れたような表情で、震えている少女に向き直った。狂ったような少女の口元から鋭い牙が覗いていた。
「かわいそうに」
   ひどく悲しげに彼は言った。
「女王の多くはシュヴァリエを亡くすと狂ってしまう」
   特に最初のシュヴァリエを。女王の血の記憶と力の目覚めとなる血を持つ眷属。全てのシュヴァリエを亡くしたまま、眠りについた女王はその身に流れる血と力の齟齬のために、永い歳月のうちに静かに狂気に捕らわれていく。
   男がこちらに歩み寄るのを見て、少女の姿をしたものは身を強張らせて牙を剥いた。野生の獣そっくりに。男の歩みは疲れたように重苦しく、ゆったりしたものだった。男の距離に対応するように少女は唸り声を上げながら後ろに下がった。それ以上下がれなくなるまで。そしてその場に立ち止まると、警告するように彼をにらんで威嚇する。その次に何が起こるのか予測して、彼は深く長いため息を吐いた。
   それが終わらない間に少女の身体は緊張に固く張り詰め、次に彼に向かって跳躍した。野生の獣のような優美でしなやかな動作だった。こんな状況なのに、一瞬目を奪われる。    次の瞬間、男の右腕が鋭い刃物のように、あるいは獣の爪のように変化した。少女の身体と擦れ違う一瞬。それがこの上もなく、恭しく、優しい仕草でそのほっそりとした首元を薙いだ。朱色の帯を描いて白い顔が飛ぶ。
「貴女は私の女王ではない」
   ゆったりと歩み寄り、地面に落ちたその頭を宝冠のように恭しく拾い上げ、瞬かぬその目蓋に男がそっと触れると、薄い色の瞳は静かに閉じた。
「貴女の対の女王でもない。だから・・・」
   優しいとも言える仕草で頬を一撫でする。毒となる血で殺せないならば、他のやり方は一つ。
「お休みなさい・・・永遠に」


   一刻の後、大きな炎がその辺りに炊かれ、一晩中赤々とした焔を闇夜に躍らせていた。二つの人型が並んで焔に包まれている。見送る者は一人だけ。
「狂った女王とシュヴァリエもどき――」
   男は哂った。
「お話にもならない」





   翌朝早くに男は街を出た。隣街では白骨化した遺体が出て、それが主任司祭の服を着ていたことで大騒ぎになっている。
「神の裁きを恐れよ!」
   中央広場では今日も一人の男が声を上げている。

『ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。
   それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。
   ・・・
   あなたの見た十の角と獣とは、
   この淫婦を憎み、みじめな者にし、
   裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽くすであろう。』

「神の摂理か・・・」
   そう言って彼は唇の片側を吊り上げた。
「笑っちゃうわね」




END



2008.02.21

  はい。実はネイサンのお話でした。ハジもサヤも出てきません。そして捏造設定大有りです。翼手のことを書きたかったのです。そしてカッコいいネイサンを。でも私的設定では、翼手という固有名詞をつけたのは、ジョエル達であったとしてますので、ここでは翼手と言う言葉は使いませんでした。ネイサンについても、本名かどうか不明でしたので、この時にネイサンと言う名前を使っていたのかどうかわからないな~と思って名前を出しませんでした。(難しかった・・・)
 しかしながら何だか妙に長くなってしまいました。それに暗い。ひたすらに暗い。こんなのupしていいんだろうか~~???と今回は本当に悩みました。が、遅筆な上にこのサイト、あんまり置くものが無いもんですから・・・。それに、今回調べ物もしましたし。(引用はすべて聖書から。わかりづらくて申し訳ありません。翼手の数を表記したかったのと、最後の部分。これに何とな~く合わせるようにしてお話を創ってみました。)ついついup。すみません。書いている間は実は妙に楽しかったのです。
 「書きたいもの」と「頭の中に出てくるもの」が違っているようです。そして「読みたいもの」と「書きたいもの」も微妙に違っているようです。私の場合。「読む」と萌えるけれど、「自分で書いて」萌えられるか、というと異なっているというか・・・。
 ちなみに今回の話は恐らく「読んでいる」時は萌えられなくても「書いている」時は萌えられるという話・・・だと思われます。

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