「ちょいと、そこの」
   呼び止められたのは汚い辻裏だった。そこに似つかわしく、薄汚れた卓に腰かけた老婆が、これも薄汚れた布きれのようなものを頭からかぶって人待ち顔でこちらを見ていた。
   この忙しい時に。男は舌打ちしそうな顔をして、わざとらしくその姿から身体ごと方向転換して見せた。
「そう邪慳にするもんじゃないよ」
   老婆は笑いを含んだ声で言った。男の余裕のなさが老婆には興味深く、また可笑しくもあったのだった。
「ほんの少しの時間もないって訳じゃないんだろ?」
「あんたと話している時間は持ってはいないな」
   応える時間も惜しいと思いながらも彼はついつい口を開く。老婆は嬉しそうに手を打った。相手がうわべの態度よりもずっと人が良いとわかった者の反応だった。
「別にお代を取ろうって言うんじゃない。あんたの顔に浮かんでいる『相』が珍しかったから教えてやろうと思ってね」
   物知り顔の老婆の態度に男が反発する。
「『相』だと?」
「人間の顔に浮かんでいる道筋。運命ってやつさね」
「運命?」
   男は顔をゆがめて笑い顔を作った。
「そんなもんは信じない」
「そう言うやつに限って、運命に翻弄される」
「翻弄だって?」
   男は声を立てて笑った。
「翻弄されるほどの運命が俺に残っているものかよ」
   彼の運命はこれ以上ない位、まっすぐな一本道であることだけはわかっていた。他のどの路も取りようのないほど。
「俺のことは俺が一番わかっている。俺の運命が一つしかないってこともな」
「そうやって運命を軽んじる者は、自分のことが何一つわかっていないものだよ」
   憐れむように、蔑むように老婆は言った。それからそのしわだらけの長い指を男の方に向けた。
「ひとつ忠告しといてやろう。女があんたの運命だ。あんたは女を見てそれに囚われる。心狂わされるんだ。あんたは女の手にかかる、あるいはそれが原因で運命を散らすだろうよ」
「女だと?」
「心当たりがあるようじゃないか」
「ありすぎるくらいな。おい、婆さん。その女のことを知っているのか。知っていたら話してもらおう」
「おお怖い。年寄りにはやさしくするもんじゃ」
   男は老婆に掴みかからんばかりに詰め寄り、老婆の方は笑って受け流すように身をよじった。老婆の半分濁ったような目が、そのときだけはきらりと男の若い顔を覗き込んだ。
「わしに何かを問い詰めようだなんて無駄なことじゃ。ただおまえさんの顔を読んだだけの、何も知らない哀れな婆じゃよ」
「それを俺に信じろというのか? 第一あんたから声をかけてきたんじゃなかったか?」
「わしにできるのは道筋を読むことだけさ。それをどう読んでどの道を選ぶか、選ばないかはあんた次第だ」
「ならば――俺ができることは無い。婆さん、あんたが何を見ようと俺にはやらなくてはならないことがあり、他には選択肢はないんだ」
   憐れみを含んだ色で老婆はまだ若いと言って良い男を見た。
「ならば行くがいいさ。あんたの運命の中へ。囚われるために」
   そこに見出すのが至福なのか、絶望なのか。それを女の目の中に訊くために――。そうして男は歩み去って行った。




   老婆の言うことは大筋で正しく、だが裏の意味では間違っている。男には女についての心当たりはあった。いや、まさにその女を追い求めて彼は長い距離を旅してきたのだった。
「仲間の仇――いや。人類の敵」
   彼女たちは人間を捕食するのだ。その方法が吸血というのもおぞましかった。仲間はみんなやられた。たまたま襲撃に間に合わなかったかれだけが生き残っている。
   なぜあの時、一瞬でも遅くなったのか。それが胸の中に熾火のようにじりじりとした焦げ付きとなり、彼を後悔と憎悪で駆り立てる。人形のように白い顔でうち倒れている仲間たち。血塗れになっていた者もあった。
   垣間見た女の長い黒髪だけが焼き付けられたように眼に残っている。そしてあの微笑み。
「あれが俺の運命と言うのだったら、占ってもらわなくてもわかっている」
   男は独り言ちた。
「俺が知りたいのは女がどこにいるのかってことだけだ」
   だがそれがすぐ近くなのだということだけは彼にもわかっていた。情報のすべてが彼女を追い詰めていることを示している。もう少しだった。もうすぐ仇が取れる。その期待と興奮に心臓が脈打つのが感じられた。
所属部隊で残っているのは彼だけだった。そして彼女の顔をはっきり見たのも彼だけであり、他の者の助けを拒否して無理やり   女を追ってきたのも彼一人ですべての決着をつけようと決意しているからに他ならない。
「彼女は女王だ。息を潜めているとはいえ、生半なところでは落ち着くまい。それが彼女たちの誇り高さであり、弱点でもあるということよ」
   その情報に従って彼が目安をつけたのが、ある豪農の娘だった。そこに遊びに来ている貴族の娘がいるという。その貴族の娘になり替わっているというのは、いかにもありそうなことだった。だが正面から会わせてくれと言ったところで追い払われるのがオチだろう。そのために彼は農家に出入りの商人の伝手を頼って彼女に逢おうと試みた。会いさえすれば顔がわかる。わかりさえすれば仇が討てる。あるいは自分が返り討ちになるか、二つに一つだった。その時の彼はそう思っていた。
   だが――
「違う・・・・」
   それは整ってはいたが、仲間たちが殺されたときに垣間見た女王の顔立ちではなかった。
(ではすべてが俺の空回りだったというのか。もう一度、探しなおさなくてはならないのか)
   張りつめていたものが弛緩して、落胆が足元にうずくまる。そのとき娘が口を開いた。
「わざわざいらしてくださったのでしょう? もう少しお話しさせていただいてもよろしいのでは?」
「それはどういう・・・・?」
   まるで彼の心を読んだような台詞だった。
「私も退屈しているということよ?」
   挑むような誘うような言葉に疑問が浮かび上がる。
(知っているのか?俺が誰だか。何の目的で来たのか。――やはり、この少女が女王なのか?)
「ね? 珍しいお話をしてくださるのでしょう? だからこそ、この人を私に紹介したのでしょう?」
   彼女は農家の娘を見やった。確信的で何か含みのある言葉。それを聞いたとき、彼はその話に乗ってやろうと思った。友人と言われた農家の娘が心配そうに彼女を見つめているのを見て余計その気になっていた。彼らの化けの皮をはがしてやろう。その時はそう思っていたのだった。
「お嬢様方がよろしければ喜んで」
「まあ嬉しい!」
   彼女は笑いながら手を叩いた。罠にかかるのはどちらなのか。運命は両者の思惑を素知らぬ顔で図りながら、秤を傾けようとしていた。




「私がお話しするのは、実際に私が経験したことです。信じない人の方が多いかもしれない。けれども確かに彼らは存在する――。
   あなたは『吸血鬼』というものを知っていますか?」
   農家の娘は露骨に顔をしかめたが、貴族の娘は嬉しそうに再び手を叩いた。
「怖いお話ね。私、大好き。お父様とお母様は下品だとおっしゃるけれど」
「そのご意見に全面的に賛成しますわ」
   独り言のようにつぶやく友人の意見を片眉をあげて黙殺し、彼女は言った。
「ではお話しなさいな」
「私の友人は狩人でした。それもとても危険な獣を狩る狩人。彼らは決して人に知られずに獲物を狩り、そして誰からも顧みられず、誰からも称賛されず、誰からも認められず、そのことを当然と思い、またそのように振る舞ってきました。
   なぜならばその狩りそのものは人間の目に触れてはならない類のモノであったからです。彼らが狩っているのは『人間では非ざる存在』、すなわち『吸血鬼』でした。
『吸血鬼』は外見は人間の皮をかぶります。それも見目の良い、大抵は少女や麗しい青年。そう言った彼ら自身の自己愛を満足させられるような外見を纏い、そして中身はその裏腹に非常に醜いものだと言われています。そう言われているのも無理なからんことでした。彼らの主食は悍ましいことに人間の生き血――だからこそ彼らは『吸血鬼』と呼びならわされているのです。
   そして私の友人はそれらを狩ることを使命としていました。生業ではなく使命。人知れずにこれと闘い、そしてそれを屠る。それが彼らの使命でした。命がけ、いや多分存在すべてを賭けて行われる彼らの生き様と同意義の仕事だったということです」
   最初は面白がって聞いていた少女たちの顔が真剣になってくる。
「まず探ったのは吸血鬼の頭領の行方でした。彼らは決して集団で行動している訳ではないのですがそれぞれ小さなグル―プが存在し、それは女の頭領を頭にいただいて成り立っているのです。この女頭領を借りに『女王』とでも申しましょうか。彼らの母にして恋人。彼らのすべて。そう、彼女こそその集団の中心であり、吸血鬼を生み出す母であり、恋人を変成させる魔女なのです。
   彼らも元々は人間でした。それがある時にその女王に見出され、女王に魅了され、そして自ら進んで女王と同じ存在になる。そうやって女王は自らのグループを生み出し、彼らは女王の意志として手足として存在するに至るのでした。
つまり女王を中心として彼らは成り立っている。逆に言えば、女王を殺してしまえばグループは統率がなくなり自己崩壊に至るのではないか――。そう思い、狩人たちはまず女王を狙ったのです。
   女王はその性質上、わずかな例外以外は傅かれることを良しとし、彼らは女王を護ります。それは中世の騎士がその想い人である女性を護るように、あるいは主に仕えるようになされ、そのためにこそ彼らは『騎士』と呼びならわされていました」
「呼びならわす、と言うのは彼らが自らそう言っていたということ? それとも狩人たちが自分たちだけで言っていたということ?」
   貴族の少女は幾分大胆な口調で彼に問いかけると、彼はにっこりと少女に向かって微笑んだ。
「『吸血鬼』などと言う化け物の間のことなど、私は知りません。ただ、狩人たちの間ではそう言い伝えられているのだと私は教えられました」
「まあ、どなたに?」
   彼女は追及の手を弛めなかった。遊んでいるようでもあり、探っているようでもある。輝く瞳が彼を見つめている。
「もう・・・。二人ともやめて。誰だっていいじゃありませんか」
   その中で一人だけ農家の娘だけが狼狽して二人の間をなだめようとしていた。
「ねえ。よろしいでしょう? 私、怖いわ」
「あら。大丈夫よ。だってこれは作り話なんですもの。そうなのでしょう?」
「作り話・・・?」
   だってそうでしょ?と少女は言った。
「最初にあなたはおっしゃったわ。狩人と言うものは闇にまぎれて誰にもその存在を知られてはならないって。それなのに、どうしてあなたにその狩人のお一人?がこんなことを話したというの?」
   話のほころびに微笑みかける。
「だからこれは作り話」
「そうでしょうか?」
   断じた少女に彼は同じように微笑みかけた。
「私がその狩人の一人と親しくしていたからかもしれませんよ。それとも・・・・私も狩人の一員なのかもしれない」
「そう?」だが少女は動じなかった。
「そう言うこともあり得るとして聞いておいてあげましょうか。
   ねえ。それよりも――。続きを伺いたいわ。その『吸血鬼』の『女王』と『騎士』がそれからどうなったの?狩人は女王を見つけたの?」
「ええ。何年もの苦難の末、ついに彼らはその仇敵の一人を見つけ出しました。まだうら若い外見を持ち、純粋な光を宿したつぶらな瞳。一目で魅せられるほど美しい少女でした。けれどもそれが彼らの手なのです。
擬態、と言う言葉をご存知ですか? 動物が獲物をおびき寄せるため、あるいは昆虫が敵から身を守るため、一見別の生物に見えるようにその身を変化させるのです。形を変化させるものがあれば、色を変化させるものもいる。『吸血鬼』は女王も騎士も皆、美しい。それはその糧食である人間の生き血を得るため、人間を引き寄せるため見目麗しい形を取るのだと伝えられています。その女王も美しかった――」
「まるで見てきたように言うのね・・・・」
   農家の娘が呆然とつぶやく。
「けれども彼らは訓練された軍犬のような者たちでした。見た目に惑わされることは無い。まるで弱々しく守護を必要としている存在のように見えるその少女に、一切余計な感情を入れずに撃ちかかり斬りかかったのです。
   それは猛獣を前にした猟師の仕事のようであり、少女は悲鳴を上げて飛び退りました。そして、そのとき彼女は自分自身の正体を暴露したのです。生命の危機の前に偽りなど吹き飛んでしまう。彼女がその時見せたのは人間にはありえない身体能力でした。銃と刃の雨を、彼女は易々と避けて見事な跳躍を見せました。月光に弧を描き、月を易々と飛び越えて、彼らを見下ろすように彼女は対岸に降り立ちました。
   月の光に照らされて、少女は華奢で儚く、今にも消えそうに見えました。その美しさは月の光のようであり、彼女たちがなぜ人間を惹きつけるのかがわかるような気がしました。だがその一瞬、彼らは女王の瞳が月の光を圧倒するまでに輝くのを見た。それは人間の美しさではなかった。しかしながらそれ以上のもので彼らを魅了し、圧倒しつくしました。
   その一瞬がすべてでした。その一瞬が彼らの死を決定的にしたのでした。彼らを魅了した女王には、自分自身以外に寄る辺が存在しており、それを彼らは知っていながら失念してしまったのです。それはその女王があまりに彼らを魅了したのでもあり、殺すべき存在をあまりに見つめすぎていたからでもありました。だがその時、女王の姿の影に、それまで気がつかなかった存在を、彼らはようやく知ることになった。月の美しさに隠れて星が光を失うように、だが確かに彼はそこにいた。――それは、それこそが彼女の騎士。女王によってすべてを与えられ、女王によって存在し、その身を挺して女王を護る。
   殺戮は一瞬でした。そもそも彼らの闘いには、最初の一瞬しか機会は与えられないのが常だったのです。その一瞬で仕留められない場合は逆に彼らの方が狩られる立場になる。それが常道でした。まさに死か生か、どちらか一つしか選び取れない狩りだったのでした」
「そして彼らは負けたのね。――なんてつまらないお話しなのかしら? 最初からわかりすぎるくらい結末が見通さる話ほどつまらないものはないわ」
「最後までお聞きになりたいのではありませんか?」
「あなたが楽しませてくれるのならね」
「――おっしゃる通り、彼らは敗れました。彼らが負けたのは彼らがあまりに女王にとらわれ過ぎたから。魅了された一瞬さえなかったら、別の結果だったのかもしれません。
しかしながら、どんな場合にも例外は存在します。彼らの中に一人だけ、女王の瞳を覗かなかった者がいたのです。彼は自分の仲間たちがあり得ない隙をさらけ出し、次々に倒れていくのを見ていました。
   彼ができたのは、ただ魅了されていない己が身をできるだけ目立たないように隠してその場をやり過ごすだけでした。一瞬の自分の運と、その代償に支払う罪悪感と後ろめたさを。望んでいない幸運がどれほど無価値で唾棄すべきものなのか」
「望んでいない幸運・・・・」
   貴族の娘がつぶやいた。その目に一瞬異様な光が宿る。
「自分自身がどれほど幸運だったのか、人はそれを失った瞬間にそれを思い知る――。
   でも、あなたは後悔しないのでしょうね。なぜって自ら進んでそれを選んだのだから。そしてその瞬間、運命は決定せられた。
――ねえ」
   彼女は腕の中にしっかりと友人と言っていた豪農の娘を捕えていた。だが彼の方が一瞬速い。娘たちが居る周囲に細い、糸のような銀線がいくつも張られている。そこには鉄条網のような多くの棘が生えていた。
「早さも力も、俺たちはあんたたちに劣っている。だからこっちも必死なんだよ」
   娘たちの皮膚にひっかかれたような傷が浮かんでいる。捕えられた娘が悲鳴を上げた。
「まあ、あなたったら、この娘も巻き添えにしようと言うの?」
「仕方ない。運が悪かったんだ」
   彼はひどくそっけない口調でそれだけを口にした。運と言うのがどれほどのものかと示すように。
「それだけ? 人間と言うのは薄情なのね」
「言い訳はしないさ。彼女は犠牲者だ。俺の仲間たちの様に、お前たちに殺される犠牲者なんだよ。俺は巻き添えにしたことを悼むだろう。だがだからってここで止めにすることはできないだろう? すべてを巻き込んでいく。だからこそお前たちのようなものは存在してはいけないんだ。
   さあ、闇のものは速やかに闇に還れ」
「闇? 私たちが?」
   再び捕えられた娘が悲鳴を上げ、身を振り絞るように離してと小さく叫んだ。その姿をどこか冷静な、伺うような目で貴族の娘が見つめている。やがて彼女は自らが捕えた娘が身じろぐ様を見つめながらつぶやくように言った。
「なぜかしら? 愛おしければ愛おしいほど私たちの欲求は高まると言うのに。私たちのこの行為はすべてあなたのためだと言うのに、あなたはそれを拒んでいるのね・・・・」
   娘が恐怖に凍りつき、引き裂くような悲鳴を上げる。吸血するのだととっさにわかった。
いけない。これ以上あの女の形をしている者に力を与えては。銀泉がギリギリと引き絞られ、同時にこれまたいつの間に取りだしたのか、長い刀が少女に向かって投げつけられた。
   縛られたままの少女にそれを避ける術はない。あっけないほど簡単に少女の胸は血に染まった。だがこれくらいで『彼ら』が倒れはしないことを彼も十分わかっていた。
   首を切り落とすか、身体を再生不可能なまでに焼き尽くすかしないと彼らを滅ぼすことはできない。もう一本刃を取り出し、今度こそ首をそぎ落とそうと彼が近寄ったとき、少女はゆったりと身を起こした。
「ねえ。狩人さん。貴方は、私が女王なのだと思っていたのかもしれないけれど。女王の形を取る者は、なにも女王だけとは限らなくてよ」
血に染まった刃物が女の身体から抜け落ちる。
「そう。そうね、でもこちらとしては手間が省けたようなものだわ」
滴り落ちる自らの血を拳に溜めると、彼女は腕の中の華奢な娘の口元を無理やり開かせてそこに血液を流し込んだ。口の中一杯の鉄の味に、娘の瞳が大きく見開かれる――。
「私たちは――いいえ、女王とその騎士はおおよそ一つの存在であり、女王の記憶はその第一騎士が司る。記憶と共に。今こそ真の御身を見そなわし給え」
   言葉と共に少女は娘にくちづけをした。唇と唇。血がこぼれないように、娘に逃げ場を与えないように。おとなしやかな娘の瞳は今や嵐のように揺らいでいた。我が身に巻きつく銀の棘と、華奢な喉を通る血の味と。だが彼女は吐き出そうとはしなかった。
   娘の喉が鳴っている。
「あるべきものはあるべき姿へ――」
「ああ・・・・」
   口元を血の色に染めながら解放され、娘はため息をついた。
「血の味がする・・・・」
「懐かしい? 恋しかったでしょう? 私の血。あなたから私に与えられたもの。私のすべて。私の心。
   貴女の記憶と心を守り、貴女に手渡すもの」
「私の・・・心・・・?」
「それが私の役割ですもの――」
「役割・・・・?」
   うっとりと味わいながら娘がつぶやく。その瞳が徐々に、別の色を帯びてくる。
「ああ。その彩」
   貴族の娘だったモノが感極まったようにつぶやいた。
「貴女の命とは言え、永かった・・・・。あなたは私のすぐそばにいてくれたけれど、それでも本当の貴女に逢う日を夢見ていた・・・・」
「夢を・・・・見ていた・・・・」
   今や農家の娘だった存在は、瞳を揺らしてもおらず、それまで発していたどこか不安定な弱ささえも拭い去ったように消えていた。何かを悟ったように透明な意思の光がその目に宿っていた。
   彼女は貴族の娘をしっかりと見つめてうなずいた。
「あなたはよくやってくれたわ」
   今までとは異なった声色で農家の娘が言う。それはそれまでの貴族の娘のそれにも似て、厳かにその場に響いた。
「私の心と私自身を、私を含むすべてのものから守ってくれた」
   嫣然と微笑んで、そして言った。
「ありがとう。私の騎士よ」
   娘がその輪郭そのままに、女の艶やかさを纏い始めている。少女でありながら妖艶であり、成熟を中に孕みながらも無垢な輝きを宿す存在。無垢ゆえの残酷さも共に内包しながら――。
微笑んだ女が騎士と呼びかけた少女と顔を見合わせる。楽しかったわ、と言いながら。それはまるで双生子を見ているような姿だった。外見は異なっていながらほとんど同じ存在がそこにあった。
「でも。もういいの。遊びの時間はこれで終わりよ。さあ、今度は本来のおまえの姿を見たいわ」
   その言葉と共に少女の輪郭が崩れ始める。
   男は思わず後ずさった。目の錯覚か、娘の輪郭がおぼろになり始めている。そしてさらに顕著なのは貴族の少女の姿だった。すらりとしていた背がさらに高くなり、肩幅が厚みを増した。腕も、髪も、顔つきさえも変化をしている。変化などと言うものではなかった。一瞬後に現れたのは全くの別人。少女ですらない――
「お、おまえは・・・・」
   少女の骨格が一回りがっしりしたものに取って代わられていた。それはまるで今目覚めたばかりのような、あるいは生まれ変わったばかりのようなある種の目覚めの儀式のようだった。同時に銀線がすべて引きちぎられ、引き裂かれた女の衣が地面に落ちる。
「男・・・・。男か――。成り代わっていたのか・・・・」
   狩人が驚きに囚われているのとは逆に、華奢で控えめに見えていた娘が威厳をもって一歩前に出た。
「お話をありがとう。お客人。
   ご紹介するわ。これがこの姿でお目にかかるのは初めてでしょうから。これぞ、我が眷属。私の血を分けた同族たる、私の騎士。その本当の姿」
   騎士――。化け物の女王にはその眷属があり、騎士と呼ばれる。まさか少女になっていたとは――。
「こいつは・・・・。化け物らしい狡猾な罠と言うわけだ」
「それはそちらの調査不足だな。私たちは性別さえも超越する存在。女王のためならばなんにでもなれる」
   まったく異なる声質ながら、言い方のみが先ほどの貴族の娘を彷彿とさせていた。狩人と呼ばれた者は明らかな狼狽を目に映しながら、それでも銀弾と剣を構えることを忘れなかった。
「中々楽しかったぞ」
   獲物を追い詰めるような笑みを刻んで騎士と呼ばれたものは向き直った。殺気すらない。
「まだこの上闘おうと言うのだな。私たちと」
   この一瞬が勝負だった。彼らの準備ができる前に仕留められれば――。だが構えた銃が銀弾を弾き出す前に、一陣の風と共に彼の身体は木の葉のように吹き飛ばされ、同時にその手の中から馴染んだ得物――今では自分の一部と言っても過言ではない銃がもぎ取られた。
   したたかに背中を打ち付けられたが、訓練された身体は自分の痛みをこらえて立ち上がった。片方の足のどこかが故障しているのか、感覚が無くなっている。つい先ほどまで自分が立っていた位置に、先ほどの男が立ちはだかっている。この時点で彼は自分が既に100%の力で戦うことができなくなっていることを認めざろうえなくなっていた。
   逃げることなど考えられない。口の中を切ったのか、鉄の味がした。仲間たちの顔が思い浮かんだ。彼らの仇を取るためにここまでやってきた。あの時の、一瞬の躊躇いの代価を抱えて。そのために危険に飛び込んだ。苦労して手繰り寄せたこの出会いに――。
「あの時、私たちの手から逃げおおせたというのに、なぜ私たちを追ってきたというの? これでは私はあなたを取り込まなくてはならないではないの」
   その言葉になぜだか背筋が凍りついた。
「まあ。何を震えていらっしゃるの? そんなに顔をこわばらせて。なにもそんなに固くなることはないのよ」
   女王はあの時のように華奢で儚く見えるのに、いままで見せてこなかったその残酷な一面が露わになりつつあった。尊大で人間を、その弱さを見下し、滅ぼすために喰らい尽くす存在。
「あなたは狩人。何回も私たちの摂取の姿を見ているはずでしょう? ――ああ。それとも見たことはないのかもしれない。栄養摂取だけではなくて、入れ替わるために全部の血を飲み干すところなんて」
   その言葉で彼は彼女が何を意図しているかを悟った。
「俺に、成り代わろうと言うのか・・・・」
「だからそう言っているのですわ」
   少女はにっこりと微笑んだ。
「そんなことは――!」
「そうは・・・・させない?」
   くすりと彼女は笑った。その傍らで男の影が異形へと姿を変える。蝙蝠の様な翼。固い皮膚。動物でも爬虫類でもない、黄色い目。避けた口元からのぞく牙。
「それならば見せていただくわ。どれだけ持ちこたえられるか」
   どれだけ自分の運命に抗えられるのか。




   そうして彼はついに理解した。辻占が指示していた運命が何だったのか。運命の女とはどういう意味だったのか。
(だれも運命には逆らいきれない――)
   ならば自分こそが運命に逆らう一人になってみせよう。強大すぎる敵の前に身体の中から震えが湧き上がり指が震える。だが彼はそんな自分自身を一笑に伏した。




   心の奥から笑いがこみあげてくる。これほどまでに頭が怜悧に明晰になったことはなかった。自分の身体は今、自分が何をすべきかを心得ているのだ。震えがぴたりと収まる。
   まだ銃器が一つ、奪われただけ。先ほどの銃ほど手に馴染んではいないが、獲物ならば複数所持している。狩人の鉄則だった。彼は新しい自分の獲物をもう一つ、握りしめた。
「さあ」
   口の中に血の味がしみ込む。
「来るがいいさ」
   そうして闘いの幕は切って落とされるのであった。








END



2015.7.10

なんだか時間ばかりがかかってしまった話ですが。取りあえずアップしてみました。マイナーチェンジはするかもしれません。

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