娘の私から見ても母はか細く儚げで、いつも夢見る少女のようにも思えた。


   身体が弱かった母は生涯の半分以上を寝たり起きたりの生活で、代わって私の面倒を見てくれたのは母方の祖母であった。祖母はしっかりした人で、万事そつなく家事をこなし祖父のそんなに多くはない遺産を切り盛りして自分たちの生活に充てていた。家屋敷と地代。それから祖母のレース編みの手間賃とで慎ましくしていれば何とか暮らしていけるほどのものを祖父は残してくれたのだった。それがなければ半病人の母を抱えて祖母と私は路頭に迷っていただろう。
   母の浮世離れした雰囲気とは逆に娘である私はと言うと、色も黒く、何かにつけ不器用だった。だが身体は頑丈で滅多に熱など出したこともない。祖母などはそれが一番大事なことの一つだと言ってくれたが、私は時折なんだか損をしたような気分になったものだった。
   だが私と母の関係は良好だった。望まぬ婚姻の結果であり、私を産んだため母の身体は益々弱ってしまったというのに、母の私に対する愛情はやさしいものだった。
   母と私の好きな遊びに、母の持っている古いアルバム類を眺めて楽しむというものがあった。まだ母が幼い頃には祖父も健在で生活にも多少のゆとりがあったようだった。祖母や母の衣服は上等でその頃の写真や動画はいくらでもあった。
「本当は整理しなければならないけれど、多すぎて中々そんな気にならないのよ」
   そう母は言ったし、祖母はそれらにほとんど関心を向けないどころか、母がそれらを眺めることにあまり良い顔をしなかったところを見ると、過去のそれらは祖母にとって振り返ってはならない出来事なのであるようだった。
「そんなものを観ているより、もう少し栄養を摂るなり、外の空気にあたるなりして身体をしっかりさせることが必要なのだよ」
   やんわりとした言い方だったが有無を言わせぬやり方で祖母は母からアルバム類を取り上げて、母を休ませたり、あるいは服装に気をつけて散歩に連れ出したり、少しでも回復させようと気を配っているようだった。それは母を、母が見ている夢の中から連れ出そうとしているようでもあり、私はそんな祖母の心中も理解でき、そういう場合は少しでも祖母と共に母の面倒をみるように頑張っていたつもりだった。
   母が実際にどんなことを考えていたのかは未だに私にはわからない。けれどもそんな折、母は苦笑するように祖母や私を見つめて大人しくその場は言うとおりに従っていた。私が祖母の目を盗むようにして、母が休んでいる時間にアルバム類を持ってくることを知っていたからだったのかもしれない。
「本当にちょっとだけよ」
   私は母に向かってませた口調で言ったものだった。
「もちろん、わかっているわ」
   それからが母と私の楽しみの時間帯だった。今の穏やかだが単調な生活とは異なり、アルバムに映ったの当時の母はまだ若く健康的な美しさにあふれていた。少女の母。笑っている祖母。そして元気だった祖父。祖父はよく頼まれて離れを他人に貸していた。その頃が一番この家に活力が満ちていた時期だった。
「おじいさまのお客様方は不思議な雰囲気だった。少なくても私たちが知っている人とはちょっと違っていたの」
   母は少女のような声で話した。
「私はまだ子供だったから、誰だったのか、どうしてそこにいたのかなんて知らなかったし、誰かに聞くことなんて思いつかなかったわ。でもこっそりのぞきに行ったのよ」
「それで?」
「その『人たち』はその頃毎年ここにいらしていた。交代で、必ず一人ずつ。何人いらしたのかは私にもわからないわ。――そうね。あの人たちは誰かを待っていたようだった」
   そう言う母こそが誰かを待っているような気がして私は息を呑んだ。誰か――母が待っている人が母を呼んだならば、そのまま私を置いて行ってしまいそうな気がして。
「誰を――?」
「わからない・・・・。でも多分――、きっと・・・・女の方」
   私はもしかすると、母が夢を見ている分、母よりずっと早くに大人になってしまったのかもしれない。そのときはそう思った。恋も知らず、この世の不条理の名にも知らなかった私だったから。母の言葉はなんの根拠もない分、耳に柔らかく、想像の土台の上で美しいものだった。
「母さんは?」
「え?」
「その人たちの中に好きな人がいたんじゃないの?」
   すると母は頬を染めて黙り込むのだった。私はどちらかというと祖母に性格が似ているのだと思う。そんな風にふわふわと夢の中を漂っているような母をうらやましく思っていたし、多くの大人たちが語ることのない私の父との不幸ないきさつの代わりに母が大切にしまっている心の中の宝物を私自身も大切にしたいと思っていた。それは祖母も同じだったと思う。ただ、祖母は母がそんな風に過去に囚われたままでいることを非現実的であるとして危惧していたが、私は母のそんな部分もやわらかなやさしい想いで見つめていたように思う。
「あなたには見せてあげる」
   そう母が言って取り出したのは一枚の写真だった。そこに映っていたのは美しい男性と女性の姿だった。男性は10歳くらいの子供を抱き上げている。女性は・・・・面差しが母に似ているような気がした。だが決して母ではない。私が見たこともない、この世のものではないような美しさだった。母よりも若く、母が夢を見ている少女だとすると、彼女は美しい夢そのものだった。抜けるような白い肌。栗色の髪。鮮やかな青い目。彼女の周りでは全ての存在が色褪せてしまうだろう。その隣に佇んでいる青年もまた美しかった。
「これ、誰だと思う?」
   母が嬉しそうに写真を指差したとき、私は何を言われているのか一瞬わからなくなった。美しい二人の間にいる子供。あまりにも母は無邪気だった。
「この子供が私なのよ」
「母さん? でも・・・」
   この女性は祖母ではない。そして母が『彼ら』に出会ったのはまだこんな小さな時だったのだ。母の中の想いはその後どんな形に育っていったのだろう。
「似ているでしょう? この女性、私に。いいえ。私がこの人に似ているのだわね」
「でも。この人はお祖母様ではないじゃない」
「そうね」
   母は不思議な笑みを浮かべた。私が理解できない種類の微笑みだった。似ていることそのものが大切だというように。それとも・・・・。まさか・・・・。
   ありえないと分かっていても、母の瞳を見ていると不安が増した。
   母が言葉に出さずに示したこと――あるいは私にそう取って欲しかったことは、私にとっても大きな疑問となっていった。私はあまり物事を有耶無耶にしておくのが好きでは無い。その点、私の祖母が私と似た気質だったのは幸いだった。
   その、あまり気持ちの良い質問を投げたとき祖母は一瞬、苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、ため息をついて話し始めた。
「あの子がそう言ったんだね。いつまでも夢を見ていて――。それはね、あの子がそう思いたがっているだけのことなんだよ。そこに映っていた男の方は、その毎年のように離れに泊まりに来ていた方々のお一人。そして女の方は――私にもわからないんだよ。いつの間にかいらしていて、いつの間にかいらっしゃらなくなっていた。
 そして、その女性が姿を消すのと同じときに、それまでいらしていた方々もふっつりと姿を消して二度と離れは使われなくなった。きっとあの子の中にはそれが淋しくて、自分があの方々のお仲間に入れたらと思っただけのことだと思うのだよ」
   わかっていた。母から生まれた私はとても祖母に似ている。母が祖母以外から生まれたことはありえないことだった。その一瞬私は祖母のために母に対して生まれた初めて反抗的な感情を持ったのだった。
   それでも穏やかに日々は過ぎていき、ある初夏の日のことだった。いつも落ち着いて物事の采配を振るっている祖母が、幾分興奮した様子で私たちに告げた。
「久しぶりに客が来ることになったよ。離れを使うことになるからね。私は掃除やら買い出しやらで少しバタバタするけれど、あんたたちはそのまま大人しくしておいで」
「離れに?」
   私が生まれてからその離れが使われたことがないと私は知っていた。時折私自身の勉強部屋に使われるのみだったその離れは母の夢の舞台でもあった。その知らせを聞いた時、母の顔が日の光に照らし出されたように輝いたのは当然だったと思う。だが意外だったのは母の思い出に良い顔をしてこなかった祖母もひどく浮き浮きした様子を見せていたことだった。祖父の時代、輝いていた時代の思い出を二人はたどっていたのかもしれない。私自身も二人の気分が移ったように心が高揚しているのを感じていた。
   熱を出すといけないからという理由で寝台に追いやられていた母とは違い、私は積極的に祖母の手伝いを名乗り出ていた。掃除や食料。とりわけきれいな水と上等の赤葡萄酒。それらを台所にしまい込んで私は好奇心をしまい込むことができずに祖母に尋ねた。
「どんな人なの? 母さんが言っていた人たちとどんな繋がりがあるの?」
「おまえ・・・・」
   そのとき、多少昂揚していた祖母の顔が一瞬で心配と不安に曇るのを私は見た。
「あの子から何を聞いたの?」
「何って、別に・・・」
   祖母の問い詰めるような様子に私は不安になった。祖母は何を心配しているのだろうか。だが彼女はため息を吐くと私にきちんとした説明をしてくれた。きっと私が知りたがりであること、知るまでは決して引かない性格であることを知っていたのだと思う。
「まだおじいさんが生きておいでになった頃からそうだった。私たちはこの土地をある条件と共に譲り受けたのだよ。
   その条件とは、離れを使いたいとおっしゃる方がいらっしゃったら何も訊かずに黙ってそこをお貸しすること。その方々がおっしゃることをできるだけ叶えて差し上げること。その二つだった。
   今回は何十年かぶりでお見えになるとお知らせがあってね。そう・・・。おまえが生まれて初めてのことかもしれない」
   祖母は自分までもが心待ちにしているように準備を始めたことに罪悪感を感じているようだった。
「どうしてだか、おじいさんは私やあの子が離れに行くことを嫌がっておいでだった。本当に必要最低限のことだけをして、あとは放っておくのが一番だとおっしゃっていらっしゃったからね。
   だけど私らはあの人たち――あるいはあの人たちの世話を頼んだ人のお蔭で、こうして世間並みに暮らしていけるのだよ。それが良きにつれ悪しきにつれ。――少なくてもおじいさんはそうおっしゃっていた」
「おじいさんはそのお客様方がいらっしゃるのを嫌がっておいでだったの?」
「嫌がって・・・・と言うよりも、むしろ怖がっているようだったね。だけど私にはどうしておじいさんがそんな様子だったのかその理由はわからなかった。あの子に至っては心待ちにしていた位だった。もちろんおじいさんには何にも言わなかったけれど」
「おばあさんは? やっぱりおじいさんと一緒で怖いの?」
「怖かないよ。ただ・・・・」祖母は口ごもった。
「あの子のことが心配なのだよ」
   だから私は自分がしっかりしなければ、とそのとき思った。自分が祖母を助け、母を守らなくてはならないと、そんな風に思っていたのだった。
   その客人がやってきたのはよく晴れた日の夕方だった。
   夕陽に長く影を伸ばし、細身の体を仕立ての良いスーツに包んで。赤い夕陽が照らし出したその姿はスーツのせいで私の目には漆黒に映った。美しい人だった。この世にこれほど綺麗な男性がいるのかと思うほどにその人は美しかった。私も多くの本を読み、騎士物語や英雄譚を読んでいる。その想像をはるかに超えて美しいと言える人を私は初めて見た。
   祖母も母も、まるで待っていた懐かしい人を迎え入れるように、ひどく慕わしげにその人を迎え入れた。だが私が見ていたのは彼の背後にあった夕陽の色だった。まるで血のように真紅で、時折その中に黒い影が映る。それはその人が美しければ美しいほど逆に不吉なものを予感させるものだった。
   病弱で常に青白い顔をしていた母だったが、その人を見たときに母の頬にうっすらと血の気が上っていったのを憶えている。嬉しそうに、幸せそうに。そんな母を私はそれまで知らなかった。母は――美しかった。自分の母親がそんなにも美しいのだと私はそのとき初めて気がついたのだった。
   祖母は心配したのだが、母はその人の世話を自分自身がやると言ってきかなかった。
「本当に調子が良いの。少しは身体を動かさせて」
   まるでその人がやってくるのを見越していて、そのために体力を温存していたのかと思われるほど母は元気になっていた。私は母が楽しそうにしているのが嬉しかったし、祖母も病弱な母に張り合いができたのだと思っていたのだと思う。母はまるで少女時代に戻ったかのように楽しそうに離れに出かけて行った。
   住まいを掃除し、花を飾り、洗濯物を引き取る。そんな簡単な仕事でも病気がちだった母には荷が重いのではないかと私は考え、常に母と一緒にいるようにしていた。母はまめまめしく立ち働いていた。とは言うものの、私が思っていた以上にその人の世話は簡単だった。その人は葡萄酒以外ほとんど家では食事を摂らず、留守がちか部屋にこもったきり滅多に私たちの前に姿を見せることはなく、私は拍子抜けしたものだった。美しいが私の人生にはなんの関係もない人。なぜ母や祖母のこの人を特別視するのか、私には理解できないと思った。母など生き甲斐であるかのように、あのアルバムの写真を繰り返し見つめていたではないか。そう思ったとき、私はそれまで母に感じていたもの、それまでやさしい気持ちでひたすら傷つけないように思っていた母への心に、別の要素が侵入してきていることに気がついてぞっとした。母のその、純粋でやさしい気持ちを私は愛してきたのではなかったか。その母だからこそ、私を常に愛しんできたのではないか。たとえ私の父がどんな人間であったとしても。母に対するひどい仕打ちのために、母は私を連れて祖母の元へ戻って来なければならなくなったとしても。
   母は――。私の前で父の話をしたことはなかった。私も敢えて訊かなかったが、母はまるで私の父が最初からいなかったように振る舞っていた。物心ついて大分経ってからだった。私が自分の父親のことを知ったのは。父は母にとっては嵐のような人物だった。突然母の人生に現れては、まだ華奢な少女だった母を連れ去りその支配者となった。母にとって父はただ黙ってうつむき、通り過ぎるのを待つ乱暴な大風だった。大風は気紛れにもこの夢見がちな女を手折り、その後その繊細さに飽きると捨て去った。後にはただ赤ん坊と、震えている痩せた女が残っていただけだった。
   そんな話を私は近所の噂話と、口の重い祖母の言葉から知ったのだったが、私がそれらに多少なりとも興味を持ったのは傷つきやすい思春期よりもずっと後になってからだったので、それほど大した傷にはならなかった。それよりもその前の、母の作り出す夢のような雰囲気の方に私は浸されて成長していたのだと思う。だからこそ、今ここでそれらが急に褪せて見え始めたことに私はある意味焦りのようなものを感じていたのだった。
   だが母は――。私のそんな複雑で危うい心など知る由もなかった。そのときの母の目に映っていたのは、美しい客人であり、自分が子供の頃に出会った夢の日々の一片だった。私さえ母の目に入っているのかどうか私は疑問だった。
   夢の中の夢。現実の見えない瞳。自分自身の体調さえも母にはどうでもよかったのだろう。一時的に快方に向かっているように見えた母の体調だったが、根治がなされたはずはなかった。気持ちの高ぶりでなされた高揚がいつまでも続くわけがない。見間違えるように体調の良くなったと思っていた母のそれが崩れだしたのは、ある薄暗い夕方のことだった。
   その日、母は青白い顔をして離れから戻ってきた。私はたまたま祖母の用事で外出し、母一人が離れに働きに行っていたのだった。母の顔を一目見た瞬間、私は母を一人でやったのを後悔した。母は何か見てはならないものを見たときのように顔をこわばらせ、蒼い唇をして震えていた。
「母さん!」
「ああ・・・・」
   母は震える声で私の名を呼んだ。
「私はずっと待っていたのかもしれないのに。私は本当に愚かだった。私自身のこともわかっていなかったなんて――」
「母さん・・・・? 何を言っているの?」
「あの人たちは私の憧れだった。夢だった。あそこに行きたかった。あの中に・・・・。私も――。そう思っていたのに・・・・」
「母さん、落ち着いて。ここに腰かけて――」
   母の身体は冷たく、私は必死で落ち着かせようとしていた。急いで温かな飲み物を用意して手に持たせる。椅子に無理やり腰かけて一口二口飲み進めると、ようやく母の身体の震えは収まっていった。けれども私にはその身体は今までとは反対に、ひどく力を無くしてしまっているような気がした。
「母さん・・・・。もう休んだら?」
「そうね・・・・」
   疲れた・・・・と母はつぶやいた。
「私はやはり私でしかないのね。あの方がいらっしゃったから。私はあの時の夢の時間がもう一度戻ってくるような気がしたの。でも違った・・・・」
   私の間違いだった。そう母はつぶやいて、私に背を向けて寝室へと去って行った。私にはわからなかった。なぜ母が急にそんなことを言いだしたのか。離れに何かが起こったのか。
   今まで私は離れに行くときに必ず祖母の了解を取っていた。けれどこの時私はそんなことなど失念していた。何かが離れにあるような気がしてならなかった。あの外出の多い客人が今いるのかどうかも分からない。でも私はどうしても確認しなければならなかった――。あそこに何が起こっているのか。母が何を見たのか・・・・あるいは体験したのか・・・・。私ははじめて一人で離れに行ったのだった。
「あなたは――!」
   息せき切って戸口を開けた私を、その人は振り返った。その人を見た途端、質問しようとしていたその意味も、母の様子も、一瞬私の中から消し飛んだ。もちろん私は母の持っていた映像で彼らを何度も見ていた。この離れを使うときに、彼らの挨拶を受けに祖母や母と共にここに来て彼が挨拶をしたその場にも同席していた。彼らがどれほど美しかったか、私は知っていたはずなのに。
   私は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「君は・・・・」
   私がしたのと同じような言葉を彼が発したとき、私は全身が総毛立つ思いがした。それは甘い気分とは異なる、磁力と警戒心の中心を引っ張られるような感覚だった。
   あってはならない者の声。そして青い目。光の反射がないような、光を吸い取っていくようなその目。何かを言いたいのに私の喉は用をなさず、私は後ずさった。言うべきことは何もない。ここから逃げ出したい――。そのとき、離れの奥からがたんという物音が聞こえ、彼が後ろを振り返った。
   呪縛が途切れたようだった。私は彼の視線が再び戻ってくる前に脱兎のごとくその場から逃げ出したのだった。
   その日を境に何もかもが異なってしまった。
   母は再び寝付くようになり、時折夢でうなされては熱っぽい目で飛び起きて私たちを驚かせた。母の変化と同時に祖母も変わった。それまで明るくて大らかとは言わないまでも、しっかりと踏ん張っているように見えた祖母が、母が寝付いたとたんにひどく気難しい一面を見せるようになった。母の様子に敏感になり、どうしても仕方のない用事以外離れに私をも行かせたがらなくなった。もちろん祖母は私が一人であの人に会ったことは知らない。それでも家族として何かを感じ取っているようだった。
   あの時以来、私が離れに行ったときには誰に出会うこともなく、私は正直ほっとしていた。時間が経つにつれあのときの出来事が遠くなり、実際には私の自意識過剰なのかもしれないと思うようにもなっていった。それ以上何があるのか。だが私は忘れられなかった。母の様子が変わったこと。その日にあったあの人の仄暗く輝く青い目。私の中の何かが警告を発している――。一方で祖母は母に対して非常に神経質になった。母が外に――特に離れのことを口に出すと途端に祖母の機嫌が悪くなり、決して母を一人にはしないように私に言うのだった。
   離れ――。いつの間にか私も、もちろん母も行くのを禁じられているような雰囲気になっていた。恐らく代わりに祖母が毎日行っているのだろう。祖母の口数が少なくなったと思ったのはそれから間もなくのことだった。それまで私たちは賑やかに食卓を囲んだものだった。祖母は話し上手で聞き出し上手だったし、私も祖母に聞いてもらうのは大好きだった。母が調子の良い時にはそこに母が加わって女三人の食卓は楽しかった。だが今はどうだろうか。祖母は――祖母も物思いにふけるようになり、二人きりの食卓の雰囲気は暗かった。
   だから私たちは気がつかなかった。寝台の中で母が何を考えていたのか。「あの日」、何を見たのか。何を知ったのか。
「母さん?」
   ある日、私は母の寝台が空なのに気がついて愕然とした。あの弱々しい身体で一体どこに行っているのか。だが私の心配は枕元の一枚の映像によって解かれた。あの写真。母が幼い頃の、あの人たちとの写真。とっさに私は身を翻して書庫へと走った。
   母は書庫の中で倒れていた。いくつかの写真が散乱し、母を飾る花弁のようにも見えて私は一瞬動けなかった。
「母さん!」
   母は気を失っているだけだった。けれど弱っている母の身体に何が起こったのかわからず、私は走り寄ってしっかりと母の身体を抱き上げると大声で母を呼んだ。もうこれ以上何かが起こるのも、母や祖母がおかしくなるのは真っ平だった。耳元で何度目か大声で叫んだとき、母はようやく目を開けて私の名前を呼んでくれた。私は身体中の力が抜け落ちるほどほっとした。
「大丈夫よ。いつの間にか眠ってしまったみたいね」
   いつもの通り、半分笑っているように母はささやいた。だが母の身体には弱々しい体温しか残っていない。
「ほんとに大丈夫? 起き上がれる? 歩ける?」
   母は微笑んで身動きし、よろめきながらも立ち上がった。腕にしっかりとあの映像記録を抱えて。それを見て、私は祖母がどうして母がそれらを見るのにいい顔をしないのかがわかったような気がした。
「ほんのちょっとだけよ」
   私の口真似をしてそう言う母に射す翳は薄暗く、私には母を止めることもうなずくこともできなかった。母が寝台に入って嬉しそうにそれらを眺めていたからだった。少しでも母の力になっていれば良い。
   だからたとえ不吉な予感が私の中をよぎっていても、私はそれを無視していたのだと思う。
「ねえ。この子供。やっぱりあなたに似ていると思わない?」
   そう母が言い出したとき、それだから私はぞっとしてその言葉を聞いていた。その写真は子供の頃の母と、離れに来ていた客人とその恋人だろうか、美しい女性の三人が映っていた写真だった。
   子供の頃の母。私が母に似ていたならば、私はこんなにも動揺しなかっただろう。私は母ではなく祖母に似ていた。今も。子供の頃も。私は母が次に言い出す言葉を半分以上予想していた。
「この人の隣にいるのが、私だったら・・・・」
   不覚にも私はそのとき初めて気がついた。今、離れに来ている客人と、この写真に写っている男性はよく似ている――いや、髪形や服装が違っているだけで、そっくりと言っても良かった。子供なのか、それとも縁者なのか。
「母さんったら、そんなことありえないじゃないの」
   私の口調がきつくなってしまったのも仕方がなかった。私は動揺していた。母の口からそんな言葉が出た事実を否定したかった。
「そうね。そうよね、変なこと言ってごめんね」
   ごめんねなんて母の口から聞きたくない。私は無理やり母を寝かしつけると祖母の所へ走って行った。
「母さんが・・・・!」
   振り向いた祖母の顔も、母とは別種の何か非現実の領域に踏み込んでいる者のように呆けているように見えて私はぞっとした。こちら側に取り残されているのは自分一人だけのように――。
「あの子はあっちへ行ってしまうのかねえ・・・・」
「おばあさん! ダメよ!」
衝動的に私は祖母の肩を掴んで揺さぶった。本当は母にもこういう風にしたかった。
「こっち向いて!」
   そのとき私が祖母を引き戻せたのは、ひとえに私が若かったからなのだろう。私の持っている生きることそのものへの無意識のエネルギーと必死さが祖母を正気付かせた。
   祖母はたった今起きたばかりとでも言うように目を瞬かせて私を見た。
「あ・・・」
「おばあさん、教えて。あの人は何なの? あの人が来てから母さんはおかしくなったんじゃないの?」
「そうじゃないよ」
   祖母は小さな声で言った。
「あの子がああなってしまったのは、あの人たちと関係ない。ただ・・・・あの子は引きずられているのだろうね。あの人たちが属していて私たちには絶対に理解できない何かに――」
「私・・・私には何ができるの?」
「もうあの子には離れに行くだけの力はないと思うけれど、もう決してあの人の所にやってはいけない。私もよくよく気をつけているけれど、おまえも気をつけておくれ」
   そういう祖母自身の中にも不安定なところを私は感じ取っていたが、それでも二人でどうにかやっていくしかなかった。私はよく晴れて気分の良い昼間に離れを訪れるようにして、気分が滅入る時期には決してそこに近寄らないようにした。同時に母を見張っていることにした。母がどこにも行かないように。
   私は離れに行っては、あの人――。母が見つめ、母を追い詰めた原因になった、不可思議な客人を遠くからじっと見つめていた。母のように憧れというではなく、不可解なもの、異質なものとして私は彼を見つめていたのだった。美しい客人。物静かでその場だけ切り取られたように別次元にある――。非の打ちどころがないというのが逆に不審を抱かせる。そんなこともあるのだ。
   そうやって無遠慮に見つめ続けていたのだろうか。ある日、不意に彼が私のことを見つめているのに気がついて私ははっとなった。今まで敢えて私の方を見ようとしてこなかったのかもしれない。視線と視線が勝ち合うことがこんなにも気恥ずかしいものだったとは。
   私が戸惑っているうちに彼は滑るように私の前に移動してきて私はそこから逃げ出すタイミングを逃してしまった。
「良かった」
   そう彼が言ったとき、それが彼の肉声であり私はその声を初めて聴いたのだと理解した。やわらかな低い声だった。
「あなたはお祖母様やお母様と違ってすぐに離れて行ってしまうので、中々声をかけづらかったのだが。一つ頼みたいことができたのだ」
   祖父の時代から――いや、もっと前からなのか――この離れの客人の言うことはよほどのことが無い限り叶えるように言い渡されてきたことを私も知っていた。仕方なく私はうなずいた。
「明日の夜、私の仲間――兄弟たちがここにやってくる。そこでこのあたりで用意できるモノで構わない、最上等の赤葡萄酒を10本と真紅の薔薇をできる限りの本数、用意して欲しいのだ」
「今からですか・・・・?」
   母の具合が悪く、祖母も様子がおかしくなっているこの時に。
「できる限りで構わない。彼らは真夜中すぎにやってくる。それまでに用意してくれれば」
   そう言われてしまえば私には否やと言うことはできなかった。


「それから――」次に彼が言ったのはとても奇妙なことだった。
「彼らがやってきたならば、決してこの離れには足を踏み入れないでほしい。私たちは長いこと離れ離れになっていたからね。水入らずで過ごしたいのだ」
   それには他人の興味本位の視線も避けたい。そのような意味のことを私に向かって語ると、彼は謎めいた微笑みを浮かべた。その微笑みを見た途端、私は以前感じたように磁力と警戒心の中心を引っ張られるような、悍ましさと慕わしさが一緒くたになったような、そんな感覚に心臓を鷲掴みにされたような気がした。一刻も早くここから逃げ出したかった。
   彼の笑みはますます深くなり、その目が何か私の知らない色を映して私を見据える。私に対して手を伸ばそうとして――。その途中でぴくりととどまった。微笑みが苦笑に変わる。なぜなのか、何が起こっているのか。ただ次の瞬間、私はなぜだか(助かった・・・)と思った。
「それでは行きたまえ」
   それらが命令だったのだと気付く間もなく、挨拶もそこそこに私は離れを飛び出していった。
   それでも私たちは離れの客人の希望を叶えなければならなかった。祖母は知り合いの伝手をすべて使って真紅の薔薇を明日までに用意するように手筈を整えた。私はやはり知り合いや親せきの葡萄酒蔵を訪ね回り、あるいは街の大きな店に寄って在庫を調べてもらった。
   所詮は田舎町。それでも情報網は昔よりは少しは発展している。赤葡萄酒10本はようやく揃えられた。
「おばあさん、そちらはどう?」
「まあ、なんとかなるだろう。明日の夕方までにはね」
   祖母は流石につかれた様子だったが、急にやってきたこの新しい仕事には興味と達成感の両方を持っているようだった。実際以上に色々なことが起こるものだ。安全な自分の家にいるときには、離れの客人に対して冷静に対応できるし、先ほどの自分のおかしな感覚が笑えてきたりもする。何を非現実的なことを。母の妄想癖――それが不安の大元ではあったが――がうつったのだろうか、と可笑しく思える。まるで怯えたうさぎのような勢いに見えただろう。離れから駆け足で戻ってきたときの自分自身の様子を思い出すと別の意味で恥ずかしかった。祖母にも母にも話せない。
   それにしても――。
   と私は翌日祖母と二人で離れに用意した酒と花を届けに行った折、考えた。
(何があるのだろう。母が『あの日』、取り乱して帰ってきて、そのまま寝付いてしまったことと関係があるのだろうか)
   もしそうならば、私の中の胸のもやもやははっきりと反感に変わるだろう。そうなって欲しくはなかった。だが私は失念していた。離れの準備が母屋で寝ている母に伝わらないはずはなかったのだ。
「あの子が、お母さんがいなくなっている!」
   祖母の狼狽した声に私は足元が無くなったような気がした。顔から一気に血の気が引いたのがわかる。
「母さん!」
   寝台はすでに冷たくなっていた。母はかなり前に抜け出したのだ。
「急がなくちゃ・・・・。もうすぐ夜になる」
   夜には決して離れに近づいてはならないあの人は言っていた。だが一方で私はわかっていた。母はそのためにこそ寝台を抜け出したのではないか。あの人に、あの人の兄弟に会うために。でも何のために?あの人に会って何か言うべきことがあるのだろうか。私にもわかる。あの人は母のことなど意識の隅にも留めていない。母にもわかっているはず。それとも母は本当に現実と妄想との区別がわからなくなってしまったのだろうか。
   夜になる前に離れに行かなくてはならなかった。母を探さなくては。私は恐ろしかった。このまま離れに行けば、何か見たくないもの、そして見てはならないものを見るような気がして。それでも私は母を決して見捨てることはできなかった。
   慌てて離れに向かおうとした私を見とがめたのは祖母だった。祖母にしてみれば母と私の二人を失うことなど耐えられなかったのだろう。
「私が行くよ」
   私の顔を見るなり何の説明もしないうちに祖母は宣言した。
「お祖母さんには無理よ。私が行く。私ならば素早いし、母さんを連れて必ず戻ってくるから」
   そんな問答をひとしきりした後、私たちは二人して離れに向かうこととなった。年老いた女と子供のように若い女。怯えたような女二人の訪問は傍から見れば滑稽だったかもしれない。だが離れに着いたとき、そこには人の気配が全くなかった。私たちが運び込んだ赤葡萄酒の瓶と薔薇の花束が消えていたところを見ると、それらは準備に使われたのだと思われる。
   だが私には離れの雰囲気が今までとは一変してしまっているように感じた。まるで一枚幕が下りているようで、断りもなく入り込もうとする者を見とがめるように雰囲気。入りたければ声をかけなければならない――。
「あの・・・誰か――」
   その雰囲気にひきずられるように声を張り上げると、祖母は慌てて私を止めた。
「およし。どんな人が聴いているかわからないのだよ」
「でも・・・・」
「人がいないならば今のうちにあの子を探そう。もしかしてここにいなければ、他の所も探さなくちゃならないからね」
   確かに私たちはこの離れに出入りしていても何の不思議はない。ただあの人に、夜になったら近づかないように言われただけだ――。それでも今の離れには祝い事の直前のような華やかな雰囲気とともに、他人の介在を拒否するような不思議な雰囲気が漂い、それが私を無断でここに入り込むことを躊躇わせていた。母がここにいる可能性が高いというのに――。この私の迷いは何なのだろうか。
   だが祖母は私を引きずるようにして離れの内側に入った。その途端に何者かに『見られている』という感覚が襲ってきて、私はさらに身体を縮こまらせた。祖母は気がついていない。母のことが気がかりで他のことに注意が向かないのだ。
   ここまで来て帰ることはできない。母がどこにいるのか――。この不安な状況から抜け出すためにも早く見つけなくてはならなかった。あの人は今夜客人が来るとも言っていた。彼らが来たらどうなるのだろうか。なぜ今夜はここに来ることを禁じられたのだろうか。そしてこの雰囲気。
   祖母が小さな声で母の名を呼んでいた。ああ。祖母にとって、私にとって、母がどんなに大切な存在なのか、母がわかってくれたらいいのに。
「そこにいるのは、だあれ?」
   そのとき、私はささやくような声を聞いた。私は思わず振り返った。それから祖母の顔を見た。祖母も明らかに同じ声を聞いたようだった。空耳ではない。だがその声はあの人のものではなかった。母の声でもない。それは細く美しい女性の声だった。なぜだか肌が粟立ってくる。祖母も何事か気がついたようだった。
「誰――? そこにいるのは・・・・」
   祖母の問いかけに答えるように影の中から誰かが一歩踏み出した。軽い足音。華奢な体躯。古典的な服装に身を包み。本人の顔立ちもどこか古典的だった。流れ落ちる、信じられないくらいに長い髪。けぶる眼差し。どこかで見たことがあるように懐かしい・・・・。祖母がひゅっと息を呑みこむのがわかった。
「あんたは・・・・。いや、違う別人だ。そうに決まっている――」
「お祖母さん?」
   すると彼女は祖母の声に首をかしげると、また一歩こちらの方へ歩み寄った。躊躇いと言うもののない、ある種の尊大さと鷹揚とした柔らかさ。彼女が暗がりから進み出て、室内灯の灯りの下に立ったとき、その美しさと圧倒的な存在感に私は動けなかった。華奢で線が細いというのに弱々しさを感じさせず、神々しささえある。やわらかく波打つ黒髪。光を集めたような青い瞳。
   だがそのとき、私には彼女が何者なのかが雷の轟のようにわかった。
   ――あのとき。幼い母と一緒に映っていた――
   この人を、見つめ続けていた母。母にとって、すべての縁(よすが)。すべての希望。変わらない容姿。母がその年齢を過ぎたとしても。
「命が惜しいならば、ここにいてはいけない」
   彼女は透き通った美しい声で私たちに向かって言った。
「私はあなた方に危害を加えたくはない」
「どうして・・・・」私はつぶやいた。なぜこんな人がこの世にいるのだろう。
「母さんを返してください。私にはわかる。きっとここ来たって。お願い。教えてください。母さんはここにいるんでしょう?」
   彼女は目を瞬いた。美しい人。あの客人と同じどこか現実離れしているその美貌は、現実のもたらす辛苦も悲哀も含みながらそれらを越えた次元に存在しているものだった。母が追いかけていたのがわかるような気がする。この人たちの世界に行きたいと思ったのも。
   こういう人がこの地上にいるのならば、母さんは。母さんの今までの人生はいったいなんだったのか。夢ばかりを見つめて、それを追い求めて生きていた母さん。望まぬ結婚により傷ついた母さん。母さんの夢の人は、今ここにいるのに。母さんだけがいない。
   その人は一瞬ためらったようだった。その仕草はその人を「人間のように」見せた。そのとき私ははっとなった。私は、最初からこの目の前の女性を人間とは思っていなかったのだ。
「その人は・・・・」と彼女は言った。
「もう十分苦しみました。私は彼女を救ってあげたい」
「でも、母さんです。その人は私の母さんなんです!」
   だから返してと私は叫んでいた。母にとってこの現実は厳しいものだった。夢の中に救いを求めてなぜ悪いのか。――それでも、私は母さんに私たちの傍にいて欲しかった。母さんがどんなに必要とされているのかを知っていて欲しかった。
「あの子は――」そのとき、祖母がつぶやくように言葉を発した。
「あんたたちのおもちゃじゃない。私の娘であり、この子の母親なんだ。誰も他人はその間に入ることはできないのだよ」
「それでも心を救うことはできない」
   その人の声は美しく、それだけその言葉は確信を持って響いた。
「あの人は私が目覚めたときに、ここに来たのです。私を見、私の第一騎士を見、そして静かに涙していた。私はその涙を綺麗なものだと思いました」
   それだけで十分なのだとその人は語った。
「そして私には彼女が何を求めているのか、何を願っているのか、すでにそのときにわかっていたのです」
   嫌な予感が背中を撫でた。言葉にできなかった。してしまえばそれが現実になるような気がして。
「母さんに・・・・何かしたの? 何をしたの?」
   それでも問いかけずにはいられなかった。私の声はひどくかすれた小さなものになっていた。
「やめなさい」祖母が同じように小さな声で私を制する。
「母さんを。返して――」
「おやめ!」
   祖母の声の中に傷ついたような響きがあり、それが私を怯ませた。
「あの子は・・・・、もうこの世のものではないの・・・・?」
   目の前の美しい彼女がためらいがちに口を開きかけたとき
「別れの言葉なら、まだ間に合います」
   いつの間にか、あの人が彼女の後ろに立っていた。影のようだと私は思った。彼女の影。彼女が夜の中の薄い光だとしたら、彼はより黒々と落ちる影だった。彼女がわずかに眉を寄せる。
「こちらへ――」
   私たちが通されたのは、客用の寝室だった。そこに誰が寝かされているのか、私たちは指摘される前に気がついていた。
「母さん!」
   私たちが駆け寄ると、青白い顔をした母がわずかに呼吸をしたようだった。母の顔は真っ青だった。いや、唇もどこもかしこも赤みと言うものがない。蠟のように真っ白で生きている人間とは思えなかった。
「冷たい・・・・」
   母の頬に触った祖母が愕然とつぶやいた。
「母さんに! なにをしたの!?」
「誤解してはいけない。私たちが望んだのではない。彼女が強く願ったのだ」
   首筋に大きく二つの穴が開いている。これは何? なぜこんなものがあるの? 私が最後に母を見たときに、こんな傷はなかったのに。だがそのとき母が身じろぎして大儀そうに目を開けた。
「母さん!」
   母の色の無い唇が弱々しく震え、ようやく言葉を紡ぎだす。
「ごめんね・・・・。私は我慢ができなかったの」
「母さん。何言っているの?」
「しっかりしなさい!」
   祖母の叱責に、私の叫びに、母はそっと口を開いた。
「今までずっと思っていた。ずっと願っていた。今の自分は本当の自分ではないんだと。そうでなければ耐えられなかったから」
   では母さん。私は? その母さんの辛い運命の結果である私は? 母さんの何だったのか・・・・。
「私にとってひとつとして物事は思う通りにいかなかった。だから私はすべてを諦めてすべてを受け入れていくしかないと思っていたの。ただ一つ、子供の頃の想い出以外は――」
「おまえ・・・・」
   祖母の声は震えていた。何を言っているのか、私にはわからなかった。ここに横たわっているのは本当に母なのか――。やさしい母。こんな私とは正反対の、儚げで美しく、誰でも手を差し伸べずにはいられないような母。すべてを受け入れてくれた私の大好きな母さん。
「子供の頃のことは夢だと思っていた。ただ映像が残っているだけの、綺麗な想い出だけのただの夢。私には手の届かなかった夢。だけど――。三十年経ってこの人たちはもう一度来てくれた」
   私の元へ――と母は言った。
「離れに行って、あの人のために掃除をし、部屋を整えているうちに、私にとってこれこそ本当の、あるべき生き方だと思えるようになったの。初めてだった。そんな風に思えたのは・・・・」
   母は一度大義そうに目を瞑り、また開いた。
「幸せな時間だった。見ているだけで、働いているだけで満たされていると思えた。そのとき、『彼女』が目覚めたの。
   全然変わっていなかった。あの人と同じ。そのときの写真のままの若い姿で。私が子供だったとき、私を膝の上に抱き上げて『綺麗な子ね』と言ってくれた人。一緒に連れて行きたいと言ってくれた人。私と似ていると言ってくれた人だった。
   そのときの私は子供だったから、なんて言ってもらったのか、その意味なんて分からなかった。でも大きくなるにしたがって鏡の中の自分があの人に似てきていることに喜びを感じていた。私もあの中に入ることができるかもしれないと夢みたの。
   でもそんなこと無理だった・・・・」
   母は願ったのだ、一緒に行きたいと。連れて行ってほしいと。私は鑑みられなかった存在の悲しさを知った。母と同様に。
「私は今回はっきりとそう言われた。私を連れて行くことはできないのだと。私は決して彼らの仲間になることはできないのだと。こんなに似ているのに。私は彼女と同じ顔立ちをしているのに――」
   母の透明な表情がそのとき歪んだ。
「だから、私は頼んだの。こんな私が彼らと一緒に行ける唯一の方法。私のすべてを彼女のものにしてほしい、と」
   母の中のありえない熱。あるべからざるべき望み。
「彼女は私の望みをかなえてくれた」
(母さん、でも。それは、母さん・・・・。私たちは? 私たちのことは母さんにとってどうでも良かったことなの?)
「ごめんなさいね」
   私の考えを読み取ったかのように母は言った。そっと上がったその手を私と祖母は握りしめる。
「あなたを、おいて行かなくてはならない。でも、私はいつでも『彼女』の中にいるから・・・・」
   そんなことは言い訳にはならないのだと私は言いたかった。私にとっての母はここに死にかけている。それ以外のことを私は知らなかった。
「だめよ、母さん。私は・・・・」
   だがそのとき、母の手は私たちの手から滑り落ちていった。
「どうして・・・・」
「悲しまないで――」
   そのとき、『彼女』が静かに口を開いた。
「この人の言葉の通り、私の中にこの人がいる。私はこの人の望みのままにすべてを私の中に摂りこんだのですから」
「どういうこと・・・・? まさか・・・・あなたがこれを・・・・」
   母の首に開いている二つの穴。もはや血すらも流れないほどの・・・・。この人が。この美しい人が・・・・。
「あなたは・・・・」私の声は震えていた。
「化け物・・・・なの?」
   だが彼女はその貌に哀しそうな笑顔を浮かべるだけだった。
「彼女が望んだことだ」
   不思議な客人の声が同じことを言ったが、その言葉は私の頭の中を素通りして行くだけだった。
「これは、私たちが連れて行けるただ一つの手段。私はこの人の記憶を胸に抱いて時間を越えていくことのでしょう」
   私の生きている限り。そう『彼女』が言ったとき、私は祖母の顔にうらやましさと拒絶の両方が浮かぶのを見ていた。
「――でも、それは母さんじゃない。私の母さんは――」
   死んだのだ。
「おやめ!」
   祖母が弱々しく叱責する。だが私にはわかった。
   母のように流されて、自分を譲って最後にすべてを捨てて夢の向こう側へ行くことを望むことは私にはできないだろう。同時に祖母のように見えないふりをして生きていくこともできない。
   耳元で強い風の音を聞いたような気がした。嵐がやってくる。ひとつの物事が過ぎ去った後に、心の中に吹き荒れる嵐が。こうやって母の死の下に自分自身の中に見出したのは、今までにない不安とある種の怒りだった。しっかり者と見えていた祖母ですら、あの人たちの存在に依存した生活だということを見て見ぬふりをして生きていたのだ。
   私にはできない。あの美しい人たちの幻影のみに依存して生きていく生き方は。けれどあの人たちの美しさ、命を、心を奪われる存在であることを否定することもできない。私はどちらにつくこともできない自分自身を感じた。
   孤独だった。同時にひどく清々しかった。私は再びあの二人――私の人生の中で最も美しい存在であろうあの美しい男女の姿を見つめた。光り輝く女性に寄り添う男性。母の心の拠所であり母の命を奪った存在。そしてそれらを眺め続け心を寄せ続けてきた祖母と母と。
   私はどの道もとることができる。これまで通り祖母のもとで共に生きることもできるだろう。あの人たちについて生きていくこともできる。そしてこの怒りを胸に、すべてに背中を向けて生きていくこともできるだろう。もうすぐ・・・・。もうすぐ時間がやってくる。彼の仲間、彼女を彩る影たちの一群が。
   そのことさえもはっきりと感じ取りながら、一方で懼れながらも心震え、一方で嫌悪しながらも歓喜の予兆を聞き取り、私はその運命を分ける風の中から動くことができなかった。私は突然現れたこのいくつもの道の真ん中で、ただじっと美しさと輝きの極みというべき存在を見つめ続け、自分自身の心が選択を下す声を待っているのだった。







END



2012.11.30

たぶん私だけが楽しかったかもしれない話になってしまいました。申し訳ありません。時間が無くて推敲があまりできなかったことも反省点の一つです。。でもとにかく11月中にアプしておきたかったのでした。GRIZAILLEの環さんからいただいておいてお題に書かせていただきました。懐かしい雰囲気の思春期的な話。二昔前の少女マンガの匂いを再現してみたかったのでした。。『BLOOD+』に登場するキャラクターだけでなく、翼手は世界にひっそりと存在しており、人間の中にはその協力者がやっぱりいたりして。という妄想の果てのお話。翼手はすべての人間にとって魅了される存在だと思っているので。。。。書かせていただけてありがたかったです。。ありがとうございました~~。。

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