客人が来るという知らせを受けたのは、秋も深まり刈り入れときも終わった時期だった。隣の領主の年若い妻が、先に領地へ戻った夫を追う形で自分の領地へと戻っていく最中、この街に立ち寄るというのだ。
 なんでもその領主にとっては二度目の妻で、都で出会い後添えに迎えたということである。
「どうせ隣の領地の豊かさに惹かれて結婚したのだろうよ」
「こんな田舎にやってくるなんて、都暮らしが恋しくてそのうち帰っちまうんじゃないのかね」
 人々の口さがない噂話は尾ひれがついて、広がっていく。やんわりとそれを退けていた領主も、当人を迎えるにあたっては興味津々というところである。だが一人だけ、この話に後ろ向きの者があった。
「父上。なぜわざわざこの館にお迎えするんですか?」
 それは領主の末の息子だった。
「一応来賓ということだからね。お披露目を兼ねて、というところだろう。他のところでは無理なのだよ」
「大騒ぎして、わざわざ見せびらかして。そんなことして何になるんです?」
「お前はまだわからないかもしれないが、こういう付き合いというのは大人の世界では大切なのだ。お前も少しは大きくなったのだから、兄上を見習いなさい」
「僕は兄上とは違う。そんな風に期待しないでください」
 領主はすでに初老というにふさわしい年齢であり、領地の収穫も安定していた。とはいうものの、隣の領地のように取り立ててめぼしい物産があるわけでもなく、貴重な土地の技術があるわけでもない。とりあえず隣接した地とは友好な付き合いをしなければならなかった。
 元々この領主には7人の子供達がいたが、そのうちの3人が病気や怪我で亡くなり、長女は別の領主に嫁ぎ、次男は領主の奥方と反対に都に遊学に出かけており、今館にいるのは長男と末の息子だけだった。長男は3年前に妻を亡くしており、領主自身の妻はとおの昔に鬼籍に入っている。この何年か櫛の歯がこぼれるように領主の周辺では人がいなくなり、今、この館の中は女っ気がなかった。隣の領主の新しい妻を歓待しようとしていたのも、久々に華やいだ雰囲気を味わいたいというささやかな期待の現われだったのかもしれない。
 だがこの末息子、今ではすっかり良い青年に成長したこの息子だけは、その雰囲気に奇妙なわざとらしさを見せられているようで中々落ち着くことができなかった。青年期に入ったばかりのこの末息子は、その時期特有の憂鬱さを身につけ始め、益々華やかな席よりも独りでいることを好むようになっていた。
 そういうことで、もっぱら準備は父親と上の兄の役回りとなり、嫁いだ姉からもしょっちゅうああだのこうだの、連絡が入るようになった館の中で、青年だけが一人だけ憮然として、機嫌の悪い熊ように館の中をうろうろ歩き回っていた。だが彼は年かさの女たちにからかい半分邪魔にされると、ふいっと顔を背けて部屋を飛び出し、そのまま自分の馬に鞍を置くと街外れの廃墟まで走らせるために出て行ってしまった。何かあると彼がそこへ行くことを知っている身内の者達は、いつものことだと困惑気味に頭を振った。
 とは言うのは、この廃墟は以前、ある事件の舞台となっていたからである。だが末息子に甘い領主は息子を庇ってこう言っていた。
「もう10年以上前の出来事を今言っても仕方あるまい。結局あそこからは何にも出てこなかった。それに、あいつはそれ以前からあの場所がお気に入りだったんだからね。事件とは関係なく」
 そんな訳で彼は今までよりも頻繁にこの一見寂しげな廃墟の周辺を歩き回ることが多くなっていたのである。
「何? またここに来たの?」
 彼が半分壊れた柵に手綱をくくりつけようとしていたとき、不意に幾分高い声がした。
「そっちの方こそ」
「こっちはあんたがいなくなるたびに探しに駆り出されていたんだから、自然にここに来る羽目になるに決まってるじゃない」
 乱暴な口のきき方をしてはいるものの、まだ若い少女だった。
「それに私の勘はよく当たるしね」
 つぶらな目も、着ているものも悪くない。だが乗馬服を着込み、髪もきちんと結わずにふり乱したまま、彼女は乗ってきた馬から飛び降りると遠慮なく彼の方に近寄ってきた。
「昔のことなんて言うなよ」
「また何かあったの?」
「いいや。別に」
「別にって顔してない」
 指摘されて彼はまだ少年の面影の残る貌を少ししかめた。
「別にどうってことない。ただ客が来るんでうっとうしいだけさ」
「お客人? ああ。隣のご領主の奥方様がいらっしゃるとかいう」
「よく知ってるな」
「関心がないのはあんたくらいのものよ。うちだって商売やっているんですからね。こういうことは一番に知っておかなきゃ」
「親父さんは?」
「相変わらずここと都を行ったり来たりよ。でも明日ぐらいには帰ってくるって。その、準備にね」
 娘は裕福な商人の娘であり、その父親は都でも顔が利くともっぱらの評判だった。一時期彼女自身が都に住んでいたこともあった。
「あの、さ。都ってどんなとこだった?」
「なんだ、やっぱりあんただって興味があるんじゃないの」
 仮にも領主の息子である彼に対してこういう口のきき方をするのは彼女だけであり、だからこそ気が合ってもいるのであろう。
「・・・・正直に言うと、あんまり馴染めなかった。ほら、私ってこんな感じじゃない。都って、お高く留まっている人が多くて。だからここに連れてきてもらったの」
 彼女が父方の叔父を頼ってこの土地にやってきたのは5年ほど前のことだった。
「それまでは流れの商いを務めてたから。私も色々な場所へ連れて行ってもらった。流れて行く生活の方が多かったし、私、そっちの方が楽しかったな。だから都にも馴染めなかったのかも。都に住んでるって言っても、いつも独りだったし」
「でもここだって・・・・」
 彼女がやってきてすぐに、頼っていた叔父は病で亡くなった。父親はしょっちゅう不在にしており、土地に慣れるのにも時間がかかる。そんな少女は当初ここでもいつも独りだった。
「あんたがいてくれたじゃない」
 そんな折に知り合ったのがこの領主の末息子だった。
 あれは出会ってすぐの頃だった。独りのときが多かった少女は、この領主の末息子がなんだか気になって、しょっちゅう彼がやってくるこの廃墟まで遊びに行ってみた。そこは昔は子供たちの遊び場だったのだが、あるときを境にして誰も近寄らなくなっていたという。だが物怖じしない少女はそんな場所に独りっきりでいる少年に声をかけてみたのだ。
「僕のこと聞いていたんだろ?」
「ああ。小さいときに『かどわかし』にあったって――」
「化け物騒ぎのことも?」
「うん。大変な騒ぎだったってね。――あんたが言いたいのは、こういうこと? つまり化け物があんたをかどわかしたんだって」
「そう言われているって、知ってる。父上も兄上も庇ってくれてるけど。司祭様のところへも何回も連れてかれたし」
「だからあんた、いつも独りなんだ」
 じゃあ一緒にいてあげる。そう言って少女はまだ少年だった彼と友人になったのだった。
「興味があるんじゃない。ただうっとうしいだけだよ」
「綺麗な人なんだって」
「え?」
「そのご領主の奥方って綺麗な人なんだってね」
「関係ないさ。僕がお相手するわけじゃないし、父上と兄上が浮かれてるだけ。隣のご領主とのお付き合いもあるからって」
「じゃ、どうして都のことなんてきくのよ? ちょっとは興味あるんじゃない」
「昔、あったことのある人が、今から考えると都風の衣装だったり振る舞いだったり、そんなことを身につけていたなあ、と思って・・・・」
「昔って・・・・」
「ずっとずっと前のこと。僕が子供の頃のことだよ」
「それって・・・・まさか」
「もう忘れちゃっているんだ。とっても印象的な人だったのに。大好きだった人だったのに。僕は表情も、どんなものを着ていたのかも忘れちゃってるんだ。ただ、ぼんやりとした印象しか覚えてない。それがさみしくってね」
「・・・・忘れちゃってもいいと思うよ」
「え?」
「だって。人間だもの。人間の世界で生きてかなきゃならないんだもの。そんなあやふやな記憶、忘れちゃってもいいと思う」
「忘れたくなくても?」
「仕方ないもの」
 だが彼は少女から顔を背け、目を伏せると黙ったまま首を横に振った。




 華やかな宴会の準備は彼にとって苦行だった。誰も彼の意見など聞いてはおらず、薪の確認、馬屋の準備などただ雑務と言える用事だけを手伝わされ、そのくせ父と兄の意見は彼の服装にまで及んだ。必要ないと主張したのに、いつの間にか新しい衣装が用意され、まるで自分のものだという実感が湧かない。すべてが酔ったように異様な空気によって執り行われているように思え、彼は戸惑い、それによってさらに冷やかさを加速させていった。
 祝祭の前の興奮に、屋敷全部が沸き立っている。食料、絹、リボン、飾り、花束。調理場ではお湯が音を立て、下準備された肉が串に刺されてじっくりと焼かれている。お湯につけられ、真新しい服を着せられた彼は自分がその中に準備された宴会の飾りの一つであるかのように思えてきた。始まる前からもういい加減うんざりしていた彼は、客人が多少遅れると言う知らせを受けたときには本気でこのまま退出して自分の部屋に引き篭もっていようかと考え始めていた。
 そのときだった。
「おつきになりました」
 取り次がれたその声を聞いたとたんに周囲の雰囲気が変わった。緊張と不安と期待とに満ちた華やいだ空気が風と共に舞い込んできたかのようだった。風すらも甘く香る。その新しい空気をまとって現れたのが、艶やかな衣装に身を包んだその女性だった。
 彼女は見事な金髪を今風に高く結い上げ、そこに飾りのついた布を巻きつけていた。身につけている衣装と言い、どれも華美ではなかったが流行を取り入れており、さすがあの年を取った気難しい領主が後添いにと望むだけのことはあると思われた。機知に富んだ会話。洗練された身のこなし。非の打ちどころがないというのはこのことかとも思われた。
 彼女はまず柔らかく領主である彼の父に会釈をすると、歓待への感謝、この日を楽しみにしていたこと、慣れないこの地の隣人としてよしなに付き合いを始めたい旨を滞りなく挨拶した。ついでに跡継ぎである彼の兄を見つめながら、このような跡継ぎに恵まれた幸運を祝い、そして自分もあやかりたいと言うことも付け加えるのを忘れなかった。
 彼の父親は自分の娘のような年齢でありながら、気品と洗練を兼ね備えたこの女性に誉めそやされ、すっかり気を良くしていた。彼女はまったく如才なく振舞い、このひとときでこの場をその小さな手に収めることに成功していた。彼の父親も兄もそのことに気負されて、全く気がついてはいなかった。その女性が領主の末息子には一顧だにしなかったことを。彼女は領主の家族や親類にすらも親しみ深く挨拶を交わしていたと言うのに、彼にはまったく気づく様子がなかったのである。彼自身もあえて奥方に近寄ろうともしなかったことが原因なのかもしれない。一人だけ、どうにも溶け込めないような白けた雰囲気の中に落ち込んだまま、彼はその場から外れたように部屋の隅に佇んでそこにいるすべての者たちを見つめていた。
 周囲が熱くなればなるほど冷静になっていく二つの目は、ただじっとその場を観察している。その一方で隣の領主の奥方は宴席の花だった。この領地の外からやってきた女性。透き通るように白い肌。たおやかな仕草。あの想い出に繋がっているようなものはその二つだけで、与えられる印象も話し方も別人だった。彼女はすべての男性は自分に話しかけに来るのが当然のような顔で話しかけてくる者たちを相手にし、絶えず笑いさざめき、あるときは都の話を、あるときは旅の途中で見聞きしたものがどのようであったか、初めて見るその驚きを、その不思議さを、印象的な言葉を使ってするのであった。それによってその場にいる皆の目がどのように自分に向けられるか、無意識にわかっているようだった。無邪気さと蠱惑。近寄りがたさと愛嬌を同等に身につけているのだった。
 彼はそれをそっと見ていたが、父と兄が彼女に夢中になっている様子をちらりと見つめると、ため息をついてそっと席を立った。
「どうしたんだ?」
 一瞬兄が彼を見咎めて囁いたが、彼は首を振って言った。
「すぐに戻るから」
 だが彼がその足で向かったのは厩舎だった。余所行きの衣装のまま彼は自分の馬に鞍を乗せると声をかけ、一気に走り出した先はあの廃墟だった。胸のもやもやが何故だか晴れない。関係ない人なのに。
 憮然としたまま馬を下りると、草の褥にどっかりと横たわり夕日の赤に染まりつつある空を見上げる。雲が風に流れていた。
「やっぱりここだった」
 誰もいないと思っていた彼は飛び起きた。少女が笑って立っている。
「言ったでしょ? 私の勘は当たるって。きっと途中でこっちにくると思ってた。で」
 少女の目は興味で輝いていた。
「ねえ、どうだったの?」
「隣の領主の奥方のこと?」
「そうよ。会ったんでしょう?」
「会った・・・・」
「で?」
「金髪だったよ」
「え?」
「あの人は夜の髪をしていた。でもあの奥方は金髪だった」
「呆れた・・・・。あんた、本気で隣町の領主が以前会った女だと思ってたわけ?」
「ちがう・・・。ちがうよ、でも。そうなんだ」
 肯定とも否定ともつかない言葉に少女はため息をついて言った。
「まったく。そんな夢みたいなこと考えててどうするの。 私、言ったよね? 忘れるのがいいんだって」
「どうしてなんだろうね」
「ん?」
「忘れようと思った方が、忘れられなくなってしまうなんてね」
「そりゃあそうよ。忘れるときは自然に、忘れたいだなんて思わないうちに忘れるもんなんだから」
「なんだよ。年寄みたいなこと言って」
「ちょっと!ひどいじゃない」
 そう言って怒ったような表情を作っていたがすぐに少女の顔は苦笑に変わり立ち上がった。
「あんまり気にしちゃダメよ。嫌だったら、隣の奥方なんて父上と兄上に任せておけばいいじゃない」
「君が聞いてきたんじゃないか」
「そうだったっけ?」
 少女は笑って肩をすくめるとさっさと自分の馬に飛び乗った。
「だって、私も明日会えることになったんだもの」
「あの人に?」
「そういうこと」
 馬首をめぐらせた少女の軽やかな笑い声が残された空気を震わせていた。




 翌日は領地の中の実力者が客人に逢いに来るための日だった。少女の父親はめったにこの場所に帰ってくることはなかったが、それでも優秀な商人であり都との関わりも大きかったため、宴に招かれたのだった。彼は小柄で青白い顔をして男で、見方によっては生気がなく何を考えているのかわからないような目をしていた。その分、彼の娘は埋め合わせをしようかというくらいに生き生きとしており、この親子の印象の落差も人目につく一因だった。少女は領主の末息子と目が合うと、軽く目配せして見せて彼を慌てさせたが、それ以外は外で会っているのとは別人ではないかと思えるほどしとやかな淑女を演じて見せて、それを楽しんでいるようだった。
「まったく、ただの領主の奥方と会うのにこんなに大げさになるとはね」
「あんまり大きな声で言うなよ。ほら、もうすぐ順番なんだから」
「わかっているって」
 少女はおどけた調子で肩をすくめると、いたずらを見つかった子供のようにぺろっと小さく舌を出して見せた。隣で父親が困った顔で咳払いすると、とたんにまっすぐ前を向く。奥方が二人を待っていた。
 腕を取られて二人してその人の前に出たときには、少女はすっかりよそいきの仮面をかぶっていた。そうしてみると裕福な商人の父としとやかな娘そのものに見える。青年が遠くで見守っている中、父親が奥方の顔を見ることさえもできないうちに、少女の視線は一瞬だったがまっすぐにその女性の顔をとらえていた。金色の髪。黒い瞳。深い色をした瞳が、少女の瞳と出会う。その少女の好奇心に満ちた目が大きく見開かれた。唇がわずかに驚きに開かれる。その直後、父親に突かれて、少女も急いで父親と共に奥方に向かって頭を下げた。礼儀を失わないほどのぎりぎりの時間だった。少女は顔をこわばらせたまま、それでも二人は他の人たちと同じようにお会いしたことに対する喜びと感謝を述べ、他の者と同じように奥方の前から退出して宴会へと戻っていった。
 華やかな宴席はそれからも続き、奥方はすべての者たちに平等に笑顔を振りまき続けている。だが少女の顔はそれとは対照的に白く表情を失っていた。父親が何も言わずに心配そうに娘の顔色を見つめていることに少女は気がつきもせず、なんだかぼんやりと虚ろな視線をさまよわせている。
 思いに沈んでいた少女が再び顔を上げたのは、青年が人ごみを掻き分けてこちらにやってきたからだった。
「どうだった?」
 昨日とは実に反対だと思いながら、彼は少女に問いかけた。だが青年の言葉に少女は凍りついたような青白い顔を上げたので、彼はひどく驚いた。いつも好奇心にあふれて輝いていたその瞳に今は明らかに動揺の色が浮かんでいた。
「どうしたんだ?」
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないよ」
「あのひと・・・・」
「あの人が何? 何を見たの?」
 青年の目から見ても少女の様子は尋常のものではなかった。
「なんでもない・・・・。私・・・・。私、ただ、あんまりあの人好きじゃないみたい。だからちょっとね」
 その答えは彼の問いかけをはぐらかしているようにしか聞こえず、彼は眉間にしわを寄せた。
「どういうこと? ごまかさないで」
 そう言うと、少女はほんの少しだけためらってから考えるようにして口を開いた。
「あの人の目をのぞいてみたの。わかってる。失礼にならないくらいちょっとの間だけよ。そしたらね、そうしたらとっても深くて底なし沼をのぞいているようだった。あんな目をした人、私、会ったことない。なんで皆気がつかないんだろう。あの人――」
 少女はためらいがちに続けた。
「不思議な人だってわかる。あんたが気になるのも何となくわかる。でも。近寄っちゃダメ。あんな目をした人はただ者じゃない。私の勘は当たるって言ったでしょ? 近寄らない方がいいってそう思うの」
「でもあの人は・・・・」
「あんた、昔出会ったっていう女の人があの人じゃないかって言ってたよね。それって昔この辺りで起こった化け物騒動のその化け物ってことじゃない? なんだか私もあの人がそうなんじゃないかって・・・・。ううん。ごめん、なんでもない」
「でもあの人は隣のご領主の――」
「わかってるって。こんなの考えること自体変だって。でも嫌な予感がするの」
「ちょっと待って。・・・・けど、あの人はしばらくはうちに滞在するって」
「それから隣の領地へ入るんでしょ? じゃあ、その間はあんただけでも近づかない方が良い」
「でも父上と兄上が・・・・」
「大勢でいれば大丈夫だと思う。二人っきりにならなければいいんだって」
「そんなこと・・・・。あの人はいつだって大勢に取り巻かれている。二人きりになることなんてないよ」
 彼は笑ってそう言った。そのときはそう思った。
 それから何日かの間、隣の領主の新しい奥方はこの男所帯に華やかな空気をもたらしてくれた。兄は落ち着かなげだったが、この貴婦人に魅了されているのが見えたし、父も何となく若返ったような気がする。領主の末息子はそんな雰囲気の中になじめない自分自身に違和感を覚えていた。少女の言葉が気になっているんだろうか? それだけではない。奇妙な違和感。記憶と外見の乖離。夢と現実の混在。少年は自分自身が何かを迷っているのを感じていた。問題なのはそれがなんであるのか、自分でもわからないことだった。その奥方の滞在期間。それは今までにない奇妙な予感めいた苦しさを彼にもたらしていた。
 だからだろうか。彼は今までにも増してあの古びた廃墟に馬を走らせることが多くなった。ときには朝から夕方、日没寸前までうろうろしていることが多く、そんな彼を心配して時折少女がそこへやってくることもあったが、どういう訳か今は彼女に会いたいとは思わなかった。少女の姿を見かけると、心苦しく思いながらも彼は廃墟の影に身を潜めてやり過ごし、そうなると少女もあきらめたように帰って行く。やましいような、後ろめたいような気持ちでその姿を見送りながら、彼は自分自身にやりきれない思いを消すことができず、乱暴にもう一度自分の馬を廃墟の周囲で乗り回すのだった。
 その日も朝から廃墟に出向いて、いささか乱暴に馬に拍車をかけていたときだった。不意に現れた人影に、彼は手綱を引き絞った。苦しげな馬のいななきと共に、小さな悲鳴を上げてその人物が倒れ伏す。ようやく馬を静めることに成功した彼が、鞍から飛び降りてその人を助け起こしたとき、寒さ除けの外套をかぶっているその人物が、あの隣の領主の奥方であることに彼は気がついた。
「あなたは――。どうして・・・・? どうしてこんなところへ?」
 女は真っ青な顔で彼を見返しながら、怯えたように口を開いた。
「すみません。ここならば誰もいないと伺ったので。――ずっとにぎやかなところにいると、突然一人きりになりたくなるときもあるのですから・・・・」
 その顔の小さなこと、そして白い皮の手袋の中で震えている手が思っていた以上に小さなことに彼は胸が痛くなるほど驚いた。
「お怪我は?」
 だが彼女は彼のその問いかけに我に返ったようになり、すぐにあの、宴席で見せていたような華やかで自信に満ちた態度を取り戻し、半ば彼の手を振り切るようにして立ち上がって彼を見つめた。
「ありません。このような場所に、誰もいらっしゃらないと思っておりました」
「僕は――」
「ですが、ここはあなたの場所だったのですね。お邪魔したようです」
「ちょっと・・・・。ちょっと待って・・・・ください」
「何か?」
 女はつい先ほど見せた繊細さを押しやり、小さな存在でも見るように尊大な態度でちらりと振り返って彼を見つめたので、引き止めた彼の方がぐっとつまった。
「何もないのでしたら、私はこれで。ここにはもう来ないようにいたしますから」
「あの、ちょっと!」
 そう言うと、彼は怒ったようにその当時の作法通り、礼儀正しく手を貸して女が馬に乗るの助けた。女は胸を突かれたように目を見張り、それから光が滲み出るような微笑みを浮かべた。困ったような、見つからないと思っていたのに突然何か懐かしいものを見たような、そんな自分でもどうしようもない思いがあふれてきたような微笑みだった。
 そのとき初めて彼はその人の本当の顔を見たような気がした。思っていた通りの繊細さと、硬質な純粋さ。そしてその奥に密かに隠されているような、やさしい仕草。
「ありがとう・・・・」
 言葉を形作った唇が懐かしい風を運んできた。




 領主の末息子は廃墟の崩れかけた壁に寄りかかってため息をついていた。隣には少女が心配そうな顔で寄り添っている。不思議なことにあの奥方とこの場所で出会ってから、少女にも顔を合わせることを避けていたような変な焦燥感が影を潜めていた。
「あの人は・・・・」
「ねえ、どうしたっていうの? この間からなんだか変よ?」
「なんでもない」
「まさか・・・・。あの人と二人っきりで会ったなんてことはないでしょうね」
「まさか」
 と言いつつも、なぜ少女にあの女性にあの場で出会ったことを言い出せないのだろうか、とうっすら思った。あれから何度もあの廃墟に行ってみたがあの人に会うこと二度となく、もうすぐ彼女が自分の領地へと帰っていく時間が近づいていた。もう一度だけ二人で会うことができれば、すべてわかる。そんな気がする。
 だがその機会は中々訪れなかった。というよりも、奥方の方が彼を避けているようだった。彼女は慎重に行動しており、一人になることなどなかった。
「もう一度だけ。あの廃墟に行ければ・・・・」
 けれども彼女にはそのつもりは全く無いようだった。相変わらず彼女は楽しそうにその場の中心におり、自身それを楽しんでいる様子だった。取り巻きのようなものに囲まれ、常に笑いさざめいている。あのときかいま見せた顔とは全く別の姿だった。けれども彼の目はすでに一度、廃墟での彼女の姿をとらえていた。一瞬の儚げで繊細な表情が、彼女の本質であることも見て取った。花のような彼女の姿を輪の中心から離れてわずかに離れたところから見つめていながら、彼には彼女の本当の顔が巧妙に取り繕っている仮面で隠されていることを理解していたのである。
 それは三日後に彼女がその主人である隣の領主の元へと旅立つ夜だった。夜遅く、彼女の部屋の前にひっそりと、あの廃墟に咲いていた花が置かれていた。それは古い色あせた布きれに包まれ、淡い香りに包まれていた。野生のつつましやかな匂いだった。
 それらの送り手が静かに自分の部屋の前から立ち去った後、ひっそりと部屋の扉が開かれた。隣の領主の奥方である女は、しばらく凍りついたようにその二つを見つめていた。その姿はこの世にただ独りきりでぽつんと取り残されたように、子供っぽく純粋な寂しさで満ちていたが、やがて彼女はぎこちない仕草でそれらを拾い上げると黙ってその中に顔を埋め、すすり泣くようにした。それからそのまま踵を返して部屋の中に消えた。その肩が小さく震えていることを、ただ夜の気配だけが知っていた。


 翌朝、彼は祈るような気持ちで廃墟の前に行ってみた。空はどこまでも青く澄み、やわらかな風が頬をかすめていく。夜に出会い、昼に気がつき、そして朝が来ている。もしもこれで会えないのならば、それがあらゆる意味で答えになるのだろう。不思議と憔悴感はなく、すべての出来ことを受け入れることができるような、穏やかな心持ちになっていた。夢は夢、現実は現実。けれども想い出が一瞬現実に交わることもある。それができるのならば、何を引き換えにしても良いと思っているのに、この穏やかな澄み渡った心地はなんなのだろうか。
 その人はゆっくりとした歩調で馬を進めながら、ためらうように彼の元へとやってきた。白っぽいフード付の外套をかぶり、いつも一分の隙もないように結い上げてあるはずの髪は簡単に結い上げられているだけであり、衣装も簡素なものだった。それは生のままの彼女の存在がより一層表れているようで、彼の目にはあの豪奢な衣装に身を包んだ彼女よりも、好ましいものとして写っていた。
「ここに来ればお会いできると思って。これを・・・・お返しに上がりました」
 彼女は馬を下りることもせず、だが彼に視線を注いだまま、彼が花と共に贈った古い布を差し出した。
「大切なものなのでしょう?」
「いいえ。それはそのままあなたがお持ちください。そんな布ですが、僕には何よりも大切な宝物なんです」
「それならば、なおさら・・・」
「昔、僕が幼かったとき、忘れられない女性に会いました。僕はまだ小さく、その人は今のあなたくらいの年齢だったにもかかわらず、僕は自分の心を捧げて、共に連れて行って欲しいと頼みました」
 息を呑む気配がした。
「その人は僕を連れて行ってはくれなかった。でも代わりのようにその布を僕に残してくれた。それはあのときの僕の心のすべてでした」
「だったらどうして」
「だからこそ、あなたに持っていて欲しいのです」
 女の目には怯えと悲しみの色が浮かんでいた。その瞳は濡れて揺らぎ、言葉にできない何かを彼に伝えているようだった。 どうしてこんなことをするのです?なぜそっとしておかなかったのですか? 私はただ。私は・・・・もう一度だけ、わからないように大きくなったあなたのことを観てみたかっただけですのに。それすらも許してもらえなかったのでしょうか? 
 けれども彼女は言葉にすることはせず、ただ黙って彼の顔を、匂い立つような夜の瞳で見つめているだけだった。
「私はその人では・・・・」
「やっぱりあなただったのですね」
 だが女は怯えたように首を振った。
「おっしゃっていることがわかりません」
「誰も、あなたにこの廃墟の場所を教えた者はいませんでした。あなたは最初からここを知っていた。今、ここがどういう風に呼ばれているか知ってますか? 以前、あなたをとらえようとして失敗してから、ここは不吉な場所、昼間でも誰も近寄らない場所になってるのです。誰が貴女のような方にそんな場所をお教えするでしょうか。ここに来ようと思うような者は今では僕くらいしかいないんです。
 でもあなたは知っていた」
「そんなことはありません。確かに私は教えてもらいました」
「誰に?」
「それは・・・・」
「言えないでしょう? それは誰にも教えてもらえなかったからです」
「きっと・・・。その人も知らかなったから」
「ここではそのことを知らない人はいません」
「でも・・・・」
 彼が近寄るたびに女は後ずさった。一歩、二歩と後ろに下がり、とうとう壁に阻まれてそれ以上下がれなくなったところで彼に追いつかれた。
「ずっと、もう二度と会えないと思ってた」
「私に触れてはいけません。今の私は隣の領主の奥方なのですよ」
 その言葉が彼の問いに対する答えを与えているのだと気がつきもせず、彼女は口走っていた。
「それが本当だとはもう僕には思えない」
 姿かたちは変わっていても、10年前と変わらない若々しい姿。優美なしぐさ。あの人だった。思いがけず、心が喜びに震える。
 考えてみるとこの人はいつも本当のことを言わなかった。自分自身の心を偽り、それでも何かを心に秘めて。その秘められた『何か』がいつもいつも彼に呼びかけていた。幼かったときも、そして今も。
「あの頃。僕はあなたが去って行ってしまった後でよく考えていた。あなたは誰だったのか、僕に何を求めていたのか。なぜ僕と出会ったのか」
「それは・・・・」
「でもわからなかった。それが今はわかるような気がするのです」
「何がわかると?」
「誰なのか、どうしてなのか、なぜなのか。そんな疑問は小さなことだった。本当はもっと大切なことがある」
「それは・・・・なに?」
「あなたがここにいること。僕がここにいること。あなたがいて、そして僕がいる。それが何よりも大切なんだと」
 女の目が大きく見開かれ、やがて観念したかのように閉じられた。それから彼女は目をつぶったまま、長く息を吐き出した。それはすべてを諦めたような、だが肩の荷を下ろしたような、達観と安堵に満ちた動作だった。それから瞳を開いたとき、その眼の中には星々の輝きと歳月を経た者だけが持つ深い受容の色があった。
「僕はずっともう一度あなたに会いたかった。小さいころは大きくなれば会えると思っていた。そして大きくなってからは、もう会えないかもしれない、と半ばあきらめながら、それでも待っていた。待っていて良かった・・・・」
 青年は女に触れようと手を伸ばし、結局は触れることをせずにその手を収めた。だが青年の顔に浮かんでいたのは長い間探し求めていたものをようやく見つけたという幸福感だった。その表情を見とめた女の顔にも青年の顔に浮かんだ輝きが映ったように微笑みが浮かぶ。長い時間二人は何も語らぬまま見つめ合い、微笑みあっていた。


 しかしそのとき。誰もいないと思っていたその廃墟に、もう一人の瞳があったことを二人とも気がつかなかった。その人影は廃墟の崩れかけた柱の影から凍てついた瞳で二人を見つめていた。小さな拳が震えている。
「どうして・・・・」
 それはあの少女の声だった。警告を発し、できるだけ近寄らないように忠告もした。あの女性が何者か、少女にはその不吉な影すらわかっていた。今や彼女には彼ら二人の運命の輪が音を立てて回っているその気配すら感じられるようだった。別離と破滅の足音。そして死――。
「ダメよ。絶対に」
 だがそのとき、彼のその顔に今まで少女には見せたことのない微笑みが浮かんでいるのを彼女は見た。同様の笑顔で女が青年を見つめているのも。
「あの女性が来てしまう。攫って行ってしまう」
 その瞬間、少女の頭の中には少年の安否もこの世の安寧や安全も、すべてが消失した。身体の内側を焦がすような感情をそれまで少女は知らなかった。二人を見ていたくない。彼に触れて欲しくない、誰にも――。連れて行かれてしまう・・・・。
――アノヒトハワタシノモノ――
「そんなことはさせない、絶対に」
 少女の目が暗い輝きにおおわれた。




 奇妙な出来事が起こるようになったのは、その日の夕方からだった。領主の館の周囲で数人が出かけたまま、夜になっても戻ってこず、そのまま朝を迎えたのだった。こんなことが起こるのはあのとき以来だ――。その出来事は否応なく彼らに忘れられた10年前の出来事を思い起こさせた。それが決定的になったのは、次の日の夕方、彼らが死体となって発見されたときからだった。彼らは一様に喉に深い二つの傷をつけており、身体中の血がほとんど無くなっていたのである。
 不吉な死の連鎖が始まる。あの10年前の出来事はいまだに領内の人々の胸の奥に不安の影を落としていた。再び夜の時間が始まろうとしているのだ。彼らはそれを皮膚の下に確かに感じ取っていた。最初、客人のことと領民の不安を考えて領主はこのことをなるべく知られないようにとりはかろうとしたが、不吉な話と言うのはすぐに伝わり黒い翼を運んでくる。領主の館を中心とするように、その噂はあっという間に広がって、翌日には知らない者がいないほどになっていた。
 領主の下にその管区の司祭がやってきたのはその日のうちだった。
「私がやってきたからにはご安心ください。早速調査に入りましょう」
 先日まで華やいだ宴の只中にあった領主の館はにわかに物々しい雰囲気に覆い尽くされ、それを見ながら領主は何故このようなことになったのか、未だに困惑している状態だった。
「何がどうなっていることやら」
 原因不明の人死に。調査。尋問。10年前。あの記憶どおりのことが起こるのだとしたら、やがて起こるであろう大がかりな狩りが待っている。言い知れぬ不安と、背筋を這い登ってくる恐怖に満ちた時間。あのときの舞台はあの古い廃墟だったが、今回はどうなるのか。何よりも心配だったのは末の息子のことだった。あの子はあの場所にとらわれすぎている。
「安心なされよ。まだ事態は始まったばかり。早めに手を打てば事態も早急に収まりしょう」
「しかし・・・・」
「ご領主、実をいうと、あなたの領地での状況を相談してくれた者がいるのでね」
「どういうことです?」
「誰も知らない所で不穏な噂が流れていたのをご存知ないようですな」
 司祭の皮肉な言い方に普段は穏やかな領主も眉をしかめた。
「10年前ならいざ知らず」
「私もただの中傷と一笑に伏すところでした。ところがそんな折のこの人死に。あまりに符号が合いすぎると思いませぬか」
 心当たりは無いとはいえ、領主は何かただならぬことが起こりつつあることだけはわかっていた。司祭の言葉は正しく、今はその指図に従わなくてはならないことも。
「さて。ご領主。改めてお伺いする。ここで新しく人の出入りがあったことはあるだろうか」
「商売をしている者が何人かですな。だがどちらも身元がしっかりしてますし、何もおかしなところはありません。家族が証言してます」
「実際は家族の証言ほどあてにならないものはないのだが、とにかく一端どこかに隔離して何も起こらないように見張っていることが肝要だ。その他には誰か?」
「他には・・・・別に――」
「あれはどなたかな?」
 そう言って司祭が視線を投げたのは、あの隣の領主の奥方だった。
「ああ。あれは隣の領地の新しい奥方です。都からやってきて領地に入る前にこちらに滞在なさっていらっしゃる――」
 だが司祭はその言葉に反応した。
「あれが・・・・」
「司祭様?」
「私への相談と言うのは、あのご婦人は偽者で、本人はいまだ都で病に臥せっているというものなのです」
「そんなバカな」
 今度は領主の顔色がはっきり変わった。
「今都へ使いを出して調べさせています」
「しかし、あの方がいらしてもう2週間も経っています。今、以前のような怪異が始まったとしてもそれとあの方との関係を結び付けることができるようでしょうか」
「それはすぐわかることになるだろう」
 司祭の言葉は暗い響きを帯びていた。


 突然来客の待遇から尋問へと切り替わっても、女の態度は静かで穏やかなものだった。広間に呼び出され、屋敷の主だった面々が見つめる中で、何度も繰り返される脅しまがいの質問と監禁。鞭のように浴びせられる言葉を、ただ黙ったまま聞いていて、必要なとき以外は口を開かなかった。積極的で明るい性格と見られていた奥方の、それは別の一面だった。すべての非難を聞き流すでもなく、受け入れて、その身に刻むように耳を傾ける。それは間違いを犯した子供たちの言い訳をただ黙って聞いてやる母親のようにも見受けられた。
「この私が主人の妻ではないと、どうしておっしゃるのですか、司祭様。私はあなた様には一度はお目にかかったことさえありますのに。私の持ち物も、私の書類も筆跡も、あなたには信用のおけないものだとおっしゃる。それならば私には釈明の言葉すらも与えられていないということになります」
「では、なぜこの旅では今まで付いていたものではなく、新たに人を雇って入れ替えを行なっているのかな?」
「ぜんぶが全部と言うわけではありません。一番近しい者たちは以前から私に仕えてくれた者たちです」
「ではその者たちも調べる必要があるということです」
「私はただの女です。魔物などではなく、ただの女」
「そう。だから不思議なのだ。魔物は神を恐れるというのに、あなたには銀の十字架も、炎も、塩も、にんにくも、太陽の光さえも通用しない」
「それは私が人間だからですわ。申し上げているように」
「私は領主の奥方が都で休養中だと聞いている。そして・・・。これは噂話なのだが、倒れたときその奥方の首筋には二つの牙の跡がついていたということだ」
 その言葉に女の表情がわずかに白くなっていくのがわかった。
「あなたはどうしても私を魔物にしたいというのですね」
「真実は神の前で述べられるがいい」
 そこで行われるだろう異端審問。その筋書きを女はよくわかっていた。彼らはこうして当人からもその家族からもすべてを奪っていくのだった。それを愚かしいと思っていた。今の今まで。自分の身に降りかかるまでは。
 そして今、女は自分自身の愚かさを思い知った。
「はっきりと申し上げておきます。私はここであなた方のところへ行くことはできません。けれどももうここにはご厄介になることも出来ません。今すぐに私はこの館を引き払い、主人の下へ参りましょう。裁かれるというのならば、私の主人の元で――」
「そんなことができると本気で思っていらっしゃるのか?こんな状況であなたのご主人があなたを受け入れるとはあなたも思っていらっしゃいますまい。あなたはただこの場から逃れたいだけなのだ」
 そして、そんなことは許されるわけはない。だが司祭の鋭い言葉にもひるむことのない女の態度の落ち着つきと、鋭い応答にすべてを削ぎ落とされながら、その本質的な、清らかさと言っても良いようなたおやかな物腰とは、息をつめるようにしてその応酬を見つめていた領主の一族の間に、いつしか同情と憐憫を芽生えさせるのに十分だった。
 客分から一気に囚人のような扱いを受けていても、女は変わることなくまっすぐに前を見つめていた。自らの非など全く無いと言うようなその態度は堂々としており、それは、やはり彼女は本物の奥方なのだという確信めいたものを周囲にもたらしていた。
「司祭様。もう今日は遅い。奥方も、これから外に出るのはそれこそ危険です。ここは一旦お休みになってまた明日、お話になればよろしいことではないですか。夜の目は人を惑わすと言いますし」
「それはそうだな、ご領主。あなたの目も惑わしの罠に落ちているのかもしれず、私の目的は魔物を白日の下に曝すことでしかないのですから」
 幾分皮肉な調子で司祭が言うと、その場にあった何がしかの緊張がほぐれる。
「では奥方もこちらへ」
 促されて立ち上がったその人を、何気ない調子で司祭が引き止めた。
「ご婦人、ちょっとお待ちを。これをご覧になったことはありませんか」
 その手に握られていたのは一本の細身の短剣だった。刃に独特の模様が施されている。女は一瞬ためらうそぶりを見せたが、断るまでもないと思ったのか、ここで断ると不利に働くと思ったのか、司祭の言葉に踵を返して差し出された短剣を振り返った。
 良く観ようと女が手を出したとたん
「あっ」
 という小さな声と共に、女が手のひらを押さえた。どうしたはずみか、司祭の手から短剣が手渡されようとしたとき、彼の手がすべって女の手のひらを傷つけたのだった。
「これは申し訳ない」
 突然の出来事に呆然としている女の手のひらを引き寄せて、司祭は丁寧に血をぬぐっていた。何かを確かめるときのように。その意図に気がついて、女がその手をもぎ取るようにしたときには遅かった。
「やはり・・・・」
 彼は勝ち誇った笑みを浮かべて女を見つめていた。そのときになって初めて女の目に動揺が走った。
「おまえは人間ではない」
「どうなさったのです、司祭様」
「ご領主、ここにいるのは隣の領主の奥方などではない。奥方に成りすました魔物なのだ。違うと言い張るのならば、さあ。その手のひらをここで見せてみるがいい。私が傷つけたはずのその手のひらを。血が流れたはずなのに、今は髪一筋の傷さえ残っていないその手のひらを」
 女はその手を固く握りしめながら黙って司祭を見つめていた。周囲がざわめき、先ほどの好意的な雰囲気ががらりと変わったことを女は悟った。もう逃れられないということを。
 その次の瞬間、女は一瞬だけ視線を巡らせて周囲を見回した。何か助けを求めているのか、それとも逃げ道を探しているのか――。だがそのどちらでもなかった。女の視線が一瞬留まったのは、あの領主の末息子の上だった。見合う視線と視線。呼吸が止まったようなその瞬間。時間さえも動きを止めたようだった。だがその一瞬が過ぎ去った後は女は肩を落とし、放念したように人々の輪が以前とは異なった意味で自分を取り巻き、その輪が縮んでいくのを見つめていた。黙ったままその腕をつかまれるに任せ、黙ったまま引き据えられ、また縄を賭けられてから引きずりあげられ、そのように乱暴に扱われながら、女はそれでも一言も口を利かなかった。自分の運命を悟っているのか、自分の不死身を誇っているのか。それとも・・・・。自分の運命に絶望しているのか――。
 青年は打たれたようにその考えに立ちすくんだ。あの女性は死のうとしているのか。あんなにも美しくて、あんなにも儚げで。夢のように青年の前に現れては心をつかんでいった。そう思ったとき、身体が勝手に動いていた。いつからそこにいたのか、あの、幼馴染と言っても良い少女が何かを小さな声で叫んで、彼の腕を捕まえようとするのを振りほどいたのも気がつかなかった。青年は人ごみを掻き分けながら、女の元へと急いだ。
 領主の息子が何をしようとしているのか、人々はあまりに自然で大胆な彼の行動にとっさに動くことができなかった。そこにいる人々の目の前で彼は女の腕を引き、一連の動作で縄目を切ると、その手を取って再び人々を掻き分けるようにして外への扉に向かっていた。その場にはそれほど大勢の人数がいたわけではなく、青年を妨げようとする者はほとんどいなかったのである。
 だが彼の行動が妨げられなかったのは一瞬に過ぎなかった。とっさに動いたのは彼の兄だった。
「どこへ連れて行く――」
 掴み掛る手を振り切るように、次の瞬間青年は女の手を強く引き、走り出した。
「待て――」
「逃がすな――」
 人々の声に追われながら、二人は走りに走った。重い衣装をまとっているというのに女は羽のように軽々と走り、青年はそれを不思議とも思わなかった。そうして屋敷の外に出てしまえば、自分にとって有利であることも青年はわかっていた。彼ほど小さなころから屋敷を抜け出して、気がつかないような道を探し当てるのに秀でていた者はいなかったからであった。だが時間が経てば経つほど、彼らは不利になることもわかっていた。追手はどんどん増すだろう。すぐにすべての道は封じられる。いつまで逃げていられるのか、二人にはわからなかった。
「待って――」
 か細い声で女が青年を呼んだ。
「いつまでも逃げ切れるものではありません」
「でも」
「私のことはよいのです。どうか、あなたは私を置いて戻ってください。一日、二日。ほとぼりが醒めれば、ただ私に呪いをかけられたということであなたは無事にお戻りになれるでしょう」
「でも、そしたらあなたは――」
「私はどうにでもなります。あなたがあの場を助けてくれたから」
「そうしてまた行ってしまうのでしょう?」
「仕方がないことなのです。私は、私たちは違う存在なのですから」
「あのときも、そう言って連れて行ってくれなかった。けれど、あのときあなたはこうも言った。僕が僕として成長するために、ここが必要だと。僕は成長した。そうしてあなたに再び出会った」
「私は、あのとき、野の花は咲いているから良いのだと言ったはずです。私と共に行くことが何を意味するのか、あなたは本当にはわかっていない。私が何者かということも」
「覚えていませんか? 僕はあなたの本当の姿を見たことがある」
 女がはっと目を見開いた。
「一度は僕を置いて行った。それでも会いに来てくれた。忘れないでいてくれた」
 女の目が切なげに揺らぐ。
「あなたに・・・・。触れてもいいでしょうか?」
 青年の手がためらいがちに女の髪に伸ばされた。肯定も否定もしないまま――。そのとき。不意に女が青年を突き飛ばすようにしてよろめいた。そのまま二、三歩後ずさってから両手で胸を押さえる。青年はそこにあるはずのないものを見ていた。女の美しい豪華な衣装を貫いて、槍の穂先が突き出ていたのである。
「いたぞ! こちらだ――」
 見知った人の声がしていた。はっとした青年はその声を聞いたとき、たった今槍を投げたのが自分の兄であることを理解した。女の小さなうめき声が聞こえる。慌てて青年が駆け寄ろうとするのを身振りで制して女は首を振った。そのまま樫の木で作られた槍の柄を握りしめる。木の軋むような耳障りな音が聞こえてきた。女の口元から幾筋か血液が滴り落ちる。相当な痛みを感じているはずであるのに、女はそれをものともせず、自らの身体を貫いている槍をへし折ろうとしていた。女の肉体そのものの、肉を押し広げる音と、槍の柄が軋む音が混ざって聞こえている。やがて堅い樫の造りが女の身体の部分でみしりとへし折れた。そのまま穂先の部分を身体から引き抜いて、女は息をついた。
「だ、大丈夫・・・・?」
「来てはだめ!」
 そのとき、女が叫んだ。
「皆、こっちだ。早く――」
 兄の目はすでに弟を見つめる目でも、憧れの女性を見つめる目でもなくなっていた。ただの狩人の目。耐え難いその瞳の色。そのとき女が胸元を朱に染めながら、ふわりと動いた。飛ぶように大地を蹴り上げると、兄の脇に着地する。それから悲しげに微笑んで青年を見つめると、兄の目をその目で捉えた。交わされる視線と視線。それは青年と交わしたものとも、今まで宴の折に人々と交わしてきたものとも全く異なった目の色だった。その瞬間兄の身体が硬直する。男の頬を両手でそっと引き寄せると、女はそのままその手を滑らせて、男の衣服の襟元を寛げた。太い兄の首筋に、女は愛撫するときのように唇を寄せていた。と、同時にそれまで金に輝いていた女の髪の色が、漆黒に変わる。青年の記憶の中にある想い出の女性の姿そのままに。
 女の喉が嚥下に鳴り、続いて辺りには微かな、ほとんど聞こえないほどの、血をすすりあげる音が響いた。
「あなたは・・・・」
 やがて女が兄を放すと、その幾分大柄な身体は頽れるように女の足元に横たわった。その首元にははっきりと二つの牙の痕が残っており女によって何が行われたのか、はっきりと証明していた。青年の兄の血で、新たに染め上った口元をぬぐいながら、女は彼に微笑みかけた。
「お分かりになったでしょう。これが私。これが私と共に歩もうとする者の定め。これが、私たちが化け物と言われる所以」
 姿かたちだけではない。人間から魔物とそしられ、永遠に追われる存在。どうぞこの姿を見て。今ならば、あなたはこの運命から逃れられるのだから。だが青年は首を振った。兄を傷つけたこの女。だがそこまで追い詰められ、怯えた目をしている女。
「なぜ、わざわざそんな風になさるのです。わざとらしく見せつけるように。あのときも、今も。あなたはそんなこと望んではいないのに」
 女の瞳が揺らぎ、その唇が震える。だがそのとき。青年の耳にも追いつこうとしている人々の叫びかわす声が聞こえてきた。
「声がしたぞ」
「あっちだ。あっちを探せ」
 息を飲んだ青年が急いで女をうながす。
「さあ、早く。一緒に――」
 時間がなかった。さしのばされた手が触れるか触れないうちに
「――見つけたわ!」
 木立を掻き分けるようにして、姿を現したのは少女の姿だった。よほど急いだのか、息せき切っている。その姿を青年も女も凍りついたように見つめていた。少女は寄り添っている二人の姿を見つけると、眉をしかめた。それから青年の横たわる兄の姿に悼ましそうな視線を投げかける。だが彼女はその光景を見ても恐れなかった。はっとするほど強い目で二人を見つめてから、少女は女の方に目をやって早口で言った。
「もう二度と、ここには来ないと約束して。そうしたら見逃してあげる」
 女の目がはっと見開かれる。
「この人に二度と触れないで。会わないで」
「何言ってるんだ――」
「あんたは!」
 少女が今度は青年に向かって怒りを含んだ声で言った。
「ただ想い出を懐かしがっているだけ。子供時代を懐かしんでいるだけなんだ。そんなのおかしい。そんなんで家族を、人間の世界を捨てるなんて間違ってる」
「それは違う――」
「わかっています」
 青年の言葉をさえぎるように女が青年の前に出た。
「わかっています。私は単なる時間の影。移ろう時間の残像に過ぎないということを。私がこの人を連れて行けば、この人も自分の居場所を失って影になってしまう」
「違う。僕はあなたを。・・・・僕にとってあなたはそんなものじゃない。たとえ今、あなたがいなくなったとしても、僕は――」
 だが青年が言いかけたときだった。
「ここか――!」
 いきなり少女の向こう側に男が現れた。領主のすぐそばにつかえていた男だった。彼は一目でそこに倒れ伏している領主の跡取りとその末息子をかばうように立つ女の姿を見て取った。誰が、何をしたのか――。
 怒りと恐怖のただなかで、男は剣を振りかぶった。
「こ、こいつ。この化け物。よくも」
 振り下ろされる刃を女は避けなかった。じっと見つめている。自分を傷つけるものなどないかのように、裁きの刃を受けるように。
「だめだ!」
「やめて――!」
 少女の悲鳴があたりを切り裂いた。他には誰も動くものはいなかった。青年の他には。刃は女を庇って前に出た青年の肩から胸にかけて深く食い込み、真紅の血をあふれさせていた。誰もが青年のとっさの行動を止めることができず、己が兄と共に地面に倒れ伏す彼を呆然と見つめていた。己の血に胸元を染め、今また青年の血潮を浴びながら、女もまた目を見開いたまま凍りついたように青年の姿を見つめていた。
 次の瞬間、青年を傷つけた男はすさまじい力で別の方向に跳ね飛ばされた。それに構わず少女は青年に駆け寄ると、必死であふれ出てくる血を止めようとした。
「やめて。お願い。死なないで。私を置いて死なないで――」
 だが青年の苦痛に満ちたまなざしが探し求めているのは、女の姿だった。彷徨っていたまなざしが女の上に止まると、青年はふっと微笑んだ。自身の血と青年の血に染まりながらも、女のその姿は神々しいまでに美しく鮮やかなものに青年には見えた。青年の唇が何かを形作り、そのまま彼は幸せそうに瞼を閉じた。
「お願い、お願い・・・・」
 死んでしまわないで。私を置いていかないで。少女は膝の上に青年の身体を抱き上げながら、子供にするようにそれを揺さぶった。私を見て欲しかった。私にだけあの特別な微笑みで笑いかけて欲しかった。
 そのとき自分の上に影が落ち、少女はあの女が自分の傍らにひざまずき、立ち膝をしたまま上から青年とそれを掻き抱く自分を見つめているのに気がついた。
「だめ」
 少女はますます青年の身体を強く抱きしめた。
「この人に触らないで!」
 だが女は悲しそうな目で少女を見つめた。
「あなたの言うとおりにしたかった。忘れてしまっていたら、そのままで。幸せでいて欲しかった。太陽の元で普通の幸せを願ってほしかった。夜ではなくて」
「じゃあなんで!」
「この人を人間たちの元に残して行こうと思った。この人には太陽が良く似合うから。でも、彼はあなたを選ばなかった。人間たちも彼の言葉を受け入れなかった」
「あなたがいたから。あなたになんて逢わなければ彼は私たちの所にいてくれたのに。きっと人間のままで年老いて、私と一緒に。あなたなんていなければ――」
「けれども私たちは出会い、そして彼は私を選んだ」
「違う!あなたが呪いをかけから! 先に出会ってしまったから!」
 だが女はそれには答えず、黙ったまま青年に向かって手をさしのばした。
「触らないで!」
 女の血まみれの手と顔を間近で見て、少女は心底ぞっとした。こんな状態で生きていられる訳は無い。人間ならば――。この女性は人間ではない。魔物なのだと言う実感が急速に少女を蝕み、少女は青年の衣服を握り締めたまま金切り声を上げた。
「イヤ――!!」
「お前に触れるわけではありません。歳若い妹よ。私の告発者よ」
 一瞬凍りついたように少女の悲鳴が止んだ。女が次の瞬間、少女の耳元でささやいている。
「私のことを人間の司祭に言ったのはあなたですね」
 少女は握り締めていた手がやさしく断固とした手つきで離されたのを夢の中の出来事のように感じた。青年の身体を抱き寄せた女が膝の上にその頭を乗せ、やわらかな視線で青年の頬をいとおしげに包むのを見ていた。青年がうっすらと目を開けて女に向かってかすかに微笑むのを。
「ずっと迷っていたのです。連れて行くことがどんな意味があるのか、私にはあなたに差し出す答えがなかったから。でも、あなたはそれを望むのですね?」
「僕の、姫君・・・・」
 ほとんど息だけで言葉を形作ると女は悲しげに微笑んだ。
「それならば、私も言わなくてはなりません。ずっと・・・・・。あなたと初めて出会ったときから。私は二つに引き裂かれていました。一つは決して私たちの元へあなたを引き入れたくはないと思っている私。そして・・・・もうひとつは」
 女の唇が青年のそれに重なった。血の味のするくちづけだった。青年の血と、女の血と。二つの血が混じりあい、次の瞬間。羽ばたきにも似た音と共に二人の姿が見えなくなった。
「どこ・・・・?」
 傍らの不在に気がついて、少女が言葉を発したときには血溜まりの他に青年が後に残していったものはなくなっていた。
「どこにいるの?」
 せめて言葉ひとつ。髪一筋。自分に向けて残していってくれたなら。少女の瞳に涙が浮かんだ。少女は青年が永遠に自分の手から離れてしまったことを知った。そうして自分は、自分こそはこれから永遠に青年の面影を探し求めていくのだろう。あの二人の行ってしまった道筋を絶えず夢見ながら。それが自分の運命なのだということを、少女はそのときはっきりと悟ったのだった。






END



2010.12.12

ここまで読んでくださった方々。ありがとうございました&お疲れ様でした&すみません。。。一気にアップしてしまいました。実に22000字。Out of BLOOD+『少年』の続きです。。どうしても途中で区切ることができずに、こうしてかなりの長さをアップしてしまいました。読みにくかったことと思います。申し訳ありません。
  よくあるといえばよくある話。でも恋愛のが少ない私にとっては、かなりの悪戦苦闘でした。三角関係とも言えないような関係。精神的にちょっとひ弱な女王様を書いてみたかったので(今回、女王という単語は使いませんでしたが)。本当の目的はそこでした。。うまくいったかどうかはわかりませんが。。

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