闇の中、身を潜めるようにして狩人の気配がした。獣を狩るように追い立て、それなのにまるで追い詰められているのはこちら側であるかのように余裕のない、だが的確な動きで獲物を仕留める。狩られている相手は、狩り立てている相手よりも一回り以上も大きく、武骨な影を持っていたが、その体形からは想像もできないほど身軽に音もなく夜を駆け抜け、人間の目からは闇夜の影としか映らないものだった。血の匂いをさせている実態を備えた影。
   その影に追いすがり、斬り捨てる。声も立てず、靴音すらほとんどしなかった。押し殺した呼気。裂帛の気合。そして夜目にもわかる真紅の瞳。光の一切刺さぬ暗闇でさえ、その動きを妨げることにはならず、まるで斬り捨てることが自分の人生そのものなのだとでも言うように、刀を振るうその姿はまだ少女の姿をしていた。
   血の匂いと共に斬り伏せるその相手は、人間よりも一回り大きく巨大な霊長類のようにも爬虫類のようにも見られ、口には鋭い牙。手足の爪はこれまた牙ほども鋭く、体格で圧倒的に劣っている少女に襲い掛かる。敵だからという理由だけでも、追われているからという理由だけでもなく、その赤光を放つ少女の目にも似た赤い目には、まぎれもなく少女に対する欲情の色も浮かんでいた。闇雲に劣情に突き動かされ、少女から逃げることも奪うこともできずに立ち向かってくるのだ。
   そのすべてを我が身に引き受けて、刀を振るう少女の姿は覚悟を決めただけ一層美しく、だが本人は欠片もそのことに気がついてはいなかった。少女が見るのは相手の翼手だけ。そしてその向こうに見える対の妹――ディーヴァだけ。
   ディーヴァの血と意志とが彼らをあのような姿に変えた。人間であったはずの彼ら。その捻じ曲げられた運命もまた自分の存在が起因だった。ディーヴァを解放した自分自身の。美しい声。美しい青い薔薇。けれどもその存在は人間とは相容れないモノであった。解放されたディーヴァは美しく奔放。そして無邪気そのものの顔であたりを血の海に変えた。そして自分自身もまた――。燃え盛る炎。油と肉の焼ける匂い。狂った時間。狂った衝動。どこもかしこも赤く熱く狂っていた。あのベトナムのジャングルの中。身の裡に巣食う怒りに突き動かされて斬りつける。翼手も、人間も。すべてを、自分自身すら。すべて、すべて、すべて――。
   今だからわかる。あの真っ赤な姿こそ自分自身の中で目を背け続け、見ようとも気がつこうともしてこなかったもう一人の自分だったのだ。ディーヴァの襲来。目の前で失われていく生命。止められなかった自分。当たり前だった。ディーヴァが持っている本質は自分自身の中にも存在するのだから。だからこそ、すべてを断ち切り自分自身を無に帰すために、この翼手を。この狂った存在を斬らなくてはならない。人間たちから離れ、自分もまた翼手であることをさらに自覚し、その能力をすべて使い尽くして。そのためだけに生きる。その覚悟を決めるために少女自身が払った犠牲はあまりにも大きいものだった。本人にとっても、『赤い盾』にとっても。
   闘いの一瞬、わずかな物思いに囚われた少女に向かって鋭い爪が襲いかかった。少女の匂いに反応しその身を欲しているというのに、シュヴァリエではない彼らにとって、小夜に出会うことは己の死に結びつくことを本能的に悟っているのだろうか、こうして例外なく小夜の匂いに反応して襲い掛かってくる。それともそれは対するディーヴァの眷属だからディーヴァに相対する女王である小夜に向かって攻撃するのか。
   少女が彼らを斬り伏せるため刀を振るうように、引き裂き粉砕しようとしているのは彼らの方も同様なのだ。決して交わらない存在。あってはならない存在。それは相手も自分も同じ――。少女の目が相手の目の中に死を見据え、それを現実のものとするために全身に殺気を燃え上がらせる。自分の死なのか、ディーヴァの死なのか。
   すると少女の傍ら煌めく影が映った。細い優雅な一振りのナイフ。放たれる前から少女はそれを知っていた。それを放ったのが誰であるかも、そうなるであろうことさえも。黒衣を纏った背の高いその姿は、少女が望んだままに後ろの守りにもなり、また攻撃するときの盾にもなっていた。――少女が望んだ、そのときだけ。
   あの時。『赤い盾』の崩壊と共に、少女は自分の身を構わなくなった。ハジを前面に立たせることを望まず、自分自身で剣を振るい、縦になろうという青年の意志をも拒絶せんとばかりに駆けていく。
   そんなことしか少女にはできなかった。赤々と燃え盛る焔が身を焦がし、襲いくる翼手だけを意識して絶えず剣を振るい続ける。研ぎ澄まされた刃物のように――。時折見上げる青年の目の中に、悼みと哀しみの影が浮かんでいた。それを見ると胸の奥のどこか遠くが軋む。しかしそれ以上に色濃く浮かび上がっていたのは、青年の少女に対する理解と受容だった。少女が頑なになればなるほど、その覚悟は揺るがなく、そして深いモノとなっていくような気がする。
   だから――。何も言わない。何も言えない。あの日から、いつの間にかそうあることが普通となってしまった。闘いの最中の的確な一撃。闘いが終わった後の無言の奉仕。
   こんな風に言葉も身振りさえも、何も交わさなくても意志が通じる。なんて単純で純粋な関係なんだろう。と少女は思った。この関係は余計なものに思い煩わされないでいられる。ただひたすらディーヴァに向かい、闘う日々。それは赤い盾にいた時よりも、もっと切迫した闘いだった。すでにディーヴァの作り出す翼手は今までの目覚めを通じても小夜が遭遇してきた以上の数に上っていた。ベトナムの実験農場で行なわれていたことも無視できない。子供たちすら実験の対象にして、シフの少女イレーヌ。あの悲しい運命。一体誰があんなことを望んだのだろうか。確実に何か今までの闘いとは違ったことが起こっているのだ。
   そして・・・・。リク。
   小夜は唇を血が滲むまで噛み締めた。赤い盾は崩壊し、その情報もその分析もないまま、ただ翼手の発生だけを便りに微かなディーヴァの痕跡を辿る。今や翼手を切り伏せることだけが少女のすべてだった。帰り血を浴び、ためらいなく斬る。その姿はディーヴァに対する唯一の武器と言われていた者に真にふさわしいものだった。
   ディーヴァを倒さなくてはならない。これ以上犠牲をだしてはならない。それに比べれば自分の感情など何だというのだろうか。たとえ武器と呼ばれてもいい。いや、いっそ感情のない武器ならば、どんなに楽だろうか。少女はふと手を止めて上着の一点を押さえた。
   胸のポケットにある小さな燈のような写真。それだけがまだ人間の心を失っていない証拠だった。自分は人間ではないけれど。それでも・・・・。これがあるから、大切なものを忘れないでいられる。これを守るために闘っているのだとわずかに実感できる。『動物園』以来初めてだった。小夜を小夜として受けとめてくれる、翼手に対する唯一の武器ではなく、小夜として見てくれた存在は。家族だった。何があろうと――。既に失われた温かな命。滅びに向かっている運命の代償のように、自分に与えられた小さな燈を少女は上着のうえからそっと力を込めて押さえた。
   もう誰も傷つけたくない。巻き込みたくなかった。最初から、これは自分だけの闘いだったのだ。二度と逢うことができない人。逢っちゃいけない人。たとえ一時期だけでも家族と呼んでくれた。受け入れてくれた。それだけでいい。その思い出だけで。
   表情の乏しくなった少女の眉が、そのとき深く皺を刻み、うつむいた肩が小さく揺れていた。





   思い出に浸る少女の姿を青年は離れたところからそっと見守っていた。こうして少女が沖縄に通じるものに想いを馳せるとき、青年は決して少女の傍らに近寄ろうとはしなかった。かつて小夜唯一のシュヴァリエであることは青年にとって秘かな誇りであり、少女を決して一人にすることはなかった。
   その秘かな自負が変わるはずはないと思い込んでいた日々。だがベトナムでの出来事がすべてを変えた。あの出来事は自分達の本質がなんであるかを改めて二人につきつけた。女王による暴走。停めることのできない自分。第二次大戦のときも、自分は小夜に対して赤い盾が行なったことを停めることができなかった。
   そしてあのとき。ベトナムの奥地で。本能のまま怒りに身を焦がし、すべての生あるものを切り裂いていく赤い小夜の姿。小夜の哀しみの奥底に、あの凶暴な本能が宿っている。翼手の本能。その女王。見ようとしてこなかった、恐らく小夜自身も知らずにいた翼手としての姿がそこにあった。
   その小夜に恐怖した自分。自分自身の中からも湧き上がってくる翼手としての本能。それが小夜に対してのものだったとは――。決して再び見せない誓っていたというのに。『動物園』を去るとき、翼手の力に身をゆだね、それを解放してしまった自分自身を、恐れと哀しみに彩られていながらも、小夜は拒絶しなかったというのに。その小夜を――。
   許せなかった。自分自身を。そして知った。絶望というものの本当の姿を。今まで知っていたものは小夜を通しての形でしかなかったのだ。
   だからなのか、それとも幸せの思い出はすでに沖縄の宮城家の上にしかなかったのか。――再びベトナムの実験農場で、暴走状態に陥った小夜を彼は引き戻すことができなかった。小夜を止めたのは沖縄に通じる声。あのとき、自分の在り方と少女の心の奥底にあるわずかな希望を青年は相反するものとしてはっきりと認識せずにはいられなかった。そして今、小夜は自分の運命に決着をつけることを望んでいた。
   固く意志を閉ざすようにして刀を握り締める小夜の目は赤く瞬き、もの言いたげにこちらを見つめる小夜の目は黒々と密やかな夜の欠片のように濡れている。
   息を飲むようなその美しさの中で少女の哀しみだけが際立っていた。失うこと。この手の中からこぼれ落ちそうな時間だけが残されたものだった。その中で。それでも少女が不意に目線を和らげるときがあった。
   ほんの小さな触れ合いがもたらす僅かな思いやり。子供たちが見せる無邪気な笑い声。それらが小夜に僅かな慰めをもたらす。沖縄で見かけた笑顔はすでにそこにはなく、だが張り詰めた視線がそのときだけはやわらかなものに変わる。この小さな人間の営みを少女はどれほど愛しているか。そしてまた刀を握りしめる――。
   そのためにこそ。いや今やそのためにだけ、生きることを自分自身に許しているような少女に一体何を言えるだろうか。日々の終わりは迫り、すでに少女に対してどんな慰めの言葉も労いや諫めの言葉も届かなくなった。ただあの、沖縄の絆を感じさせる小さな写真だけが小夜の慰めになっているのだろう。自分にはなしえない慰めに。けれども知っていた。その慰めさえも、ともすれば小夜にとっては苦しみに変わることを。失われたものを想うとき、少女の目に浮かぶのは。自分自身の呪わしさと運命への怒りと哀しみだった。
   青年は多くは望まない。少女のための小さな慰め。それでもそれがあることに心から感謝する。小夜にはそれが必要なのだと彼は知っているのだった。たとえそのための苦しみがあり、それをもってしても滅びへの道を免れられないとしても。――そしてそれはすぐそばにまで来ているのだ。
   それを彼は日々の戦闘に、小夜のまとう空気に、確かに感じ取っていた。ディーヴァとの最後の闘いは、勝つにしろ負けるにしろこの運命に終りをもたらし、小夜に死というやすらぎを与えるだろう。ならば自分ができることは小夜の望みを叶えることだけなのだと青年は思った。ディーヴァを倒して、そして――。
   それが小夜の望みならば、たとえ、そのことが自分の心を永遠に殺すものであったとしても叶えるだろう。それが青年が選び取った道であり、彼しかなしえない道であることも青年にはわかっていた。
   長い間、小夜を見てきた。見続けて。だから見えなかったことがある。沖縄の日々。記憶を失って初めて小夜はその宿命から解き放たれた。あの家族の存在の大きさに、羨望を突き抜けて希望を感じる。目覚めの血を与えても記憶が目覚めかったことを半ば祈り、目覚めることを半ば願っていた。追い付いてきた現実は少女の一時の安寧を許しはせず、宿命は小夜を闘いに引き戻したが。沖縄と宿命と、その二つの間を行きつ戻りつしていた小夜。暴走。そしてあの実験農場での少年の叫び。――小夜への呼びかけ。人間としての。――そのとき改めて気がついた。希望の可能性と、そして自分こそが小夜を過去に縛り付ける存在なのではないかということを。小夜の目の中に在る哀しみ。その中に自分自身の存在が含まれていることこそ、その証なのではないか。
   痛みを負うことにためらいはなかった。ただ小夜の苦しみが、それをやわらげることすらできない自分がいる。だが本当に道はないのか。あの沖縄で見た小夜の笑顔の中に、それはあるのではないか。すべてを取り払ったときに小夜が見出すものは絶望だけではないのではないか。その問いが今は胸の中を蝕むように存在している。そして思い知るのだった。とっくに選択して、覚悟していたはずなのに。今、近づきつつある最期の時を、自分はどれほど恐れているのか、どれほど小夜の明日を願っているのか、ということを。
   どんなに願っても、どんなに望んでも、かなえられないことがある。何を以てしても覆らない事実がある。誰のせいでもない。その運命を引き受けると決めた、それだけが自分にとっての真実だった。だが今は体温を失ったこの胸の奥底に在る願い。自分以外の誰かがそれをなし得る可能性があるならば、と思うときがある。小夜の願いが奈辺にあるのか。幸せなどという言葉は知らず、しかし少女の本当の願いとは。本当の運命とは・・・・。
   絶望を乗り越える言葉を知らず、ただ共に在り、少女の望みを叶えるためだけの存在であることを自ら選択し、そのように自分自身を律してきたとしても、自分自身の願いはどうしようもなくそこに存在する。この矛盾。小夜のための命。小夜のための存在。それなのに、未だに希望を求めてしまう。青年は自分自身の弱さを嘲った。ここまできてまだ覚悟が決まらない。
   小夜自身が願っているものが何かということも、なにゆえ少女がそれを願うのか、願わざろうえないのかを誰よりもわかっているというのに。
(ハジ・・・)
   少女が小さな声でささやく。約束を――。
   それだけが希望であるかのように。沖縄の記憶さえも少女を引き戻すことは叶わず、それでも幻のように響く言葉を消しきれない。今は遠くに感じられる、運命を穿ち、定められた道を変える言葉を。


   夜明けは遠く、記憶のこだまのように、ただ余韻だけが響いていく。絶望が闇の中、尾を引いてやってくる。すべてが緩やかな暗い道を辿る中、それでも残り香のように何かを感じられる。ただその気配だけを感じて・・・・。
   だが雲は厚く垂れ込め、青年にはすでに祈るべき神も持たず。ただ闇の中、沈黙だけが響き――。
   彼にはいまだその言葉を見いだすことは叶わなかった。





END



2012/10/19

 空白の一年話です
   基本的にハジ小夜というのを書くときに、このような二人が私の中ではベースに存在している。というのを再確認するように書いてみました。
   沖縄での『音無小夜』というのは、彼女の人生においてある意味イレギュラーなものだったと。そしてそれにもかかわらず、小夜の本質的なものは『動物園』や沖縄で見せたようなものだったと(だからこそ小夜は痛々しい・・・・)。その小夜があるからこそのハジのスタンス。
   時折、こんな風に暗い二人を書いてしまいますが。。。。恐らくそれだから、30年後は希望が持てるのではないか!と力説したい。。
   しかし。。。今回ほぼ台詞なし。。如何に自分が台詞と言うのが苦手なのかがわかる。。orz...

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