沖縄にも細い細い雨が降るときがある。普段のたっぷりとした雨とは異なり、それはしっとりとしめやかに、降り注ぐ世界を沈黙に包み込む。ゴザ近くの亀甲墓にも雨は降り注いでいた。周囲の樹木を洗い、石棺を洗い、だが閉じられた墓の内部ではかび臭くはあっても穏やかでゆるやかな時間が流れているはずだった。この地方独特の墓の内部は温かい女性の子宮を模しているとも言われている。この世で失われた生命は、こうして象徴的な母の胎内で安らぎ育まれ、やがて来世に新たな命として生まれなおすのだろう。
   その墓地の一つを遠くから眺めている背の高い影があった。




   あのときもこんな雨が降っていた。と彼は思った。
   ニューヨークで永い闘いについに決着がついたとき、小夜は死と生の極みに引き裂かれたまま途方に暮れた目をして震えていた。そこには沖縄の光も届かない闇と、濃厚な生の煌めきを持った子供たちの輝きとがあり、少女を同時に反対側の方向へ引っ張っていた。
   あのとき。途方に暮れた子供のような目をして世界を見つめていた小夜。行き場を失った子供のように心細い目をして。今にも途切れそうな精神。くずおれてしまいそうな心。闘いの終わり。最後の結末を除いてすべてが終わった後の小夜は、哀しみと儚さをはらんで言いようのないほど美しく、身を切られるほど切なかった。この手で自ら失わなければならない、捧げられた魂の欠片。
   言葉などなんになるだろう。言葉だけでは及ばず、だがそれを超えたところでしか手渡せないもの。それがわかっていながら、動くことができない。それが自分の運命なのだと思い込んでいた。その運命を引き受け、それゆえに縛られているのだと。
   望むこととは真逆とわかっていながら、それでも小夜のシュヴァリエであることを頑なに選ぼうとしていた。運命を受け入れながら、同時に恐れてもいた。運命の結末を。そのときを。
   自分の生きる意味も、在るのかもわからない魂のようなものも、すべてこの手で壊さなければならない運命の刻限が迫っている。天井に穿たれた穴から滴る雨の雫が少女の髪を濡らし、もうすぐ失われる儚い生命の輪郭を際立たせていた。だが――。
――生きてください――
   ただ一つ、最後まで動かすことのできなかった哀しい少女の意志に、たった一度だけ背くこと。変化というのはなぜ起こるのか、心動かすとはどういうことなのか。カイの言葉がきっかけだったことは確かだった。だがそれ以前。遠い時間の中、熱を失ったと思っていた心に、青年が自覚せずに抱いていたものがあったのではないだろうか。それが沖縄で少女の笑顔を見たとき、波紋のようにわずかに残った希望に似たものを引き起こしたのかもしれない。憧れと夢。追憶と真実。本当のことは誰にわかろう。少女の運命が音を立てて動く、その瞬間――。そして・・・・。
   この生と死の狭間。ついにそれまで口にすることのなかった想い。言葉など何になるのか、そう思っていたはずだったのに。その言葉を口に出した途端、すべての恐れが消えた。
   闘いの日々、少女の悲しみも、その怒りも苦しみも、すべてをわが身に引き受けてもいいと思っていた。少女の苦しみは少女にしか背負えないことを幾度も思い知らされる道程だった。だが。いやだからこそ、言葉にすることもできなかったというのに。青年の心からの、たった一つの願い。それがすべてに勝った。見上げている小夜のうるんだ瞳の儚さ。動かない腕の中から取り上げた刃に、その手が所載なく宙を漂った。背く言葉にうつむいて、決してこちらを見ようとしなかった視線。額を合わせても小夜は目をそらしていた。こめかみにくちづけを落とすと、少女はわずかに唇を震わせた。小夜の髪からは雨の匂いがしていた。
   見つめた小夜の瞳は揺れていた。この百年の間に見たことのない色に怯えている。そこには哀しみがあった。寂しさがあった。疑問があった。そして光が。失われたと思っていた光がそこにあった。触れれば消えてしまいかねない儚い光が。
   その光が震え、失われたハジの体温を求めるように頬が寄せられた後、小さな細い声が聞こえた。
――生きたい――
   その言葉がすべてを変えた。青年の存在の意味も、この世界そのものの意味さえも。




   その瞬間は今も鮮やかな記憶として青年の中に存在している。
「小夜・・・・」
   闘いの後、小夜が過ごした短い沖縄の日々。戻ってきた笑顔と穏やかな時間。それらを知らないまま青年は眠りの中に再び小夜を手放した。青年は小夜の眠りに間に合わなかった。あるいは沖縄の日々に戻った小夜に逢うことに、わずかな恐れを抱いていたのかもしれない。幸せな時間に過去の影を交わらせたくない――。だが自分の生死を知らないまま、小夜が喪失の痛みを抱えて眠りに就いたのではないかと思うと胸が痛む。
   けれどもそれは、ベトナムで暴走する小夜を追いかけることもできなかったあのときとは異なっていた。必ず訪れる終末の日だけを約束されていたあの日々とは。小夜が「生きたい」と望んだときこそ、少女にとっても青年にとっても未来が開かれた瞬間だった。死の意味も、生の意味も、その瞬間にすべてが変わった。
   小夜にとって、自分は絶望の道のりを共に歩み、最後に死による安らぎをもたらす者だということをわかっていた。そのためだけに、小夜は自分の傍にハジを置くことを自分自身に許していたのだと。永い苦しみと悲しみの道。それを選ぶことしか許されなかった少女と従うべく存在する自分。百年は長かった――。
   小夜の背負っていた運命の大きさを、その悲しみを思って青年は再び目を閉じた。瞼の上にも細かい雨が降る。あの、やさしく稚い性格の少女の中に、その血がもたらす運命が存在していた。反する血の女王たる妹との闘い。自分自身の中に存在する狂気のような餓え。人格を凌駕する灼熱の狂気。それらすべて、少女が自ら望んだわけでは決してなかったというのに。
   目を開くと少女の流している涙のように、石室はけぶっていた。感情と共に輝くあの赤い瞳。哀しみの中に鎮まる紅茶色の瞳。そのどちらも小夜のものだった。すべてを見つめ、すべてを背負い。それでも青年の心からの言葉に、響き合うように答えた生への言葉が、どのようなものを彼にもたらしたのか、少女はわからないだろう。
   あの一言は過去の重い枷にしか過ぎなかった自分の存在を、すべてを含みながら明日へと共に歩む存在へと変えてくれるものだったのだ。長い闘いの中でいつしか明日の意味も、光の存在も、絶望の中ですりつぶされるように消え失せていった。ただいつ果てるともない滅びへの道程。見届ける者。それが自分の存在意義であったというのに。それは沖縄の太陽が象徴するように、ついに生への輝かしい意味合いを青年の中にもたらしてくれたのだった。沖縄でのあの一年が小夜の中にもたらしたモノの意味を思い起こす。自分では決して為しえなかったこと。生きることの輝かしさを、人々の温かさを、小夜に授けてくれたのだ。『ナンクルンナイサ』の言葉と共に。
   あの沖縄の方言が小夜にとってどんな意味であったか知っている。明日への言葉。生命の満ち溢れた光の言葉。自分には一番遠い言葉と思っていた。望んでも叶わないことがあり、一方で望まなくても為すべきことがある。小夜にとってこの身は自分自身の呪わしさの象徴。絶望の中の唯一の救い。それだけなのだと。それがあの小夜の一言で変えられたのだった。生きたいというあの一言で。
――ナンクルナイサ――
   その希望の言葉の響きは今も変わらずに青年の胸の中にある。あの時まで持つことも許されず、自分がそれに値するとも思っていなかった言葉。最後の最後でそれを小夜に贈ることができた。少女を明日に送り出す言葉。魔法の言葉。自分にとってどれほど願い、どれほど望んだことだったか――。どれほど祈ったとしてもかなえられることなどないと思っていたこと。それを為すことができた。そういう存在に変えてくれた。それが小夜が成してくれたことだった。
   それだけで――。




   青年は再び目を伏せた。静かな雨が周囲を取り巻き、想い出のひとつひとつが慈雨のごとくに降り注ぐ。少女にとって眠りに就くまでの期間は穏やかな幸せに包まれた時間だっただろう。だが小夜は自らのシュヴァリエの生死さえも確かめることができずに再び眠りに就いた。次に目覚めるときに、そこに何を見出すか、自分が何になってしまうかわからぬ不安と共に眠りの中に手放してしまったことは、青年にとって悔いの残ることだった。
   だが、たとえそこに小夜の声が聞こえなくても、姿が見えなくても、確かに小夜の存在を感じることができる。今も変わらず。繭の中のやさしい鼓動。夢の中の揺蕩い。きっと小夜にも届いていることだろう。眠りの中に確かに存在する絆。その想いを。天から降り注ぎ、大地に染みわたっていく雨のように。幾度も記憶を眠りの中に手放していても、目覚めのたびに共に歩いた日々を思い出すように。それを信じられる、実感できるからこそ長い時間、待つことができるのだと青年は思った。シュヴァリエとなり、やがてその意味を受け入れていったように、永い闘いの時間が終わったとしても、そのことは自らの在り方として変わらないのだと。
   細い雨が降り続いていた。様々な雨の日々があった。『動物園』での豊かな雨。凍りつく荒野での雨。そして運命の日の雨。様々な雨の記憶を超えて。あの、寝覚めるたびに深まる絶望の日々でさえ、少女の目覚めは喜びであり、永い夜を越えて青年はそのたびに目覚めを待ち続けていた。
   だから今も信じられる。再び目覚めるそのとき、絶望の中から希望の萌芽へと少女が産み直されるそのときを。きっと訪れるだろう目覚めの瞬間を。あの冷たい雨の記憶さえ、明日へと続く慈雨の響きに置きなおされるように。
(小夜――)
   睫毛の上に溜まっていく細かい雨を振り払うように瞬きすると、霞む墓の情景がその瞬間だけくっきりと映る。記憶と実感が混在する温かな腕のぬくもりを思い起こしながら、青年の影はいつまでもそこに佇み動かなかった。








2011.11.23(2011.11.13投稿)
(2011.9月半ば~11月半ば開催のweb祭投稿作品)

  2011年web祭、『こっそりこそこそ糖分祭』投稿作品。第二弾
   今回のweb祭は雨をテーマに書いてみようとずっと思ってました。ご主催者様リクエストでハジ単体話です。以前ブログの方で、ハジの「ナンクルナイサ」(最終回にて)を語ったことがありましたが、その二次創作はしていなかったなあ。。と思い、この機会に作ってみた作品です。途中体調不良に陥り、思った以上に時間がなく、結局滑り込みセーフで投稿させていただいた作品となりました。

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