沖縄にも雨が降る。この南国の島国は本土とは異なり梅雨にはスコールのような激しい雨になり、その後からりと晴れる。そのときも少女は突然降り出した雨に驚いたように大きな目を見張り、じっと外を眺めていた。
   雨粒が硝子に張り付き、そのまま線を引いて落ちていく。空が突然泣き出したようで、灰色の雲を見上げようと小夜は窓硝子に張り付くようにして空を眺めた。
「何を、見ているのですか」
   不意に静かな声が聞こえた。沖縄の良い香りのお茶の匂いが鼻をくすぐる。小夜はこのお茶が好きだった。
「空をね、見ていたの。同じ雨でも色々な降り方があるんだなあって」
   声の主である青年はわずかに微笑みながら、温かいお茶を少女に薦めた。すると少女は窓から離れ、椅子をひいて腰かけると青年に向かって小首をかしげてみせた。その意味を感じ取った青年が少女と共に椅子に腰かける。それを見届けると、どことなくほっとしたように少女はカップを手にとって一口、お茶をすすった。どちらも何も言わず。静かな時間が流れていく。ただ雨の音だけが耳に張り付くように聞こえていた。
   地面に直接はじける音。屋根を伝って水たまりに落ちる音。一口に雨の音と言っても様々な音がそこかしこから聞こえてくる。
「あ・・・・」
   不意に少女が飲んでいたカップから唇を離し、何かに気がついたように小さな声を上げた。
「?」
「音が・・・・。何となく懐かしい音が聞こえたような気がして」
   少女は懐かしそうな目をして続けた。
「ねえ。憶えてる? ボルドーで、二人して遊んでいたときに雨に降られたことがあったよね。――まだハジが小さかったときだよ。あとでジョエルにお小言もらっちゃったけど、二人で小屋に駆け込んで濡れた服を乾かして。乾草の上に寝っころがって二人で天井を見てたっけ。
   あのとき私、ハジがいてくれて良かったって心から思った。きっとその前からわかっていたんだけど改めて、ね」
   少女が言っていたのは、初めてハジに自分の体質――生きているモノは彼女には近寄ってこないということを語った日の出来事だった。多くの動物たちがいた『動物園』。それらすべてが本能的に小夜を怖がり、屋敷の人間たちと言えば、この特異な体質を持っているジョエルの養女に、当たらず触らずといった具合で対応していた。
   いつの間にか独りでいることが当たり前になっていたのだろう。それが唐突に変わった。少女の友だちである事を命じられていた少年は最初、頑なな目をしていた。だが少年は決して小夜から逃げ出したりはしなかった。いくつかの衝突と理解。一緒に濡れた雨の日。
――よかった。ハジは私のそばにいてくれるんだね。――
「あの時の雨の音を何となく思い出して――」
   ジョエル以外の存在がどんなに嬉しかったことか。生きているものはすべて自分から遠ざかっていくものだとばかり思っていたのに。一緒に流れていく時間。共にいる空間の心地よさ。
   ハジと一緒にいて、初めて楽しさがわかった。



「私にとっても雨の日は、初めて他人に受け入れてもらった日でした」
   それまで沈黙を守っていた青年が唐突に口を開いた。
「あの、雨の日ではありません。もっと前。チェロを教えてもらっていた日。諍いの中の一日。私が貴女に初めて自分のことを話した日でもありました」
   少女は思い出していた。幾度も眠りに攫われたとしても忘れなかった。ハジとの思い出を忘れるはずはない。
「憶えて・・・・いるよ」
   惨めさと屈辱とに震えていたハジ。その目からこぼれた涙。『動物園』に来る以前、ハジがどんな境遇であったのか、正確に理解することは当時の小夜にはできなかった。だがハジの痛み。ハジの悲しみ、それだけは理解できた。慰めの言葉も、謝罪の言葉も知らなかった。けれども疎外される者の悲しみは少女にも覚えのあるものだったのだ。
   どうしたら良いのかなど、そのときにはわからなかった。ただ手を差し伸べたいという、それだけの思いが少女の中に芽生えていた。与えられるだけだった少女の中に、初めて与えたいという欲求が芽生えた瞬間だった。
   抱きしめたハジの肩は細く、思った以上に頼りなかった。一瞬緊張に震えてから何かに気がついたように視線を留め、それから少年は力を抜いた。
「私が初めてハジを抱きしめた日――」
   そうつぶやいてから、その言葉に少女は不意に顔を赤らめた。かつての少年は今では背が高く、肩幅の広い青年になり、自分自身もあのときの何も知らない少女ではなくなった。抱きしめるという意味そのものも大きく変わった。
   少女は自分の言葉に真っ赤になったまま、窓の外に視線を移した。外は変わらず雨が強い。この雨がやがて生命の輝きを連れてくる。青い、突き抜けるような空と共に。
   青年は少女の視線を辿った。この激しい雨の間を少女の視線はまっすぐに見つめている。その視線の先に何があるのか、未だにわからない。しかし生命を振り返った小夜。その先に何かが確かにあるのだと、今はそう信じたかった。たとえそれが幻だったとしても。
――青年は思い出していた。
   あの運命が姿を変えた日。小夜とディーヴァ。運命の双生子がついに直接刃を交わし、翼手と人間の運命が決定した日。あの日、あの時も雨が降っていた。
   生と死。そのどちらにも引き裂かれ、頼りない目をしていた少女。細い小夜の輪郭にも、髪にも頬にも雨の雫は零れ落ち、少女の陰影を繊細に見せていた。胸が痛むほど美しく、儚い姿だった。この手で断ち切ることを命じられた生命だった。自分自身よりも大切な存在を自分の手で滅ぼさなければならない運命。
   あの一瞬。運命の大きく変わる音を確かに聞いた。雨音の中で、降り注ぐ細い銀糸の中で。
(生きたい・・・・)
   今も、いつも、その瞬間を思い出せば胸の中に満ちてくるものがある。初めて滅びの道から視線を巡らせ、生きることへと振り向いた小夜。雨の匂い。濃厚な生と死の匂い。記憶はいつも青年の中に鮮明に残り、追憶が周囲を取り巻く。
   だから青年は気がつかなかった。いつの間にか少女が椅子を引き、そっと自分の傍らへやってきていることを。はっと気がついたとき、青年は少女の腕の中にふんわりと抱きしめられていた。
「小夜・・・・・」
「しーっ。黙って」
   少女がささやく。青年は一瞬でも小夜の気配から注意を逸らした自分を恥じていた。だが少女の腕はそんな青年の想いも包み込むように温かく、柔らかく、青年を抱き締める。
「昔みたいに二人で雨の音を聞いていようよ」
   出会ったばかりの頃の二人に戻って。少年と少女。まだ何も知らず、ただお互いの寂しさだけを理解できたあの頃の稚い二人。苦しさも自分自身の呪わしさも互いに知らないままの、無垢な二人に戻って。そうして雨の音を聞いていよう。少女は幼い子供を抱き締めるように、青年の頭を胸に抱いていた。
   ぴたりと寄せられた少女の胸の鼓動が耳元で鳴っている。帰れる場所も、帰れる日もなく、ただひたすらに滅びに向かって走り続けた少女の哀しみと怒りの日々は終わっていた。遠いあの『動物園』の日に戻れることなどないことも、少女にはわかっている。けれど今、人の中に受け入れられ、帰る場所を一時でも見出している少女がいた。その中に埋没している『動物園』の日々の、その残り香が雨の音の中に響いてくる。青年はそっと少女の腕を上から押さえた。温かな少女の体温。やわらかな肌の感触。甘い匂い。鼓動が耳に染み込んでくる。出会いの日々から長い闘いの日々。無数に聴こえてくる水の響き。
   外から聞こえてくる雨音に抱かれながら、重ねて響く小さな少女の胸の鼓動。幾重にも重ねられた雨の日の記憶を遠い木霊のように聞きながら、二人は空を眺めていた。




   心なしか空が明るくなっている。もうじきこの雨も上がるだろう。帳の向こう側、夏のまばゆい日差しを気配にはらんだまま、雨はまだしばらく降り続いているようだった。








2011.11.23(2011.10.12投稿)
(2011.9月半ば~11月半ば開催のweb祭投稿作品)

  2011年web祭、『こっそりこそこそ糖分祭』投稿作品。
   二人の本編における雨の光景に寄せて。精一杯甘い雰囲気で。。それぞれ想い出すものは微妙に異なっている部分があっても、寄り添っている二人はごく自然な雰囲気だと思っています。ハジ→小夜を抱きしめるというシチュエーションは多いですが、この二人の要素には姉弟部分も含まれていると思ってまして。そんな部分が小夜がハジを抱きしめるシチュエーションで描けたらと思って書いた記憶があります。。

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