9.

   「ねえ。小夜」
   ダーナが少し恥ずかしそうに小夜に声をかけたのはもうすぐ夕食の支度が始まるだろうという時だった。
「ちょっと、付き合ってくれないかな」
「あ・・・・」
   すぐになんであるかを察して小夜はうなずいた。
「ごめんね」
「ううん。お互い様だよ」
   そう言いながら立ち上がった少女二人を、じっと見つめている目があった。その視線は食堂の裏側に移動する二人を追い、ずっと執拗に二人を追い続け離れない。異様な執着を持った視線だった。
   最初は気がつかなかった。だが用が終わった後、一歩踏み出した瞬間に小夜は気がついた。はっとなって左右を見回す。
「小夜?どうかした?」
「なんでもない」
   言い直した小夜がそのとき感じていたのは、なんとも言えない薄気味悪さだった。どこから見られているのかはっきりしない。ただねめつけるようにこっちを見ている。粘着質の、不気味な雰囲気。感じたこともない、まるで手触りがあるかのような気持ちの悪さだけが感じられる。
   そこから逃れたかった。
「早く戻ろう」
   戻れば皆がいる。ハジも――。だがそのときだった。突然暴発するように敵意の爆発が起こった。
「危ない!」
   殺気に反応して何も考えずに身体が動いた。ダーナを突き飛ばすように庇って廊下を横に滑っていった小夜は、向こう側にうずくまっていたダーナが即座に立ち上がったことにほっとした。おろおろとこちらを見ているダーナに小夜は叫んだ。
「逃げて!」
   二人の間に黒々とした影が立ちはだかっていた。人間よりもひとまわり大きな体躯。真っ赤な目。生臭い息。
「食堂へ! ハジを――」
   最後まで言い終わらないうちに空気が唸りを上げて、異形の腕が小夜を襲った。
「小夜!」
「逃げて!」
   少女二人の声が交わる。小夜は身を翻して食堂とは別の方向へと向かった。少しでも皆から引き離さなければ、そのことしか頭になかった。真上からくる風圧に身を縮こませたとき、少女の頭の上をギリギリかすめるようにして鋭い爪が空を切った。右手が疼く。「あの」刀が欲しかった。決してハジは触らせようとしない、チェロケースに収めたままになっているあの刀。
   再び襲ってきた爪を、転がってよけながら小夜はどこかに刃物がないか必死に考えた。包丁。厨房はダメ。あそこは皆のいる食堂に近すぎる。ではどうすれば・・・・。そのとき、マリエラやダーナともに廻ったこの建物の一室が思い浮かんだ。
   古い領主の建物には、武器庫のような一室がある場合が多い。『動物園』でもそうだった。古くからの家系か、あるいはゴルトシュミットのように収集家の家系か。あのときに覗いた一室は確かにそういう場所だった。あそこに行けば――。
   躊躇している暇はなかった。小夜は唇をかみしめるとすぐに方向を変えた。そんなに広くない屋内で、今度こそ常人以上の能力を使っていた。相手の戸惑いが微かに伝わってくる。そしてわかった。あれは翼手。自分たちと「同じ存在(もの)」――。だからこそ余計に刃物が必要だった。この身体に流れる血液を、相手の体内に直接触れさせる媒体が。
   身体をぶつけるように電気も届かない暗い部屋へとなだれ込むと、少女は辺りを見回して良く斬れそうな両刃の剣を手に取った。大振りではないが扱い易い。少女が降り下ろすと、そんなに力を入れていないのに空気が刃鳴りを起こした。これならば――。改めて握りしめたのと、異形が扉を半壊させて身体をねじ込むようにして入ってきたのとが同時だった。
「翼手・・・・」
   他を圧倒する巨大な体躯。殺気立った赤い瞳。硬質な皮膚。二つの腕関節。強大な咢。そして牙。鋭い爪。小夜自身も久々に目にする翼手の姿だった。少女は自分の身体の内に遠い昔、馴染み深かった殺気のようなものが次第に湧き上がってくるのを感じていた。宿命と宿業。怒りと哀しみ。それらすべての記憶と共に。今また再び、こうして相対する運命への慟哭を。自分自身の瞳が徐々に赤くなっていくのを感じる。小夜はそっと片手を柄から先へと伸ばし、自分の手の平をそっと刃に滑らせた。たちまち血の滴が流れ落ち、刃を伝って床に落ちる。と、そのときだった。
「おまえは――。おまえは誰だ?」
   頭に響くような声だった。それが対峙している翼手からのものだと気がついたのは一瞬たってからだった。
「あなたは――、誰?」
   小夜がその人生の内で多く、相手にしてきたのはシュヴァリエ以外は薬害翼手と呼ばれる、謂わばなりそこなった知性も理性も崩壊している翼手の姿だった。しかし、もしもそうではないモノが存在していたとしたら――。
   だが小夜はそんな考えに囚われ、相手の殺気が消失していないことに気がつかなかった。一瞬の隙だった。あっという間に距離を詰められ、少女は相手の攻撃を避けるので精一杯だった。風圧が少女の短い髪を乱し、体勢を整える暇も与えずに牙と爪とが交互に襲いくる。少女は唇をかみしめた。再び床に滴る血と共に小夜は息を殺し、相手の一撃をかいくぐってその岩のように武骨な腕を駆けあがって、喉元から関節の間を狙って渾身の力で体幹へと刃物を突き下ろそうとした。
   やわらかな喉から、心臓の近くまで――。
   一瞬の後、激しい勢いで翼手の手が小夜を振り払い、少女は背中から壁へと激突した。すさまじい勢いだった。一瞬息ができなくなり、床に落とされた小夜は思わず咳き込む。手からは刃物が失われていた。だが手ごたえはあった。確かに彼女の血は翼手の体内へ流れていったはずなのだ。
   しかし少女はそこで予想とは異なる情景を見た。翼手は小夜の方を一望だにせず、その大きな異形の手を器用に動かして、自分の喉元に刺さっている剣をつかんだ。そしてゆっくりと引き抜いていく。あの、小夜の血液のついた剣を。
「そんな・・・・」
   信じられないモノをみたような気がした。自分の血が効かない翼手の存在に、少女は初めて出会ったのだ。驚愕が少女の身体の自由を奪っていた。自分に振り下ろされる岩のような腕を、小夜はスローモーションの映画を観るように見つめていた。自分の身体を衝撃が貫いて、再び壁に向かって投げだされて――。
「小夜!」
   聴きなれたその一言で我に返った。ほとんど同時に黒い影のような気配が自分と相手との間に滑り込み、全身を殺気に染めて立ちはだかっている。
「ハジ・・・・」
   だが相手の異形は青年と少女を交互に見つめると、その真っ赤な瞳に何某かの知性のひらめきを浮かべたまま、二三歩下がり、ついで先ほど入ってきたときとは正反対に器用に扉を潜り抜けると姿を消した。同時に少女はがっくりと膝を折った。追おうとしたハジが足を止め、少女の元へと引き返す。
「小夜・・・・」
   青年は気遣わしげに少女の様子を伺い、大丈夫だとみると明らかにほっとした様子で肩をゆるめた。
「大丈夫・・・・だから」
   小さな声でつぶやくようにしてから少女は青年の肩越しに今まで翼手がいた方へを視線を彷徨わせた。その後を引き取って、青年は立ち上がるとやがて一本の剣を見つけて少女の元へ戻り、問いかけるように見つめてくる。
「効かなかった」
   ぽつりと少女は言った。
「小夜」
「私の血が効かなかった」
   青年は眉をひそめた。
「私の血の気配は感じなかった。それなら・・・・。でもディーヴァの眷族でもない。
   今まで私はディーヴァの眷族しか知らなかった。ディーヴァと私。翼手の女王は二人しかいないって。だから私の血は翼手に絶望をもたらす。そう言われてきたし、そう思ってた。私の血は、ディーヴァの血と反応するから。
   でも、もしもそうではない翼手がいたとしたら?」
「始祖の異なる翼手がいる――」
「もしも、その可能性があったら?」
   だが二人の会話はそこまでだった。
「小夜!」
   そこには真っ青な顔をしたダーナとホイヤーとそして料理長の三人が震えながら立っていた。ダーナが彼らを呼んできたのだ。
「今のは、一体なんだったんだ?」
「小夜! 無事なの!?」
   ダーナが小夜に駆け寄る。彼女によると、三人が物音を聞いてこの部屋へ駆けつけようとしたときには、部屋から大きな黒い影のようなものが逃げていくのを見ただけだった。
「大丈夫。ハジが来てくれたから」
「てっきり・・・・・。ううん。でも無事でよかった」
   その間に他の二人は持ってきた電燈の光で恐々と部屋の中を照らして見ていた。
「熊か何か大きな獣が暴れまわったみたいだな」
「見ろ!血の跡だ」
「怪我をしているのか――」
   視線がいっせいに小夜に向けられる。少女は急いで首を振った。
「私は大丈夫です」
「とにかく小夜が無事だったんだから」
   ダーナと言うこの少女は、とかく推測よりも実際を重んじる傾向があった。だがダーナ以外の二人は、小夜が無事だと見るや部屋の惨状の方に関心が向かったように見える。化け物がつけていった爪痕や傷跡をライトで照らしながら調べているようだった。
「その剣・・・・。あんたがやったのか?」
   ホイヤーが青年の握っているものを見て、はっとしながら問いかけた。剣は血にまみれており、床にはいくつか血だまりもできていてここで起こった戦闘の跡を物語っている。
「ちが――」
「はい」
   ハジは押し殺したような声で肯定した。問いかけるような視線を投げた少女の手をしっかりと握り締めながら。わずかに小夜は痛みを感じていた。いつもなにがしか、自分はこの世とは相いれない存在なのだという感覚を少女はぬぐいきれない。
「よく無事だったな」
「見ろ。この剣の血糊」
   男たちは気味悪そうに矯めつ眇めつしている。だがダーナは違った。
「早く、食堂に戻ろう。あいつが戻ってくるかもしれない」
   あの化け物が――。その言葉に男達はようやく我に返り、俄かに少女二人を守るように身を寄せると部屋を出るように促した。




   私は食堂で横たわっているマリ・シールの隣に座り込み、不安な気持ちで彼らが戻るのを待っていた。先ほどから何が起こっているのか――。お客の間を何往復かしていた小夜とダーナが席を立ってから大分経っていた。そのうちに大きな物音がして食堂に居たもの全員がびくりと身体を震わせる。先ほどの死亡「事故」から皆が物音に敏感になっているのがわかった。
   しばらくしてダーナが真っ青な顔で戻ってくるなり厨房へと駆け込んでいく。そこから硬い顔で青年の黒衣が飛び出していくの見て嫌な予感がした。青年に遅れて、ダーナと料理長が続き、それから料理長が声をかけてフロント係が走っていった。
   小夜の姿だけが見えない。何が起こっているのわからないままに、私は彼らが出ていった方向を見つめたまま、小夜の笑顔と先ほどの嫌な音とを交互に思い浮かべてみる。
   人の別れは突然やってくるのだと言うことを私は痛いほどわかっていた。それはどうしようもない人生のもつれた糸の先にあるかもしれないし、あの死んで寒い部屋の一室に横たわっている男のように突然糸が断ち切られるようにやってくる場合もある。しかし私は小夜とはそんな風に別れたくはなかった。まだ知り合ったばっかりだった。濡れたような大きな目。感情豊かな唇。生き生きとした表情。あれが失われるようなことがあってはならないと思えた。
(小夜・・・・。無事でいて・・・・)
   待つ時間の長さだけが意識される。だが近くではない、どこかこの建物の奥まった方から聞こえてくる何かが壊れる音、倒れるような音の後に静寂が訪れ、私たち食堂にいる者たちの不安げな囁き声が始まりってしばらく経ったとき、五人の人影が食堂に姿を現した。
   男性陣三人に挟まれるようにして小夜とダーナの二人の姿が見えた。
(無事だったのね・・・・)
   思わずほっと溜息をつく。するとその気配に気がついたのか、しばらく眠っているようだったマリ・シールが目を開けた。
「何か起こっているの? 周りが騒がしいようですけど・・・・・」
「なんでもありません。まだ休んでいて大丈夫ですよ」
   誰もかれも不安だった。吹雪だけでない、まるで存在の闇の中から、自分の今まで知らない恐怖が押し寄せてくるよう。知らない恐怖ではない。子供の頃あんなに怖かった夜の中の闇。自分が食われてしまうのではないかと想像しては大人の所へ駆けていった、そのときの恐怖が数倍になり、形になって現れてきたようだった。まだこうして皆で肩寄せ合っていれば、とりあえず一人ではないことが感じられるからいい。でもこれからどうなってしまうのだろう。小夜たちはなんであんな風に怯えているのだろう。何が起こっているのだろう。
   でもきっと尋ねても誰も答えてくれないだろうと私にはわかっていた。あの支配人は大丈夫だと言った。けれども何を持って大丈夫だというのだろう。私には彼が単なる気休めか、この場を抑えようというだけで口にした言葉にしか聞こえない。それとも彼自身が安心したいだけなのか。
   でも私も同じかもしれない。私はマリ・シールに大丈夫だと言った。何もわからないのに、安心してもらいたくて。そんな保証なんてどこにもないのに。そう考えたとき、私は小夜に逢いたいと思った。何があったのかわからない。けれども、先ほど、小夜に何かが起こっていたことは確かなように思える。無事であることを確かめ、そして何が起こっているのか、知りたい。
「あの・・・・?」
   マリ・シールの細い声に私は病人を不安させてしまったことを感じてはっとした。病人の心細さがきっと敏感にさせているのだろう。
「ここにいますよ」
「ずっとついていてくださっているの?」 彼女はすまなさそうな顔をしていた。
「ごめんなさい。でももう大丈夫ですから」
   ここ食堂にいるのであれば、大勢に囲まれた安心がある。けれど私は一つだけ、小夜の安否を確かめたかった。マリ・シールの具合が良いならば、少しだけ席を外してもいいかもしれない。
   私は隣にいた人に声をかけ、マリ・シールのことを頼むと立ち上がり、厨房の方へ足を向けた。







以下、続く。。。



2011.12.09

  まだまだ続く。。。
   ここの辺りから、奇妙な話になっていきます。すぐには終わらない。しかも無理やり展開・・・・なのかもしれない。というような話に。。。そして、なぜだかいつまで経ってもいつ終われるのか。先がわかりません。とりあえず17話以上にはなる。。確実に。全方向的にすみません。。と言いたい気分です。

Back