8.

  再び悲鳴が聞こえたそのとき、小夜はダーナと共にいた。倒れた女を保護しマリエラに託して、ひと段落したと思い込んでいた小夜は、そのとき自分の迂闊さを悔やんだ。そう、まだあの女性客が見たという赤い瞳の正体もわかっていなかったのだ。もしもそれが翼手であるとするならば、羊の群れに狼が紛れ込んでいるようなもの。いつ犠牲者が出るかわからない状況だったのだ。
   もっとよく注意すべきだった。あるいは誰かに何らかの形で警告しなければならなかったのだ。自分たちさえわかっていれば、大事にならずに皆を守れると思い込んでいた。それが間違いだった。
   最悪の事態を想像しながら、小夜は急いでダーナに一言声をかけると悲鳴の方向へと走って行った。今回はダーナから快く送り出してもらえたが、それとは正反対に小夜の中で嫌な予感は益々大きくなる。悲鳴の正体が判別する前から小夜には血の匂いが感じられた。それも新しく流された血の匂い。
(どうか、無事でいて)
   憔悴感に駆られて無事を願うことはこれが初めてではなかった。誰だかもわからない人のために、過去の闘いの中で、いつもどこかで感じていた憔悴感。それがすべての闘いの残り香となって少女の胸を焼いていた。また再びこんな思いをしようとは。永い、永い翼手との闘いの中、訳もわからずに死んでいった人たち。同じ血を持つ姉妹の眷族。斬って、斬って、断ち切ってきた。自分の中に在る翼手の血ごと。少女の身体の中にはそれを可能にしてきた常人離れした身体能力が存在する。けれども普通の人間たちの前で、通常の身体能力を使うことさえできず、小夜はそれでもできるだけ急いだ。悲鳴が聞こえてきたのは、納屋のある裏庭に通じている通用口のほうだった筈。そんなに長くはない距離がどうしようもなく長く感じられる。
   通用口にたどり着いたとき、その扉は壊され、こじ開けられていた。どっと猛烈な勢いで雪が吹き込んでくる。開け放たれたのはいつからなのか、薄暗い上り口はこんもりと吹き溜まりのようになっている。小夜が見たときにはもう既にフロント係りのホイラ―ともう一人の客室係が到着していて、苦労して扉を閉めようとしているところだった。風に巻かれながらの作業は容易には行かず、彼らは雪と風のすさまじさに圧されぎみで扉にしがみついていた。その場に踏ん張るだけでも精一杯と言う有様で、重い扉は彼らを引きずるようにふらふらと揺れており、そのとき遅れてハジがやってきて、細い身体をぶつけるようにして扉を押し始めなければ、そのまま閉めることも支えることもできずに彼らはその場に縫いとめられたままだっただろう。
   ハジの力が加わる事で、それはゆっくりと閉まり始め吹雪は扉の向こう側へ追いやられた。すっかり扉と壁が一直線になったところで壊された鍵の代わりに応急のつっかえ棒を差し込んで一同ようやくほっと胸を撫で下ろす。
   だが誰も何も言わなかった。ただ重苦しい沈黙が垂れ込めている。扉が開けられて吹き溜まりになっていたところには、長時間の横殴りの雪で屋内なのに雪の小山ができていた。ちょうど人ひとり分の大きさがある。その下からわずかにのぞいているものが見えた。
――人の手指の先。皆は凍りついたようにその真っ白になった人間の一部を見つめているしかなかった。
「何をしている?」
   呪縛を解いたのは後からやってきた支配人だった。彼は一目で状況を見極めると客を下がらせ、スタッフだけにすると身振りでそこに何があるのか身振りで明らかにするよう指示を出した。それに反応するように、ホイラ―が小山の下に手をやってそこにあるものを引きずり出す。――それは半ば凍りついた男の死体だった。
   少女には一目でわかった。彼からは身体中の血が抜き取られている。かつて似たような死体を少女はいくつも見てきた。そしておそらく喉元には二本の牙の痕があるのだろう。思わず目をつぶり、隣に寄り添うように佇んでいたハジの肩先に顔を伏せた。息が止まるようだった。自分たち以外の翼手がいる。この建物の中に。小刻みに震える手が、冷たく白い青年の手のひらに包み込まれた。
「小夜・・・・」
「ハジ」
   物言いたげに青年の瞳を見返すと、彼は無言で微かに首を振った。まだ何もわかっていない。何が起こっているのかも、その全貌は。少女は改めて顔を起こすとすでに物言わぬ死体になっている相手をじっと見つめた。
「あれは・・・・あの人は」
   それは昨日小夜に絡んできたあの男だった。驚愕を顔に張り付けたまま、目をカッと見開いて微動だにしない。異様に白い生気のない顔色が、これが生命の飛び立った後の抜け殻であることを示していた。小夜にとっては困った客の一人にすぎない。けれどもそれは、こんな風になる何の理由にもならなかった。命が奪われていいはずはない。人間の血液を必要とする翼手の女王でありながら、小夜はいつの間にか惨いこの死体に涙を流していた。
   遠い遠い日。炎に包まれた館の中で、累々たる白い死骸を見ていた。身体中の血が抜き取られ、屍の中で見たものは自分と同じ顔をした少女だった。あのときの衝撃。あの日から始まった悲しみと苦しみの日々。ここから立ち去りたかった。けれども立ち去れない。これが翼手の仕業だと言うのならば、見ないふりはできない。この身体に流れる血が、叫んでいた。存在するというのはどういうことなのか。この世の中のどこに居場所があるのか――。
「小夜。あちらへ行っていた方が・・・・」
   だが少女は首を振った。
「私、ここにいなくちゃ」
「小夜・・・・」
「私は――」
   何を言ったらいいのか、少女にはわからなかった。ただ絡みつかれたような不安があった。そして少女のどこかで、これから逃げるわけにはいかないのだとささやく声がある。
「大丈夫だから」真っ白な顔で小夜は言った。
「私は逃げない」
   逃げられない――。
「ねえ。ハジ」
   視線を動かさないまま周囲に聞こえない声で小夜は言った。
「翼手の気配はしなかった。あの悲鳴が上がったときにも、その前にあの女性が襲われたときにも、私には翼手の気配は感じとれなかった」
「はい」
「翼手じゃないかもしれない。でも、もしも翼手だったら――」
   少女は自身の記憶と照らし合わせ、青年が後を引き取った。
「よほど上手くカモフラージュしているか、あるいは本人が気がついていないだけか、でしょう」
「でもそんなことって・・・・」
「ないとは言い切れません」
   以前沖縄で、たった一人で目覚めたとき、少女は一人の少女として生活し、その認識そのままに身体能力も平凡な人間とほとんど変わるところはなかった。翼手としての生体反応もまた然り。
「今いる人たちの中にいるってこと?」
   スタッフの中か、客の中か――。
「それもわかりません」
   ただ、翼手である二人にも気づかれることなく、人の生き血を喰らうモノが存在することだけが事実だった。半ば凍りついたような死体に視線を戻す。
「死んでいる――」
   跪いて男の様子を見ていたホイラ―が震える声で言った。横たわっている男の蠟の様な肌。目ばかりが飛び出さんばかりに開かれている貌。恐怖がそのまま張り付いたような死に顔だった。そのうちに一旦食堂へ様子を見に行っていた支配人が戻ってきて、首を振りながら言った。
「・・・・ここには医者はいない。お客様の中も当ってみたが、いらっしゃらないそうだ」
   警察もここには来ない。そうなるとすべての采配は支配人が取らねばならないことになる。
「このまま死体をここに置いておくわけにはいかないな。廊下とは言え、電気が通じていれば、自動的にここも暖房が入る。貯蔵室に死体を置いておこう。あそこならばこの気候で天然の冷蔵庫になっているはずだ。警察を呼んだときに備えてここはこのままにしておくように」
「しかし、これからどうするんですか?」ホイラ―が言った。
「ミハイも何かに襲われた。お客様も襲われ、今、死人まで出ている。これで収まればいいが、そんな保証はない。これからどうなさるおつもりで?」
「どうしようもないだろう」
   支配人の蒼い顔は益々青白くなっているようだった。
「警察に連絡できるものなら、とっくにやっている。無線が届かず、衛星通信も使えない。今、ここは陸の孤島なんだ」
「じゃあ、我々は・・・・閉じ込められているんですね」
   殺人鬼と一緒に。ホイラ―はぽつりと言った。赤い目の殺人鬼。
「それはわからない。だがこれ以上のパニックはごめんだ。とにかく、お客様も我々も単独行動はしないようにしよう。天気が回復次第、救けを呼びに行く。それしかない」
「食堂に戻ったら質問攻めにされる。あそこにいらっしゃるお客様にはどうご説明するつもりです」
「事実だけだ。憶測はない。ただ、お客様のお一人が事故で亡くなったということと、天候が回復次第、警察と医者を呼ぶ。そうでなくても通信が回復次第なんとかするということだけをお伝えするのだ」
   それは随分と婉曲で都合のいい面ばかりの情報だろうと思われたが、スタッフの中には誰も反論する者はいなかった。とにかく今はそうするしかないと皆が思ったのだ。
   貯蔵庫はそこからそんなに離れている訳ではなかったので、事は簡単に済んだ。そこに集まっていた客への説明も済み、疑問の声も聞かれたが、それでも全員を食堂へ戻すことにも成功した。けれども関わった者全員の中には黒く煤けだった感情が棘のように刺さったままになっていた。それは恐怖とも言い換えられる、凍りつくような感情だった。
「大丈夫?小夜。顔が真っ青」
   厨房に戻った小夜を出迎えてダーナが驚いた顔で言った。
「そんな顔、してる?」
「している。それに食堂に残っていたみんなが色々と言うから」
   残っている者たちは死体を見た者たちとはまた別な不安に陥っていたのだろう。それから声を落としてダーナは訊いた。
「小夜。人が死んでいたって、本当?」
   良く考えれば当然の質問だったが、その言葉はダーナがどんなに平和な世界に住んでいるのかを小夜に実感させた。自分たちとの世界の差を。
「本当・・・・なんだね。でも・・・・。信じられない。誰が・・・?」
   ダーナは落ちつかなげに黒い目をぱちぱちさせた。無理もない。ダーナにとってはここは何もない、ただ昔ながらの雰囲気があるだけの田舎町で、この宿だけが夕方から開いている酒場兼食堂であり、ちょっとした時に出かける場所だった。
   彼女には現実として実感が湧かないのだろう。殺人にも得体の知れない殺人者と一緒の建物に居ることにもきっと実感がない。ダーナは死体を見たわけでも襲われた訳でもないのだ。
(だからこそ、守りたいと思う・・・)
   何も知らないままに穏やかに暮らしていけたら――。それはそうすることが叶わなかった少女のささやかな願いでもあった。




   食堂ではマリエラをはじめ、ほとんどの客が集まっていた。死者が出たことは大きな動揺をここにいる全員にもたらしていた。恐怖と不安。加えて止みそうにない冬の嵐である。支配人は事故と言ったが、本当にそうなのか。いつ疑心暗鬼に陥るかわからない脆さが生まれ始めていた。
「ばあちゃんが言っていたことがあるんだ。冬の嵐は何もかもおかしくさせるって。今まで当たり前だったことが当たり前じゃなくなるって」
   これもそういうことなのかな?心もとなげにつぶやくダーナの手をぎゅっと握り締めて、小夜は言った。
「大丈夫、だよ」
   先ほど死体を見たときから必死になって小夜は神経を研ぎ澄ませようとしている。翼手の気配を感じ取れるように、皮膚の一部をむき出しにしたように、どこか緊張しながら少女は一瞬も気を抜いていない。
   にもかかわらず、小夜には翼手の気配が感じられなかった。焦りのようなものが少女の中にも生まれていた。
(どうして感じ取れないの?)
   あの死体は確かに翼手に襲われたときのように血を抜き取られていたと言うのに。
「ねえ」
   そのとき小夜の思考を遮るように声をかけてきたものがあった。
「マリエラさん・・・」
「小夜。大丈夫? 顔色が良くないわ」
   ダーナと同じことを言われて少女ははっとした。それから微笑むようにして返事をする。
「すみません。大丈夫です」
「人が・・・・死んでいると聞いたわ」
「あの、それは・・・・」
「小夜。あなたは見てきたのでしょう?」
   ダーナのそれとは異なり、マリエラの視線は強かった。
「もしかして、それはあの、あなたに絡んでいた男ではなくて?」
「どうしてそれを?」 途中からは悲鳴のような声になった。
「ここにいない人物を思い浮かべればすぐにわかるわよ。宿泊客も少ないのだし」
   少女はマリエラの観察眼に舌を巻いた。
「やっぱりそうなのね」
「でもマリエラさん・・・・」
「いいのよ。何か嫌なことが起こっていることは私にもわかる。先ほど支配人が来て、必ず二人以上で行動するように通達された――あれは通達と言うよりも命令だったわ。お客なのに。でも彼の言い分は正しい。彼みたいに、誰かが命令系統を取っていないと、すぐにパニックになることだってわかってる。小夜、あなたも気をつけて。ちゃんと気をつけるのよ」
   心底心配してくれている。それがわかった。翼手の自分を。翼手だと知らずに。嬉しかった。そして後ろめたかった。
「ありがとうございます。でも私、大丈夫です」
「あなたもダーナも女の子なんですからね、何かあったらすぐに言うのよ」
「大丈夫。ダーナと一緒にいるようにします。何かあったらハジもいますし」
   マリエラは一瞬長く小夜の瞳を見つめていたが、やがて仕方がないと言った風に肩をすくめた。
「気をつけるのよ」






以下、続く。。。



2011.11.27

  web祭りをはさんで、少し間が空いてしまいました。すみません。
   こうして少し長めの話を書いていると、作品の流れの中でどうしても自分の癖のようなものが出てきてしまいます。そうなると、自分の中で確かに解釈されていたアニメのハジ小夜観が微妙に揺さぶられていくような感じで、その調整が難しい。。
   いつものようなSS短編ならばそうではないんですが。5話くらいまではそうでもないのですけれど、どうしても物語と言うのは独自の力を持ってしまうから。。その中のキャラクターはそれに振り回されずにはいられず、そうやってキャラクターのぶれが発生すると言う。。その修正をするために、どうしても本編アニメを適宜見直しながらの作成となります。
   でもやっぱり第1話と最終話、いいわ~。そしてもう少ししたら、21話を見直そう。。。

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