7.

  吹雪。突然行方不明になっては発見される人。何かがここで起こっていることだけはわかる。冬の嵐の中。この激しい不安定な天候のせいではなく閉じ込められたこの建物の中で、見えない何かがここにいる人々をやんわりと取り巻き、その渦中に取り込もうとしているようだった。それに気がついている者もいれば気がつかない者もいる。何が起こっているのはわからないながら、不安だけを感じる者も。その中で小夜だけは次第に流れている空気そのものにも、起こっている事態そのものにも敏感になっていった。
   赤い目。襲われた女性が口にした言葉はひどく彼女を不安にさせていた。彼女に付いて配膳室に移動したので小夜はハジと話をする時間もなかったが、すれ違いざまに交わされた視線が青年の気遣いと意図を示していた。絶対に独りにはならないこと。そして必ず青年が呼べばすぐ来ることをその蒼い目は密かに伝えていた。闇の中で光る赤い目を持つ存在を、少女も青年も一つしか知らない。――翼手。
   だがそれはまだ確信ではなかった。女が何かを見誤った可能性も捨てきれない。それに外の激しい吹雪。たとえ翼手であってもこの天候の中をあえて外にでていくだろうか。それならば、これ以上何も起こさせないうちに、ここで相手を狩ることもできる。それができるのは、自分たちだけ。ディーヴァとの長い闘いを経てきた自分たちだけ。翼手という存在がこれ以上人々を襲う前に、犠牲者が出る前に。
   いつの間にか少女はこぶしを固く握りしめていた。




   その女性を配膳室の長椅子に寝かしつけていると、支配人自らが現れて温かな葡萄酒なども手配していったので皆、驚きながらも出迎えた。部屋での仕事が多いため、そう頻繁にこの食堂まで彼が降りてくることはなかったが、ミハイが行方不明になったときと言い今回と言い、やはりこの事態には部屋でじっとしていることもできないのだろう。
「大丈夫ですか。お客様。お怪我はありませんか」
   やはりこういう商売をしているせいか支配人の物腰は人当たり良く穏やかだった。用意させた葡萄酒を手渡しながら、如才ない口調で様子を伺っている。
「何か必要なものがあればお申し付けください」
「いいえ。私・・・・。私は・・・・。そんなものよりもここから出たい。お願い、今すぐにここを出たいの。帰りたい。どうすれば・・・・」
「それは・・・・。天候が良くなりましたらすぐに手配いたしますから」
「だめよ、今。今すぐに帰りたいの。ここには何かいるようで・・・・。私、それに襲われたんですよ!」
「お客様。お声を小さく。他のお客様がいらっしゃいますから」
「でも」
「お客様」
   彼は少し口調を強くした。
「吹雪が治まりましたら、警察なりなんなり呼ぶつもりです。しかし、今は外に誰も出られず、誰も呼ぶこともできない状況なのです。ご不安でしたらスタッフの誰かをお付けします。どうぞそれでお静まりください」
   支配人の言葉は安心を誘うようなものではなく、小夜は不安な気持ちで見つめていた。女が毛布をしっかりと身体に巻きつけて、すすり泣き始める。だがそこにマリエラが進み出て、女の身体に手をまわして慰めの言葉をかけ始めるのを見てほっとした。女が次第に落ち着きを取り戻し始めたからである。
「しばらく私がついてましょう」
   マリエラが言った。
「しかしお客様・・・・・」
「大丈夫だと思いますよ。なにせ時間はたっぷりあるわけですし、これも何かのご縁でしょうからね」
「マリエラさん」
「大丈夫よ。小夜も戻っていいわよ」
   マリエラとフロント係のホイヤーに後を任せて、小夜が再び厨房に戻るとダーナがほんの一瞬眉をしかめた。特別愛想がいい訳ではないが、いつも親切で実直な彼女にしては珍しい反応だった。何かを怒っている? それとも何か疑念を抱かせるようなことをしたのだろうか。自分たちは人間ではない。それを感づく人間もいるかもしれない。それはいつでも小夜の根底にある不安でもあった。黙っていられたままだと、謝ることも理由も言えずに戸惑うばかりだ。
   だが彼女はきちんと小夜に向き直るとその性格そのままに、思っていたことをはっきりと小夜に告げた。
「ダメだよ。何も言わないで持ち場を離れちゃ。誰かしらの迷惑になるんだから」
「あっ。ご、ごめんなさい」
   何のことはない。彼女はあの騒動の間中、ずっと一人で厨房を手伝っていたのだ。
「いいよ。こちらの方も落ち着いたから。とにかく悲鳴が上がった後はこっちも大変だった。パニックになりそうになってね。他のお客様を落ち着かせるのに、支配人まで出てきて、お詫びしたら宥めたり」
「そっか。そうだよね」
   ずっと、小夜が気がつかないところで色々な人が働いているのだ。自分は大勢で働くことに慣れていない。ダーナの態度がなんでもないことであったのにほっとするとともに、今度のことはそのことを小夜に自覚させた。
「ごめんね」
「もういいよ。で。そっちはどうだった?」
   ずっと自分の持ち場を離れなくても、ダーナにだって興味はあるのだ。
「わからない。お客様のおひとりが倒れていて。でも何があったのか全然わからないの。ただ、その人はとっても怖がってた」
「怖がって?」
「うん。何かに怯えてた」
「怯えてた?」
   こんな場所に何があるというんだろう。それがダーナの感想だった。彼女にしてみればここは地元であったし、今まで何の事件もなく平凡でつまらない村だったのだ。この建物そのものは古びていたが、彼女が子供の頃に買い取られて宿屋になり、夜は酒場兼食堂として地域に溶け込んできたのだ。云わばこの辺りではちょっと珍しい娯楽施設とでもいったところか。通信網も完備され、時折やってくる磁気の乱れや天候不順がなければこの近くでは最新式と言っても良かった。とても怯えるような何かには結びつかない。
「嵐のせいかも」
「え?」
「冬の嵐。吹雪と風の時間。太陽も空も隠されている時間。後からのことを考えて雪かきをすることもできないような、ひどい時間が時々あるの。そのときには私たちはただじっと待っているしかないんだ。吹雪や風が通り過ぎるのを。
   外から来た人にとっては怖いことなのかもしれないけど」
   だが小夜は首を振った。あの怯え方は尋常ではなかった。それでもダーナには何も言えない。
「私にはわからないよ」
「それは、ここで生まれた人間にしかわからないのかもね」
   そういう意味で言ったわけではなかったが、彼女のその言葉にふと小夜は思いついて問いかけた。
「ねえ。ここで働いている人たちは皆あなたみたいにこの近くの人たちなの?」
「ううん」ダーナは首を振った。
「ミハイさんは近所の人だけど、他の人たちは外から来た人がここの募集を見て居ついたり、料理長なんてフロント係のホイヤーさんが連れてきたし、支配人だって他所から来たからね。あ、でもホイヤーさんは支配人さんの知り合いみたい。
   ただみんなよくわきまえて一緒に働いているって感じ。それに、料理長の料理は美味しいし」
「そうだよね!」
   そこだけは力いっぱい肯定した小夜にダーナは笑った。
「でも、そう言えば、私がここで働くことになったとき、うちのばあちゃんだけはちょっと反対したんだ。そんなに強くってわけじゃなかったけど、いい顔しなかったって感じ。多分、他所から来た人たちのところで働くのが嫌だったんだと思うけど」
   そんな話を聞くと、それが気になってしまう、とダーナは言った。どのみちこの吹雪ではダーナの祖母に問い合わせることも不可能だろう。すべてこの冬の嵐が通り過ぎるのを待つしかないのだ。
「嫌な嵐だ」
「そうだね」
   二人の少女はそう言って、嵐に備えて打ち付けられ、風の名残に揺れている厨房の小さな窓を見つめてため息をついた。それは何かが自分たちの周りで起こっていることへの不安でもあり、打ち消しても湧き上がってくる恐れでもあったのだと思われた。
   だが二人にはわからならかった。これはまだ前段階にすぎず、すべてはこれから始まるのだということを。そしてそれは女に付いていたマリエラにしても、そのまま男衆とともに女が倒れていた辺りを整理してから再び厨房に戻ってきたハジにとっても同様のことだった。彼は少女達が気がつかないうちに戻ってきていた。こうして気配を感じさせずにいつの間にかそこにいるのがハジの常になったのはいつからだったのか。幾度もある永い眠りの間、小夜はそういうハジの変化を見つけると淋しくなる。人から離れて遠くに行こうとするハジを誰が責められるだろうか。それでも小夜は人々の間で佇んでいるハジを見るのが好きだった。
   他の人のいるところでは、小夜もハジもちょっとした目配せをするくらいで滅多に積極的に互いに話をすることはなかった。今度も戻ってきたハジは目礼するように気がついた小夜に対して一瞬目を伏せた後は、黙って料理長を手伝っている。料理長の方は黙って戻ってきたハジをちらちら横目で見るだけだった。皆が何か起こっていることを感じていた。一種独特の緊張感のようなものが建物全体を覆っている。朝食がすべて済んだ後でも客が中々自室に戻ろうとしなかったのはだからだったのだろう。報告を聞いて支配人は再び昨日のように食堂に温かい飲み物といつでも食べられる軽食を用意させた。小夜たちはテーブルを移動させたり、新たに食器を用意したりそれなりに忙しい時間を過ごしていたが、すべてに落ち着かない時間を過ごしている間にすでに昼を過ぎていることに気がついて急にマリエラと先ほどの女性が気になり始めた。
「あの・・・・私・・・・」
「いいよ。お昼、持っていくんでしょ」
   そう言って彼女が用意してくれたのは温かな牛乳とパン。それから蜂蜜と冷たいハムと茹でて酢漬けにした野菜だった。
「落ち着いたら食堂の皆の所にくればいいのに」
   当たり前のように言うダーナに曖昧にうなずいて、小夜が配膳室へと向かい、扉を開けるとマリエラがほっとしたように振り返った。
「もう落ち着いたんだけど・・・・」
「どうか、しましたか?」
「いいえ。ただ微熱があって・・・・。そのせいかちょっと寝ぼけているみたいなの」
「もしもお目覚めでしたら、お昼に何か口になさったらいいんじゃないかと・・・。多分朝召し上がっていらっしゃらないだろうと思って」
「そうね・・・・」
   ちらりと向こう側を見ながらマリエラが言う。その様子は何か物言いたげだった。今までどっしりと構えているようたマリエラの、いつもとは異なる様子に小夜も不安になる。
「何かあったんですか?」
「いいえ。でもうなされて混乱しているみたい。私だけでは不安みたいなのよ。ここで二人だけでいるよりも大勢のいるところにいた方がいいのかもしれない」
「わかりました。支配人にそう言ってみます。多分食堂に。皆そこに集まってますから」
「わかったわ」
   マリエラはうなずいた。
「食事も。できたら食堂の方に運んでくれる?」
「あ。はい。わかりました」
   そうやってお膳ごと下がるとダーナが不思議そうな顔をして戻ってきた小夜を見つめる。その彼女に事情を説明するとすぐに同意してくれて小夜はほっとした。
   ダーナはあまり口数の多い方ではなかったが、実直で行動は素早い。彼女自身がすぐにまずフロント係のホイヤーの所へ行き、彼経由で支配人の了解をとってくると小夜と二人で食堂に行き、病人が落ち着けるだけの空間を確保した。
   食堂の一角に身を落ち着けるとマリエラはかいがいしく女の食事の世話に当たり始めた。




   支配人や小夜に自分がついている言ったものの、フロント係の方が仕事で配膳室から離れた後、絶えずうなされて不安に手足を突っぱねるようにして飛び起きて、暴れるようにする彼女の面倒を一人で診るのは中々大変だった。
   彼女の名前はマリ・シールと言い、連れ合いを亡くしたばかりの一人旅で、どこか人里離れたところでゆっくりしたいというのがこの宿を選んだ理由だった。それがまさか吹雪で閉じ込められるとは。自らあまり人と交流することのない場所で傷心を癒すのと、閉じ込められたようなこの状況は全く異なっているとマリ・シールは眠りの合間にとぎれとぎれの言葉で語った。まだまだ心細いだろうこの時期に、不安定になっているのはこちらからもよくわかる。
   彼女はひどくおびえており、ゆっくり休むように言っても度々目を覚ましては悲鳴を押し殺すようにしていたし、ひどいうなされ方で起き上がっていた。独りは怖い。独りきりにしないで。私がいても、彼女には安心できないようだった。これは二人きりで一つの部屋に居るよりも、大勢で居る方が気が紛れるのではないかと私が思案し始めた頃。小夜が食事を持ってやってきた。丁度いいタイミングだった。
   私は小夜に言って食堂の中に場所を作ってもらい、ようやく安心した様子で彼女が食事をするのを見守った。
「でも何も憶えていないの」と彼女は幾分幼いような口調で言った。
「何があったのかも全然。ただ怖かったことだけを憶えている。ううん。今も怖いの」
   そうかもしれない。と私はぼんやり考えた。人間、あまりに衝撃的なことが起こると自然にそれを記憶から排除しようとするという。でもそんな、排除しようとするような、一体なにが起こったというのか? 私自身の中に不安の影が身じろぎ始める。考えすぎよ、ここには大勢がいるじゃないの、とマリ・シールを慰めながら、実は一番安心させてもらいたいと思っているのは自分ではないか、と私は考えていた。
   そうしてまさにそのときだった。今まで聴いたこともないような悲鳴が建物を震わせた。マリ・シールを含めて、食堂に居た全員が、驚きと怖れに身を震わせた瞬間だった。
「なに? なんなの?」
   その悲鳴は男のもので、長く二度、三度と続いたあと、ぱったりと途絶えた。また。なにか尋常ではないことが立て続けに起こっている。私は身を震わせた。
   先ほどのように見に行きたかったが、おびえてすがり付いてくるマリ・シールをそのままにしていく訳にもいかず、私は悲鳴の正体を見に行った一部の人たち以外の客人たちと一緒にそのまま食堂に留まらざろうえなかった。
   先ほど落ち着いたばかりのスタッフたちが、バタバタと集まって悲鳴の方向へと走っている。何が起こっているのだろうか。自分で確かめることのできない不安が胸いっぱいに広がっていく。まるで急流に流される小さな舟のような心地だった。小夜はどうしているのだろう。そんなことが頭を掠めたが、マリ・シールのときに見せた対応は中々どうしてしっかりしたものだった。きっと心配することはないのだろう。
   だがスタッフの対応は先ほどのマリ・シールのときとは比べ物にならないほど深刻なものだった。
「すみません。この中でお医者さま――、医療関係の従事者はいらっしゃいますか」
   支配人の言葉に緊張が走る。ついにそんな怪我人が出たのか。このどうにも身動きが取れない吹雪の中で。そう考えるとともに、怪我だけではすまない可能性にも思い至り、私はぞっとした。
「どうしたんですか? 何があったんです?」
   当然のように誰かが訊く。だが対応する支配人はそれには答えなかった。支配人の青白くひょろりとした顔が余計に青く見えた。
「おいでにならなければ結構です」
   だが皆、この事態の異常さに神経をとがらせていた。
「説明してほしい」
   ひとつの声に賛同の声が重なる。けれども支配人は首を振った。
「事故があったのです。今はそれだけしか申し上げられません」
   支配人の言葉は不安を増長する効果しかなかった。だがそれよりも、その後で野次馬根性で見に行った何人かが帰ってきて告げた言葉に一同息を呑んだ。
――客の一人が死んでいる――
   あの悲鳴はそれだったのか? ひどい声だった。そして男性の声だった。私は頭の中を探って見知った客のメンバーの中で誰がいないのか、考えようとした。この少ない人数の中で誰が足りないのかを。そうして思い至った。
   小夜に絡んでいたあの男。あの不愉快な男の姿が見えないことに。






以下、続く。。。



2011.11.10

  体調不良でネト落ちしていて申し訳ありません。予定も思った以上に後になってしまいました。。
   今回も、難しかったです。。。。長かった。でも状況説明だけで終わってしまったような気がする。もう自分の文章が客観的に読めないというマズイ状況になりつつある今日この頃です。。。とにかくサクサク終わらせなくては。

Back