6.

  その晩、小夜はうなされては何度も目を覚ました。それは嵐のような吹雪の音が窓や壁を打ち鳴らしているからというだけではなかった。悪夢は少女を襲い、少し眠るとまるでまとわりつくように取り込まれる。それはずっと昔、まだディーヴァを狩っていた時代に迫り来る運命と翼手の両方に身体中の神経を張り詰めていた彼女の様子と酷似しており、ハジは密かに胸を痛めた。月日は流れ、周期は巡っても小夜は小夜であることから逃れることはできない。そしていつもいつも、青年にできることはただ眠りを見守り、傍についていることだけなのだとこういうときに思い知らされる。
   だがそっと、少女の汗に張り付いた額の前髪を掻き分けてやるとき、小夜は一瞬だが安心したような表情を浮かべ、その瞬間だけことんと眠りに落ちるのだった。
   目覚めたとき、外はまだ吹雪が荒れ狂っていた。
「なんだか朝じゃないみたい」
   そう言って冴えない顔で小夜は無理やり笑い、青年の顔の憂いの色を濃くした。それでも二人ともわかっていた。ディーヴァを狩ることだけにすべてを賭けていたあの時代よりも今はずっと良いのだと。
「ハジ、行こう」
   顔を洗い、着替えを済ませて小夜は青年に声をかけた。




   宿の朝は早く、仕事はたくさんある。身体を動かしている方が気がまぎれるような気がして、こんなときは仕事があるのがありがたかった。水汲みや掃除。それから外の様子を観て、管が凍りついていないか。あるいは燃料や材料が足りないかどうかの確認をして、料理長とフロント係のホイラ―に報告する。すべてが入ったばかりの小夜の仕事だった。ダーナは食堂の整理と掃除をしており、ハジは昨日の続きで朝の下ごしらえの手伝いに回されている。少ないスタッフでは各人がいくつもの分担を持ち、小回りが利くようにしなければ回って行かない。
   そうしているうちにスタッフだけの朝食の準備ができ、支配人が降りてきた。支配人が来ると一瞬みんなの間に緊張が走る。顔色が悪く、やせぎすのこの支配人は、部屋にこもって仕事をしていることが多い。だが朝食だけはスタッフと一緒に食べることに決めているらしい。その場で今日の指示や確認が行われ、そうして一日の仕事が始まるのだ。
「この分ですと今日も一日動けないことになりそうだ」
「お客様にはご不自由かけるが、この土地は電波の通りも良くないし、道の整備もなかなか・・・。もっともそれを目当てにいらしてくださる方がほとんどだと思うが」
「お客様の中には除雪車を出して、街道筋まで出て欲しいと言う方もいらっしゃるそうですが、この吹雪で道がわからなくなっている。この付近は衛星誘導装置が利かないことをご説明して納得してもらってください。以上です」
   朝食兼朝のミーティングが終わって、小夜はハジに耳打ちした。
「吹雪の音が違っているような気がする」
「小夜?」
「昨日よりも強い。大嵐になりそうだよ」
   翼手の女王の感覚で小夜は何かを感じ取っているのかもしれない。青年は身構えるようにしてそっと少女の言葉にうなずいた。




   2回目の朝は、まるで夕暮れ時のように周囲は灰色に閉ざされていた。風の音はひどく耳障りで、訳の分からない憔悴感だけを運んでくる。この音から今日もおそらくこのまま滞在するしかないと予感し、私はもう少し寝台の中で惰眠をむさぼりたいと思った。何分にもこれまでずいぶん長い間休みも取らず、仕事一筋に過ごしてきたのだ。こんなときくらい、ゆっくりしても構わないだろう。何しろ今回は私自身のせいではなく、天候という立派な大義名分がついているのだ。そう思いながらごろごろと寝台の中で身体を動かしていた私だったが、いったん引いていった眠りの波は容易には戻ってきそうになかった。自分が思うことと現実は異なっていることがここでも証明されたわけだ。そう思いながら私は年甲斐もなく跳ね起きた。朝食の匂いが漂ってきたのである。いつもは自分で沸かすコーヒーとトーストを読み止しの新聞と共に流し込むような生活だっただけに、この古風なスタイルはかえって新鮮に感じられた。
   このイラつく天候と引き換えに、こういうサービスを堪能するのもいいかもしれない。私は昨日に引き続き、朝食を摂りに階下へ降りて行った。
「おはようございます、マリエラさん」
   食堂につくと、待ち構えていたように小夜が挨拶してくれた。こうやって名前を呼ばれるのはいいものだ。
「おはよう」
   私も挨拶を返しながら、私は小夜の顔色がさえないことに気がついた。顔色が良くないというのとはまた別に、表情に精細さが欠けているのだ。
「小夜」
「はい」
「ちゃんと眠れてる?」
   小夜は印象的な円らな瞳をぱちくりさせた。
「顔色が悪いわ。眠れなかったの?」
「あの、その・・・・。ちゃんと寝床に入ってうとうとはしたんですが・・・・」
「風の音が気になった?」
「え? はい。そうなんです・・・・」
   なぜか一瞬口ごもりながら小夜は言った。
「でも大丈夫です。それよりもまた今日も一日降り込められるそうですよ」
「まあ。いつになったら止んでくれるのかしら・・・・」
   この娘と話していると一瞬忘れられるが、天候による足止めは続き、今日もこのままかと思うとどっと落ち込んでくる。きっとほかの客も同様なのだろう。食堂の活気が以前とは全然異なってどこか陰鬱さを刷いたようになっていた。
「そうだわ。昨日倒れた人は?」
「ミハイですか? 大丈夫です。大分落ちついたそうで、今日は自分の部屋で休んでいるってことです」
「良かった・・・・」
   自分がちょっとでも関わった人の容態は気になる。だがここでタイムアウトだった。向こうの方から小夜を呼ぶ声がする。
「ああ。いけない。すみません」
   仕事の邪魔をしては悪いと思いつつ、この娘といるとついつい話し込んでしまう。慌てたように小夜は仕事に戻って行った。食堂の中は暖炉の焔と昏めの電燈でかろうじて明るかったが、外の景色は灰色に沈んでいる。新たな一日の始まりにしてはひどく気落ちのする光景だった。
   だが小夜が朝食を持ってきてくれたときだった。
「あの。今日の夜なんですけど。ハジがチェロを弾くって言ってました」
   内緒話のようにこっそり少女が囁く。
「本当に?」
「はい」
   小夜は嬉しそうににこにこしていた。
「嬉しいわ。楽しみにしている」
   お世辞でもなんでもなく心からそう思っていた。けれども私はそのとき既に不吉な出来事の芽が次々に芽吹いていたことをまったく知らず、少女が嬉しそうに約束してくれたことが守られることが無いということも知らなかった。




   薄暗い宿の中でとりあえず何もすることがなくなってしまった私は昨日の続きで宿の内部を見て歩くことにした。昨日は小夜とダーナの三人で見て回っていたが、今回は宿の中も大体様子がわかったので一人でも大丈夫だと思っていた。昨日も感じたが、ここにある調度、特に肖像画の一部に違和感を覚える。私は立ち止まってしげしげと眺めてみた。肖像画は全部で5枚。どれもかなりの大きさで、身分の高い女性の上半身あるは全身立ち姿を精緻な筆で描いており、それらはまるで同一人物のように良く似ていた。
   そのとき私は気がついた。衣服からはかなりの時代の差を感じさせるというのに、女性とそれから絵の筆致、つまり画家の癖のようなものは二つとも同一人物が描き、描かれたように感じられるのだ。本当に良く似た親子。あるいは一人の画家の想像力によって、一人のモデルが様々な時代の衣装をまとってポーズを取っているだけなのだろうか。
   隅の方にごちゃごちゃと積み上げられている什器の中に、絵に描かれているのと同じような燭台だとか、花台などが置いてあるというのも興味を引かれた。一見ガラクタに見えるそれらが、実はかなり高価なものなのかもしれないということを私は思い、価値ある者が放置されていることへの微かな憤りと寂しさを感じた。高価そうな織物、白い大理石の石像。こういった古いものに必要以上の価値を見出そうとしてしまうのは私も年を取った証拠なのかもしれない。この宿には積み上げられた年月の痕跡がある。そしてそれとともに影が――。
   そのとき、ただでさえ薄暗かった廊下の電気が一瞬だがふっと消えた。同時に叩きつける吹雪の音が、堪えられないほど大きくなる。それはまるで人間が外から壁を打ち付けているような物々しく切羽詰ったような音だった。その中に甲高い悲鳴を聞き分けて、私ははっとなった。ほとんど視界を奪うほど暗い中で何かが起こっている。
   だが次の瞬間、再び電気が戻り、私は大急ぎで悲鳴のした方向へと走って行った。




   悲鳴が聞こえてきたとき、小夜は厨房で次の注文を受け取ろうとしているところだった。はっとなって振り向いたところに厨房で手伝っていたハジが流れるように動く。言葉を使わず視線を合わせることだけで、ハジは一足先に悲鳴の先に向かい、小夜はそのすぐ後に続いた。好奇心からではない。どんな非常事態にも反応する。それは百年間、闘いの中に身を置いてきた者たちの本能ともいえる対処の仕方だった。
   厨房を出て北側の廊下に向かったところで誰かが倒れていた。いつも気持ちよく掃除をしてあり、古いながらも手入れが行き届いていた廊下に、今は黒々と影が横たわり、そこに捕らえられたように人が一人ぴくりとも動かずに臥せっている。一足先にたどり着いたハジが傍らに片膝つき、様子をうかがっているところだった。相手の呼吸と脈拍を確認してから背筋を起こし、視線を逸らさずにそのまま小夜を待っているようだった。少女が傍らに歩み寄った所で初めてわずかに身動きする。
   倒れていたのは客のうちの一人で、初老の女性だった。小夜は一瞬はっとなってから、それがマリエラでないことにほっとした。
「命に別状は?」
   少女は今までの雰囲気をかなぐり捨てたように厳しい口調で青年に問いかけた。
「気を失っているだけです」
   青年の答えにうなずいた少女は、青年の反対側に膝をついた。その頃には他の人たちが追い付いてきた。フロント係りのホイラ―、いつの間にか休んでいたはずのミハイまでやってきている。
「どうなんだ?」
「大丈夫。ご無事です。打撲の形跡もありませんし、呼吸もしっかりしています」
「しっかり。しっかりしてください!」
   ハジが周囲に応えている間に小夜は女に声をかけていた。少女の声はよく通り、それに反応してほんの少し女のまぶたが震え小さなうめき声が漏れた。
「気がつきます!」
   そのとき、女がうめき声を上げたかと思うと悲鳴と共に跳ね起きた。そのまま周囲の何ものも目に入らないようすで何かから逃れようと必死に後ずさっていく。
「こないで!」
   小夜がはっとするほど怯えた声だった。
「いや! こないで! そばへこないで!」
「落ち着いてください。何があったんです」
「もう大丈夫だから、落ち着いて」
   他の人たちの声など耳に入らないように、女は引きつった声で悲鳴を上げては何かから逃げようとなおも後ずさった。押さえつけようとしている腕を跳ね除け、手足を訳の分からない方向に振り回しながら逃げようとしている。
「おい!」
「来ないで!」
「待って――!」
   そのときに間に入ったのは小夜だった。一瞬、女が動きを止めたほどはっきりとした強い声色だった。
「待って、ください。もう少し落ち着くまで待っていて」
   小夜は女を覗き込むようにして目と目を合わせた。相手がはっとしてようやく認識してくる。
「大丈夫、ですか?」
   対しているのがまだ少女なのだとわかったからだろう。それから小夜の心配そうな、表情が目に入り、一気に女の警戒が解けた。
「私、私は・・・・・」
「待ってます。落ち着くまで。私も昔、よくそうしてもらったから――」
   その少女に毛布を一枚手渡した者があった。
「?」
「温めてあげないと」
   目を上げるとマリエラの顔があった。心配そうだったが、小夜の対応への賞賛と驚きと、なぜか誇らしさもそこに込められており、小夜が礼を言って受け取ると黙ったままうなずいた。
   食堂の方からも何かざわついた雰囲気が伝わってきていたが、小夜にはすでにそちらをかんがみる余裕はない。周りの人々は、まるで護っているかのように女の周りを取り囲み、だが誰も口を開こうとしなかった。小夜は任されている雰囲気を感じ取って、ふくよかな唇をしっかりと引き締めた。
「大丈夫ですか?」
   しばらく経って、もう一度小夜は訊いた。今度は女の震えもだいぶ収まり、小夜の問いかけにもしっかりとうなずく。
「じゃあ、配膳室に行きましょう。あそこならばここよりも寒くはないし、落ち着いてられます」
「独りは嫌!」
「独りじゃありません。誰かは必ずいますから」
「見えなかった・・・・」
「え?」
「何があったのか、わからなかった。でも恐ろしい気配がしたのよ。見間違いなんかじゃない。生臭い、獣のような匂い。そして、私は見たの――」
――真っ赤な目だった。
   その言葉を聞いて小夜は慄然としたのだった。






以下、続く。。。



2011.10.22

   ゆったりと進みます。。。盛り上がりそうで盛り上がらないのは、なぜ??? でも自分的にはできるだけ甘い部分も取り入れながら書いている・・・・つもりなんですが。。段階を追って進んでいく物事の描写との兼ね合いが難しい。

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