5.

  半日以上が経って発見されたミハイは、独りになるのを非常に怖がって、結局厨房に毛布に包まれて休んでいる事となった。すでに厨房では速めの夕食の準備が始まっており、料理長とそれからハジが下ごしらえの用意をしていた。小夜とダーナはそれぞれ簡単に食堂の掃除を終えた後、セッティングの手伝いを始めている。奇妙な一日だった。そして妙に疲れた一日だった。もっともこんな風に吹雪に閉じ込められるという体験は滅多にあることではないのかもしれないが。
   何日か降り込められることをあらかじめ言い渡されてはいても、いつ止むかしれない天候には気が滅入る。それでもお腹はすくし、誰かと話したいと言う欲求は出てくる。第一この宿の中にいる限り、冷気も激しい風も壁一枚隔てて向こう側にあってまだこの中には入りこんでいなかった。もちろん電気は相変わらず不安定であったし、明りも暖もランプや薪といった二世代ほど前の手段を入れてはいたが。
   この夜は昨晩と異なってさすがに近所の者たちはやってこなかった。従業員のうち通いの者たちもこの宿に泊まり込むことになり、そんなことにも彼らは慣れているらしく、取り立てて不安そうな顔も見せずに各々の仕事に没頭しているように見えた。それを見ていると私の気分も次第に落ち着いてくる。私はようやく仕度が終わったばかりの食堂に座って、慌しいような、どこか閑散としているような奇妙な雰囲気を見つめた。昼間に食堂に集まっていた人たちのうち、何人かはそのうちに自室の引き上げて戻ってきては居ないし、今食堂に居るのは私を含めて三人しかいない。そのうちの一人が昼間小夜に絡んでいた男だと見たときには多少不快にもなったが、こちらがじっと見つめているのに気がついたのか、ばつの悪そうな顔をして視線をそらせたのを見ると少々愉快でもあった。
   しばらくすると、思ったとおり小夜が注文を取りに来た。
「なんにしますか?」
「じゃあ鶏肉の煮込み料理と――」
   パンと野菜と付け合せを指定してから小声で聞いてみる。
「いつになったらこの天候は晴れるのかしら?」
   まだ外は野獣が牙を剥くように風が吼えたぎっている。窓枠がガタガタ言っている。大丈夫だとわかっていてもなんとも心細いものだった。
「支配人の話ですと、少なくてもまだ2,3日は続くそうです。長くなると1週間って言ってましたが、今回はそこまで長くはならないと思いますって」
「少なくとも2,3日!?」
「すみません・・・・」
「あなたのせいじゃないわ」
   少女は申し訳なさそうに肩をすくめて小さくなっている。こんな状況なのに、微笑まして思わず笑ってしまいそうになったが、失礼だと思いなおして代わりに訊ねた。
「電気も不安定だけど・・・・」
「このあたり、雪になると凍結の影響か、埋設してある電気ケーブルとか電線が調子悪くなることが多いそうなんです」
「だから電波の調子も良くないのね」
   先ほどから電話も中々繋がらない状態が続いていた。衛生電波も調子が悪いのだろう。休暇のつもりで腹をくくったからには別段急ぐ必要もないが、連絡が取れにくいことだけは難点だった。
「忙しいところ、ありがとう」
   小夜は軽く会釈をして仕事に戻っていく。そのとき私の目の中を誰かの視線が急に掠めた。はっとなってそちらを振り返ると、蒼白い顔をしたミハイがこちらを見ている。よほど客のことが心配なのか、それとも自分の仕事が心配なのか、まだ完全に回復してはいないようなのに。そう思ったがその次の瞬間、彼は覚束ない足取りで足を引きずりつつ、再び配膳部屋の方へと戻って行ったようだった。本来医者に診せるべきだろうに、気の毒なあの男はやはり天候が回復するまでこの宿で休んでいなければならないのだろう。同病相哀れむような心境で私は彼に同情していた。
   昨日も思ったことだが、街道を外れたところにありながら、ここの食堂の味はまあまあだった。いや、中々良い部類に入ると言っても良いと思う。街中のパブや喫茶とは異なって、きちんとした食事も楽しめる。食事の後のコーヒーを飲みながら私はぼんやりとそんなことを考えていた。部屋に戻ったらたっぷりある時間を使ってもう一度取材計画を練り直し、自分のスケジュールを調整しなすこととしよう。何日かのたっぷりとした時間も仕事を切り離せないほど仕事中毒になっているとは思わないが、もてあます時間が長いことだけは経験的に私も知っている。私はため息と共に空になったコーヒーカップを残して席を立った。




   小夜がまたしても「あの男」に何かを言われているのを見かけたのは、食堂を出てすぐの所だった。
「・・・・すみません。それは無理です」
「電話もきちんとは通じないし、電気も不安定。どこにも連絡が取りようにないってのはどういうことなんだ? まるで閉じ込められているようだ」
「閉じ込められて・・・・」
「だから、支配人に取り次げと言っている」
「でも・・・」
   迷うように口元に手をやっていた少女の、その手を男は乱暴に掴んで揺さぶるようにした。
「いいから、客からだと言って支配人に取り次ぐんだ」
   あまりにきつく掴まれたのか、少女が顔をゆがめている。私は思わず駆け寄ろうとした。だがそのとき、私が動作を起こす前に少女の腕をつかんでいる男の手を逆にやんわり掴み、それが少女の手から離れるや身体全体で庇うようにした人影があった。
「ハジ・・・・」
   小夜が小さく名前を呼んだのが聞こえる。その頃にはハジも男の腕からその手を放し、何の感情も浮かんでいないような蒼い目で相手を見つめていた。そんなに力を入れていたようには見えなかったが、男はひどく狼狽し、腕を抑えて顔をゆがめている。青年は一言も口をきかなかったが、ここから見ていると彼がなんだか静かに怒っているように見えた。何も言わないだけになんだか奇妙な迫力がある。あの穏やかでやさしそうな青年のどこにこんな剣呑さが隠されていたのかと私は少々驚いていた。
   その雰囲気に押されて男の方が何も言えずに一歩下がった。
「ハジ!」小夜が再び青年の名を呼んだ。警告しているような、切羽詰まった感じで呼びかける。
「大丈夫。ただ支配人を呼んで欲しいって言われただけ。でも・・・・」
   青年は少女にうなずいてから男に向き直った。
「失礼しました。支配人は・・・・・・・・・」
   なんだかハジがそんな風に言うと、まるで古い帝国主義時代の執事か何かのようで、はまりすぎてちょっとおかしかった。だが面と向かって言われた当人は牙を抜かれたヤマネコのように、そそくさとうなずくとハジと小夜の二人をその場に残して立ち去って行った。
   とりあえずは何事もなくおわった様子に私がほっとして二人の方へ行こうと足を向けると、小夜がハジをたしなめる声が聞こえてくる。
「ダメだよ。ハジにはハジの仕事があるんだから。あのくらい私一人でもどうにかできるもの」
   そりゃあ、ちょっとまずいかな、とは思ったけど――。後の方は語尾が小さくなる。
「ありがとう」
   小さな声が聞こえ、それから私は青年があるかないかの微かな笑みを口元に浮かべたのを見た。とたんに彼の持つ空気がやわらかくなったのにも驚いた。この青年は小夜といるときだけ、雰囲気がやわらかくなる。一見無表情に見えるハジというこの青年には実に豊かな感受性が隠されているのだと私は感じていた。
「あ・・・・」
   最初に私に気がついたのは小夜だった。
「マリエラさん。さっきはありがとうございました」
「さっき?」
「ミハイさんがハジと会ってから、一人で行動していたって言ってくれたでしょう?」
「ああ。あれね」
   私は微笑んだ。
「本当のことを言っただけよ。私だってちらりと見ていただけだから」
   けれども私の脳裏に鮮明に焼き付いているのは、その後でこの二人が二人きりで真っ白な雪の中を歩いていた景色なのだ。あのなんとも幸せなのか悲しいのかわからないような、綺麗な構図。こうして普段人がいるところでは想像できない二人だけの雰囲気。
「マリエラさん?」
「ああ。ごめんなさい。それよりも大丈夫だった?」
「見、見てたんですか?」
「偶然にね。助けに入ろうと思ったんだけど、私の出る幕はなかったようで安心したわ」
「なんだか私、変なところばっかり見られちゃったみたい・・・・」
「そんなことないわよ」
   そう言って私たちは笑い合った。




「マリエラさんっていい人みたい・・・・」
   部屋に入ると小夜がぽつりと言った。部屋に引き取る間際、彼女は夕食にハジのチェロが聞けなかったことをとても残念がっていた。実際今日も演奏を、という話もあるにはあったのだが、吹雪への準備と周辺住人が集まっていないという理由、なによりもミハイの捜索に時間も人も裂かれていた上、一日中食堂を開放していたので夕食の準備がバタバタで、ハジも借り出されようやくなんとか間に合ったような始末。そのままなんとなく弾かずに終わっていたのだった。
「それにあの人、ハジのチェロが好きなんだよね」
「単なる興味でしょう」
「それはそうかもしれないけれど、でも・・・・」
   ハジの声には何の興味の色もなかった。だが小夜にはこの控えめな青年が誰かに評価されることが嬉しかった。本人はそんなことを決して望んでいる訳ではない、むしろ目立たずその場に溶け込むことを最上と考えているということもわかっていたが、ハジがハジ自身として認められることは、今まで何も見返りを求めてこなかったハジに与えられるわずかな褒美のように思えるのだ。
「私は、ハジのチェロの音が好きだから」
   ハジのチェロを聴くことが嬉しい。他人から評価されると嬉しい。その嬉しい想いまでなかったようになるのは淋しかった。自分たちが人間ではないことも、決して他者と長い時間を共に過ごせるわけでもないことをわかっている。自分たちはあらゆる意味で異邦人なのだ。しかし時折訪れるそのわずかな触れ合いまで否定して欲しくない。たとえ独りであったとしても。
   少女はたった独りで自分の中の異質さを抱えて、彷徨う運命を想った。永い時間を抱えることの、強さと淋しさを。独りきりで時間の中に置き去りにして、それでも願うことは止められない。
   ふと見ると青年は立てかけてあるチェロのケースの上をゆっくりと撫でていた。
「明日は」 ハジは静かな声で言った。
「弾かせてもらえるように言いましょう」
   少女はうなずいて嬉しそうに微笑むとそのまま寝床に入って、すぐに眠りに落ちていった。




   夢の中だった。どこもかしこも灰色の霧に覆われ、まるで空気に圧迫されているように息苦しい。小夜は自分がたった一人でそこにいることに気がついた。いつも傍らにつき従ってくれていた気配がまるで感じられず、小夜はそっと呼びかけてみた。
「ハジ?」
   名を呼ぶ前から一人きりだとわかっていた。呼んでも来ない。呼び声さえも虚しい空間。だがその中に
「誰?」
   人間ではないモノの感覚で何者かが自分をじっと見つめている。
「誰なの?」
   この感覚は覚えがあった。昨日の夜。夢の中で・・・・。でもこれは本当に同じ夢の中なのだろうか。夢だから時間の感覚があやふやで。だが項の産毛が逆立つように、奇妙で不快な感覚があった。昨日の夜には覚えのない――。
『味方ならば、もてなしを』
   気がつくと覚えのある刀を握りしめていた。白刃の剣が今もまざまざと息づく。自分の半身のような刀。見なくても柄のすぐ近くに真っ赤な血石がはめ込まれているのが感じられる、「あの刀」だった。
『だが敵ならば、虜にせねば――』
「待って。誰? あなたは誰なの?」
   ディーヴァではない。昨晩と異なり、それだけははっきりわかった。相手が人間ではないだろうことも小夜の超常の感覚はとらえていた。だが何者なのか。
『それはあなた。あなた次第』
   たった今心に浮かんだ問いかけに応えられて息を飲む。見透かされている? 小夜はぞっとして刀を抜こうと握りしめた。だがそれは砂でできたまがい物のように、手の中でもろく崩れ去った。皮膚の内側から焦りと共にせりあがってくる闘いへの本能が、少女を内側から揺さぶろうとしたとき、不意に足元が崩れた。
『まだ、いけない。結論は出ていない』
   面白がっているような声だった。次いで流砂に落ちていくように身体が降下を始める。生ゆるい闇の中に抱き留められようとしながら、小夜は必死に相手に向かって叫んだ。
「誰なの――!?」
   少女の声に応えは返らず、ただ誰かの哄笑だけが響いていく。
「小夜!」
   身体そのものが裏返ったように感じて小夜は飛び起きた。びっしょりと汗をかいている。
「大丈夫ですか?」
   気がつくと心配そうな目でハジが覗き込んでいた。
「私・・・・」
「うなされていました」
   ハジにも届かないどこか。誰かが呼んでいた。
「夢を、見てたの」
   青年が眉をひそめる。これで二日連続して小夜は夢にうなされている。良くない兆候だった。
「昨晩とおんなじような夢だった。誰かが呼んでいる夢。でも今回は――」 小夜は首を振って哄笑の名残を振り払った。
「手を差し伸ばされている感じがした。私が敵なのか、味方なのか、見極めようとしているみたいに」
   こっちは何が起こっているのかわからないのに・・・。
「ごめん。ただの夢なのにね」
   夢――。昨晩の夢は、まだ夢の持ち主がこちら側を認識するまでには至っておらず、呼びかけて探り出しているような雰囲気だった。だが今夜の夢は、明確にこちら側を認識している。小夜が「何」なのかわかっていて、その上であちら側につくか、こちら側につくか判断しようとでもしているように。
   でもあちら側と言うのは? そしてこちら側と言うのは?
   少女はそのまま黙り込んでいた。その手が夢の余韻に小さく震えている。
「小夜」

   名を呼ぶと少女は不安の中から身を起こし、安心させるように小さく微笑んで言った。
「大丈夫だから・・・・」
   この閉じ込められた建物の中で、小夜にだけ名指しされたように何かが起ころうとしている気がして、青年は不吉な思いを抑えることができなかった。






以下、続く。。。



2011.10.08

   人間と関わればどうしても出てくる、彼らの異能の能力。というものをじっくり書きたいとも思うのですが、今回はさらっと流す程度に。。中途半端ですみません。

   人々に疑われ、追われる立場に陥りそうになりながら、ギリギリの状態で保っている二人。というのがこの話の状況です。ジョエルら『赤い盾』面々の保護下では決して起きなかったようなことに陥りながらも、素性を隠して前向きに生きたいと思っているのが小夜。そしてここでのハジは、沖縄組がいないだけあって結構人間たちとの距離を取っているような感じでしょうか?? でも、小夜は人好きがするし寂しがり屋で人間が大好きだから・・・。トラブルメーカー的な性質も持っている小夜ですが、今回はトラブルが向こうからやってくるという面を描いてみようと――。そんな感じで作ってみました。。

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