4.

  少し早いが昼の用意ができたという知らせによって、私は再び食堂の方へと降りていった。小夜という少女のようすももう少し知りたかったし、独自の雰囲気を帯びているこの宿そのものにも興味が出てきた。調度は古いものから新しいものまで幅広い時代のものが揃っていたが、決して不統一という訳ではなく、持ち主の趣味を反映していたし、ところどころにかけられている肖像画のようなものは、衣装も背景もまちまちだったが、まるで同じ人物のようによく似ていて、元々この宿はその一族が所有していたものだということを示していた。
   そう。私はこういう事態に陥ったことで、この宿そのものに興味を見出したのだった。建物の構造そのものにも統一感があるような、ないような。建て増しを繰り返してきたことは確かだろうが、あまり不自然ではない。誰がいつ、どんな風に考えてこの建物を改築していったのだろうか。
   ところがそのとき、私の興味が削がれるような不協和音が聞こえてきた。細い少女の必死な声に対応して、威圧的な男性の声。屈服させようとする意志を明らかにしている声。私の嫌いな類の出来事だった。仕事ではないにもかかわらず、私は義務感のようなものに駈られてその方向へ足を向けた。あの声には聞き覚えがある。夕べの不快な記憶が甦ってきた。昨晩、小夜に難癖をつけていたあの男のものだった。夕べ、小夜に対して文句を言っていたあの同じ男が、今度は彼女とその同僚の二人に対して声をあげているのだ。
   いらだち混じりのその声は、この天候で予定外に足止めされていることへの憤懣に彩られ、自分自身の不安から少女たちに八つ当たりしているのだろうと思われた。そうだとしたら、なんて身勝手な人間なのだろうか。私は気分が悪くなった。足止めされることで客の全員が多かれ少なかれ、戸惑ったり焦ったりしているのだ。それでも空に向かって吹雪よ止め、と言って止んでくれるものならばこんなに簡単なことはない。みんなが仕方のないことをそれなりに受け止めようとしている最中だというのに
   自分の思う通りに事がならないと不機嫌になり、立場の弱いものと見るや、彼らに対してはけ口を求めてくる人間がいる。私はそんな手合いが大っ嫌いだった。それに少女たちが巻き込まれていると見るや、ついつい無視することができずに私は声をかけた。
「ちょっと。いい加減にしておいたらどうです? 廊下中に響いているようですよ」
   ぎょっとしたように男は振り返った。しかし一瞬後、邪魔なものを見るような目に変化する。これもよくある態度のパターンだった。弱いものには強く出るくせに、私のように多少年を取った女に対しては無視するか、あるいは排除しようとする。
「あんたには関係ないことだ」
「関係ない? こんなにうるさくしておいて? うるさくて考えごと一つ出来やしない。それにね。文句を言った所で、天気が良くなってくれるわけでも、状況が変わってくれるわけでもないの。この娘達の言っていることは正しいわ。除雪車にしたって吹雪いている上に山道では遭難する危険性が高いのですものね。
   彼女たちに言っても仕方がないことなんだったら、自分で支配人でもなんでも話をつけてくれそうな人の所へ言いに行けばいい」
「その支配人を呼んでもらおうとしているんだよ。 関係ないんだからあんたは引っ込んでいてくれ」
「関係ない、ね。 そんなことを言う前にこの娘たちが言っていることをきちんと理解しようとすることをお勧めするわね」
   しゃべっている間にあんまり頭に来て、仕事でもないのにぴしゃりと言ってしまった。私の言葉に一瞬男は悔しそうな色をその目に浮かべると、そのまま黙ってあっさり食堂に入って行った。あんまりにもあっさりだったので少々拍子抜けするくらいに。
   私はほっとため息をついた。客同士、少し気まずくなったが構うものか、と言う心境だったのは私の中にもここに足止めされている苛立ちのようなものがあったからかもしれない。
「ありがとうございました」
   気がつくと二組の大きな目が私に向けられていた。
「気にしないでちょうだい。私が聞いていて嫌な気分になって、つい口出ししてしまっただけだから。あっちもこれに懲りて当分何も言えなくなってくれるといいのだけど。まったくああいう輩は――」
   そんな風に言うと、小夜は小さく声を上げて笑った。やはりこの娘の笑い声は聞いていて気持ちが良い。同じ時間を過ごすのだったら、男の偏屈だったり、憂鬱そうな顔を眺めているより、この娘たちの笑顔を見ていた方がずっといい。
   そういうことで昼食の後、今度は小夜とその同僚であるダーナという少女とともに、私は宿の中を案内してもらうことになった。




   ダーナの説明だとこの館の元もとの歴史は古く、彼女の祖母の時代には既にこの形式になっていたということだった。その前にも石造りの城塞のような建物があったそうだが、昔火事にあって崩れ落ち、その跡地にこの建物は建てられたそうだ。調度品の一部はその当時からのものもあるらしい。武器庫のようなものまであった。私は骨董にはそんなに詳しくはないが、定期的によく手入れされているらしい。
   だが一番興味深かったのは絵画――それも肖像画だった。
「珍しいわね」
   私は肖像画の前で足を止めて言った。
「女性の肖像画がこんなにあるなんて」
「そうでもないです。あっちは男の方のもの多いですし」
   確かにある時期を境に、ぴたりと女性の肖像画がなくなり、代わりのように男性の肖像画になっていく。これは所有者が交代した事の証拠なのだろうか。けれどもそこで二人とは別れることになってしまった。従業員で在る彼女たちには私たちほど自由な時間はない。それに段々とのんびり宿の中を案内してもらう気分でもなくなってきていた。天候がいよいよ吹雪いてきたのである。一旦は部屋に戻ってみたものの、落ち着くどこ路ではないほど窓の外は激しい風の音が鳴り響き、窓枠を揺さぶるようにガタガタ言っている。吹雪と言うよりも、これは冬の嵐だった。
   狭い部屋に一人というのが耐えられなくなった私は再び下へ降りていった。食堂にはこのようなときに、いつでも使えるように温かなものが用意されているはずだと思いついたのである。食堂に行ってみると同じことを考えている人がほとんどだった。宿にいるほぼ全員がこの食堂に集っていることになる。こんな天候の時には人間は本能的にこうして集まって過ごすのかもしれない。
   この考えは結果的に正しかった。最初、その兆候は電灯の不安定さに表れた。大きくなったり小さくなったり、まるで蝋燭の明かりのように不安定だと思ったとたん、いっせいに明かりが消えた。昼間だというのに吹雪の中の薄闇と、よろい戸の頑丈さで薄暗がりになっていた室内はたちまち騒然とする。
「少々お待ちください」
   そのとき次々に蝋燭に火が灯され、暖炉に薪がくべられた。たちまち光と温かさが戻ってくる。これもすべてここの支配人が準備させていたことだった。一番落ち着いていたのは小夜の同僚のダーナであり、また男衆は家の周辺の雪の様子を見たり、戸口を雪が固めないように雪かきをしたりしていた。彼らを見ていると、この吹雪がたいしたことではなく、彼らの生活のほんの一部であるかのような気がしてくる。
   その中で小夜は何もやれることが見つからない子供のような、自信無げな表情でダーナを手伝ったり合間合間で立ち止まっては不安げに周囲を見回したりしていた。明らかにこういった雪仕度に慣れていない。そしてまたきっとハジのことを気にしているのだろう。彼の姿は見かけなかった。もしかすると外に出ているのかもしれない。それでも小夜は今自分のできる範囲のことをきちんとこなしているようだった。
   だが窓と宿そのものを揺らす風の音はますます強くなり、吹雪の音が最高潮に達したかと思った時期、やはり心ここにあらずと言った様子で小夜はひどく心細げに見えた。あの明るい少女の中のどこか奥深くに、何か他人には言えないような哀しみめいた痛々しい表情があって、それが不意に表に出てきたようだった。一つ所に落ち着いたことなど、ほとんどないと話をしていた。まだあんなにも若く、人生の苦しみなど体験したこともないような、愛くるしい笑顔を持っているというのに、何なのだろうか、あの表情の落差は。
   手持無沙汰だったことは確かだった。だが私もめったにないことだったが、私はこの二人にある種の同情というか、好奇心からくる保護欲に似たものを感じ始めているようだった。小夜の表情を見て、私はそっと立ち上がるとあの青年の姿を探した。彼女に探せないものを私が探すというのもおかしなものだったが、私ならば客であるしこの宿でやるべき仕事もない。
「あんた、どこへいくんだね?」
   同じ客の一人で初老の男に呼び止められたが、私は首を横に振ってそのまま宿の裏手に回り、食堂からは見えない裏口の方へ回った。もちろん青年の姿が見つかる可能性など少ないことはわかっていた。小夜も含め、この宿に少ない従業員はいつでも忙しい。これはほんのちょっとした思いつきのようなもの。期待していたわけではない。私は肩をすくめてみんなの集まっている食堂へ戻ろうとした。
   その時。私は何かの気配を感じて戸口の方を振り返った。食堂を出ると外の冷気はすぐそこに迫り、別の世界の気配が広がっているのがわかる。だが向こう側、外と中との間の場所に何かがいるようだった。私は用心しながらそちらの方をうかがった。地面に何かがうずくまっている。小さなうめき声が聞こえ、私は思わず駆け寄った。こんなところに人が倒れていようとは。灰色がかった外套に雪がびっしりと付いている。
「ねえ、しっかり。――しっかりして」
   揺さぶってみたが、意識は戻らない。身体を上向かせながら、私はそれが従業員の一人であることを見て取った。
「誰か。誰か、来て――」
   夢中になって叫びながら、私は彼の顔をどこかで見たような気がして大急ぎで記憶をたどった。中肉中背。いや、少し痩せている。中年にはなっていないが、若いとは言えない。微妙な年齢。それから思い出した。あれは今朝方。彼はハジと何か話をしていた男だ。私は窓から何の気なしにそれを覗いていたのだった。一体どうしてこんなところに。そしてその他の従業員はどうしたというのだろうか。明らかに手当てを必要としている相手に、私一人ではどうしようもない。とにかく温かい所。食堂にでも連れていこうと引っ張って動かそうとしたのだが、どうにも一人では動かしきらない。かと言ってこんな場所に放置するのも気がかりで、私は再び声を上げた。
「ちょっと、誰か――。手伝って・・・・」
   そのとき、暗い廊下にかがみこんでいた私の上に影が落ちた。はっとして上向くと、何にも言わず、ハジがじっとこちらを見下ろしている。少女といるときとは異なって、何かを観察しているような不思議な目だったが、私は今それどころではなかった。
「助かったわ」
   私は小夜に対するのと同じような気軽さでハジに話しかけた。
「手伝って。とにかくここでは凍えてしまう。温かい所に運ばなくちゃ」
   彼はわかるかわからないか位にうなずいて、男の片腕を自分の肩に回して支えると、引き上げるようにして肩に担いで歩き出した。華奢な男性にしては大した力だと私は思ったが、すぐに後を追う。彼は食堂では無くて従業員の集まっている配膳部屋の方に男を連れていった。
「ハジ」
   小夜が一番初めに気がついた。ハジはみんなが集まっている場所まで男を担いでいくと、そこへ寝かせた。
「裏口に倒れていたようです」
   そう言って私の方を見たので入ろうか入るまいか考えていた私はそのまま配膳部屋へと入った。その間にハジは男の上着をゆるめ、腕を取って脈を診ている。
「外傷はないようです。体温は下がっているようですが、脈はしっかりしています」
「頭を打っているのかもしれないな」
「いえ。それも多分大丈夫でしょう」
   だからここまで一人で運んできたのだとハジは言ったが、どうしてそれがわかるのだろうか。先ほど頭を打っているのではと発言した男も眉をしかめたところを見ると、同じ疑問を抱いたようだった。
   だがハジの言うとおり、少しすると倒れていた本人が小さなうめき声を上げて目を開けた。
「気がついたか」
「裏口で倒れていたんだと」
「頭を打ったのか?」
   矢継ぎ早の質問に、男は身震いをすると身体を縮こめた。
「寒い・・・・」
「濡れた服を着替えてもらった方がいいんじゃないですか?」
   そのとき小夜が控えめな口調で口を挟んだ。
「そうだな。毛布と温かいコーヒーとパンを用意してくれ」
   フロント係のホイヤーが言うと料理長が早速調理場へ飛んでいき、ダーナが予備の客室毛布を何枚か調達してきた。幸いなことに凍傷になっている部分もなく、ただ体温が下がっているだけのようだった。最初は歯の根が合わないほどがたがた震えていた男だったが、たっぷりミルクとブランデーを入れたコーヒーを少しずつ飲み、小さくちぎったパンを何切れか腹に入れると少しだが顔に生気が戻ってくる。ようやく人間の顔になってきた、と言うところだろうか。どことなく自信なさげな、気後れしているような顔。
「何があったのか?」
   落ち着いた頃を見計らって、ホイヤーが質問した。とたんに男は再び震えだした。
「・・・・わからない。わからないんだ。気がついたらあそこに倒れていた」
   真っ青な顔で震えている男を見ていると、これがただの事故とか事件ではないように感じられる。何か不吉なことが起ころうとしている。あるいは起きていた。単に意識を失っただけでなく、何かが男に襲いかかり決定的な打撃を与えて通り過ぎていったのだ。
「倒れる前、一番最後にどんな事を覚えている?」
「最後?」
   男は周囲を見回して何かを探すようにした。それからその目がぴたりとハジに向けられる。
「あんただ」
「?」
「俺はあんたに薪を運ぶときに二人で一緒に運ぶように言われたと言いに行ったんだ。あんたは断わって――。それから後は覚えていない」
「じゃあ、一番最後に会ったのは彼だってことだな」
「いいえ。私は別に――。ただ二言三言、言葉を交わした後に戸口の方へ帰っていかれました」
「そうなのか?」
「――憶えてないんだ。だけど・・・・」
   毛布の前をしっかりかき合わせながら、彼はひとりごちるようにつぶやいた。眉を顰めて目をつぶって思い出そうとしている。段々記憶が確かになってきているのだろうか。
「そうだ。真っ黒な衣服・・・・:。それだけだ。憶えているのは。そいつが俺に向かって言ったんだ。待っているとか、持っているのか、とか・・・・。その言葉の後のことは・・・・全然思い出せない。多分、そのときに意識を失ったんだと思う。だから、一番最後の記憶は真っ黒い衣服だったんだ」
   皆が一斉に視線をハジに投げたのは、彼も全身黒に近い服装をしているからだった。その顔に迷惑そうな色が一瞬浮かんで消えた。ほとんど無表情に見えていながら、全然感情がないわけでも鈍感なわけでもなさそうだ。小夜が心配そうに近づいて、そっと寄り添っているのがこちらから見えた。
   それを見たときに、私にもこの状況でハジが無言のうちに疑いをかけられていることと、彼にはそれを晴らす手段を何も持っていないことに気がついた。たとえまったく関係が無いとしても、最後に出会ったのはハジであり、今彼を運んできたのもハジだった。怪しむな、という方が無理なのだろうか――。
   けれども私は知っていた。今朝、彼はハジと別れてその足で戸口の方へ姿を消した。それを私は窓から確かに眺めていたのだ。それに彼を発見したのは私であってハジではない。思いがけない力でここに運んでくれたけれど、ハジはただ私の助けを求める声に応えてくれただけなのだ。
   何となく理不尽な展開に思えて私は声を上げた。
「私、確かに彼がハジと別れて建物の裏口に戻っていったのを見ていたわ」
「あんたは・・・・」
   フロント係はなぜこの場に客の一人である私がいるのか、理解できないという顔をしていたが、この際構ったもんじゃない。
「どうやって・・・・」
「別に覗くつもりはなかったけれど、窓から見えていたのよ」
   偶然をとやかく言われる筋合いはないので、私は顰められた複数の眉を見なかったこととした。
「それから後のことは私にもわからないわ。ただそれからハジが薪を束ねる作業に時間をとられていたことくらいしか言うべきことはないわね」
   それから後は、小夜と一緒に居たはずだった。多分これでハジは男が行方不明になったことと無関係に判断されるだろう。だがあんなに手分けして探していたというのに、なぜ男の姿が一日近くも行方不明だったのか、男に何が起こったのかという根本的な疑問はまったく解決されてはいなかったのである。







以下、続く。。。



2011.09.18
(2011.12.09再改訂)

   淡々として盛り上がらない。。

   今現在、第10話を書いているのですが、全然先が見えません。。。一体いつ終わるのでしょうか??その割に遅筆。。。

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