3.

  下の階に降りてみると、従業員は総出で何かの仕度の真っ最中だった。
「なにを準備しているの?」
   幸いなことに最初に話しかけることに成功したのは、あの少女にだった。
「雪仕度です。多分午後から吹雪くらしいので、そうなったら明日まで降り込められます。暖房とそれから雪が積もったときに備えて、建物の見回りをしておかなくちゃならないんです」
「吹雪ですって?」
   確かに雪はやみそうにない。だがそうなれば何日ここに滞在しなければならなくなるのか
「大丈夫ですよ。そんなに何日も吹き続くって事はあんまりないって言ってましたから」
「誰が?」
「ここの支配人さん」
   私もこの土地は初めてであんまりよくは知らないんですが。そう言って少女はそんなことさえも楽しげに笑っている。これから吹雪が襲ってくるとは思えないほど緊張感がない笑顔だった。その笑顔に慰められる。確かに従業員が暗い顔をしていても始まらないのだろう。開き直ることは中々難しいが、それでもここはとにかくこの雪がどうにかなるまで待つしかなかった。
「それじゃあ、雪が止むまでお世話になるわ」
「はい。よろしくお願いします」
   少女は元気良くうなずいた。だが私にはわからなかった。そのときすでに何かが起こっていたなどとは。それが本来起こるはずもない出来事の始まりだったとは。




「ちょっと見ていてもいいかしら?」
   雪支度というのを見るのは初めてだった。
「はい。でもあんまりおもしろくはないかも・・・・」
「いいのよ。ただ珍しいから見ておきたいの。私のことを意識しないで頂けたらありがたいわ」
   他にやることもなかったので、私は少女の近くで一連の雪仕度を観察することにした。二重にかけられた窓。大きな暖炉の掃除と薪の用意。水の用意。スタッフたちは手際よく準備を進めていく。
「どうして水を?」
「水道管が凍ってしまうんです。雪から水を取るという方法もあるんですが、あらかじめ用意しておいた方が効率がいいってことで水を溜めて使うんだそうです」
   少女はわざわざ手を止めて答えてくれた。管という管に結露用の布を巻き備えておく。
「雪がひどいとは思っていたけれど、こんなに冬の嵐のようになるなんてね」
「そうですね。ちょっと驚いたけど・・・・。でも――」
   そのとき控えめに少女に呼びかけた者があった。
「小夜」
   少女はそちらを振り返った。そのときになって私はようやく自分が少女の名前すら知らなかったことに気がついた。SAYA。異国の響きの名前――。けれども私の関心はすぐに少女の名前を呼んだ人物の方へと向いていた。少女と同じ黒髪の、ほっそりと背の高い青年。昨晩食堂で観ていたときも、先ほど窓から見ていたときもあまり感じられなかったのだが、こうして近くに寄ってみると不思議な雰囲気の持ち主だった。先ほど少女に声をかけるまでそこにいることにすら気がつかなかった。まるで空気のような存在感。そのくせ少女の近くにいるときだけやわらかで優しい雰囲気をまとう。まるで、そのときだけ人間に戻ったかのように。
「ハジ」
   少女は嬉しそうに呼びかけた。これで私は二人の名前を知ったことになる。小夜。そしてハジ。二人とも私には変わった響きの名前に聞こえる。日本から来たと言った。少女の方はきっと向こうの名前なのだろう。しかし青年の名前は変わっている。
「もう仕事終わったの?」
「ええ。外の方はすっかり準備ができたようです」
「もうこっちも大体終わりみたい」
   それから思い出したように小夜は言った。
「そうだ。受付のホイラーさんが呼んでいたって」
「私を、ですか?」
「うん。急いでいった方がいいかも。私はここで待っているから。ええと、その・・・・」
   と言って小夜は私の方を向いて戸惑った顔をした。そう言えば私たちは互いに自己紹介もしていなかった。
「マリエラ、よ。マリエラ・ニール」
「マリエラさん。マリエラさんと待っているから」
「わかりました」
   青年の表情の中にはわずかに気がかりなものがあって、私は彼が踵を返してから、それが少女が私と共にいることへの心配なのかもしれないと気がついた。そうだとしたら、なんとまあ、正直で可愛らしい感情なのだろうか。
「マリエラさん?」
「ああ。ごめんなさい。彼はあなたの恋人なのね? それとも二人はご夫婦?」
   たちまち少女は真っ赤になった。
「えっと。その・・・・」




   そのとき少女の頭の中にあったのは、ずっと昔。やはりこんな風に雪深かったロシアの土地での記憶だった。あのとき、ソーニャと名乗った少女に二人の関係を訊かれたとき、サヤは「家族のようなもの」と答えたのだった。
   あのときの関係は少女にとってそうだったのかもしれない。しかし今は――。しかし小夜はその答えを口にすることはなかった。問いかけた本人が少女の様子を見て吹き出したのだ。
「ごめんなさい。こまらせちゃったようね。いいのよ、私も野暮なことを訊いたものね」
「?」
   どうも勝手に勘違いされているような気がする。そんな風にも思ったが、マリエラと名乗った女はひとしきり笑いあげ、やがて笑いをおさめるとやさしい笑顔になって言った。
「大切にできる相手がいるのはいいものよ」
   胸の中に温かなものが満ちる。小夜は素直にうなずいた。休眠と目覚めを繰り返し、30年の時間が間に横たわっていようとも、それでも共に歩んでいくと決めたことが一番大切なのかもしれない。
「ありがとうございます」
   そう言うと相手はなぜなのか再び笑い声を上げた。それでもその笑いは不快なものではなかった。
   それからは色々な話をした。どこを旅してきたのか、二人は幼馴染なのか、どんなところが一番思い出に残っているのか。当たり障りのない答えしか返せなかったが、それでもできる限りのことを話したつもりだった。反対に小夜はこの女性が音楽雑誌の記者であることや、この近くに取材しに来ていて雪に追われてこの宿にやってきたことを知った。
「大変だったんですね」
「でもその代りにあなたたちに出会えた。後であなたの彼の取材をさせてね」
「ハジの? でも・・・・」
「心配しないで。 取材と言ってもたいしたことないわ。ただどこでチェロを習ったのか、とか生まれた環境は、とかいう当たり障りのないことだけだから」
「でも・・・・」
   その当たり障りのないことが二人にとってはどんなに困難なことなのか。自分たちの素性を知らない人たちの中で他人と親しくするのは難しい。
「そう言えばあなたの彼は中々戻ってこないわね」
「あ・・・・。ええと」
   そう言えばなるべく他人の中に少女を一人にしないようにしているハジにしては帰ってくるのが遅すぎる。少女はにわかに心配になった。
「ごめんなさい。私ちょっと見に行ってきます」
「そうね。それがいいかもしれない」
   小夜は慌てたように受付の方へと走って行った。
   受付のところでは、フロント係のホイラ―の他に料理長。そして支配人まで顔を見せて何かを話し込んでいた。その中にハジの姿を見つけるとほっとしたように小夜は近づいた。
「あの・・・・。どうかしたんですか?」
   突然の少女の問いかけにはっとした視線が返されてくる。
「あ、あの・・・・?」
   その中でハジが無表情ながら当惑しているのを見て、小夜は眉をしかめた。
「何?」
「ミハイの姿が見えないんだ」
   答えたのはハジではなく、フロント係だった。後を引き受けてハジが続ける。
「少しやせていて、私たちに最初に話しかけてきてくれた人を憶えてますか?」
   二人がこの宿にたどり着いたとき、たまたまここは従業員募集の張り紙がしてあった。それを見て訊ねてみようと言ったのは少女の方だった。そして最初の応対してくれたのがミハイだったのだ。
「あの人?」
「そうです。黙っていなくなるような人ではないのに姿が見えない」
「もうすぐ吹雪になるというのに」
   支配人が言った。
「だから手分けして探そうと相談していたんだ。いや、君たち女性陣はここにいてくれたまえ。私たちだけで探すから」
「はい・・・・」
   わずかに青年と視線を交わし合いながら、少女は食堂を兼ねた広間へと戻って行った。
   この宿には女性の従業員は小夜ともう一人しかいない。外見は小夜と同じくらいの娘である彼女は正式にはダニエラという名前だったが、皆にはダーナと呼ばれている。彼女は与えられた仕事をすべてやり終えて、どことなく手持無沙汰の雰囲気で広間に立っていた。いつもこの時間は数少ない自由な時間で各人思い思いのことをしているはずなのだが、皆なんとなく落ち着かないのだろう。雪対策に鎧戸は閉められ電燈も必要最小限しかつけていない食堂は、昨晩や朝の様子とは打って変わったように暗く物悲しい雰囲気に包まれている。
「何か、あった?」
   小夜が戻ってきたのを見て、ぶっきらぼうにダーナが訊いてきた。
「ミハイの姿が見当たらないの。今みんなで探しに行く準備をしている」
「見当たらない?」
   吹雪が来るのに迷惑な。――彼女は近くの村の出身者でここの気候を良くわかっているようだった。
「私たちは待機していてほしいって」
「じゃあお湯でも沸かして待っていよう」
   ダーナは非常に実務的だった。自分たちがここに待機するように言われたと聞いたとたん、そのためにしなければならないことを考えている。見習うべきことだと小夜は思った。
   風がつぶやきから金切り声に切り替わっている。
「きっとすぐに見つかるよ」
「あのねえ。あなたは知らないかもしれないけれど。こういう天気になると2,3日は荒れることもあるの。万が一長い時間、外になんて出ていたら凍死は確実なのよ。探す方だって――」
   そう言って言葉を切り、ダーナは窓の外に目をやった。支配人や彼女の言うとおり、いつの間にか雪の量が増えていた。先ほどまではそれでも薄く白い空だったのが、さらに灰色が濃くなっており、そこから白い雪が絶え間なく降り続き、風に巻かれて吹き付けてくる。
「もう少ししたら、外に出ることも厳しくなってくるから」
   彼女の言葉通り、雪の量が増えるとともに風がさらに強くなり、視界がほとんどなくなったと思った頃、従業員の一団が帰ってきた。
「だめだ。見つからない」
「黙っていなくなるような奴じゃないんだが」
「もう一回りしてくるか――」
   しかしながら支配人はそれを許さなかった。
「捜査はここで打ち切りだ。後は吹雪がやんだ後、警察を呼んで捜索してもらう」
   これ以上外に出ることは二次災害を引き起こすことだった。誰も何も言わなかった。わかっていながらどうしようない。暗い雰囲気が漂っていた。それでも一行は小夜たちが沸かした湯によって温まりながらコーヒーで一息ついた。
「客には外に出ないように言って、それから就寝時間までは食堂を解放すること。雪のせいでブレーカーが落ちることがあるから電源には気をつけてくれ。以上だ」
   支配人は指示を与えると自分の部屋へ引き取っていった。
「仕方ない、私たちも行こう」
   もうすぐ吹雪がやってくる。小夜はそのことを肌で感じた。外気の音が変わっている。冷気が先ほどとは比べ物にならないくらいに強くなりつつあった。自然の気配の確かさが少女の感覚のどこかを揺さぶっていた。それはロシアの記憶だったかもしれない。あるいはシベリア鉄道の記憶なのかもしれない。極北の記憶は今でも確かに少女の中にある。その中の何かがこの迫り来る吹雪に同調しているようだった。
   だが小夜のそんな感傷は腕を引かれてたちまち霧散した。今はここの従業員としてやらなくてはならないことが山積みだった。客の様子を伺って、誰も外に出て行かないように注意することはその一つだった。小さな宿ではあったが、それでも気をつけなくてはならないことは山ほどある。
   昔は30人ほども泊れたこの宿も、今は10人を受け入れるのが精々だ。従業員が集まらないことと、何と言っても今は交通網が発達しており、こんな辺鄙なところにわざわざ来なくても、いくらでも交通の便の良いところに宿が取れるのだ。それでも何とかここがやっていけるのは、ほとんど手つかずの風景の美しさと、うまく古い様式を残したまま快適さを取り入れた建物の居心地の良さにある。200年ほど前にこの地方のみで流行ったという様式は、石を上手く組み合わせてところどころ自然のままの木を取り入れ、自然に庭に解放されているような、モダンでありながら落ち着いたたたずまいを見せていた。だからこそ吹雪への備えは丁寧に行う必要があった。
   雪仕度を整え終わった小夜たちは、一向に姿を見せないミハイを気にしながら、広間に昼の用意をしつらえた。この気候では近辺の人々が食事に訪れることもなかろうが、それでもこの気候で泊り続けることを余儀なくされる宿泊客にはできるだけ快適に過ごして欲しいというのが支配人の気持ちだった。
   ちょうど仕度を終えたころになって、まず姿を現したのは男性客だった。その客を見た途端小夜は躊躇った。昨晩小夜に妙に絡んできた男だったのである。
   こういうのを「目をつけられた」って言うんだっけ。そう思いながらも、なにより青年に心配をかけたくなかった少女は苦手意識を抑えるようにして笑顔を形作った。
   男は暗い顔で少女をねめつけた。
「交通がダメになったって聞いたんだが」
「はい」
「この宿は宿泊客を大きな街へと連れていってくれるようなサービスはやっていないのか」
「そ、それは、やってません」
「なぜだ?」
「なぜって・・・・」
「普通は万が一の時にそういう準備をしているはずだろう」
「でも・・・・」
   少女は口ごもった。
「いいから。それを出すように言ってくれ。こっちは急いでいるんだ、こんなところでもう一晩は過ごせない」
   どう対応していいモノやら。小夜がますます困ったように眉を寄せると、相手はここぞとばかりに押してくる。
「いいから。支配人でも誰でも言って――」
   だがそのとき、小夜も腕を引っ張った者があった。
「うちは、残念ながらお客様のおっしゃるような整った設備はないんです。こんな雪の中に車を出せと言うのが無理です。除雪車だって一台しかないんですし、それでそんなに遠くまでは行けないんです。危ないんです。ですから申し訳ありませんけど、ここで吹雪がやんでくれるまでじっと待つのが一番安全なんです」
   ダーナだった。彼女はきゅっと大きく目を見開いて、同僚を追い詰めていた相手を見据えた。この辺りの環境をよく知っている素朴だが力強いまなざしは、相手の無理難題に一歩も引かないような強さを持っていて、小夜を驚かせた。ダーナはこの先日入ったばかりの新人に、必要なことを教えてはくれていたが、決して自分から進んで打ち解けようとはせず、かえってどこか小夜のことを観察しているような感じがあったのだ。
   だがダーナの言葉は逆に相手を怒らせた。二人の少女たちの対応は、ただでさえこの重苦しい天候の中、いらいらしている相手の神経を逆なでしただけだった。
「いいから車を出すように手配――」
   意気高々に言い放った男の後ろから
「大声で怒鳴らないで」
   少し低めの女性の声が聞こえた。






以下、続く。。。



2011.09.02

   淡々とお話は続く。。

   盛り上がらなくてすみません。。と言う感じで。それでもハジ小夜成分を入れこもうとしている私。。話を作って作っていくほど、小夜とハジ、この二人の異質さと人間の中で苦労して紛れ込んでる感じがしていくのですが。。書いて表現していくのって難しい、と改めて思います。自分のキャラクターではないので、自分が作った話の中で、小夜とハジ。この二人のイメージを壊さないようにするのが思った以上に難しいです。 しっかり手綱を握っていないと、物語にキャラクターの性格が引きずられてしまう。両立する難しさを味わっている。多分それはオリキャラなんかも動いている世界だからかもしれない。と思いました。。いつでもハジ小夜修行中。。

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