27.

「良かったのですか?」
「なに?」
「いえ・・・・」
   青年の答えに少女はくすりと小さく笑った。
「?」
「ううん。なんでもない。ここに来て二度目だなって思って。ハジがそんなこと言うの」
   最初からわかっていたことだった。彼女たちと少女は同じ時間を辿ることも、同じ道を行くこともできない。別世界の者同士がただこの場で、一瞬の邂逅を果たしたというだけであることを。
   それでも少女にとってこのひと時はどんなに得難く、大切なものだっただろうか。それを一番わかっているのもまた青年だった。
「私ね。マリエラさんが私を見ている目がずっと気になってたんだ。やさしくて、何か言いたげで。でも、やっとわかった。あれは自分の子供を見ているお母さんの目だったんだなって。私、お父さんの想い出はあってもお母さんの想い出ってなかったから・・・・。ちょっとくすぐったかったよ」
   そう言って肩をすくめる仕草はわざと冗談めかしたもののようにも感じられ、少女の心がその仕草とは裏腹に寂しさに軋んでいることを表していた。
「あなたは彼女の子供ではありません」
   そう言いながらも、ハジの声は慰めとやさしさの両方を含んで少女の胸の内に落ち着いた。
「わかってる。でも正直言うとね、マリエラさんだけじゃなくて、私も思ったかも・・・・。お母さんってこんな目で娘を見ているのかもしれないなって」
   心配そうで、でも温かくって。お父さんとは違った温かさだった。『赤い盾』にいたときも女性の団員はほとんどおらず、いたとしても温かな情愛を交わすにはやらねばらないことがあり、時間が短すぎた。
「それに嬉しいこともあったもの。マリエラさんはハジのチェロをとっても褒めていたし」
   他の人々と常に一歩距離を置いているようなハジに、それもそのチェロの音に、心を寄せてくれる人間がいたことは少女には自分のことよりも大切に思えた。それがマリエラであったこと、そして自分たちをその能力を明らかにした後でも奇異の目でではなくて、温かな目で見てくれたことが心から嬉しかったのだ。
   あんな感じの人と。もしももっと時間がありさえすれば、色々な話ができたのかもしれない。ハジとも親しく話をしたのかもしれないし、自分たちももっとうまく人々の間に溶け込めたかもしれない。それが残念で。そのほんの少しの可能性が少女の胸を締め付ける。こんな出来事がありさえしなければ――。自分が翼手でさえなかったならば、こんなことは起こらなかった。小夜にはそれこそが、自分たちが引き入れてしまった翼手としての、人間とは相容れない暗い運命の一端であったような気がしてならなかった。
   過去が自分たちを追ってくるのか、自分たちの運命がこういう巡り合わせなのか――。
   少女はかすかに首を横に振った。
   それでも闘いの運命の最中、一切を切り捨ててディーヴァを倒すことだけを思いつめていた時代には、こんな風に人々と交わるなど考えられないことだった。ゆっくりと普通の人間同士のように交流を深め、もっと親しくなっていく。その過程の大切さが今では小夜にもよくわかっていた。たとえ結果がどうあれ。
「嬉しかった。マリエラさんの言葉。きっとそれだけでいいんだよね」
   自分自身に言い聞かせているような言葉だった。これ以上一緒にいたら何かもっと重い運命を相手にもたらしてしまうのではないか。そんな根拠のない懼れが少女の胸を掠めていた。かつての闘いの日々は終わったというのに。
   事実、支配人は小夜たちが来なければ、あのまま平穏に自分の支配人としての日々を過ごしていただろう。
「小夜・・・・」
「私たちが何者かを知った後でも、私たちを受け入れてくれる人たちがいるんだって、私、知っているから」
   ハジの気配がわずかに近寄り、小夜は青年がその言葉を肯定していることがわかった。幾度も裏切られたような想いを味わってきた。すべてを自分自身の存在に起因するものとして引き受けてきたのに、それを覆して受け入れてくれた記憶がある。それが小夜を絶望の淵から生かし、そして今、この言葉を言わせているのだ。
   沖縄の太陽の記憶。あのときのような絆はもう二度と現れないかもしれない。小夜が心からの笑顔を何の心配もなく作れたのはあの時だけだったのかもしれない。それでも今回あの女性が見せてくれたような、わずかな触れ合いが少女を温めていることも確かだった。
   だが今、再び自らその邂逅に一歩退いているような少女に、ハジは胸を痛めている。
「カイたちだけじゃないんだって。こうして小さなことでも、少しの時間でもわかってくれる人、私が翼手だと知ってもそんなこと関係なく私を見てくれる人がいるってこと、私にもわかるから。それが大切なんだと思うの」
   少女は言って安心させるように微笑んだ。こんな風に想い出に浸るとき、ハジがどんな思いで自分を見ているのかもわかっている。ハジが望んだ笑顔あふれる日々。あの想い出の日々はハジの中にも何かしら温かいモノをもたらしているのだろうか・・・・。今は遠く時間が過ぎてしまっていても。その思い出とともに、こうしてハジが傍にいてくれる、一緒に歩調を合わせて歩いてくれることもわかっているから。だからどんなことがあっても、この長くて短い目覚めの時間を共に歩いて行ける。ハジの気配がやわらぐのを感じながら少女はそう思った。
「大切なことは決して忘れない」
   それを何度も感じさせてくれるのもまたハジの存在だった。
「それを護ると誓ったことも忘れないから」
   だからこそ、二度とこの哀しい女王が目覚めないように、破壊しなければならない。それでも小夜の瞳はこの哀しい女王の彫像から離れることができなかった。




「マリエラさん。行きましょう」
   後ろ髪を引かれるような想いを抱く私と違って、ダーナの声はしっかりしていた。
「小夜たちが気になるんですね」
「ええ。だって、あの子は――」
   とそこで私は言葉を飲み込んだ。思わずまるで自分の子どもを言うように言葉を発してしまったこと。にもかかわらず続ける言葉が思い浮かばないことをそこで始めて私は知ったのだった。小夜たちの持っている力も、人間とは異なる存在であることも頭ではわかっている。十分見せられた。それでも、私にはあの娘が傷つきやすい子どものように見えるのだ。
「私にもわかるんです。上手く言えないけど、小夜たちが私たちに害を及ぼすようなことなんて絶対にないって。でも、違う人たち――人間じゃないのかもしれないけれど――、でも、私たちとは別の世界に生きなくちゃならない人たちもいる」
   小夜がそうだった、それだけなんだと。ダーナはうなずいて自分を納得させているようだった。ダーナにとって小夜たちが人間であったのか、そうでなかったのかは、二次的な問題だった。別世界の人たち。ダーナの中ではひどく単純な区分けなのだろう。
「ミハイは・・・・。きっと間違ってそっち側に行ってしまって戻って来られなくなったんだ・・・・」
   泣いているような声に私ははっとなった。ダーナにとってミハイは家族ぐるみで親しい隣人だったはずであるのに。目の前で化け物に変化してハジの手で殺されたミハイ。ダーナにとって小夜たちは・・・・。
「ダーナ。あれは事故だったのよ」
   そう、ひどい事故だったのだ。
「うん。私も、わかっている。知ってるから・・・・。小夜たちのせいじゃないって」
   自分の中で結論付けて、頑なに揺るがないでいられる、ダーナにはそんな強さがあった。それが今の私には頼もしく感じられる。私もまた前に進まなくてはならない。
「あいつらは俺たちを助けてくれた」
「ホイヤーさん・・・・」
「支配人の奴が悪いのか。それとも支配人の言っていた通り、あいつらが来たからこんなことになったのか。俺にはわからん。だけど俺にはあいつらが悪意を持っているようには思えないんだ。少なくとも支配人みたいに俺たちを虫けらでも観るような目はしてなかった」
   必死で守ろうとする何かを、小夜も。そしてハジも持っていたのだ。それはダーナにもこのフロント係にもわかっているのかもしれない。
「あいつらの正体がなんなのかよりも、今はこうして助かったってことの方が俺にとっては重要なことだ」
   小夜たちのあの必死な目。私の知らない何かを見つめてきた目。
「さあ。食堂へ急ごう。あいつらにも時間はないはずだから」
   小夜たちは私たちが十分展示室から遠ざかるまで時間を稼いでくれるだろう。そうは思っていたものの、食堂への道は床に転がっている障害物といたるところで放電しているケーブルを避けながらの困難なものとなっていた。最初の余裕はどこへやら、たちまち私たちは道を急ぐだけで精一杯になった。時折つまずきながら、私たちは声を掛け合いながら食堂へと急いだ。この部屋へ来るときと比べて倍ほどの時間がかかっているような気がする。
   食堂への道半ばくらいのところまで来た時、不意に何かが暴発するような振動が私たちを襲った。
「あいつらだ。あの化け物たちの後始末をしているんだろう。彼らの言葉を信じるなら、な」
   言っているほどホイヤーは彼らを信用していない訳ではないとわかっていても、その言葉は私には辛辣に聞こえた。だがホイヤーにとっては小夜もハジも得体の知れない存在であることも事実なのだ。ダーナにとっては異邦人の一人。そして私自身は・・・・。
   小夜は私のあの娘じゃない。同じような想いが身体のどこかにあったとしても、結局二人は別人なのだ。それでも小夜に対するこの感情を私は捨てがたかった。私の娘と同じような、フロント係に促されて先を急ぎながらも私は私はあの二人の遠い道程に思いを馳せていた。私の何倍の時間を経ていると言いながら、未だに瑞々しく傷つきやすい少女の感性を保ち続けている小夜。外見以上に老成しているハジ。もう一度、二人に会うことがあるだろうか。
   そのとき、再び大きく地面が振動し、私は思わず振り返った。先程よりもよほど大きな爆発だった。
「小夜!」
「いけません。マリエラさん。小夜たちはきっと無事です」
「ダーナ・・・・」
   あれはきっと小夜たちが自らやったことなのだ。姿態の痕跡を消すために、そして自分たちの痕跡も消すために。それが必要なのだとわかっていながらも、私はそんな彼らが切なくてならなかった。
「ええ。――そう。きっとそうね」
   たとえ道は違ったとしても、こうして無事を祈っている者がいることを彼らはきっと知らない。
「小夜。どうか無事で・・・・」
   私はひとりひっそりとささやいた。




   小夜の華奢な手は何度も彫像の白い肌を慰めるように撫でていった。その左下から上に向かって斜めにくっきりとした傷跡が走っている。その内側に半金属の繊維物質が複雑な構造で組み込まれていることが、細い隙間から見て取れた。
「小夜」
「わかってる」
   少女は感情を押し殺すように一旦目をつぶると持っていた刃物を握りしめた。腕の筋肉が緊張する。次に瞼を上げたとき、その眼は真紅に染まっていた。
「ごめんなさい・・・・」
   何に対する謝罪だったのか。大きく息を吸い込むと、小夜は得物を振りかぶって一気に振り下ろした。勢いだけの力技であったが、体力が幾分回復していた小夜の能力だからこそできる技だった。彫像は多数のコードや黒っぽいオイルとともに、今度こそ二つに割れて崩れた。
「この真下です」
「うん。その前に・・・・」
   小夜が言葉少なくそう言うと、青年は心得ているとばかりにうなずいて、展示室の隣にあった倉庫から灯油のようなものを運んできて、調度品の類にそれを振り撒いてから火をつけた。
   思っていた以上に乾燥していた室内は、たちまちのうちに炎に包まれた。古びた椅子に、カーテンに、壁掛けに、そしてあの肖像画の一群に。あの女性が確かにこの世に存在していたという証拠がすべて、炎の内に失われていく。
   油のようなものに燃え移ったのか、部屋のあちこちから何かが爆ぜる音が聞こえ、それが一際大きな爆発となって小夜を襲った。思わず顔をかばった少女は自分自身の手で真っ二つに割られた彫像の片方が、爆発によって粉々になっているのを知った。
   胸が大きく軋む。この存在の残り香。どんな想いでこの存在は時間を渡ってきたのだろうか。微かな涙のしるしを、残った片方の頬に小夜は確かに見たように思った。
「小夜。さがって」
   突然せっ詰まった声で促され、慌てて後ろに下がると同時に、一際大きな爆発音と共に白い彫像の残りとその中の制御系システムが吹き飛んだ。ハジが身体でかばってくれたが、その爆風で室内の壁際まで吹き飛ばされる。
「何が・・・・」
   次の瞬間、絶句した。あの彫像のあった辺りが石造りの床ごと吹き飛んで、大きな穴が口を開けていた。
「最初から『彼女』が活動を停止した時点で爆発するように設計されていたのでしょう」
   助け起こしながら青年が冷静に分析する。
「・・・・この真下だって言ったよね」
「行ってみますか?」
   うなずく時間も惜しいように、小夜はそこから身を躍らせた。その躊躇いや逡巡を全く見せない身のこなしに、昔、自分の命と引き換えるようにして闘ってきた少女の姿がよみがえり、わずかに青年の眉が顰められる。どんなに時間が経ったとしても、あの闘いの時代の記憶は小夜の中から無くならない。だがそれは同時に闘いの時代の最後、沖縄の太陽の記憶と表裏一体になっているものでもあった。大切なことは忘れないと言った少女。その中に闘いの記憶、彼女の妹の記憶をも含んで少女は歩いて行くのだろう。青年の瞳が揺るがない光を宿し、少女の後を追って彼は地下へと身を翻した。




   穴の中から地下に潜ると、以前電気系統の修理のためこの場所を訪れたときとは様相が変わっていた。もっともこの場所は電気系統システムのそのまた奥に当たる場所だったからかもしれない。自損システムが組み込まれていたせいか、見たこともないシステムは小夜たちが見ている間にも、末端から徐々に動きを失って死んだように横たわっていった。そのシステムと電系統のシステムがいくつかのケーブルで繋がっているのがわかる。
   ここの設備は「電気」からエネルギーを供給されて動いていたのだった。さらに向こう側に在る電気系統のシステムもこの女王のためのシステムと同機を取っているらしく、女王のシステムが火花を散らして暗転するたびに電気系統のシステムは立体映像制御装置が不自然な点滅を繰り返していた。
「ハジ。これは・・・・」
   その中で、正常を表す緑のマーカーがどうやら食堂とその周辺のいくつかの設備のようだった。
「まだ生きている・・・・」
   黙って青年が制御システムに手を動かして調べている。女王のシステムと電気制御システム。
「やはり二つのシステムはリンクしているようです」
「このまま女王のシステムを壊してしまうと、こっちの電源までダウンしてしまうってこと?」
   この奥にある翼手の女王のためのシステムを破壊すれば、今生きている電気系統にも支障が出てくるかもしれない。それでもここを破壊しなければならなかった。
「もうすぐ吹雪は止みます。ここを破壊すれば非常用の電源が入るようになっているようです。通信も回復するでしょう。救援はすぐにやってくるはずです」
   システム全体を調べてハジが言った。
「そう。良かった・・・・」
   返ってきた応えはひどく暗く、物憂げだった。破壊することを決めてきたはずなのに。電源を失った建物に取り残されるだろうマリエラたちの安否を気遣う気持ちももちろんあった。だがそれ以上に小夜の手はためらっていた。あの白い姿の女王。気だるげな声には切望と誘惑と諦念が映っている。獲り込まれようとしたとき、互いの間に存在した共感に、未だ捉えられているかのように、小夜はこの場を破壊するこの時になって自分の腕が砂袋のように重く、心が鉛のように沈んでいくのを感じていた。まるであの女王の存在に引きずり込まれるように。
   小夜を欲しいと言った女王。悲しみも苦しみも、すべて引き受けると言い、永遠の眠りを誘った女王。
「小夜・・・・?」
   はっと少女は目を見開いた。幻が遠ざかり、現実が戻ってくる。自分の手が震えていることに気がついて、小夜は得物を持ったままのその手を一瞬見つめた。幾多の翼手を滅ぼしてきたその右手を。
   今、ここでやらなくてはならないことが身の裡から湧き上がるように少女の中に戻ってきた。同時に深い悲しみも。最後の思い出を口にするように、小夜は刃物を構えながら独り言のようにつぶやいた。
「私、思うんだ。支配人さんは、自分がすべてをやったように言っていたけれど、本当にそうなのかな?って。あの彫像の女王の意志でもない。本当はこの建物――。ここのシステムそのものがやっていたことなんじゃないかな?あの人たちの意志を超えて。あの人の意志さえもシステムそのものの目的に読み替えて。
   女王のために存在するシステムって、結局そういうことじゃないのかな?」
「・・・・」
「――死んだ人をもう一度生き返らせるなんて・・・・」
   この女王は本当にそれを望んでいたのだろうか。女王自身もこのシステムの中に取り込まれ、望む望まぬにかかわらず小夜に触れ、そして蘇らされた――。そのことは少女に自分たちの生まれた経緯を思い起こさせずにはいられなかった。
   母親の眉の中から取り出され、人工的に血液を与えられて繭から生まれた自分たち。実験のために――。生み出された存在は本当に生まれることを望んだのか。かつて小夜自身も絶望の中、滅びの世界を望んだことがあった。自分たちの種族を自分ごと滅ぼす。そのためだけに生きていた時代が・・・・。
(ディーヴァ・・・・)
   満たされないものを追い求めてさまよい続けたディーヴァ。家族が欲しかったその心を酌んでくれるものすら存在せず、いたずらに死と混乱を振りまいていった女王。そしてそんな妹に、そうとは知らずに単なる気紛れで無責任な自由を与え、災いをこの世界に送り出してしまった自分。それにも増して少女の心を苛んだのは、自分自身の本質も災いを呼ぶのだということだった。人間以上の能力は――。それを求めたのが、ディーヴァに対抗する組織である『赤い盾』だったことだけが救いだった。生きている武器。ただ人間の欲望の上に戦争の道具として使われるような自分たち。そのときの記憶があの女王に触れられたことによって、皮膚の内側を這いずるように戻ってきていた。まるで昨日のことのように。
   右手が力を籠めて握られる。その上にそっと青年の冷たくて大きな手が重ねられた。
「ハジ・・・・」
   振り仰いで見た目は蒼く、深い理解が湛えられていた。少女は目を一つ瞬かせると、微かにうなずいて刃物を握りしめた。大きく息を吸う。
「これが、最後」
   死に逝くシステムが時折放つ回線負荷の火花が刃物に反射し、次の瞬間、裂帛の気合いがそれを振り下ろした。




   不意に電燈の光がすべて消え失せ、一瞬私たちは足を止めた。
「小夜たちだ」
   ホイヤーが言った。
「電気システムを破壊したな」
   その言葉と共に非常用のバッテリーが起動し、小さなフットランプが暗い廊下を低く照らし出す。おかげで足元だけは危険から回避され、私たちは食堂までの道をそのままたどることができた。
「まず食堂へ行ったら、すぐ隣のフロントから救難信号を発信してみる。あれだけは非常用のバッテリに繋がっているはずだから、上手くすると今度こそ救援要請できるかもしれない」
   実際、それが救援の最終手段だったのだ。非常用電源システムが稼働して初めて使用可能になる救難信号。私たちはそれに賭けるしかなかったが、私には今度こそそれが成功するだろうというあやふやな予感がしていた。
   未だ吹雪は止まず、室内の気温は下がる一方だった。室内にいれば風雪を避けることはできたが、暖を取る手段である暖炉のうち二つは化け物の暴走によって壊れ、一つしか機能していないはずだった。薪はまだたっぷりある。命綱のようなその場所に、私たちも今、加わりに行く。
   小夜たちをおいて――。
「あいつらのことなら、無事にここから逃げ延びているさ」
   私の考えを読み取ったようにホイヤーが言った。
「あいつらにとっちゃ、俺たちと一緒にいるほうがまずい」
   私にもわかっていた。だからこそ小夜は別れを告げたのだし、もう二度と彼女達は私の前に姿を現さないだろうということも。そう思いながらも、この事件の決着はどのようになるのだろうかと考えずにはいられなかった。
「これからどうするのかしら。小夜たちは。そして、どうなるのかしら・・・・私たちは」
「本当のことを言ったって誰も信じちゃくれないだろうな」
   というのがホイヤーの意見だった。
「当たり障りのないことが結論付けられて、きっとそれで終りだ」
   嵐に紛れて大型の獰猛な獣がこの宿を襲った。たまたま電気のトラブルが起こり、システムがショートして破壊された。そんな風にこの事件は解決するのだろう、とホイヤーは語った。マリ・シールの遺体も、恐らく最初に犠牲となったあの男性客も遺体としては出てこずに行方不明のまま終わる。宿のスタッフにも犠牲者は出て、ミハイの遺体も、料理長の遺体、支配人の遺体すらも出てこない。ようやくたどり着いた食堂で私はそのことを確認した。あるはずの料理長の遺体もマリ・シールの遺体もいつの間にか消えうせていたのだ。
   遺体無し。行方不明者五名。建物の半壊。それがこの一連の出来事の結論となるだろう。所載なく食堂で固まっていた一群に合流しながら、私の中に不意にその実感が湧き上がってきた。同時に今度こそ小夜たちが遠くに行ってしまったように感じられて、痺れるように足が凍りつく。もう会えないのだという実感が私を不意に襲ってきた、憶えのある悲しみで縛り上げた。子どもが永遠に自分の元を去ってしまうような哀しみ。それでも生きていかなくてはならない哀しみ。
   ホイヤーは言葉どおり食堂についてすぐにフロントで救難信号が発信できることを確認してきた。それだけでも残った者たちの中にはほっとして泣き出す者もいた。それくらい、皆緊張を強いられていたのだ。――その時を境に、物事は不思議と上手く転がり出した。
   吹雪も徐々に収まり、同時に通信システムも回復する。通常の通信システムから、とっくに緊急発信されていた救助信号が無事に受信されていた確認し、いくらかほっとした様子でホイヤーは状況を説明してくれた。
   一時間かそこらかすれば外から救助がやってくるという連絡があったのだ。空と陸の両方から、鎖されたこの場所を目指し、外界が圧倒的な現実感と共にやってきた。フロント係の言葉に客も残ったスタッフも助かったという歓声を上げた。互いに肩を叩きあい、あと少しの辛抱だと励ましあう。
   だが、私は――。
   この、助かったという歓声の最中、本当にあったことなのかもあやふやな一連の出来事の中で、私が思い浮かべるのは淋しそうな小夜の瞳とハジのチェロの音色なのだった。私たちをかばって一歩も引かなかった激しい闘いの姿よりも、私の心の中に繰り返し現れては消えていく忘れられない光景。やさしさと、悲しさが同居することもあるのだと知らせてくれたあの姿。雪の中にたたずむ二人だけの静かな光景。


   今、はっきりと私の世界と小夜たちの世界が分かたれたことを私は感じ取っていた。小夜たちが『私の世界』に背を向けて歩み去っていく。あの二人は遠い道のりを歩いて行く旅人のようだ。と私は思った。私の知らない、私とは無縁の世界の中に分け入っていくような。躊躇などせずに抱き締めてあげればよかった。しかし実際は私の実の娘にしてやれなかったように、最後まで私は彼女を抱きしめることもできずにこうして道は分たれていく。それが残念でならない。
   いつか、懐かしい想いで私は彼女たちのことを思い出すだろう。あのうるんだやさしい瞳を。私の人生など思いもつかないほどの長い永い道のりを歩いていく二人。私はこの場所にいて、あの二人の道のりを切ないような悲しいような気持ちで眺めるのだろう。向こうとこちらと。それでも、一瞬交わった道のことを考えながら。
   冬の声が遠くに聞こえ、やがてやってくる朝の光を感じながら、私は彼女たちの道程が冬の帳の中に細く続いていくのを感じていた。それでも私はきっと忘れることなどできない。そしてそのことと同様に、私は彼女たちの行く末が幸多きものであることを心から祈らずにはいられなかった。










  END



2012.09.14

  終わりました。。。実に一年一か月以上。まさか、ここまで長くなるとは。。とは言え、内容的には想定通りの終わり方をしてくれました。ただ、最後の方詰め込み過ぎた・・・・。言いたいことがありすぎて。。。もう少し内容を取捨選択しべきだったと反省しております。
   こんなに長くなった原因は。。何と言ってもハジ小夜部分。頑張っ(これでも!)甘くした結果と言えましょう。この一連の連載につきましては、言いたいことや語りたいことも多々ありますが、ここでは取りあえず、ここまでお付き合いくださいました方々に感謝の言葉を捧げまして、終了させていただきます。

   本当に長い間、ありがとうございました!!!

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