26.

  青年の腕の中、すぐ近くで流れた血の匂いと、時折ハジが見せるひどく心配そうな雰囲気に包まれながら小夜はゆっくりと目を開けた。ハジに心配しないでと伝えたかった。自分は大丈夫なのだと。相手の女王の存在が消えてから、少女の身体にまとわりついていた力を吸い取られていくような不快感は消えてなくなっていた。力は底を尽き、吸い取られたその名残は未だにあるものの、時間が経てば回復するだろう。
   重い身体を床から引きはがすようにして起き上がりながら、小夜はすぐ近くに駆け寄ってきたマリエラの心配そうな顔を見出した。自分たちの正体も闘いも、すべて観ていただろうになぜかマリエラの顔にはただほっとした表情が浮かんでいた。こんな自分を心底心配しているのだとわかり、小夜は胸を打たれたように視線を弛め、泣きたいような微かな微笑みを目の端に浮かべた。ホイヤーもダーナも、今は自分たちを遠巻きにし、戸惑いの色を浮かべて見ていた。その中で。
   だが一瞬マリエラと視線を合わせた後、少女ははっとしたように周囲を見回した。つい先ほどまで自分が対峙していた相手、もう一人の女王の白い姿はどこなのか。あの姿。たおやかで美しく、同じ種族の姉妹のようでも、極親しい敵同士のようにも思えた。今でもあの声が聞こえてくるように思えるのに。この部屋にはあの人の写しがそこかしこにあると言うのに。あの人は・・・・。
   ハジの腕が少女を支えるように回されたが、それにも気がつかず小夜は彼女の姿を追い求めた。自分自身が一閃を加えたその姿を。揺らぐ視線が一点を見つめる。――その女王は未だにそこにいた。白い微笑み。蠱惑的に身体をねじって。こちらの方を眺めている姿。だが以前と異なっているところがただ一つあった。右のわき腹から斜め上に向かって、一筋の黒々とした亀裂が彼女の身体には入っていたのである。
   小夜はハジにすがりつくようにして立ち上がると、よろめく足元を踏みしめて、その女王の所へ歩み寄った。そのままじっと見つめている少女の隣に青年が寄り添う。
「いつわりの生。仮初の姿。この人はそう言っていた」
   視線を逸らさぬまま、小夜はハジに向かって小さな声で言った。
「それはこのことだったんだ」
   視線の先にあったのは生きている存在ではない。一体の彫像だった。
「『ともに生き、ともに愛する』(Vivamus, atque amemus)」
   小夜はつぶやいた。彫像は低い台座に立っており、その台座にはラテン語で小夜のつぶやいた言葉が刻みこまれている。薄暗い部屋の中で、遠目で見ればまるで本当に生きているかのようにも感じられる活き活きとした生気に満ちた彫像。以前小夜たちがマリ・シールを探していて見つけた彫像だった。これを見つけたとき、引き寄せられた視線をそらすことができなかったことを憶えている。何か心を惹かれるモノが確かにあった。これが作られたとき、その元となったこの女王はどんなに生き生きと輝いていたのだろう。『ともに生き、ともに愛する』――。満たされ、愛されていた女王。幸せな、女王を中心とした家族。その映し身――。肖像画にもこの彫像にもあふれていた女王への愛情。敬慕。時間の中に遺された置き土産。遺された彫像。
   だがはたして生きているものと見間違えるほどだっただろうか。どんなに精巧にできていたとしても、あのときも今も、これは結局ただの彫像に過ぎなかった。とうてい生きているモノとは感じられない。それなのに、先ほど翼手との闘いの間、小夜がこれを斬りつけるまで、この像はそれそのものが生命を持ち、意志を持っているように小夜に語りかけ、小夜に微笑み掛さえしていたのだ。あれはすべて幻だったのだというのだろうか。
   ただ彫像の右脇についている黒々とした真新しい刀傷が、これが単なる石の像であり生命の欠片も持っていないこと、そして小夜自身が対峙していた相手であることを証明していた。
「もう、この人は生きてはいないのに・・・・」
   小夜がポツリと言った。少女にはこのカラクリがわかっているようだった。その目はすでに真紅の色から元の濃い茶色を取り戻している。だが、そこには深い悲しみと悼みの色が浮かんでいた。一呼吸おいて、一瞬小夜は目をつぶった。何かを思い出しているように堅く目をつぶり、再び開いたとき、その眼には思いつめたような彩が浮かんでいた。
「この人が私の力を吸い取って、私の記憶や想い出をすべて理解していたように、今は私にもこの人のことが良くわかるから――」
   恐らく小夜の生気をこの女王が摂りこみ始めたときから、この二人の間にはある種の絆のようなものが存在していたのだろう。翼手は相手の血液をすべて取り込むことによって相手の記憶も感情も取り込み、理解することができる。それと同じことがこの女王と小夜との間に起こったのでないと誰が言えよう。
   まず最初に、それは夢と言う形をもって小夜を訪れた。いつも見ている夢の中にこだまのように現れては消え。それが次第に悪夢の様相を呈していったときには、昼間にも空耳のように小夜にしか聞こえない声となって現れ始めた。
   傍らにいたハジにも聞き取れるはずはなく、少女は何もわからないまま、ただ少しずつ衰弱していくしかなかった。マリエラたちがこの宿にやってきたのはちょうどそんな折だったのである。
「初めは面白がっているような声だった。私が自分たちと同じ側に立つのか、それともそれを拒否するのかを見極めようとするように。でも、私はそれを拒否し続けてた」
   人間たちの間に交わって普通の人間として働く喜び。翼手の女王ではない、小夜を小夜として見つめて受け入れてもらえる幸せ。小さな異変はそんなささやかな交流の中に飲み込まれ、青年が気がついたときには、小夜の生気の大半は女王のものとなっていたのだった。
「私は絶対にこの人を受け入れることはできなかったから。それでもこの人の意識は途切れずに私に語りかけていたの。そして私、そのうちにこの人の中にこの人自身のことが見えるようになってきた」
   垣間見える幸せな時間。もしかするとディーヴァがそうなっていたかもしれない光景。だから。あなたを私に頂戴。
(あなたはディーヴァじゃない・・・・)
   夢を介してこの女王と小夜の間に、何らかの繋がりが形成されていったのだろう。そうして最後に小夜が一太刀を浴びせたとき、最後のそして直接的な接触は、摂りこまれたモノの逆流となって小夜の脳裏に様々な情報を流し込んだのである。
「私、この人を止めたかった・・・・」
   すべての女王は輝かしく在る。けれどもその存在は定命の人間とは異なり、さらに永遠ではない。その死はいつ起こったのか。遺された者たちと凝った意志。それを取り巻く女王のための機関。それは古い古い過去の出来事であり、物語だった。少女の拙い言葉によってぽつりぽつりと語られる物語り。
   まだこの地に、この建物の片鱗すらなかった時代、ちょうどこの場所の地下、今の電気系統制御システムの奥に人知れず最初のシステムは作られた。女王の長い眠り、そしてその目覚めを護るために。
「最初はただ護るためだけの手段だった。でも」
   三十年の眠りは長すぎる。そっと、少女の手はその彫像に触れていった。
「女王の不在は長すぎると思った人があったの。本当は自然なことなのに」
   遠い時代の騎士たちの夢。眠らない彼らが望んだ女王の姿。執着の中にある物憂げな姿。本当に欲しているのは誰なのか。目的が手段にすり替わり、主と従が逆転する。存在意義の転換点。
「何年も、何十年も、この人が目覚めて、眠って、また目覚める。その眠っている間にもこの人の意志を知りたい。その想いからこの地下に眠っている女王のためのシステムは作られたの」
『ともに生き、ともに愛する』――。ある意味では言葉通りとも言え、ある意味では真逆とも言える。
「それが最初――。最初の動機」
   やがて施設の上にはカモフラージュするための小さな館が建てられた。すべては女王のため。女王の眠りのためのものだった。幾度か、目覚めと眠りは繰り返され、遠い時の中、女王が二度と目覚めぬ眠りに就いても、変わらずにシステムは稼働し続けた。いつしか女王の騎士たちも姿を消し、女王に仕えていた人間の僕たちも散り散りとなり、ほとんど忘れられたようになってもシステムだけは生きていた。この地で。人知れず。
   幾度か館は取り壊され、また造られ。未だ存命だったころの女王の似姿だけが増えていき、それでも翼手は誰もいない。
「支配人さんはそうした女王に仕えた人たちの子孫だった。支配人さんがここにやってきたとき、あの人の意識は半分目覚めていたの。支配人さんは多分それを知っていて、ここを買ったんだ。でも、それだけなら、きっと何にも起こらなかった」
   でも私が来たから・・・・。小夜はそうつぶやいた。そろってしまった。システムと、それを実行する者と、そして女王とが。そしてシステムは稼働を始めた。女王の意志として。
   小夜の生気によって最初に本格稼働をし始めたのはシステムだった。それによって支配人はどういう仕組みか不明だがミハイとマリ・シールを翼手に仕立て上げ、そしてさらに多くの生気によって女王の意志は自由を得た。小夜に話しかけ、自ら小夜を取りこもうという意志を見せるまでに。
支配人は満足だっただろう。自分の女王の王国が密かに整えられていく。だがそうして出来上がったミハイとマリ・シールはシュヴァリエとも薬害翼手とも異なる不安定な存在だった。この一連の因果を思い、少女は胸の潰れるような哀しみに襲われていた。
   彼らの変身の失敗こそ、この一連の出来事を象徴しているようだった。
「この像は、一番あの人に近しいモノだった。そう支配人さんが思いこんでいたのか、それとも本当にそうだったのか・・・・・。私にもわからない。けど、女王の意志を伝える器官としてはこれほどぴったりのモノはなかった。そうしてシステムを通して、ここからこの人の生前の意志が、それから意識が、他の人たちに伝えられていったんだと思う。
   この人の肉体はもうとっくに滅びてこの世にはいないのだけれど」
   まるで憑代のように、小夜に話しかけてきたこの彫像。システムから伸ばされた手。そして夢の中で語りかけてきたあの女王の言葉。
『友人ならば歓迎いたしましょう。だが敵ならば、虜にせねば――』
『友となり、私の代わりにこの場に在るという選択肢も貴女にはあった。けれどもあなたはそれを拒否した。――だからあなたはすべてを私に捧げなければならないの』
   あの時、あの女王の言葉はまるで自分の意志とは関係ないような口振りだった。
「まるで本物のあの人のようだった・・・・」
   すべてが錯覚。幻のようなものだったのだ。この彫像は単なる発信機関。システムが作り出した女王と外界との交信機器にすぎなかったのに。白い女王。白い彫像。動かないその器官。
「でもね。私にはわかるような気がするんだ。今、この人が本当に望んでいることが」
「小夜? なにを・・・・?」
   マリエラが心配そうにささやいた。まるで言葉をかけないと、少女自身がそちらの方へ行ってしまうのではないかと心配しているように。
「この人が望んでいることは多分ただ一つ」
   小夜はマリエラを振り返って淋しそうに微笑んだ。かつての自分がそうであったように。
「静かに眠りに就いていたいってことだけ。誰にも起こしてもらいたくない。そっとしておいて欲しい。ただそれだけ」
   それから彫像から手を離し、青年をまっすぐに見つめる。
「私はその望みをかなえたい」
   ハジが無言でうなずくのはわかっていながらの言葉だった。
「小夜・・・・」
   何歩かこちらに歩み寄ったマリエラが、そこでためらったように足を止めて声をかけた。その彼女に、今度はしっかりと向きなおって小夜が口を開く。
「ごめんなさい。マリエラさん。結局危険な目にあわせてしまって」
   そんなことない、と言おうとしてマリエラは息を呑んだ。小夜の目は今、再び真っ赤に染まっていた。
「私たちは、人間じゃないから・・・・」
   でも守りたかった。一時でもここにいて共に笑っていたかった。
「小夜・・・・。何を考えているの? 何をしようとしているの?」
「ごめんなさい。私はここの痕跡を、私とハジで消さなくちゃならないんです」
   かつて二人は『赤い盾』の庇護の元にいた。組織ではこういう翼手の痕跡をぬぐいさることもその活動の一つだったのだろう。だが今はそこにも頼らず、こうして二人だけで行うしかないのだ。ひっそりと、人間の目に留まらぬように消えていくのが翼手と言う種族の宿命なのかもしれない。同じ翼手でありながら、消え去るべきものを見出し、そして痕跡をぬぐい去ることが今の小夜たちの、誰から強要されたわけではない役目だった。
「もう、行ってください。食堂に行けば皆が集まっているはずです。もうあそこは安全ですから」
   ところどころホイヤーが仕掛けた電気系統の暴発で、この建物は分断されているはずだった。防寒設備もなく、もう建物としての機能をほとんど手放してしまったこの宿だったが、暖炉さえしっかりしていればわずかだが薪もある。雨風だけは避けられるだろう。
   もうすぐこの冬の嵐も通り過ぎる。それを小夜は空気の中に、風の音に感じていた。
「止まない吹雪はないから・・・・」
   そう言う小夜の横顔は何かの想い出に小さく揺らいでいた。




   私はたまらない気持で小夜の表情を見ていた。
「小夜。あなたはどうするの?」
「翼手の――人間ではなくなってしまった人たちの死体をこのままにしてはおけません。できればこの部屋ごと壊してしまいます。それに私、もう一度、地下に行かなくちゃ。あそこにあるモノを完全に破壊するために――」
「違うわ。小夜」
   私は言った。
「そういった『後始末』まで含めて。すべて終わった後、あなたたちはどうするの、と訊いているのよ」
「マリエラさん」
   意表を突かれた顔をしてから、表情を収めて小夜は首を横に振った。
「お別れです。マリエラさん」
「小夜・・・・」
「心配してもらえて、気遣ってもらえて、本当に嬉しかった。私、決して忘れません。
   でも、どうか忘れて・・・・。マリエラさんたちは今夜のことは忘れて。私たちのことも忘れてください」
「どうしてそんなことを・・・・」
   忘れられっこない。赤い目の小夜。その中の寂しい色。ハジのチェロの陰影のある深い音色。あんなに一生懸命な瞳を私は他に知らない。忘れられない。
「お客様・・・・。マリエラさん」
   私の袖を引くものがあり、振り返るとそこにはダーナがいた。彼女は小夜を見て首を振った。
「行きましょう」
「でも――」
「小夜が言ったように、小夜は私たちと違うんです。だから、もう行った方がいい」
「ダーナ。それでいいの? あなたは――」
   非難するような口調になってしまったのかもしれない。だがダーナはそれ以上、言わなくてもいい、とでも言うように首を振った。
「私には何もわからない。わからないけれど、どうしようもないこともあると思ってるんです。私にも、小夜にもどうしようもないことって――」
   その娘の素朴な目の中に小夜に対する誠実さが浮かんでいた。互いに認めて節度を保つ、自然の本能に近い独特な戒律のようなものをダーナは最初から持っていた。それに従うべきなのかもしれない。私は押し黙った。ホイヤーの方を見ると、こちらは本能的に畏怖に近い表情を浮かべて小夜たちを見ている。拒絶するというわけではないが、得体の知れない存在を見ているような目。恐らくホイヤーの反応が一番自然なのだろう。しかし、私は・・・・。
   小夜は諦めたような哀しい表情を浮かべていた。きっとこの少女は何度もこんな場面は遭遇していたに違いない。雪を見て楽しそうにしていた少女。ハジのチェロを認めてもらえて嬉しいと言っていた少女。その正体がなんであれ、あれも小夜の本当の姿だった。
   小夜は彼らに向かって微笑みを形作ってうなずいた。
「その方がきっといいから・・・・」
「待って、小夜・・・・」
   何かを言わなくては。そう思うのに言葉が出てこない。この淋しい目をした娘に。もう二度と会えないだろうこの子に。
「あなたと別れるのは淋しいわ。私は――」
   私は急いで言った。今、言っておかなくては一生後悔することになるだろう。
「あなたを見ていて、私はずっと自分の娘を思っていたわ。
   そう。私には娘がいたの。幼い頃に別れてずっと逢っていなかった娘。写真の中だけの。そして私の胸の中にだけ日々存在していた娘が。私たちは長い間別れ別れだった。いつかもう一度逢える、そう思っていたのに。私はその時間の中で私の娘を失った。
   そのとき。亡くなった娘は小夜、今のあなたと同じくらいの齢だった」
   だから――。
「あなたを抱きしめてあげたかった。私の娘にしたかったのと同じように。そして言ってあげたかった。我慢しないで――。一人で何もかも抱え込まなくていいのよって」
   前に同じようなことを小夜に言った憶えがあった。もう一度、別れる前に言っておきた
「マリエラさん」
   小夜は驚いたように目を見張って私を見つめていた。それから一番肝心なこと、一番心に重いことを告白するように重い口調で言った。
「私も、そしてハジも、あなたの何倍もの時間を生きてます」
   外見ではなくて。――別の生き物。別の存在。でも、私の胸の中に湧き上がったのはそんな事実ではなかった。
   ああだから。と私は思った。だからハジのチェロの音があんな風だったのだ。ことさら古典的で、老成した雰囲気を持ち、優雅だった。あれは古典を日常に弾きこなしていた者特有の音色だったのだ。そのことが胸に落ちたとき、私は今本当の意味で小夜は別れを告げているのだと知った。存在も、時間も、何もかもが遠いのだと。
   それでも。それでも――。淋しさは変わらない。小夜の目の中にある淋しい色も、決して嘘などではない。たとえ私には計り知れない時間を過ごしてきたとしても。ハジが――、小夜の傍らにいたとしても。
「でも。ありがとう。嬉しかった」
「私も。あなたと会えて楽しかった」
   だから、忘れない。忘れられない。小夜の瞳がもう一度、驚きに見開かれた。
「ありがとう。マリエラさん」
   小夜はもう一度ささやいた。それから傍らのハジを振り返る。私は今こそ思い知っていた。この二人の間にある絆。どちらも欠けることにできないその強さと存在に。
「さあ。行ってください」
   小夜の声を後ろに聴きながら、私は何もできずに部屋の扉が閉じるのを見ていた。









以下、続く。。。



2012.08.30

  色々な意味で今回ギリギリでした。本来ならばキャラに説明させるのを避けたかったのですが、それが構成上できなくて。
   オリキャラに、自分の心情を語らせるのも唐突な気がして随分迷いましたが、一応語っていただいてしまいました。。色々反省点は多いのですが、今度こそ次回最終話です。。。

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