25.

  一瞬の出来事だった。運命の一瞬が過ぎた後、ホイヤーは自分がまったくの無償であることを知り、信じられない思いで前方を見つめた。そこには頭半分から上半身を真っ赤な血で染めた支配人があおむけに倒れていた。
   一目で絶命していることがわかった。
「ホイヤー!」
「ホイヤーさん!」
   私もダーナも思わずそちらへ駆け寄った。
「無事なの?」
「ああ。どうにか」
   そう言ってから、彼は支配人の遺体を見つめた。
「撃たなかった」
「え?」
「俺は撃たなかった。結局、撃てなかった」
   勝負に強いと言うのは大嘘だった。殺されることは嫌だったが、本音を言えば銃の暴発も殺すことも怖かったのだろう。
「でも、これは・・・・」
「正真正銘、銃の暴発だ」
「良かった」
   そう言って私はホイヤーの強張った手から銃を取りあげた。あたりには微かに火薬の匂いがしていた。
「無事で良かった。殺されないで、そして殺さないで良かった。これは事故なんだから」
   ホイヤーはどこか自分の弱さを恥じているように見える。けれども決してそれが弱いからだとは私には思えなかった。留まる勇気もある。だからこそ今この瞬間、初めてホイヤーを信用できると人物なのだと私は感じていた。だから一緒に小夜たちを見ていることができる。小夜。私はそちらの方へ視線を動かした。
   残された化け物とそれに対峙しているハジ。そして小夜の前に現れていたのは仮装衣装のような衣服を身につけた一人の女性の姿だった。
「あの・・・・。逃げないんですか?」
   ダーナが恐る恐る問いかけてきた。
「逃げても同じことよ。外はまだ吹雪いているし、中に居たらいずれ化け物に追いつかれる。それならここで小夜たちを見守っていた方がいいから」
なぜならば、小夜とハジの戦いが彼女たちの運命を決定するのだと私にもわかっていたからだった。ホイヤーも黙ったままうなずく。私も多分ホイヤーも、奇妙な諦観にも似た気持ちで、目の前の激しい闘いと小夜が対峙している白い女の姿を見つめていた。




――小夜――
   と彼女はささやきかけた。恍惚とした表情で。少女と自分の間に在る女王と言う繋がりが一種の共鳴状態を作り出し、それによって少女の肉体から生気を吸い上げている。
――私の、小夜――
   舌舐めずりでもしそうな表情で。その白い姿は小夜の身体が小さく痙攣している様をじっくりと眺めていた。
「いや・・・・」
   小夜は首を振った。私はあなたのものじゃない。自分の中に在る生気、生命の源のようなものが相手の女王に吸い上げられ、零れ落ちていく。翼手の吸血に似ていながら、さらにおぞましく禁忌に満ちた行為だった。女王が女王を吸い上げる。同時にわずかだが相手の中に在る何か仄暗い要素も小夜の中に流れ込んできて、その不吉な陰りに小夜は呻いた。
――私たちはひとつになるの――
   だから
――小夜、あなたを私に頂戴――
   ちがう。私にそれを言ったのは。言ってよかったのはあなたじゃない。と小夜は思った。共に滅びに向かうはずだった。滅びの世界でひとつになるはずだった。
『小夜姉さま』
   同じ顔。同じ髪。
『いやよ。どうして、私だけ・・・・』
   逝くことを嫌だと言っていた双生子の妹。こうして囚われて、闇に消えてしまえば彼女と同じになるのだろうか。遠い青空。青い薔薇。響いていく歌声。軽やかな笑い声。
   まるで冗談でも聞いたように、不機嫌そうに馬鹿にしたように笑うディーヴァ。
『まあ、小夜姉さまったら』
(ディーヴァ・・・・)
『そこでお終いなの?』
(ディーヴァ? ・・・・私は・・・・)
「小夜――!」
   突然、耳元で名を呼ばれたように感じ、びくりと身体を震わせて小夜は目を開いた。たちまち帰ってくる現実の世界。
「ハ・・・・ジ・・・・?」
   のろのろと重い頭を巡らせると、青年が未だに翼手の体躯と格闘を続けているのが見える。だがあの声。少女にはわかった。今の呼びかけ。少女を引き戻し、僅かなりと生気を蘇らせてくれたあの声が誰のものであったのかが。
   少女は動かぬ腕を無理やり動かして、ほとんど感覚の無くなってしまっている手に力を込めた。握っている剣の確かさが、少女の中に戻ってくる。
「あなたはディーヴァじゃない」
   白い姿。たおやかな肢体。小夜が剣を握りしめても、その姿は揺らぐことがなかった。まるで小夜がやってくるのを待っているかのように微笑みながらこちらを見ている。
――そう。私はあなたの姉妹ではない――
   白い女王は続けた。
――でも、あなたも心の奥底で望んでいるのではなくて? 安らぎたいと。あなたの姉妹の所へ行きたいと――
   だから。と彼女は続ける。
――私の所へいらっしゃい。私にあなたを頂戴。私は目覚めにあなたが必要。あなたはもう安らぎたい。お互いに欲しているものが同一ならば、こんなに単純で幸せな結末はないではないの――
「私は・・・・」
   黒い髪。鮮やかな青い瞳。ディーヴァは混沌の最中に居ながらいつも妖しく輝いているようだった。同時に嘆きと死と哀しみの中心にいてそれらを楽しみながらも、自分の本当の望みをわかっていなかった。わかろうとする者が誰もいなかった。本人を含めて。
   ただ家族が欲しかったという自分の妹。共に逝くことを翻し、生きることを望んだからには――。
「行けない・・・・。行かない」
   残っている体力はただ一撃を与えるだけ。動かぬ手にようやく力を込める。
   ハジ・・・・。
「私はあなたの所へは行かない!」
   叫びながら小夜は駆けた。
   ただ一つの太刀。右から左へ斬り上げる。痺れるような手応えがあった。次の瞬間
「こ、これは――」
   驚愕が少女の身体を貫いた。




(どうした。ハジ)
   そのとき翼手が口を開いた。いや、正確には言葉ではなかったのかもしれない。頭の中に響いてくる直接的な意思。それはそれまでのミハイでも、正気を手放した化け物でもない悪意に満ちていた。
(俺のようなモノとは違い、おまえは真の化け物のはず)
   血を喰らい、半ば狂い、それなのにまるで正気のように語り掛けてくる。その翼手は明らかにハジを挑発していた。けれども青年の冷たいほどの表情には何の変化もない。
(出し惜しみするのか? お前の女王は何をしている? それとも――)
   と彼は嗤った。
(お前の女王を先にやってやらなくては、本気になれないか?)
   あの地下室でのように――。その言葉を受けたとたんに青年の雰囲気が一変した。盾となるものも、獲物もないまま、彼は自身の腕を上げるとその赤黒い手を翼手にかざした。すべての指が張り詰めたようにまっすぐにそろえられ、外見だけではない鋭さを内包している。それは形だけではない、何よりも強固な武器であり、青年自身の持つ能力の一つだった。その能力を彼は今度はまったく身を守ることを考えず、ただ相手を倒すことだけに集中させようとしていた。白熱する純度の高い感情が徐々に青年を支配していく。かつて、女王同士の最期の闘いの折でさえ、このように激しい感情を青年は見せたことがなかった。あのとき在ったのはただ強固な覚悟と意志の力だけだった。それが。今は再び、その禁欲的に見える姿のどこにこのような激しさが潜んでいたのかと思えるほどの激情が青年を支配し、高め、昂ぶらせている。
   相手と同時に跳躍すると、青年と翼手は空中で激しく腕と腕を切り結んだ。翼手だからこその高速で、打ち合った音が重なって聞こえる。お互い同時に着地すると、彼らは再び床を蹴った。大きな衝撃音がした。二つの力と力。ぶつかり合って空気を揺るがす。先ほどまで重石のように肩に乗っていたチェロケースはすでに青年から離れていた。重さのない分、軽くなった身体はより敏捷性を増す。
   翼手の能力を発揮できる、宙を駆るべき空間はここにはなかった。二人ともただ勢いでぶつかり合う。腕力と腕力のせめぎあいだった。だが純粋な力同志のぶつかり合いは、純粋な個体能力の優劣で決まる。始祖女王の正当な第一シュヴァリエである青年と、強制的に生み出された翼手とでは個体能力に大きな差があった。
   青年の中でいつもの控えめさも、ギリギリのところですべてを出し尽くすことを忌避している部分も、すべてが吹き飛んでいるように見えた。細面の白い顔の中で、その表情はいつにもまして頑ななほど変わらない。それなのに、何かが違っていた。人間だったモノに対する哀しみも憐れみもそこには存在せず、ただその眼だけがまるで燃えるように蒼く輝いている。青年の表に出ている表情が変わらない分、余計にその目にある鋭い耀きはそのうちに秘めた感情の激しさを思わせた。
   その激しさに、挑発した翼手自身が一瞬ためらうようにわずかに後退する。時を逃さず、青年の異形の腕が激しく翼手を追撃した。その攻撃は容赦がなかった。翼手が逃げ腰になればなるほど激しく追い立て追い詰めていく。もはや先程青年を挑発した余裕は翼手にはなかった。翼手の赤く染まっている目が、狂おしくあたりを見回す。
   と。その視線が不意に止まった。青年が気がつくより前に翼手はその先に身を翻した。向かっていたのは小夜と彼の女王。二人の闘いのその場だった。シュヴァリエにとって女王の存在は絶対的なものであり、それは女王同士の闘いにおいても同様のものであった。女王同士が闘いを交えている場合、シュヴァリエは近寄らない。それが礼節なのか、それとも本能に刷り込まれているものなのか。どちらとも言うことはできなかったが、それでも二人の女王の闘い場においては、たとえ自らの女王の生命の危機に際してたとしてもシュヴァリエは己の女王の意志を尊重して決して動くことはない。
   だが今回は違っていた。始祖女王から血を分け与えられた翼手ではないせいかもしれない。翼手が取った行動は女王である小夜を襲うことだった。己の盾にするために。ちょうどそのとき、小夜は相手の女王に向かって刃物で斬りつけるところであり、見事な刃先はもう一人の女王の右わき下から入り、左肩の方へ切り上げられるはずだった。
   だが小夜はなぜだか驚愕の表情を浮かべて動きを止めていた。そのまま凍りついたようにもう一人の女王を凝視している小夜に、翼手が襲いかかった。すでに体力の尽きていた小夜には為す術もなかった。はっとなって相手の女王から剣を引き抜こうとする時間もなく、硬い腕に首と腰を固定され吊り上げられる。首が締め付けられて息ができない。少女の華奢な身体を抱きかかえながら、翼手は青年に向かって嘲笑した。
(動くなよ)
   武骨な腕の中で小夜は弱弱しく喘いだ。




   あの声。あの言い方。
   私はダーナと二人、ハジと化け物を眺めながら別のことを考えていた。聞き覚えがある。忘れもしない。最初に小夜に絡んできた、あの客の一人。小夜を気に止め、粘着質の目でじっと見ていた。それを思い出すと、ぞっとする。私も経験上、ある種の卑劣な男性が弱々しい女性に暴力的な強要をすることがあることを知っている。あの男はその類だった。
   だが彼は死んだはずだった。別部屋に死体は安置されているはず。それなのにまるで甦ったようなこの声。態度。ミハイは一体どこに行ったのか。その代わりになぜまるであの男がこの化け物の姿を借りてそこに現れているのかのようにこの場にいるのか。私には訳が分からなかった。先ほどの支配人と小夜の会話と同様に。
   そう。私には先ほどの小夜と支配人の会話のほとんどが理解できなかった。けれども憶えている断片もある。
――今、貯蔵室に横たわっている死体――。あれは彼が最初に求めた獲物だったのだ――
   あれはどういう意味だったのか。あの男とそっくりの化け物の様子。答えが出そうで出ないもどかしさ。そんなバカなという気持ち。化け物を今この目で見ているのに、今そこに在る現実以上に怖いものがある。ああ。けれども――。
   化け物の爪がゆっくりと嬲るように小夜の頬を撫でた。首に巻きつけられた腕で半分窒息しているような小夜は嫌悪の表情を浮かべて身体をよじったものの、拘束が解けるわけでもなく、却ってその反応は相手の嗜虐心を喜ばせただけだった。舐めまわすように小夜に顔を近づけると、彼女はきつく眉をしかめて逃れようと足掻く。
(お前の女王は我々の女王よりも良い匂いがする。それにずっとやわらかくて華奢だ)
   ハジの怒りに満ちた表情の変化を化け物は楽しんでいるようだった。
(その顔。お前さんの無表情にも飽き飽きしていたところだ。――そうだ。そのまま動くなよ)
   化け物は小夜を抱えたままじりじりと後ろに下がる。このまま小夜を連れ去ろうとでも言うのか。
(おまえの女王の身を案じるならな)
   それまで無表情に怒りを内側に押し込めていたようなハジの顔に苦悩の色が浮かび上がった。追いかけなくてはならない。と私は思った。このまま小夜を化け物に連れ去られるままにしておけば、あの娘がどんな目に遭うか。考えなくてもわかる。なんとかしなければ、と焦る私の目の中にハジのチェロケースが映った。
   私は思わず駆け寄った。ハジの唯一の持ち物。この私にもわかった。これはこういう闘いの場においては彼にとって武器にして盾。これを渡してやることで何かが起きる。
   だが装飾された楽器のケースは思った以上の重量を擁し、私の力くらいではびくともしなかった。どうしてこんな。そう思いつつ、私は全力を傾けた。ハジはこのケースを軽々と扱っているのだ。
   私が黒い棺おけのようなケースと格闘していると、ホイヤーが悪態をつきながら手を差し伸べてくれた。
「あいつ、こんな重いモノをよく・・・・」
   ダーナも駆けつけ、三人で力を振り絞るとようやく重量感のある黒い物体は動き始める。
「ハジ!」
   青年の視線が私たちをかすめたかと思うとその手から何か光るものが化け物に向かって投げつけられた。相手がとっさに小夜を取り落とし、顔を抑えたとき、私には立った今投げつけられたモノが鋭いナイフだったのがわかった。急に放されて、白い花びらが落ちるように小夜は床に崩れ落ちようとしている。化け物は苦悶のうめきを上げてナイフを引き抜き、怒りをぶつけるように小夜に向かって腕を振り上げた。
   その瞬間だった。ハジは風が舞うように私たちの傍らを駆け抜け、同時に私たちが差し出していたチェロケースを受け取ると化け物に向かって投げつけた。私たちが総出でなければ持ち上げることさえもできなかったその重さを、彼は片手で扱った。そのことそのものよりも、その行動の中に潜む彼の激しい意志と感情に私は圧倒されていた。
   何かが潰れる嫌な音がした。血液がそこかしこに飛び散り、華奢な小夜の崩れ落ちる寸前の身体にもはねる。けれども次の瞬間、小夜はハジの腕の中にいた。いつの間に移動したのだろう。一瞬一瞬が間断なく立ち現れ、間がない。ほとんど見えないくらいに。ハジの動きを見ているとそんな思いにも駆られる。それなのに、この生と死の狭間の刻(とき)、私にはそれらがはっきりとわかった。だが肝心なのは小夜が無事だということだった。青年の腕の中で、たった今危機から逃れた少女は半分気絶しているようだった。いつか見た光景。腕の中の白い花。
   しかし私がはっとしたのは、チェロケースの下でまだ化け物が生きている兆候が見られたことだった。ハジのチェロケースは彼の左上半身を押しつぶしていはいたが頭の直撃はなされず、それほど時間をおかずに化け物の右手が床をひっかくようにしているのを私は見た。押しつぶされたはずの片身が少しずつ盛り上がってきている。
   ハジは気がついているのだろうか。だが彼は自分の腕の中の小夜を守るように背中を向けているだけだった。異形の右腕が上がり、チェロケースを押し上げようとしている――。
「危ない!」
   私は叫んだ。同時にハジが顔を上げた。チェロケースがごとりと音を立てて床に落ち、化け物は右腕を支えにして身体を起こそうと力を籠めた。肩が浮き上がり、半ば潰れたような頭がゆっくりともたげられる。私は身体の中を冷たい戦慄が走りぬけるのを感じながら息を呑んだ。
   だが化け物が起き上がる寸前、その右腕と首が鋭利な刃物で切断されたように綺麗に胴体から離れていた。ぐちゃりという嫌な音と共に、化け物の頭が転がり落ちる。ダーナが小さな悲鳴を上げていた。私は喉が詰まって声が出ない。血が。噴水のように吹き出された血が、徐々に収まり始めていた。


   いつの間にか小夜を抱きかかえたまま向きなおったハジが起こした容赦なく苛烈なその行動は早すぎて私の目には現実とは映らなかった。ハジの手。まるで化け物そのものであるかのような手が、その恐ろしい行為を為し得たのだ。その理解は私にどこかしらぞっとするものを運んできた。ハジの一見静謐な外見とその両の手があまりにかけ離れた存在だからかもしれない。
   けれどもそうして一瞬の激情を表出した後、ハジは元の通り感情を抑えた静かな表情に戻り、小夜のぐったりしている身体を再びすくい上げるように抱きしめた。ただいたわりと、深い想いに満ちた行為。どんなカップルでもいくらかは存在する駆け引きや所有欲というようなものがまったく存在しなかった。その姿はこちら側から見ていても胸が痛くなるような純粋でどこか悲哀に満ちたものだった。
   私はただ黙って二人を見つめていた。









以下、続く。。。



2012.08.17

  とりあえず。戦闘シーンは終了。後は2話かけてのエピローグ作業に入ります。最終話がね。なんだか難しいのです。こんなに苦戦するのは初めて。大したことは書いてない筈なのに。。
   でも。ハジ小夜は書いているだけで楽しいものです。ただ、今回はそれ以外の人物たちを動かさざろうえなくて。そちらの方が加減がわからずに、結構大変でした。オリキャラだけだとそれはそれで動かしやすいのでしょうが、そういうわけにもいかず。さじ加減って難しい。

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