24.

  支配人の放った銃弾は小夜にもハジにも触れもせず、ただ化け物とハジの間の床に鋭い音を立てて着弾しただけだった。だが次にホイヤーに向かってその銃弾が構えられたとき、私は初めてこの支配人が既に私たちのことなど化け物の餌にすぎなく、本当に私たちを殺そうとしているのだと実感できた。こんな化け物が現実にいることさえも実感がわいていなかったのに、私の中ではようやくにこの現実離れした出来事が、やはり現実なのだと身に染み入るようにわかったのだ。そして小夜。あの赤い目。そして、ハジの、恐ろしい両手。小夜・・・・。小夜たちも、やはり人間ではないのか。あの化け物の『仲間』だなんて――。
   けれども私の中に湧き上がっていた疑念を消したのは小夜の悲鳴だった。
「いけない!ホイヤーさん!」
   くずれようとする身体を剣で支えるようにして、小夜はこちらへやって来ようとしていた。必死な表情。自分自身のことなどどうでもいいように――。そうだった。私の見てきた小夜はいつも一生懸命だった。明るい笑顔。寂しそうな、人恋しそうな眼差し。素直な表情。そしてチェロの音。ハジの、不思議に年輪を感じさせる、静かだが深く激しいところのあるチェロの音色。
(小夜・・・・)
   ハジのチェロを聴きたいと言うと嬉しそうに笑った。地下の電機室に一緒に行くと言ったときには心配そうに反対した。そして最初に小夜の姿を見たとき。雪の中でハジと二人。降ってくる雪を手に受けてその感触を楽しんでいる様子だった。ひとつの小さな事象をいとおしげに、心から嬉しそうに。こちらの胸が痛くなるほどに。誰も見ている者がいないときに垣間見せた、あの姿が小夜の本当の姿なのだと私は思う。子どものように無邪気で純粋な――。
   だが小夜の声に反応したのは私たちだけではなかった。フロント係に照準を合わせながら、明らかに支配人は小夜の声に気を取られていた。こちら側に向かって放たれた銃弾はホイヤーを外れて私たちのすぐ脇の柱を粉砕したのだ。
   ダーナがびくりと身体を震わせた。同じように私もガタガタ震えているのかもしれない。身体が動かなかった。支配人が舌打ちする音が聞こえてくる。もう一度、彼は照準を合わせ直してゆっくりとホイヤーに狙いをつけた。
「動くなよ。ホイヤー」
「やめて! やめて、支配人さん・・・・」
   小夜が弱々しく首を振る。
「ならば君がおとなしく我々の女王の贄になってくれるか?」
「それは・・・・」
   支配人の言葉に私はひやりとした。だがその小夜の肩をハジが引き留めるように支えている。無言のままに、決して小夜を向こう側には行かせないという意志を彼は発していた。支配人はそれを見て鼻で笑うようにして再び引き金に指をかけた。彼にとってはあの化け物も、小夜の赤い目も、ハジの異形の両手も、なんの意味もなしていないのかもしれない、と私は思った。同様に私たちの命も。
   ホイヤーも私もそしてダーナも、為すすべなく身体をこわばらせたまま次の出来事を待っていた。ホイヤーが撃たれれば次は私たちかもしれない。どのみち支配人は私たちを生かしておくつもりなどないのだ。
   そして視線。小夜だけではない。私も確かに感じていた。誰か私たちを見つめている別の視線を。支配人の昏い瞳ではない。遠くで見つめている、感情の無い非人間的な眼。それは私たちの命にまったく関心がないくせに、これから起こる出来事を興味深々に見つめている者の目だった。引き金がゆっくり引かれようとしている――。
   だが銃声がとどろく直前に、派手な音を立てて床が割れた。私は呆然とそこに突然現れた物体を見る。まるで床に生えているように直立しているのは、先ほどまでハジが背負っていたはずのチェロケースだった。化け物の鋭い爪さえはじく棺のようなケース。一瞬支配人は棒立ちになった。次いで自分が揺るがされたことに怒りを感じているように、それまで無表情だった顔をゆがめて小夜に向かって銃口を向けた。
   私が驚いたのはその瞬間をホイヤーが逃さなかったことだった。視界を遮っているわけではなかったが、ハジのチェロケースが二人の間を邪魔していたことも有利な点だった。ホイヤーは役に立たない銃をしっかりと握りしめたまま、チェロケースに体当たりした。大型の重量感のある楽器のケースはゆっくりと支配人に向かって倒れこんでいった。驚いた支配人が避けようとしたところに掴みかかり、そのまま揉み合いになる。見ているうちに私にはわかった。ホイヤーは支配人から銃を取り上げようとしているのだ。
   やせこけてはいても支配人の腕力はホイヤーと同等だった。自分の銃を投げ捨てて、相手の銃をホイヤーが掴んでこちらに奪い取ろうとすれば、そうはさせまいと支配人は抱え込もうとする。ホイヤーの方はそれを無理やり身体で押さえようとして、バランスを崩したまま二人は地面に転げ落ちた。ごろごろと転がりながら、ホイヤーは拳を握り締めて支配人の顔を殴りつけようとしたが、逆に銃の台尻で殴りかえされ、反射的に顔をかばったホイヤーは一瞬体勢をくずした。そのすきを見て、支配人が起き上がろうとする。そうはさせまいとホイヤーは身体ごと支配人を押さえ込もうとするのだが、その力は横に流されて再び体勢が崩れ、そのうちどうした拍子か支配人の腕から銃が飛び出して、投げ捨てられていたホイヤーの銃にぶつかって音を立てた。
   はっとなって二人ともそちらの方へ顔を向けた。ホイヤーがすかさず銃を蹴り飛ばす。二挺の銃は磨き上げられた床をすべり、壁際に向かってすべっていった。
   私たちが固唾を飲んで見守る中、二人は同時に銃に向かってダッシュをかけた。




   青年の腕の中で、支配人の銃弾から守られた小夜は、支配人が今度はホイヤーに向かって銃を向けるのを見て身震いした。自分の目の前で、また人の命が失われてしまう。思わずホイヤーに向かって叫んだ後、少女はそちらに向かって駆け出そうとしたが弱っている足元がふらつく。そのときハジが動いた。彼はそれまで背負っていたチェロケースを無言のままに肩から外し、その重量のある物体を勢いをつけて投げつけた。翼手の力があるからこそできる離れ業だった。チェロケースは特殊なもので、地上数百メートルから落ちても傷一つつかない構造になっている。
   だが同時に翼手が再び少女目指して跳躍した。翼手の名の通り、空を飛ぶようにすばやい動きに、今度は少女の身体のほうがついていけなかった。既に少女は体力を根こそぎ奪われて、今は気力だけで立っているような状態だったのである。どこかで軽やかな笑い声が聞こえたような気がした。
   はっとなったハジがかばうように小夜の前に一歩出た。チェロを手放した青年は、身を守る盾になるものがないまま、その身体とその腕だけで翼手の前に立ち塞がっている。翼手が肉薄する直前。わずか半歩の助走の後、彼は翼手に対して身体をぶつけるようにしてその猛攻から少女を守ろうとしていた。
「ハジ!」
   傷は大きなはずだった。最初に支配人の銃に撃たれた肩と先ほど翼手にやられた腹部の二か所。長期間栄養摂取もしていない。それでも翼手の回復力は女王の危急のときにはことさら青年の身体を短い時間のうちに繕い、肩の傷はもちろん、腹部の傷さえふさがり始めていた。シュヴァリエは女王を護るために存在するのだ。運命でもあり、心からの願いでもあるその存在の形に、少女は身を切られるような切なさを感じていた。地面に引きずり込まれそうな衰弱に見舞われながら、青年の闘う場と、一方で支配人とホイヤーが争っているさまの間に立ち、剣を握り締めて一瞬どうすれば良いのか小夜は迷った。翼手が狙っているのは明らかに自分だということがわかっている少女は、自分がホイヤーやマリエラのところへ行くことによって翼手をそちらに引き寄せることを恐れたし、自分に残されている体力があと一撃ほどしかないこともわかっていた。どうにもできない焦りが少女をさいなむ。
   そのとき、まるで地面から響いてくるような声で少女にだけ聞こえるようにささやく声を小夜は聞いた。
――小夜。――
   とたんに帳が落ちるように、周囲の世界が一変した。ハジの姿もマリエラたちの姿も、すべてが薄闇の中に遠く霞み、代わりに闇のように暗い世界が少女の前に開けた。
(何?)
――小夜――
   白い姿がそこに在った。
(あなたは――)
   その女王は小夜ににっこりと微笑みかけていた。
――いらっしゃい。小夜――
   絡め取るように誘って、それは翼手の女王の、誘惑者としての姿を体現していた。
――あなたと私。私とあなた。私たちはひとつになるの――
『いらっしゃい、小夜姉さま』 記憶の彼方で誰かがささやく。ディーヴァ、と小夜は小さく囁いた。目の前の彼女ではない、ずっと昔に時間の中に失ったもの。同一でありながら、また正反対でもあり、敵であり、心を分けた友だった時もあった。たったひとりの妹。
――さあ。小夜――
   白い姿が手を差し出す。たおやかで優美な仕草で伸ばされた手に少女は首を横に振って後ずさりした。
「いや――」




   突然小夜の姿が動かなくなったのを、翼手と対峙していたハジは気配そのもので感じ取った。シュヴァリエとしての本能のようなものが少女との強固な結びつきとして青年の中に存在している。それが青年の中の危機感に警鐘を鳴らしていた。小夜が危ない。背中で感じている異常に、だが青年は反応することができなかった。青年の両手は未だに翼手にがっちり押さえられ、食い止めねばならない攻撃と守らねばならない己の女王と、二つの対象に引きずられて意識せずに力の分散が避けられなかった。恐らく翼手もそれを感じ取っていたのだろう。ここぞとばかりに青年にかかる力がどっと増えた。
   筋肉の活動量と重量の負荷。どちらも一歩も引いていない。
(どうした――?)
   頭の中に正気を失っているはずの相手の声が響いていた。
(それだけなのか。人間の形を保ったままで存在するお前と、身体中すべてが化け物の俺と。一体どちらが強いと思う?見せてみろ。純粋な女王から血を分けられ、化け物となった女王の第一騎士の本当の実力を)
   青年の蒼い目の中に、静かに静かに、強い焔のような意志の力が生じ始めた。




――さあ小夜、私の中にあなたを――
   そうすれば永遠の安らぎを手に入れ、共に存在できる。淋しい寂しい貴女。そんな淋しさも、悲しさも、皆忘れてしまえる。私たちがひとつになれば――。
「・・・・ちがう――」
   少女はつぶやいた。
   ひとつになることを望んでいいのは、一緒に居たいと望んだのは、あなたじゃない。
   黒い髪。寂しさを隠した美しい歌声。蠱惑の目。その相手をこの手で殺し、共に滅びの道へ戻ろうと長い間望んできた。
   炎、死体、真っ赤な血。戦闘機の轟音の中、目がくらむほどの光。血。おびただしい血。
   響く歌声。雨と雷鳴の中。映し出される刃の先。二人の赤ん坊。
   小夜姉さまはずるいよ・・・・。
   あの娘は、ただ、家族が欲しかっただけなのに――。
「あなたは、ディーヴァじゃない」
――そう。私はあなたの妹ではない――
   彼女の微笑みが深くなった。
――でも、もう遅いの。あなたのすべては私のもの――
「ちがう! 私は――」
   さよなら、ディーヴァ。もうひとりの私・・・・。
   それならば。なぜ、あの闘いがあったのか。あの死が、別れがあったのか。一緒に逝こうと決めていたのに、なぜ、生きようと、生きてみたいと思ってしまったのか。こんなことのためじゃない。ここで囚われるためじゃない。自分が今、生きているのは・・・・。
「行かない。私は。絶対に」
――言ったでしょう? もう遅いの。あなたは私のもの――
   残っていたすべての力が引き抜かれていく気配がする。そのおぞましいほどの感覚に、少女は必死で抗おうとした。




   ホイヤーは支配人が嫌いではなかった。この辺境の地にふらりと現れた自分を雇い入れてくれたことに感謝していたし、こんな風に地域性のある場所にしては働きやすい職場でもあった。居心地が良かったのである。だからこそ友人を料理長として呼び寄せることさえやったのだ。あの神経質そうな外見と裏腹に支配人は何事にも鷹揚で、判断力に優れていた。一言で言えば、信頼するのに足る人物だったのだ。それらすべてが演技だったのだと。
   マリ・シールの変化。そして料理長の死。ミハイ。すべてがこの支配人が後ろで糸を引いていたのだ。誠実そうな顔の裏で、人間ではない存在の側に心を寄せていたということなのか。相手を信頼させ、最後には裏切る。それはホイヤーにとって絶対に許すことのできないことだった。激しい怒りがホイヤーを掻き立て、それが燃料となって彼を支配人に立ち向かわせていた。
   細い体のどこからこんな力が出るのか、支配人はホイヤーと同様の瞬発力を見せ二人は同時に銃にたどり着いた。どちらかが支配人の銃で、どちらかがホイヤーが持ち出した銃。一方が使用可能で、一方が使えないもの。どちらがどちらなのかわからならないまま、二人とも二つの銃を抱えこみ、両方ともに自分のものとしようと争い合った。二人とも互いに一歩も引かなかった。渾身の力が振り絞られる。その緊張が頂点に達したとき、それがはじけるように両者を放し、二人とも勢い余って後ろにもんどりうった。転がりながら、二人とも自分の手の中にそれぞれ一挺ずつ、どちらのものかわからない銃が握られているのに気がついた。
「これは・・・・」
   支配人は呆然としたようすで自分の持つ銃を見つめてつぶやいた。彼にも自身が手入れをして使えるようにしてきた銃がどちらのものか判断できなかった。ホイヤーの持ち出してきた銃は彼の銃と全く同じ型のものであり、型番とシリアル番号を確認するには目の前の相手をどうにかしなければならないという矛盾した状況に今は陥っていたのである。
   優位に立っていたはずの支配人のわずかな困惑ぶりを見てホイヤーはにやりとした。
「これで同条件だな」
   そう言うと、彼はゆったりと銃を構え、支配人に照準を合わせた。先ほどとは逆の展開だった。
「そんな暴発するような銃で何をしようと言うんだね。わざわざ自滅するようなことをして」
「ごまかしは効かない」
   ホイヤーは支配人がこの期に及んでも言葉で状況を動かそうとしていることに腹を立てていた。
「あんたにも、そっちかこっちか、どちらの銃が暴発するかもしれないなんて今はわかっていないんだろう。――おっと。調べようとしても無駄なことだ。その前に俺がこの銃を撃つからな」
「ホイヤー。君の銃がそうかもしれないんだぞ。まさか君に自殺願望があるとは思わなかったよ」
「だがそっちの銃がそうかもしれない。もしもこの銃の方がまともだったら? あんたの負けだよ」
「君が賭け事が好きとは思わなかった」
「そうかい? 俺は昔、相場師だったこともあるんでね。運は強い方だ」
   事実とは異なる強がりを口にしながらホイヤーは相手を挑発した。暴発する銃で死ぬのも、このまま支配人の思い通りになって化け物に殺されるのも、まったく運命の不幸な巡り合わせの結末でしかない。だがもしも相手を道連れにできるのならば。賭けられる元手は限られている。それでも今はそれしかできることがホイヤーにはなかった。料理長の不運も、ミハイの憐れさも、代金はきっちりと支払ってもらうべきだった。
   支配人の顔が奇妙に歪む。
「ホイヤーさん!」
「ホイヤー、やめて!」
   マリエラとダーナの声を聞きながら、ホイヤーは自分が自身の運命を決める言葉を吐くのを聞いていた。
「さあ。構えてもらおうか」
   あれだけ優位な立場にある者の口調で話していた支配人が、ホイヤーの言うとおりにのろのろと腕を上げて銃を構える。
「勝負だ」
   次の瞬間、銃声がとどろいた。









以下、続く。。。



2012.08.03

  終わらない。。。。とつぶやきつつ書いている今日この頃。
   あと3話。そしてエピローグ的な最終話は9月に入ってからになるかと思われます。。(まだ推敲中。。。中々終わらずにすみません。。)これが終わらないと次に進めない。。短い話を書くにしろ、また長い話を作るにしろ、あるいはジョエル話の続きを書くにしろ。とにかく『冬声』を終わらせなくては。。。

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