21.

「お願い、ミハイさん! 目を覚まして!」
『小夜――。ダメだ。もうダメだ。俺はもう・・・・』
   それから彼は狂ったように笑い始めた。
『ああ。血が飲みたい。飲みたくてたまらないんだ。邪魔をするんだったら、あんたでも容赦しない』
   言うなり彼はマリエラとダーナに向かって襲い掛かってきた。小夜が身体を翻すように二人の間に立ちはだかる。翼手の鋭い爪を二度、三度と受け止めてから小夜はニ、三歩助走をつけて飛び上がった。腕力を跳躍力で補い、上から押しつぶすように剣をひらめかせる。その跳躍力は人間以上のものだった。少女の持つ異形の能力に気がついたものがいただろうか。周囲の者達はマリエラとダーナを除いて、翼手の存在から出来るだけ距離を取ろうと、障害物のある展示室の隙間を押し合いへし合い移動しているだけだった。守らなければならないと思い定めた存在を背に、少女の華奢な身体をその外見に合わない気合が包み込む。
   だが相手は少女が把握していた通りシュヴァリエ並みの能力の持ち主だった。打ち下ろされた少女の太刀筋を髪の毛一筋ほどの差で躱すと、今度は少女に向かってその鋭い爪を横に振り払う。少女の方もきわどいところでそれを躱して再び両者はにらみ合った。一瞬遅れて青年が翼手に向かってチェロケースを振り下ろす。その重量感のある武器の道筋を腕ではじくようにして相手は逸らせた。
『一対二か』
   翼手の声は頭に響き、少女は再び獲物を握りしめた。その声は、まだ人間だったときのミハイの声だった。だが
『だが生粋の女王とその第一騎士とは、相手にとって不足はない』
「ミハイさん――」
『その名は既に遠い響きだ。解放されたからにはもう俺は俺であって俺でない』
   その声の響きはミハイとはまったく異なった人格の響きだった。
「ダーナが言ってた。ミハイさんには家族があるって。戻るべき家があるんだって。どうして・・・・」
   やりきれなかった。どうして再びこんなことが起こるのか。あのときの心配そうな顔で自分を見ていたミハイが、今はしゃべり方すら異なり、別の存在、別の人格をまとっている。
「私の・・・・せいなの?」
   夢の中の言葉。
「私がここに来たから?」
   貴女がここに来たから私は自由になったのよ――。夢の中でもう一人の女王がささやく。だったら私は――。
「小夜!」
   青年の声で我に返り、少女ははっとしたとき、すでに目の前に翼手が肉薄していた。鋭い爪が少女を襲ったとき、青年は少女を引き寄せるようにして身体でかばった。
   ぎりりと金属音がした。翼手の爪は青年が背中に背負っていたチェロケースをすべり少女をかばって反転させた青年の身体を掠めるようにした。青年の黒衣が千切れ、わずかに血の匂いがする。
「大丈夫です」
   小夜が小さく息を呑みこんだのに対して青年は何事もなかったように答えながら、背中に少女をかばった。青年の中に徐々に圧力のようなものが湧き上がってくる。翼手の、闘いへの希求。青年よりも少女の方がそれに対して敏感に反応した。
「ハジ!」
   ダメ、とも良いとも言わず、ただ一瞬黙って見つめ合った。その一瞬の間が何かを引き寄せる。
「!」
   少女が身体をひきつらせた。
「・・・・っ。歌が・・・・」
「小夜――」
   ハジには聞こえていない。だが小夜にははっきりと聞こえていた。翼手の声。女性の声。響き渡り、語りかける歌。
「誰・・・・なの・・・・?」
『聞こえているのだね、小夜』
   答えたのは目の前にいる相手だった。
『たとえ、異なる血の持ち主であっても、女王は女王に反応するんだな。うらやましいことだろう? ハジ。たとえ第一騎士であってもそこに介在することはかなわない』
   だが青年が応えることはなかった。歌声が聞こえると同時に小夜の身体から活力が失われ、まるで晴天にうす雲がかかったように一気に少女の影が薄くなる。ふらついた身体を支えながら、こちら側を見つめる青年の瞳がより一層蒼々と光を放っていた。
   その純度の高い怒りと警戒を相手は面白そうに見つめている。
『もうすぐだ。もうすぐ出現するんだよ、我々の主たる方が』
「どう・・・・いう・・・・意味?」
   青年の腕の中で息も絶え絶えとなりながら、少女はつぶやいた。
『招かれざる女王の力を摂り、己が活力として目覚める。たとえ仮初であっても』
   かつてミハイだった存在は憑りつかれたように訳の分からないことをつぶやいた。さらなる狂気。かぶっていた人格そのものすら、揺るがされ狂わされ――。
『仮初の女王。仮初の騎士。我々はそのように作られて、そのように生かされる。共に在り、共に生き。それが女王と騎士の運命――』
「何を・・・・言っているの?」
   既に相手は自分が小夜たちと争っていることも、目の前の人々の生き血を欲していることも、目に入っていないかのようだった。
『我々は待っている。我々の女王がその姿を見せるときを。その姿を。その声。その言葉を』
   言葉の中に忍び込んでくる狂想の影。それに気がついて小夜はぞっとした。何が起こっているのか。そして何がこれから起ころうとしているのか。
『女王のために、我らは在る――』
   その言葉はかつて実の妹であるディーヴァのシュヴァリエが語った言葉だった。そしてまた、自分のシュヴァリエであるハジの――。女王の存在。女王の意志。他者を縛り、己が意志に結びつけ。だとしたら、女王であることは何と罪深いことなのだろう。少女は唇を震わせた。肩を抱いている青年の手の力が強くなる。
『ああ。俺・・・は・・・・』
   人格が溶解して、まるで獣のようになってくる。それは――。かつてあった、ディーヴァの強制的な眷属。薬害翼手の在り方にも似て――。
「だが歪んだ存在は女王にとって負なるものにしかならない――」
   新たな声が背後から投げ掛けられ、小夜がはっとなった次の瞬間。空気が暴発したように轟音がとどろき、目の前の翼手の胸にぽっかりと大穴が開いた。
「支配人!」
   ダーナが驚きに叫ぶ声を少女は遠くで起きた出来事のように聞いていた。




「みんな、下がって。またすぐに復活するぞ」
   支配人は鋭い声で銃を振りながら言った。その顔は紙のように白く、そして何の感慨も映しておらず、切迫した声とは妙にかけ離れていた。
「ぶ、無事だったんですね」
「話は後に。まず皆をここから逃がすんだ」
「え? どこへ――」
   皆の気持ちを代弁するようにダーナが戸惑いながら言った。彼らは今やっと食堂から逃れてきたところだったのだ。古いことを売りにしているようなこの建物の中で、他に逃れられるような広い場所などない。第一、ここは元々建っていた建築物に数回にわたって改装を施してあるのだ。建物全体をわかっているのは支配人以下限られたスタッフだけだろう。そんな中で一体どこに行けばいいのだろうか。支配人の姿を見たときにこれほど安心したのは、その指示がもらえるだろうと無意識に期待したからだった。
   だが支配人は無情だった。
「どこでもいい。もうここは安全じゃない。私はここで足止めする。いいから建物から外へ出るんだ」
「そんな――。外は吹雪なんですよ」
「それでもここに皆がいるよりはずっとましだ」
   言うなり、彼はもう一度、翼手に向かって銃を放った。聞きなれない轟音にダーナが耳をふさいで後ろに下がる。この素朴な少女の目の中に、幾ばくかの怯えの色が浮かんでいた。それは今の大型の銃声によるものだけではない。支配人の目の中に今まで見たこともないような光を見つけたからだった。狂気とも違う。だが完全に普段の彼とは異なった偏狭的な光がそこにあった。
   ダーナは無意識に首を振っていた。
「あんたがここの責任者なんだろう? だったら――」
「私は言ったはずだ。ここから出て行くんだ、と。それが責任者としての私の指示だ。従わないのならば――」
   次の支配人の行動にその場にいた者たちは後ずさった。彼はなんと、翼手に向かって構えていた銃を、逆に客である彼らに向かって銃を突きつけたのだった。
「みんな、今すぐにこの建物から出て行くんだ」
「そんな・・・・」
   どうしろって言うんだ。この天候で、出て行くなんて無理だ――。誰かがそうつぶやいたとき
「復活するぞ!」
   翼手の手がぴくりと動いた。二度の打撃にもかかわらず胸の砲弾跡がみるみるふさがり、瞳が再び赤々と輝きだす。
「ここから出るんだ!」
   支配人の言葉や銃よりも化け物の動く姿の方が、説得力があった。我先にこの部屋から出ようとする者、出てはみたもののどこへ向かえばよいのかわからずに二の足を踏む者、混乱が巻き起ころうとしたとき
「食堂だ。食堂へ戻れ!」
   ちょうどのタイミングでそのとき誰かが叫んだ。
   その声に反応したかのように残った者達はいっせいに展示室から食堂の方へと逃げ出した。翼手が身体を起こすのが先か、この部屋から出られるのが先か。そして銃を手にした男。
   踏みつけられる者、突き飛ばされる者。訳のわからない声を上げ、逃げ出していく者たち。それでも逃げ出そうとしている者が皆この場から立ち去れたのは、人数がそんなにいなかったからだった。
   後に残っていたのは支配人と小夜とハジ。震えながらも踏みとどまっているマリエラとダーナ。そして――。いつの間に戻ってきたのか、フロント係のホイヤーの姿がそこにはあった。




「ホイヤー。君だったのか」
   残ったメンバーを見つめ、そこにホイヤーの姿を見つめると、支配人はやれやれ、と言った風に首を振った。
「なんでまた、食堂になど。あそこは危険だとわかっているはずだ」
「そうだろうか。俺にはこちらの方がよほど危険だと思うんだがね。支配人」
   ホイヤーは油断なく身構えながら支配人をにらみつけていた。ホイヤーの顔は怒りと恐れに満ちていた。そして覚悟を決めた者の顔だった。一体何を?何のために?どうして? 私はそのとき、ホイヤーの友人である料理長がミハイの変化した化け物に殺されていたことを知らなかった。
   支配人は銃を持っていたが、いつの間にかホイヤーも負けないほど大きな猟銃をどこからか持ち出していた。
「よく。思いついたな。武器庫にそれがあると」支配人はホイヤーの手の獲物を見ながら言った。
「だが、あそこの銃は手入れをしていない。暴発するぞ。この銃を除いてはね」
「どうしてだ、支配人」
「何だ?」
「なぜ皆をここへ集めたんだ」
「なぜ、だって?」
   その言い方が不自然で私はひどい違和感に襲われていた。支配人の雰囲気ががらりと変わっている。先ほどまで必死の形相でここから出そうとしていた支配人が、今は化け物が起きてこようとしているこの状況で、余裕どころか唇にはかすかに皮肉な笑みさえも浮かべていた。
   神経質そうだが誠実に見えた支配人のどこかが別種のものに変化しているようだった。
「ここへと皆を連れてきたのは君じゃないか」
「違う!あんたが言ったんだ。何かあれば展示室へ逃げるようにと。ここに何がある? そして今、なんで展示室から皆を遠ざけようとした?」
「何を馬鹿なことを。こんな状況で、誰かのせいにしたいのはわかるが、偶然起こったことをそんな風に責められる謂われはない」
   誰かのせいに――。その言葉で私の中に思い浮かぶことがあった。マリ・-シールのこと、ミハイのこと、行方不明になった男のことも。最初に吸血鬼という言葉に反応したのは誰だったのか。誘導されたのは誰だったのか。
   支配人は続けた。
「それに。私は化け物から皆を守ろうとしてここにいるというのに――」
   言いがかりもいいところだ。――彼がそう言ったとき
「危ない!」
   化け物が、まるで操り人形が立ち上がるときのように、がばっとその大きな身体を起こした。存在するだけで威圧されてしまうその巨体にダーナが悲鳴を上げる。
   その声に反応したのか、化け物はダーナ目がけて襲い掛かってきた。
「ダーナ!」
   思わず私はダーナを庇うようにして身構え、見たくないものを見ないように目を固くつぶって来たるべき衝撃に備えた。
   だが覚悟していた衝撃は襲ってこなかった。誰かが私たちの前に走り出て、かばうように立ちはだかったのだった。金属が擦れる音がした。二度、三度。気合を込めた小さな雄たけびに私はうっすらと目を開けてみた。
「小夜!」
   そこには刃物を握り締め、あの化け物と同じように真っ赤な瞳をした小夜がいた。こんなときなのに、私はその繊細な脆さを内包したような力強さに一瞬見惚れた。全身を鋼のように堅く張り詰め、小夜はこんな少女のどこにそんな力があるのかと思われるほど、見た目以上の強靭なばねで化け物の猛攻をやり過ごしていた。隙のない、闘いに慣れたその動きは踊りでも踊っているように無駄なく滑らかだった。
   小夜が化け物を私たちに近づけまいと、一歩も引かない意志の力で対峙している。私たちから押し戻そうと、じりじりと小夜は前に距離を詰めていこうとしていた。
   けれども疲れているのだろうか。先ほど食堂で見たときのような元気も、刀の切れ味も異なっているように見える。覚束ない足元と上がる息をようやく堪えて小夜は諦めずに何度も剣を握りなおしていた。それを見た化け物が今度は自分も伸び上がるようにして小夜に向かって爪を落とす。自分自身に打ち下ろされるその猛攻を、小夜は目をつぶることなく、まるで待ち構えているかのように見つめていた――。私は思わず息を呑んだ。
   だが、ぎりぎりのところでそれを受け止めたのはハジのチェロケースだった。あの重量感のあるチェロケースを、信じられないことにほぼ片手で扱いつつ、彼は小夜をかばって踏みとどまっていた。それと見た化け物は、今度は標的をハジに変えた。
   恐らくハジの動きは小夜をかばうことで大きく制限されているのだろう。その鋭い爪を駆使した化け物の攻撃を、ハジはチェロケースで防ぐのが精一杯のようだった。化け物はその体重を利用して彼を押し返そうとし、ハジは荒く息をついている小夜がその息を整えるまで、繰り出されるその熊手のような腕を自分の身体ごと盾のようにして踏みとどまっていた。
   梃子でも動かないその様子に化け物の方が痺れを切らしたのだろうか。相手は右手でハジの支えていたチェロケースを無理やりがっちりと掴むと彼ごとそれを引き倒そうとし始めた。そのときだった。不自由な体勢で上げられたハジの右手が内側から弾けるように変化していくのを私は見た。
   赤黒い皮膚。内側から食い破られたように所々人間の皮膚が垂れ下がっている。そこに表れたのは、人間ではないものの手。まるで化け物――。それは鋭い爪と硬質な皮膚を持った、あの化け物とそっくりの手だったのである。
   ハジの他の面が、瞳を含めてそれまで保っていた人間のものだったからだろうか。余計にその対比は目につき、私は自分が何を見ているのかわからなくなってしまった。なぜ小夜の目が赤いのか、なぜハジがこんな手を持っているのか。小夜があの化け物と同じような目を持っているならば、一緒にいるハジが、どこかに化け物と同じ要素を持っていてもおかしくはない。答えは出ているのにもかかわらず、私はそれを認めたくなかった。人間ではないモノ。化け物と同じモノ――。ダーナがすがりつくように私にしがみついている。
   それでも、それでも――。小夜は赤い目をしながら、私たちをかばって立ち向かってくれているではないか。そしてハジは、その小夜を守っているではないか――。
   そのとき、私は支配人が持っていた銃を化け物に向かって構えるのを見た。小夜とハジがそこにいるのに。どちらを狙っているのかわからない――。化け物か、それとも小夜やハジなのか――。その瞬間、私は身体中の血液が逆流したように感じた。
「危ない!小夜!」
   思わず私は叫んでいた。









以下、続く。。。



2012.06.22(2012.7.6改訂)

  申し訳ございません。前回の更新からかなり間が空いてしまいました。。
   修正が思ったよりもきつくて。しかも体調不良が。。。
   それでもB+プチオンリー直前に更新できてほっとしてます。。。。

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