2.

  宿は、古い領主の館を買い取って改造を施したものだということだった。セントラルヒーティング。各部屋にシャワーとトイレを設置して、こじんまりしている。先ほどの食堂の客は半数以上が近所の人たちだということもその時に聞いた。一応電話を借りて、故障した車のことを借り元に問い合わせてみたが、とりあえずこの天候にお互いが動けず、天候の回復を待って引き取るなり保証するなり対応しようということになった。
   要するに私は雪に振り込められてここの閉じ込められた訳である。宿の主を含めてこの辺りに住んでいる人たちの手を借りて、とにかく故障車をどうにかしたかったのだが、私がやってきたのは表通りではなく、山道の側からだったようで誰もそこまで移動する手段を持っていなかった。
「雪が溶けてからだね」
   と私は言われ、取材のスケジュールはおろか、帰る手段すらあやふやになってきたこの事態に当惑していた。各方面に連絡をつけ、動けない旨を伝えてから時計を見ると、かなり遅くになってしまった。もう食堂は締まり、従業員たちも引いている。疲れた身体を引きずって、とりあえず私は部屋に戻ることにした。
   私がここにやってきたのは一番最後だったせいか、私の部屋は一番奥まった角の方にあった。隅の方が暗くなった廊下を歩いているとき、偶然すれ違ったのはあの少女だった。黒い髪、ふっくらとした口元。意志のありそうな眉。濡れたようなこげ茶の瞳。シャワーでも浴びたばかりなのか、髪が濡れてまだぽたぽたと水滴が垂れている。
「あ・・・・」
   少女の方も私に気がついたのか、小さな声を上げると会釈して通り過ぎて行った。従業員用の部屋に行くのだろう。だがそこで驚いたのは、少女が入ろうとしていた部屋に同じタイミングで、一人の男性がやってきたことであった。肩に大きな荷物を担ぎ、左手に何かを持っている。それはあのチェロの独奏者だった。二人は私が見ている前でなんのためらいもなく同じ部屋に入って行った。



「小夜・・・・」
   差し出されたドライヤーを見て、少女はほんの少し肩をすくめて微笑んだ。
   けれども青年は黙って少女の腕を引き、椅子に座らせてから髪の滴を丁寧にタオルで拭き取り、それからやさしい手つきでドライヤーで乾かし始めた。
「寒くなんてないのに」
   そう言いながらも小夜はハジの好きなようにさせていた。こうして髪を触ってもらうのは好きだった。ひんやりとしたやさしい手が、ドライヤーの熱と相殺され、心地よく地肌の間を梳いていく。
   心地よさが眠気を連れてきて、少女は髪を乾かしてもらいながらも、うとうとし始めた。その丸い頭が片方に傾いたのを見ると、青年はスイッチを切って少女の髪を梳き、ほとんど乾いていることを確認してから、その手がそっと少女の肩に置かれる。
「あっ。ごめん」
「疲れているのでしょう」
   その声はささやくようでやさしかった。もう休まれては。と言う言葉に小夜はうなずいて小さなあくびをこぼした。
「まだ慣れないから少し疲れただけ。休眠期じゃないから大丈夫」
   少女が大きめの寝台に入ると、青年は灯かりを低くして離れようとする。それを引き留めるように小夜は小さく青年の名を呼んだ。
「ね。さっき廊下ですれ違った女の人がいたでしょ? あの人ね、夕食のとき、ハジが弾いていたチェロ、気に入っていたみたいだったよ」
   ずっと熱心に演奏を聴いていたもの。だからね・・・・。微笑む少女のまぶたが話している最中にも重たげになってきた。
「良かった・・・・。ハジの演奏を気に入ってもらえて・・・・」
   私も嬉しいよ。独り言のようにそうつぶやいて、その一瞬後に、少女は安らかな寝息を立て始めた。青年の目の角がやさしくなった。その手が少女の癖のある前髪を整えるようにかすめると音を立てずに寝台から離れ、少し離れた場所に立つ。かつても今も、少女の眠りを見守るために。




   誰かが呼んでいた。
「・・・・・なの?」
   誰?
「・・・・・ってた。ようや・・・・」
   何と言っているのか聞こえなかった。風の音がひどくうるさい。
「・・・・んげい・・・・。・・・・、わた・・・・ってた」
   何か重要なことのような気がして、小夜は問いただそうとした。どうしても聞き取れない。女性の声だということだけはわかる。それも若い女のものだった。
   風は冬の刃のようにすべてのものを切り離し、紙切れのようにバラバラにする。
(誰・・・・? ・・・・まさか、ディーヴァ?)
「違う!」
   耳元で叫ばれたような気がして小夜は飛び起きた。
「小夜!」
   すぐ傍でハジの気配がしてそちらを振り向くと、心配そうな表情があった。
「なんでもない。夢、見てただけだから」
   じっとりと汗ばむ額をぬぐうと、いつの間に用意してくれたのか、ハジが温かい濡れタオルを差し出してくれた。
「ありがとう・・・・」
   こんなときに贅沢かも、と思いつつ額をぬぐい、目の上に温かさを当てると、少し落ち着いてきた。
「誰かが呼んでいるような夢だった。・・・・・一瞬、ディーヴァかと思った」
   青年の眉が顰められる。
「でも違った。あれは・・・・。あれは、誰?」
   肩に置かれた手が強くなった。小夜の様子はいつもと違っている。まるで夢に囚われているかのように――。だがその手の感触に少女はようやく現実に戻ってきたかのように目をしばたかせた。
「ただの夢だよね」
「ええ。そうです」
   そう言いながらも青年の目の中には心配の影が映っている。
「何か弾きますか?」
「大丈夫だって・・・・。第一こんな時間にこんなところで。外は今、雪だし・・・・」
   それから思い出したように笑った。
「そう言えば、覚えてる? 沖縄で目覚めた後、『赤い盾』の伝手でシベリア鉄道に乗ったよね?そのとき、ハジったら夜中までチェロを弾いていたでしょう?」
「あのときは・・・・。私はすでに人との付き合い方を忘れてしまっていたのかもしれません。あんなに目立たぬよう、空気に溶け込むように存在しようと心がけてきたのに」
「ごめん。ごめんね・・・・」
「なぜ謝るのですか?」
「だって・・・・」
「すべて。過ぎ去った昔の話です」
   そう言うと青年は少女の額に唇を寄せ、そっと触れさせた。
「休んでください」
   少女はうなずいて横たわりながら、視線だけで青年を呼んだ。跪いて差し出された手にそっと頬を寄せ。安心したかのように目をつぶる。夜は静かに更けていった。
   二度目の眠りは深く、うっすらと周囲が明るくなってきたとき少女は起こされた。宿泊施設の朝は概して早い。着替えたのか着替えなかったのはわからないほど同じ服装の青年と共に、着替えとエプロンをつけて下の食堂にきたときには、すでに厨房では料理の準備が終了する頃だった。簡単に口にできるものだけをお腹に入れて、準備にかかる。この食堂は夜は周辺の人々がやってくるものの、朝は宿泊客のみであり、今日は昨日の最後にやってきた女の人を含めて6名ほどしかいなかった。
「小夜。これを・・・・」
   青年が差し出したのは自分の分の朝食だった。彼は摂る必要がない。代わりに少女がこっそり食べるのだ。人間と一緒にいるときに不便なのはこういう時だった。それでも何とか彼らが朝食を終え食堂の仕度ができた時分、客が降りてきた。
「あ・・・・」
   小夜は昨日、青年の演奏を熱心に見ていた女の人の姿を見かけると、嬉しそうににっこりとほほ笑んだ。




   少女は私の姿に目にとめると人懐っこく笑いかけてきた。無邪気な微笑みだった。私も同じように微笑み返して席に着くと、彼女は急いでやってきて定番の十字の印の付いたパンとバター、それからチーズと果物を机に並べると
「お飲み物のご注文は?」と訊いてきた。
「コーヒーをお願い」
   急に再び好奇心が頭をもたげる。昨晩、この娘はあのチェロを弾いていた青年と同じ部屋へと入っていった。兄妹? 恋人? 疑問が疼く。だが悪い感触ではない。
   しかし、この朝は時間がなかった。少ないとは言え、給仕は彼女ともう一人の女の子で回さなければならず、あいているお皿を下げたり、飲み物のお代わりを聞いたり、やらねばならないことはたっぷりあった。
   ようやく食堂全体にゆったりとした空気が流れ始めると、今度は彼女たちは別の仕事に取りかからねばならなかった。後かたづけと掃除である。こんなにじっくり宿屋の従業員の様子を眺めるのは初めてだった。忙しそうではあったが、あの娘はなんだか楽しそうに動いている。働くことが嬉しくてたまらないという感じだろうか。時折、物を落としそうになったり、不器用そうにモップを絞っていたりしたが、そう言うところも微笑ましい。
   まだ宿泊客がゆったりしている食堂には、まだ彼女たちの掃除の順番ではなかったようで、三々五々彼らが部屋へ引き取っていき、私もそろそろと腰を上げようとしたときに、少女たちが掃除用具を持って入ってきた。私がいるところから一番遠い隅から掃除が始まる。
   時々もう一人の従業員の女の子と談笑したり、何かを教えてもらったり、ころころと表情が良く変わる表情に、私は生まれてすぐに別れた娘を思い起こした。すると不意に少女がこちらを向いて、私と目があったとわかるやにっこりとほほ笑んだ。つられるように私も微笑み返してみる。自分から笑いかけたくせに、少女は驚いて照れたようにもう一度笑うと会釈して仕事に戻っていった。
   私はゆったりと自分の部屋へ帰った。途中で外の様子を見てみたが、雪は相変わらず降り続いて昨日来た道さえも分からなくなっている。降り止みさえすれば、人力の雪かき作業が始まってもしかすると街への道も通じるかもしれないという支配人の言葉が私の聞いた唯一の明るい言葉だった。それまでこの宿に閉じ込められるのかと思うと気が滅入ってくる。なるたけ考えないようにしようと思っていたが、これで取材の予約も、記事の掲載も流れてしまう。私の実績には手痛い打撃となることは確実なのだ。休暇と考えても割り切れない部分をどうすればよいモノやら。
   荷物の整理をして、この前から書き溜めておいた記事の整理をつけてしまうと、あとは何もやることはなくなった。この年になると、何かをやっているのが当たり前、変に時間が余ると何をやってよいのかさえわからなくなる。手持無沙汰に窓の外を眺めてみると、激しくはないが降り止むことのない雪が、上空からふりまかれたビラのように何か特定多数へのメッセージを込めて落ちてくるような気がした。
   私の部屋は奥にあり、窓は表側には向いておらず、むしろ裏庭の作業小屋の方がよく見えた。白い雪の中にひときわ目立って黒一色の男が歩いてくる。昨晩、見事な演奏を聴かせてくれた独奏者だった。こんなところで何をやっているのだろう。昨夜と異なり、たった一人でこうして歩いている姿を見ていると、彼はまるで自分以外の人間が全く存在しない世界をただ独り彷徨っているような、そんな雰囲気を感じさせる。それは雪の中を歩く彼の歩き方がしっかりと踏みしめられているくせに、全く周囲にも自分自身にも関心を持たず、ただ歩くだけが目的の、どこか空虚さを醸し出しているように感じられるからかもしれない。
   だがそのとき、もうひとり、後を追ってきた男が彼を呼び止め何か焦った様子で彼に話しかけた。彼は穏やかな顔のままで首を振っていたが、話し合いをしているうちにやがて首を縦に振り、その様子を見て男は明らかにほっとした様子で急いで戻っていった。
   その様子を見送ってから彼は作業小屋の隣に置いてあったシートを取り除き、その下から薪を下ろして手早く一抱えほどもある束を二つ作り上げると両手で軽々と持って引き返し始めた。楽器を扱う手はあんなに繊細であったというのに、その落差に驚かされる。私は目で彼の戻っていくようすをうかがっていた。降りかかる雪は彼の衣服にも、髪にも白い模様を作っている。彼は裏口にたどり着くと、二つの荷を下ろして衣服から雪を払いのけ、荷を取り込みながら戸口をくぐった。
   それからしばらくして、一人の少女が同じ戸口から姿を現した。あの少女だった。少女は外へ出ると最初天を振り仰いで雪が舞い落ちてくるのを眺めていた。手のひらに受け止めてみたり、自分の足跡が雪の上に残っているのを見てみたり。まるで今まで雪というものを見たことがないようだった。無邪気で楽しそうなようすは、この窓からでも十分に察せられる。彼女はひらひらと目の前に落ちてきた大きめの雪の欠片を嬉しそうに手のひらで受け止めてじっと見つめていた。少女が一人きりで雪の中にたたずんでいる様子は、それだけで一枚の絵のようだった。ただ純粋に喜びに満ちている。それは奇妙な悲しさをも感じさせられる美しい光景だった。この世界で一人きりであるかのように。それなのに、少女自身は世界を受入れて、その存在を感じ取ることに浸っている。生れ落ちたばかりの無垢な赤子のように。
   そのとき、あの青年が再び戸口から姿を現し、少女に向って何かを言いながら、そっと少女の短い髪から雪を払いのけ、持ってきたショールのようなものをその頭にかぶせた。まるでこの世の冷たい部分から少女を守ろうとしているようだった。
   その途端、二人の雰囲気が二人ともに変化した。青年の空虚さが穏やかな力強さに。少女のどこか繊細な脆さが朗らかさに。それから二人はともに肩を並べて歩き出し、再び作業小屋の隣の薪を扱いだした。少女の方は明らかにこういった作業に慣れていないようすで、たどたどしい手つきで薪を束ねていると、見かねたのか青年が自分の分を置いておいて少女の荷物を手助けする。なんだか微笑ましかった。兄妹? 恋人? それとも・・・・まさか夫婦? 再び同じような疑問が胸に湧き、好奇心が疼いてくる。こういう俗物的な興味にはあまり関心がなかったはずであるのに、奇妙なことにあの二人に関しては例外と言うことなのだろう。そうこうするうちに二人は荷物を持つと再び本館へと戻って行った。
   私は決意した。やはりあの二人にゆっくり話を聞こう。何をしにやってきたのかとか、彼のチェロはどこで教わったのかとか、いつまでここに滞在するのか、とか・・・・。聞きたいことは山ほどあった。薄い上着を肩に引っ掛けると、私は急いで部屋を後にした。






以下、続く。。。



2011.08.18

   やっと第2話。こんな調子でゆったりのんびり、無理せずをモットーに進んでいきます。すみません。遅筆で。。。

   小夜の性格は、『BLOOD+』以降の話なのでこんな感じ。オリキャラ視線ですみません。。と言う感じで。長い話を書こうとすると、パラレルでもない限り、どうしてもオリキャラが必要になるのだな~~。と(少なくても私にとっては)思いました。

Back