19.

「吹雪の音が強くなっているような気がします」
   不意にダーナがそう言ったので、私は外の音に耳を傾けた。私にはこの地域の気候などわからない。吹雪の音の差など、この土地出身のダーナだからこそ聞き分けられるのかもしれない。けれどもこの数日に起こった異様な出来事は、私の中の何かを大いに揺さぶっていた。
   冬のとげとげしい牙が何もかも剥ぎ取り、記憶さえもあやふやなものにしているのかもしれない。不意にそんな考えが思い浮かんで、私はぞっとした。私の中にも魔物のような冬のあぎとが牙をむき出している様がはっきりと思い浮かんだからだった。それは意識もしないうちに我々の中に巣食い、思考と感情を麻痺させる。
   私がハジのチェロの音が止まったことに不安を憶えていた頃、衝動の隣、厨房の中では危険な相談が為されていた。




「あの展示室では逃げ場がなくなってしまうだろう。それにこの食堂が襲われた場合、固まって移動するのでは危険性が増すのではないか?」
「相手が生きていれば、の話だろう?」
「相手は化け物なんだぞ。本当に死ぬかどうかなんてわかるものか!?」
「じゃあ、どうすればいいというんだ?」
「最終的には外に逃げるんだよ」
「それは無理だ。外は吹雪。戸外でもつのはほんの数時間だけだろう。それこそ化け物でない限りは、皆凍え死んじまう」
   嫌な沈黙が落ちた。
「じゃあ、皆化け物にやられちまうのか。おまえ、それでもいいと言うのか?」
   料理長がホイヤーに食って掛かるように言う。彼はホイヤーに引き抜かれて、この冬の建物へやってきたのだった。
「そんなことは言っていない。それに電気系統システムで暴発できるようになっているのは、何も食堂や貯蔵庫だけではない。それらすべてを暴発させたら外にいるのと大差ない状態になるだろうな」
   皮肉めいたホイヤーの言葉に一同は再び黙りこくった。嫌な予感だけが大きくなり、今自分たちがどんな危険に隣り合わせているのか、見せ付けられた思いだった。食堂にいる人々は無邪気に吹雪が止むのを待っている。知らないからこそ安心していられることもあるのだ。




「なあ。マリ・シールさん――。あのお客は本当に最初から化け物だったんだろうか?」
   そのときぽつりとホイヤーが誰に向かって言うでもなしにつぶやいた。
「亡くなったお客様には首筋に牙の痕があった。マリ・シールという客は頭の方をつぶされてしまったから、もう確認もできないが、もしも・・・・」
   小夜とハジがいる貯蔵室に横たえられた死体のことを彼は思い出していた。その首筋にははっきりと牙の痕があり、そして遺体からは血が抜かれている。『吸血鬼』――。その様子は言い伝えのとおりだった。
   もしもマリ・シールも襲われていたとしたら。そして化け物に襲われたことによって、彼女自身が化け物になっていたとしたら。いや、そのまえに『吸血鬼』に怯えていたのはマリ・シール本人ではなかったか。
「彼女自身が既に襲われていたから、吸血鬼を怖がっていたというのか――?」
「いいや。そもそも襲われた人間が吸血鬼になるのならば、貯蔵室の死体が何故あるんだ? 彼は化け物になっていないじゃないか」
   不満そうに料理長が反論する。
   だがホイヤーは首を振った。マリ・シールは一体いつから化け物に変化したのか。最初からなのか、それとも襲われて意識を失っていた時なのか。襲われた――。誰に? あるいは何に? 彼女を襲ったのは黒い衣服を着た者だった。化け物ではない。少なくとも外見は――。
   暑くもないのに、ホイヤーは額にじっとりと汗をかいていることを意識した。
(襲われたのは四人。亡くなった客と、マリ・シール、ミハイ。そして未遂だったのが小夜――。そのうち小夜を襲った化け物と、マリ・シールとミハイを襲った者の外見は異なっていた・・・・)
   化け物に変化したマリ・シール。小夜はハジと共にここではない別の場所にいる。では同じような者に襲われたミハイはどうなのか。ホイヤーがそちらをちらりと見ると何を考えているのか、ミハイはうつむいて自分の足先をじっと見つめていた。
   その姿に理由もなく、ホイヤーはぞっとした。本当にミハイは無事だったのか。
「ミハイ・・・・。悪いが、首元を見せてくれないか?」
「え?」
   彼は驚いたように顔を上げた。ホイヤーの言葉に他の者も改めてミハイを見つめた。彼らはホイヤーが何を言おうとしているのか理解していた。ホイヤーが一時、行方不明になったことを皆が知っているのだ。疑惑の顔、こんな疑心暗鬼に対する不満の顔、純粋に驚いた顔。様々な表情が彼らの上を通り過ぎ、そんな中で、今度はミハイの方が理解できないというように首を横に振った。
「なんでそんなことを・・・・」
「ミハイ」
   ホイヤーの鋭い声に、強い強制をかんじて彼はのろのろと腕を挙げ、着ていた灰色のタートルネックを引き下げた。
「俺を・・・・疑ってるのか・・・・」
   だがそこにはなんの痕もない、ただの筋張った首筋が現れただけだった。一同の間にほっとした空気が流れる。
「これでいいのか?」
「ああ。すまなかった」
   明らかにホイヤーはばつが悪そうな顔をしていた。それでもほっとしている。仲間が化け物ではないと証明されたようで、そのことは自覚している以上にホイヤーにとっても安心材料の一つになっていた。
   襲われたからと言って、貯蔵室にある死体のように血を吸われたわけではない。これでミハイへの疑いは晴れた。そう思う先から足元から基盤が崩れるように不安が湧き上がってきた。
   いいや。考えてみればマリ・シールが血を吸われているかもしれないというのも、一つの仮定に過ぎないのだ。もしも血を吸われていなかったとしたら、血を吸われたことがすなわち化け物になることと同一ではないということになるではないか。
   今証明されたことを自ら否定するようで、認めたくない事実にホイヤーが葛藤している間にそれは起こり始めた。たった今、皆がほっとしている様子を見て自分自身もほっとしたミハイが、衣服を戻したとたん真っ青な顔色になって震え始めたのだった。最初はまだ本調子ではないミハイに無理をさせたのかと思った。だがミハイはホイヤー自身の比ではないくらい大量の汗を流しながら、身体を前後に小刻みに震わせていた。
「俺は化け物じゃない。俺は化け物じゃない。俺は化け物じゃない。俺は化け物じゃない。俺は化け物じゃない。俺は・・・・・」
   ミハイは小さくつぶやいていた。いつからかミハイの視線が一点を見つめたまま、カタカタと揺れている。料理長が心配そうにミハイの肩に手を掛けた。
「ミハイ? どうしたんだ?」
「いけない!」
   次の瞬間だった。彼らの目の前で、ミハイの身体が膨れ上がったように見えた。身体が内側から膨張し、衣服が耐え切れずに裂けていく。ミハイの背が急に伸びたと思ったが、彼の身体そのものが異様な変化を遂げている最中だった。皮膚が変色し、硬質になり、腕が長く変化してありえない部分でふたつに折れる。靴が破損し、その中から爬虫類のような鍵爪のある大きな足が現れた。
   額が後退し、逆に顎が大きくせり出すようになる。相対的に鼻はひしゃげたように横につぶれた。頭髪が別のものに――皮膚の一部と化す。その変化の凄まじさを彼らは凍りついたように見つめているしかなかった。これが黒い影の正体。小夜を襲ったモノの正体だった。恐ろしいことに、このような異形の姿になっても、その目には知性と意志のひらめきと、さらに認識の光があった。すべてを把握し、さらに楽しんでいるような光に思わずぞっとする。
   ソレは変化を終えると解放された喜びに満たされたように首をのけぞらせて大きく遠吠えを上げた。その声はあらゆるモノを振動させ、一部の硝子にひびを入れて粉々にするほどだった。食堂の中で悲鳴が上がる。その声にホイヤーははっとなった。
「皆、下がれ!逃げるんだ!」
   だがそのとき既に遅く、ミハイのすぐ近くに居た料理長はあっという間に斜め上から首を噛み付かれ、鋭い牙に押さえられたまま持ち上げられるようにして絶命していた。
「逃げろ。――逃げろ!」
   狭い厨房から我先へと逃げ出そうと死ながら、彼らは化け物が料理長の身体からさも美味しそうに飲んでいるのを見た。逃げ出した先、食堂の中でもパニックが起きる。その中でマリエラとダーナは身体を寄せ合って、何か恐ろしいものが出てくる気配のしている厨房と、小夜たちがいる部屋の方を交互に見つめて立ち尽くしていた。




   小夜はハジの腕の中で痙攣するように身体を強張らせたまま、視線を宙に漂わせていた。
「どうして・・・・」
   つぶやくような声に呼応して鼓膜を震わせるような鳴声が建物全体に響き渡った。
(いや・・・・。マリ・シールさん――)
   無惨に青年の手で頭をつぶされて絶命したマリ・シール。そして今、彼女だけではなく――。
「翼手・・・・」
   今度こそ青年にも聞こえていた。聴き間違いようのない、翼手の遠吠えだった。記憶の中に刻み込まれている哀しみと怒りの日々。それらの記憶が少女の精神に正気を還し、徐々に自分自身を取り戻させた。
   華奢な手がはっきりした意志を持って青年の腕を掴む。
「ハジ」 翼手はここには来なかった。それならば・・・・。「急ごう」
   悲鳴が聞こえるようだと小夜は思った。いつの時代も必ずあった、翼手による虐殺が始まっている。自身も翼手であり女王種であるからこそわかる、その餓えのようなものを肌で感じて少女は身を震わせた。
   閉じ込められていたその扉は青年の脚力で蹴り飛ばされれば苦も無く開けられ、小夜が食堂に急ぐうちにも真新しい血の匂いが常人よりも敏感な鼻腔を刺激した。最悪の事態――誰か犠牲者が出たのだった。真っ赤な血。揺れる炎。パナーム油の匂い。小夜の脳裡に真冬のベトナム、あのときの惨劇の光景が浮かび上がる。そしてニューヨーク、オペラ座。
   翼手による残虐はいつも人間の能力との差を見せつけられるほど圧倒的であり、一方的な惨殺だった。絶対に起こってはならないこと。小夜は唇をかみしめた。自分自身が翼手だとわかっていながら小夜は人を守りたいという願いを崩したことはなかった。人間として育てられたからか。あるいは自分自身のために犠牲になった多くの人々の記憶が胸の中に残っているからか――。
   二人が食堂に駆けつけたとき、ちょうど口元から真っ赤な血を滴らせた翼手が厨房を出てこようとしているところだった。半分壊された扉からのそりと出てきた翼手の片腕には白い制服を身につけたままの料理長が首を真紅に染めて引きずられている。一目で絶命していることが見て取れた。
   そのおぞましい光景よりも、とうとう犠牲者が出てしまったことに少女は衝撃を感じて一瞬立ち尽くした。翼手から逃れようとしている人々が一斉に今小夜が立ち塞がっている出入り口に向かって駆けて来る。
「小夜!」
   けれどもそのとき小夜の名を叫ぶ声があった。マリエラとダーナ。二人は他の人たちに取り残され、肩を寄せ合い、化け物から反対方向に遠ざかろうとしながら小夜に手を指し伸ばしていた。安堵と焦りにほっとしながら少女が彼女たちの下へ駆け寄ろうとしたとき。間を遮るように巨体が二人の前にたちはだかった。一瞬少女は息を呑む。
「マリエラさん・・・・。ダーナ・・・・」
   だが怯えあがった二人を見下ろして値踏みした後、化け物は少女の方へと向き直った。その息、その牙、その爪。それを見たとたん、少女の全身が硬く強張る。――思ってもいなかった自分自身の反応だった。今は痕もない首筋が冷たく感じられ、思わず空いている方の手で覆うように触れた。牙を突き立てられた感触。血を奪われ、穢された首筋。そのときの衝撃に背筋に震えが走った。足が震える。
(いや・・・・)
   かつて翼手に対してこんな風に尻込みしそうになることなんてなかった。恐怖というのではなく、記憶に対する怖気。嫌悪と厭わしさだった。立ち向かわなければならないという思いと、あのときのおぞましさに引き裂かれて小夜は小さく喘いでいた。呼吸が速くなり手が震えてくる。その少女の様子を見て、翼手は目を細めるようにした。確かに笑っている――。少女が自分の姿を見て何を思ったのか、思い出したのかをこの翼手は理解して哂っているのだ。
   気持ちが悪い。吐き気がする。あのおぞましい行為は、翼手の吸血行為ですらなかった。単に相手を、女王を貶め傷つけるだけの行為だった。その対象にされたこと、自分にそれが起こったこと。そんなに時間が経っていないのに、その相手が自分の目の前にいることが小夜にとってどれほどの苦痛をもたらしているか。しかも相手は少女の震える心を読み取って、それを楽しんでさえいる。弱弱しい女王。まるで人間であるかのような――。勘違いも甚だしい。最初から異質な存在。人間にとっても、翼手にとっても――。だからいらつく感情を、今こうして相手を翼手のやり方で貶め、穢すことにこんなにも悦びを感じている。
   相手が少女の心情を理解したように、少女にも相手の心がわかるようだった。ゆがんだ欲求。撓んだ能力。自分が怯え、弱さを見せれば相手に一層力を与えることになる。
   自分自身の心を捻じ伏せるように、震える手で武器を握りなおした少女の前に、庇うように青年が立ち塞がった。
「ハジ・・・・」
   肩にチェロケースを担いだまま、青年は対峙している相手を鋭い視線で見つめていた。背中が感情の爆発一歩手前で踏みとどまっているように、力強く張り詰めている。普段、滅多に怒ることのない青年の激しさを、今少女は目の当たりにしていた。
   青年が翼手に向かって駆ければ、相手も同じような勢いで踏み出す。それほど広くない食堂で両者が激突し、衝撃波が空気を揺らした。マリエラとダーナが悲鳴を上げ、彼女たちには風圧のように感じたであろうそれを、小夜は慣れ親しんだものとして受け取っていた。
   いつでもこうしてハジは自分のために立ち上がり、自分のためにすべてを投げ出すように闘っている。遠い過去。永い時間を流れていく想い。振り返らずとも必ずそこに在る確かな存在――。
   辛かったはずのその記憶が今、小夜の中によみがえり不思議にも先ほどのおぞましい記憶を薄れさせた。自分自身よりも大切に思うものがある。それはいつでもこの二人に共通して流れている気持ちだった。たとえそれぞれの大切に思うものが様々な形をとっていようとも、永い時間をかけての戦いの記憶がそれを形作っていったのだとしても、それはいつしか本人達にとって本質的なものになり、だからこそ取り得る理解もある。
(ハジ・・・・)
   小さな声で少女がつぶやく。翼手の腕と、見た目の装飾からは計り知れないほどの頑丈さを伴った楽器のケースがぶつかり合う。音もすごかったが、それ以上に時々その場所に巻き起こる風圧が、これが通常の人間同士の戦いなのではないことを示していた。マリエラもダーナも信じがたい思いでそれを眺めている。物静かでどこか浮世離れしたような青年。低く豊かなチェロの音。その奥にある老成したもの。そんなものとはまったく次元の異なった青年の姿がそこに在った。銀色の打ち出し装飾のあるどっしりとしたチェロケースは化け物の猛攻によく耐え、それを支える青年の膂力の常人離れした能力を如実に表わしている。さらに二人が瞠目したのは盾にするだけではなく、青年はそのケースを軽々と扱い、まるで鎚のように相手に向かって振り下ろしていることだった。まるで重さを使って相手を押しつぶそうとでもするように、振り子のように振り回しながらも自在に操り、それは刃物を使わずに相手を圧倒しようとでもいうようだった。その意志。その力――。
   青年の姿を見つめて、少女の目にも力が戻ってきた。もとより人任せにはせずに歩いてきた。この人生と宿命とを引き受けて。いまだに身体の中から引きだされ、吸い取られるような不快な消耗は続いている。それでもこれが自分のやるべきことだと、小夜には覚悟と決意があった。一瞬目をつぶる。それから納められていた鞘から剣を取り出し、助走をつけて小夜は大きく跳躍した。









以下、続く。。。



2012.05.04

  そろそろ収束に向けて。。。という意図が見え見えな今回。さらに加速がかかってしまってどうしましょう?という感じになってきております。
   まだまだ説明不足。反省中。。。しかしながらこの話の目的は本編アニメでは状況やら運命やらを描くことに重点を置いてあったために、ちょっとばかり物足りなく感じていたハジと小夜のアクションを、自分的に少しでも多く描けたらと言う目的もありますので、ちょっとだけでもアクションが描けて嬉しい。。
   (力不足で)全然足りないかもしれませんが。。

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