18.

   小夜たちが問題の貯蔵部屋に送り出された後、私は食堂に戻り他の客人たちと一緒に事態の推移を待つしかなかった。途中、私が一緒にいたと知っていてマリ・シールがどうなったかを聞いてくる人もいたが、本当のことを口にすることもできず、私は曖昧に厨房で休んでいるというようなことを口にするに留めておくしかなかった。
   この建物の中で私は何の力にもなれない。特にこうやって他の人たちの間に混じっていると、厨房の中の人たちからも遠くなり、小夜たちからも遠くなってしまったような気がしていた。この、何が起こるかわからない不安。だから私はあの中へ行きたいと思うのだろうか。不安の中、行動を起こす立場にいる人たちの中へ。それでも小夜がハジと共にいること、それから着替えることを許されて、引き裂かれた上着からきちんとした防寒具へ着替えていたことだけは安心できた。
   そのときダーナが厨房の中から出てきて小さく手を振った。小夜と同じくらいの齢である親近感からか、彼女も小夜のことは非常に気になるようで私に心配そうに話しかけてきた内容もそのことだった。
「小夜が心配です。ハジがいてくれるからまだいいですけど。皆おかしくなっているみたい。支配人さんがいなくなったっていうのに、探そうともしないし。ホイヤーさんなんてかえって怯えているようだし。ミハイも心配だって言ってました。でもまだ体調が良くないみたいで・・・・」
「気をつけて。まだ何も終わっていないし、始まってもいない。小夜たちが囮になってくれているといっても、私たちが最初の襲われないという保証なんてどこにもないのだから」
   だからこそ、私は囮を出すことに反対だった。けれど――
「あ・・・・。あれは」
   いつの間に始まっていたのだろうか。こんな不安な夜にそぐわない、静かな音が流れていた。
「チェロの音・・・・」
   私は思い出していた。小夜がこっそり私に告げた。今夜、支配人に許可をもらってハジがチェロを弾いてくれる、と。あのときの言葉。あのときの嬉しそうな小夜の様子。こんなときにまで約束を守ってくれようとしているのだと思えて、私は泣きたいような微笑ましいような気持ちになった。バッハの無伴奏組曲第5番。低く落ち着いた、物悲しい曲調。でも美しい。私は目をつぶって束の間の旋律を味わった。同じように小夜も聴いているのだろう。寒々とした部屋の中で――。私は小夜の白い顔を思い浮かべながら、無事を祈ることしかできなかった。




   目を閉じた少女の目つげが寒さに凍りつき始めている。外気に曝されるのとは違うと言われたが、この部屋の温度は氷点下を下回っているのだ。青年は自分の体温が決して外気以上に高くなることがないことを、今ほど痛切にもどかしく感じたことはなかった。この手がもたらすものは冷たさだけ。触れることもできないまま、凍りつく音に弦をゆるめ、青年はおもむろにチェロを弾きはじめた。哀愁を帯びた追憶の曲が流れ始める。物悲しくも深みを帯びた曲。闘いの間も、孤独も、淋しさも、すべてを包んで流れていた曲。それだけで少女には彼の気持ちが理解できたようだった。小夜はにっこりとほほ笑むと、傍らに放置されていた木箱に腰を下ろすと青年の演奏を聴こうと目を閉じた。
   調べが鎮静と深慮を運んでくる。小夜はもの思わしげに眼を閉じて、チェロの音色に聞き入っていたが、やがて深い赤みの強くなった目を見開いた。
「ハジ」
   とたんにチェロの音色がぴたりと止まる。
「はい」
   いつもハジの声は揺るがぬ落ち着きを持っている、と少女は思った。
「マリ・シールさんが・・・・翼手化したとき、後ろにいた人影に気がついた?」
「いえ・・・・」
「あれは――。私の夢の中に出てきた女の人だった」
   ここに来てから小夜が悪夢に悩まされ、その後決まってひどく消耗していることを青年も知っていた。その原因はわからないまでも、何かが起こっていることだけは感じている。それがこの建物の中で起こっている一連の翼手騒動と無関係ではないことも。
   小夜はため息をついた
「やっぱり私にしか見えなかったんだね」
   でも幻なんかじゃなかった。
「あの人は言ったの。私がここに来たから、自由になったんだって。システムが稼働し始めたとも言っていた」
   青年の眉が険しくなる。
「システムって何? 地下にあった電源システムに何かあるの? それともシステムって、別のものを指しているの?」
「小夜・・・・」
「私にはわからない。なぜ私がここに来たのか。私のせいなの?私の何かがすべてを引き起こしたの?」
   眩暈がする・・・・と小夜は思った。払っても払ってもぬぐいきれない自分の宿業が、まるで肌に迫るように近寄ってくる。生きていることそのものを、誰かが糾弾しているように――。
   息が詰まる。息苦しい・・・・。自分の存在のどこかが、別の何かに流れていくようで・・・・。
「小夜!」
   一瞬地面に引きずり落とされるように傾いた身体を、ハジが支えていてくれた。蒼白い頬、恒常的な眩暈。ハジに血を与えられてそんなに経っていないというのに、小夜の身体には血が足りないときと同じような症状が起こっていた。少女自身は自覚していた。翼手と対峙したとき、そしてマリ・シールと対面したとき。両方とも自分の身体から何か生気の根源のようなものがごっそりと奪われていったのを。混乱と哀しみと不安の感情に晒されて、なるべく意識しないようにしていたこの虚脱感。
「だめだよ。誰が見ているのか、わからないんだから」
   青年の微かな身動きに少女はささやいた。ハジが再び血を分け与えようとしている気配を感じて、唇をかみしめる。昨晩から何度ハジから血をもらっているだろうか。ハジ自身は摂っていないというのに。女王種の脆弱さ。自分に対する因果。自分自身だけではなくて、ハジも危険に晒しているのに。
   息切れと眩暈。翼手さえこちらに興味を向けたならば、そして今ならば、この弱った身体でもハジと二人ならばなんとかできるはずだろうに。けれども小夜の衰弱は尾を引くように益々強くなっていった。
『残念だこと。貴女が来なければ、私もまた眠りに就いたまま目覚めなかったというのに――』
   記憶の中で女の声がささやく。
『あなたがやってきたから。だから、私は自由に・・・・』
(私がいけないの?)
   虚無の中の響きはやがて少女の中の古い記憶を呼び覚ます。その手で滅ぼした双生児の記憶を。
『みーんな、小夜姉さまがいけないんだよ』
『小夜姉さまは翼手なんだよ』
   わかっている。それでも、私は生きることを選んだのだから――。響と奏の顔。沖縄の輝く太陽の光。ああ。でも今、それがこんなに遠いなんて。
『姉さま・・・・』
(ディーヴァ・・・・)
   遠い遠い記憶。最初の花。最初の歌声。
(小夜・・・・)
「小夜――」
   意識が浮上したとき、目の前には心配の影を映した白い顔があった。
「ハジ!」
   間近に見つめられる蒼い視線に思わず頬に血が上る。それからその腕がしっかりと自分を支えていたことに気がついた。また一瞬意識を失っていたのだ。
「ご、ごめん・・・・」
   慌てて身をすくませるように肩を寄せ、少女は縮こまった。だがその少女を肩ごとしっかりと抱き寄せると、青年は半ば無理やり少女の顎を持ち上げ、その唇を奪うように深くくちづけた。先ほど、有無をも言わせず血を与えられた時でさえ、このように強引ではなかった。それがハジの意志の表れのようにも思え、その判断をさせてしまった自分自身に小夜は一瞬嫌悪に似たものを抱いた。唇が器用に割られ、慣れた仕草で口移しされるものが、青年の血であるということを、頭ではわかっていながら拒否できない。
(だめ・・・・)
   弱々しい抵抗が、少女の拳となり青年の胸を何回か叩いた。抱き寄せられた背筋がたわみ、より一層くちづけが深くなる。吐き出すこともできずに飲み込む深さまで。
   喉が鳴ったとき、そのあまりの甘露の馨しさに眩暈すら覚えた。無意識に少女の手が青年にすがりつく。目の奥がかっと熱くなるのを感じながら、同時にどこか満たされて・・・・。いつも、その行為に哀しみを憶えると言うのに、じりじりと身体を焦がすような渇望が、青年の血によって拭い去られることはある種の爽快感にも似た感覚だった。だがそれが今回は違っていた。
   身体の芯が意識の深遠に引きずり込まれるように足元からずっしりと重力に捉われ、逆に身体は熱をもったように熱くなっていく。今まで、ハジに血を分け与えられたとき、こんなにも身体の中を燃え立たせられるような感覚を味わったことはなかった。それも引きずられるような後味の悪い熱が身体の中にこもっていく。ハジの血の作用では決してない。小夜の身体の奥深くに通じる糸のように細い連接が、いつの間にか少女にまとわりついていた。今は傷一つない首筋が、記憶に同調して微かに疼く。
   痛みではなくその記憶そのものが、少女をその闇の中に結び付けていた。その中に、少女の存在を通って耀く生命が滴り落ちる。ハジに与えられた血が呼び覚ます少女の中の生命の息吹。存在の活力。それを求めて今まで穏やかに鎮まっていたような波が胎動し始めた。
   首筋が熱い。いや、その前からこの胎動を少女は意識せずに知っていた。夢の中で、あるいはこの建物の空気の中で。少女の存在に溶け込み、同調して影から見つめていた存在。ソレが今、与えられた耀きに手を伸ばそうとしていた。小夜の活力。小夜の生命の息吹。生暖かく、蠢く闇が招いている。虚無を孕み、神経がねじ切れそうな悦楽と愉悦に満ちた世界。光すら飲み込もうとするような。
――ハジ。ダメ・・・・――
   あまりの感覚に小夜は身体を硬直させた。少女の体調が芳しくないことに気がついたのも青年ならば、少女の意変にすぐさま気がついたのもまた青年だった。深みを求めた唇をすぐさま放すと、すでに少女の目は細かく震え、与えられた血によるものだけではなく、本能の揺らめきに半分攫われながら煌めく真紅のまま彼女は目の前の青年の姿も目に入らない状態でつぶやいた。
「いけない。ダメ・・・・」
   少女の髪が逆立っていた。赤みの増した唇。鋭い視線。爪さえもわずかに尖り。それが少女の翼手の女王としての顔だった。
「そんな・・・・」
   ここではないどこかを見つめて、小夜は首を振った。記憶によって認識と意識が結び合わされ、今まで隠されて見えてこなかった糸が明らかになってくる。闇の中。顰められていたモノが手を伸ばし、表に出ようとしていた。
「どうして・・・・」
   縒り合された運命の一点を、少女は見つめようとせずに見つめさせられ、肉体的にではない、精神的な苦悶のうめきを上げた。
「どうして、あなたが・・・・」




   不意に曲の途中でチェロの音が途切れたので、私は戸惑って顔を上げた。
「どうしたのかしら?」
「な、なんですか?マリエラさん」
   隣で不安そうにダーナが身をすくませる。
「気がついた? チェロの音が消えたのよ」
「え?」
「さっきまでチェロの音が流れているの、気がつかなかった?」
「あ・・・・。あの曲・・・・」
「そう。今、突然それが途切れたわ」
「まさか・・・・小夜・・・・」
「イヤな予感がするわ」
   小夜たちの様子を見に行きたい。
「小夜なら、きっと大丈夫だ」
   いつの間にやってきたのか、ミハイがそこにいた。
「もうちょっとしたら、俺からも言って小夜だけでも迎えに行ってやるから」
「スタッフの中に同じ考えの方がいらっしゃるのは心強いわ」
   わざと軽口をたたくつもりでそう言いながら、ミハイの様子を伺いと逆に彼の方は思いつめたような固い顔をしていたので私は驚いた。あの子まで囮に使うなんて許さない。そうつぶやいたミハイの横顔はなんだか怖かった。
「おい!ミハイ」
   料理長がミハイを呼ぶ。その声にはっとすると私に軽く頭を下げ、そそくさと戻って行くミハイを見ながら、ダーナがぽつりと漏らした。
「なんだかミハイったら変・・・・」
「どうかしたの?」
「ううん。ミハイの様子がいつもとちょっと違っていて――。ミハイはいつも大事に子供の映像を持ち歩いてて暇さえあれば眺めているような人だったんです。でも、今のミハイは子供のことなんて頭から落ちちゃっているように見える。小夜、小夜って・・・・。あんなに子供が大事だった人なのに」
   小夜のことばっかり。一瞬私はよくある嫉妬のようなものだと思った。良く知っている同郷の人が、自分よりも、逢ったばかりの余所者に注目している不快感なのかと。けれどそれだけではなかった。ダーナにはミハイが小夜を贔屓して、逆にハジに対して排除しようとしているように見えたらしい。後から思い起こせば、物をよく見ていなかったのは私の方だった。ダーナはダーナなりに、そのくらいの年齢の少女の持つ敏感さでミハイの異常を見ぬいていたのかもしれない。
   ミハイが料理長に呼ばれたのは、ひとつには囮になってもらったものの、ハジと小夜の処遇をどうするべきなのか改めて考えるためと、地下の発電システムの具合を確認するためだった。
「大きな破損はありません。ただところどころ接触が不安定になっているところもありましたね。多分、以前から。それが今の吹雪で一気にガタがきたというようです」
「動力は生きているな」
「でも不安定ですから、最終的には全部取り替えないと」
「先のことはどうでもいい。とにかく今晩をどう乗り越えるか」
「地下のシステムのこと、わかるんですか?」
「いいや。把握していたのは支配人だけだった。でも――。止め方だけはわかっている。何の役にも立たないが」
   そう言ってホイヤーはため息をついた。
「もしも化け物を倒さなくちゃならなくなった場合、そういうことも必要になるかもしれない」
「システムを止めることが?」
「自家発電システムは、この建物の要所要所に自立的に連結させてある。それを逆に稼働させると負荷がかかり、暴発するように設計されているんだ」
「そんな」
「システムとしては非常に不安定だが、確かに効率よく発電させられる。それを逆手にとって化け物のいる一角を暴発させることなんかもできるのではないか、ということだよ」
「そんな設備があるんなら、余計に囮なんて必要なかったんじゃないですか」
   言ったのはミハイだった。
「少なくてもハジがいれば、小夜まで囮にならなくても・・・・」
「違うな。むしろ小夜の方が必要なんだ。憶えていないのか、二度も襲われているのは小夜の方なんだよ」
   それを聞いて、ミハイの方は憮然とした様子で口をつぐんだ。
「彼らが囮になってくれている間にできれば貯蔵室とこの場所を切り離すように一部を暴発させれば、化け物を足止めすることができる可能性が大きい。問題は残念ながら彼らが囮の役割を果たせずに、化け物がこちらを直接襲ってくるような場合だな」
「その場合でも全員が一編に襲われることはありえない、と思う。できるだけ避難をさせてから最小の犠牲で化け物を足止めする」
   つまり、そうなった場合は犠牲を覚悟して、システムの一部を暴発させると言うことだった。
「なるほど。それでは避難場所は?」
「この食堂と同じくらいの人数を収容できる場所はあと一つしかない。いらないガラクタの置いてある元の展示室だ」
「で。暴発させる場所は――?」
「囮に引っかかってくれた場合は貯蔵室前の給湯設備と、この食堂へつながる廊下の一角にある連結点、その二か所に過負荷をかける。もしもダメだった場合は――
   この厨房の真上だ」








以下、続く。。。



2012.04.21

  遅くなってしまいまして申し訳ありません。。。
   さて。この回から、オリキャラ軍団が出張ってしまいます。。どうしても話を進める関係上、、、どこまで抑えられているのかが私の課題です。。

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