17.

「ハジ・・・・」
   震え声でつぶやいた小夜はなぜかひどく悲しそうに私には見えた。彼女はダーナの目からマリ・シールだったモノの残骸を見せないように庇って一緒にこちらの方へやってきながら、ちらりと一瞬だけハジの顔を見上げていった。
   するとハジは心得たように前に踏み出し、普通の者ならば目を覆うような、異形の潰れた遺体から自分自身の楽器のケースを退かせ、傍らにあったクロスのようなもので潰れた頭部ごと変形した上半身を覆ってやる。丁寧だが手馴れた手つきだった。普通ならば触れるのもためらうような化け物の潰れた死体に。その白い顔はなんの感情も映さず、ただ一瞬だけ目の奥に悼みの色を微かに見たような気がしたが、それだけだった。
   私は奇妙な違和感を覚えていた。多分驚いていたのだと思う。物静かな雰囲気や、小夜を見つめる瞳のやさしさと、それはまるで正反対の要素に感じられたからだった。だがそうやって覆いをかぶせて、今起こった異様な光景を遮ってしまうと、人が一人死んだと言う重い現実が立ち現れる。
「一体何が起こっていると言うの?」
   私たちを襲った化け物。その化け物と酷似した姿になる途中で倒されたマリ・シール。マリ・シールは死んだ。マリ・シールが怯えていたハジ。いや、そもそもあれはマリ・シールなのだろうか。だがここに遺体がある。下半身だけはまだ女性の姿をとどめている遺体が。
   皆が恐怖と混乱と衝撃に今がんじがらめになっていた。
「なぜ、殺した」 フロント係が震え声で言った。
「殺す必要などなかったはずだ」
「何を言っているの」 思わず私は反論した。
「ハジがアレを投げつけなければ、小夜とダーナが危なかったってわかっているでしょ」
「なぜわかるんです?」
「私たちは地下で、同じような化け物に襲われたわ」
   その言葉に、一瞬間があった。フロント係のホイヤーは険しい顔でハジを見つめ、それから私の方へ向き直った。
「そうだった。もっと詳しく聞かせてもらいましょう。その化け物は血を求めたということだったが――」
「暗がりで、私たちも突然襲われたわ。私は頭を打って意識がもうろうとしていたけれど、何が起こったのかは大体わかる。小夜が――無謀なことだけど相手に立ち向かっていったのよ。どうなることかと思った。でもハジが来てくれたら相手は退散していったの」
   ハジが監禁場所から無理やり出てきたことはわかっている。けれど、小夜の危機に駆け付けた青年に何の落ち度があるだろうか。ハジの行動に不審を募らせていたフロント係の顔は一瞬きつくなったが、それでも続けるようにと私を促した。誰かのせいにしたいような、嫌な空気だった。出来るだけ詳しく状況を説明しなければならない。でないとハジの立場――小夜の立場は今まで以上に悪くなってしまうのだろう。
   私は必死で冷静さを保ち、思い出したくもないあの地下で見た化け物の様相と今のマリ・シールだった存在の姿を頭の中に思い描こうとしていた。
「地下室は照明が落ちていたし、マリ・シールは変化の途中で死んだから、はっきり断定はないのだけれど、あの筋肉の盛り上がり方や変化しようとしていた体格は確かに似ていた」
   そうだ。非常灯の薄い灯りの中で圧し掛かるように見えた影。あの目の光。長い腕。岩のような背。異質な体躯。あんなモノは見たことがない。まるで恐怖映画の中の出来事か、ホラー小説の挿絵がそのまま目の前に出てきたようだった。
「しかし、ミハイと小夜とあなたが地下に行っている間、マリ・シールさんはこの場所にずっといました。それはダーナが証明してくれるでしょう」
   突然名指しされ、ダーナが怯えながらも頭を上下に大きく動かし、肯定の意を示している。
「じゃあ、さっき地下で我々を襲ったのはマリ・シールじゃないってことね」
「だが、そいつは野放しになっているんですよ」
   ホイヤーはまだハジの方をじっと見つめている。小夜とハジが疑われているのだとわかっていても、私にはどうしてもあの二人がそんな存在とは思えない。小夜のひたむきさを感じさせる、大きなうるんだ瞳。人懐こく、無邪気な表情。小夜を見つめ続けているハジ。そのチェロの音色。
「ハジじゃないわ」
「見たのですか? あの暗がりで」
   疑うようなミハイの言葉に私は憤りを感じながらも慎重になった。確かに私は私を襲った化け物の姿も、対峙しているハジの姿もこの目で確かめた訳ではない。そうするにはあの場所は暗すぎたし、私は倒れて動けなかった。けれど、化け物の雰囲気も感じたし、小夜がそいつに対峙していたこともわかっている。どう説得していいのやら。
「あんな大きな気配だったら私にも見なくてもわかります。それに非常灯の中で一瞬、相手の影だけは見えた。私はね、小夜がそいつに立ち向かおうとしていたことまではきちんと覚えているのですよ」
   だがホイヤーは納得しない。本人達の前で、あからさまな糾弾は彼らを排除しようとする意図以外の何ものでもない。
「小夜が立ち向かおうとしていたから、ハジじゃないと、どうしてわかる? 黙って二人が口裏を合わせていればそんなのわからない」
「私にだって気配位はわかります。あれはハジじゃなかった」
「勘違いと言うこともある。大体、なぜ小夜が襲われなくてはならない・・・・・。いや、その前に化け物に襲われたのも、小夜だったな」
「ちょっと待ってください。矛盾しているわ。――あなた方がハジを疑っているのは、ミハイやマリ・シールが気を失う前に、それとも襲われる前にだったかしら――見た人影がハジと同じような長身の黒衣だったからでしょう? なぜ小夜を疑うの?」
「じゃあ、なぜ小夜だけが襲われる?」
   最後の質問は小夜に向かってもなされていた。小夜は青白い顔でこちらを見ている。
「私・・・・。私にはわからない。わからないんです。あれが誰なのか・・・・。なんのために私を狙ってくるのか」
「前回も同じだった。小夜が襲われて、ハジが助けに来て、我々がやってきたときには襲い掛かってきた奴は逃げ出して行った」
「でも。じゃあ、ミハイとお客様はどうして襲われたんだ?」
   そう。私もそれは気になっていた。小夜を襲った大きな黒い気配。それからマリ・シールとミハイが襲われたという影。印象が全く異なっている。
「・・・・もしも、ミハイたちが襲われたモノと、小夜が襲われたモノが異なっていたら?」
   ホイヤーが言った。
「待って。でもそうなったら、化け物が三人いることになるわ。小夜が襲われたモノ、ミハイさんたちが襲われたモノ、それから――」
   私はぞっとしながらマリ・シールの遺体を見た。でもわからない。マリ・シールは襲われたと言った。それは本当だったのか。それとも虚言だったのか。この異形の遺体――。
「だが少なくても一人はこれでいなくなったわけだ」
   皮肉な口調で料理長が言った。
「残るのは一人か二人だ」
   けれど私たちが危険なことには変わりはしない。今回は、偶然ダーナは助かった。だが次は? 誰が犠牲になってもおかしくない状況。そして襲われた小夜。
「・・・・・小夜が狙われているのなら――」
   ホイヤーが少しばかりためらってから口を開いた。
「囮という手もある」
「そんな!」
「ひどい!」
   ダーナと私は同時に声を上げた。
「悪いが、ためらっている暇はない。我々は無事に今晩を過ごしたいんだ」
「そのために誰かを犠牲にしてもいいって言うの」
「誰か、という訳じゃない」
   小夜だから。と言いたいのだと知って、私は身体が震えるほどの怒りを感じた。
「小夜は」 私はホイヤーをにらみつけながら言った。
「こんなときなのに、進んで地下まで行って電源を入れるという危険なことを自分から申し出てやってくれた子よ」
「マリエラさん・・・・」
   そのときためらいがちに私の腕にかかる華奢な手があった。
「大丈夫です」
「小夜・・・・」
「私で役に立つなら・・・・」
「小夜。どうしてそんなに無茶をするの」
「無茶だなんて・・・・」
   真っ青な顔でそんなことを言う小夜に私は心の中でため息をついた。投げやりと言うわけではないのに、まるで自分のことなどどうでもいいとでも言うような言葉に私は自分の顔が険しくなるのを自覚する。自分の命を何だと思っているのか。
「でも――。ひとつだけ」
   小夜は急に小さくなった声でささやくように言った。
「ハジと一緒にいさせてください」




   あのときの小さな声の必死さを思い出すたびに、私は自分が見落としていたものを痛感する。だがそのときはそれどころではなかった。小夜が肯ったためにホイヤーも料理長もその気になり、小夜をどうすればよいのか相談し始めたのだった。所載無げに立っている小夜は、まるで生贄にされようとしている異国の巫女のようだった。
   私も、ダーナも、そして意外なことにミハイも、反対したが彼らは聞く様子もない。
「待って。こんなこと、支配人は何て言っているの? どうしてここに呼んでこないの?」
「あんたは何も知らない」
   そう言ったのは料理長だった。
「いや、待て。知っておいてもらった方がいい」
「ホイヤーさん?・・・・何があったんですか?」
「もう一人。行方不明者が出ている」
   嫌な予感がした。フロント係は先を続けた。
「まだお客様方には知られていない。だが今回行方がわからないのは支配人なんだ」
「支配人!?」
「ぎりぎりまで知られないように伏せておくつもりだが・・・・。もうどうしてよいのか・・・・」
   あの青白い顔をした支配人こそ、今まで私たちが曲がりなりにもパニックに陥らないように頑張ってくれていたはずだったのに。フロント係と料理長が必死になっていたのはそう言う訳もあったのだ。
   だが私は、だからこそ小夜を犠牲にすることなど間違っているのだと重ねて言った。
「従業員も客も、皆が団結して事に当たらなければならないと言ったのは支配人だったのではないの?」
「ならば他に手段があるのか!? 俺たちは精一杯やっている。他に取るべき方法があるのならば教えてもらいたいね」
   私にはこれが間違っていると言うことしか言えない。化け物に対抗する手段なんて持っていない。
「やめて――。マリエラさん」
   小夜が割って入るように口を出した。
「私ならいいんです」
「良くないわ!」
   たとえ何の手段を持っていないとしても、私には小夜を差し出すことなどどうしてもできないと思った。まだ若い、少女。彼女にはまだこれからの時間がある。かつて、私の娘が理不尽に奪われたその時間が。それならば
「私が、代わりになるわ」
   そう。できれば私はなりたかった。娘の身代わりに。
「マリエラさん」
   小夜は驚いて私の顔を見つめたが、目を伏せて唇をかみしめた。
「だめです」
「子供を守るのは親の務めよ」
   そのとき顔を上げた小夜の目を私は忘れない。
「大丈夫です。私は、子供じゃないから・・・」
   まるで憐れむような、理解したような、そんな瞳。その目の色に、何も言えなくなるような――。
「ハジ――」
   呼ばれて小夜の傍らに寄り添う黒衣の青年の姿を見たとき、私は自分と小夜との間にはっきりした一本の線が引かれているのを感じた。それは最初から引かれていて、私が気がつかなかっただけなのかもしれない。
   遠くに行ってしまう・・・・。
「私が、決めたんです。囮になると」
「小夜・・・・」
「ごめんなさい。でも、嬉しかったです」
   それからハジに向かったうなずきかけ、ホイヤーに言った。
「私たち、どこに行きましょうか?」
「わかった。悪いがやってもらおう」
   私はホイヤーと打ち合わせている小夜をただ呆然と眺めていることしかできなかった。




「良かったのですか?」
   二人でホイヤーに指定された部屋へ移った後、ハジは静かな声で小夜に尋ねた。
「うん。対応できるのはきっと私たちしかいないから」
   そう言いながら、小夜の目は食堂の方へと向いていた。
「人との繋がりを大切にした方が良いときもあります」
「ううん。そんなことじゃないの。あっちへ戻りたいとも思ってないし。・・・・さっきね、マリエラさんと話をしていてね、わかったんだ。誰にでも、他の人には言えない辛いことがあるんだなあって。いろんな想いを抱えて、いろんな人と出逢っていくんだなあって、そう思った。
   だから私、やっぱりそういう人たちの、そういう思いを失わせたくない。守りたい」
   ハジは最初から、少女が囮になることを反対していたのだった。ごめんね。小さな声でそういう小夜に青年は首を振った。
「それがあなたの望みなら、私はそれに従うだけです。決して間違ったことではありません」
   少女の想いを受けて、最初に否定していたそのことを、今は肯定してくれる。そして肯定する彼自身が、対応する事態の重さを痛切に感じているのだろう。それを感じるから、小夜は黙ってうつむくしかなかった。ディーヴァの眷属とは異なる、自分の血が効かない翼手に対して。
「首を斬り落とすか、炎で焼き尽くす――焼き尽くすことはできない。それなら首を狙うしかない」
   ホイヤーの許可を取って、武器庫から剣を持ってきたが、最初の小夜が武器庫で立ち向かった時に使った剣はもう刃毀れしていて使い物にならなかった。『赤い盾』が用意していたあの刀が、どんなに優れた技術で作られていたのかを痛感する。その代わり、少女は何本もの剣を武器庫から持ち出してきて並べていた。
「シュヴァリエと同じだと考えていいと思う」
   薬害とは異なり、本能のままに向かってくるようなことはしない。ただ、恐らく集団では襲ってこないだろうという予感もあった。個体数も2体いるかどうか。となれば決して倒せないわけではないと少女は思った。少女にしてみれば、これは皆と離れる一つのチャンス。人に見られないで戦える場所の確保でもあった。
   二人が今いるのは、食堂からそれほど離れていない貯蔵部屋の一つだった。あの最初の犠牲者が安置されている部屋でもあった。なんの感慨もなく、少女はそれが安置されたとおりの場所に在ることだけを確かめる。そこが選ばれたのは、犯人は犠牲者の確認をしにやってくる習性の可能性を取ったからだった。それが翼手に当てはまるのかどうかはわからなかったが、他に取り得る手段もない。
   それを知ったとき身体を震わせるようにして抗議してくれたのもマリエラだった。
『どうして、死体と一緒の部屋になんて――』
『犯人が化け物でも人間でも、自分が殺した死体は気になっているはずだ。そこにいてもらうのが一番いい』
『小夜の気持ちを考えて。自分から矢面に立ってくれるって言うのに、よりにもよってこんな暖房設備もないような場所でなんて。ほとんど冷蔵庫じゃないの』
『それでも建物の外気よりはまだ温かいはずだ。防寒着を着込んでいれば大丈夫。――悪いがこっちも必死なんです。余裕はないんですよ』
   万が一に備えて食堂の守りを固め、小夜たちが襲われたのがわかった時点で客を逃がして扉を固定してから自分たちも逃げようというのが彼らの計画だった。
   ただ問題もある。襲ってきたあの翼手は、本当に自分を狙っていたのだろうか。もしも違っているとしたら、囮になる意味はなくなる。そして食堂に集っている人たちは無防備に危険に晒されることになるのだ。それから逃げる先だが、外は視界の利かない吹雪になっている。建物内部で転々と場所を変えて逃げ回るしかない。どこまで逃げられるか、限界がある。
「私が、私たちがやるしかないんだよね」
   持ってきた武器を握りしめながら、固い声で少女がつぶやく。それは随分昔、再び闘いに身を投じようとしていた少女が自分自身の決意と不安に揺れていた、あの遠い記憶を彷彿とさせるような声だった。








以下、続く。。。



2012.04.07

  頑張ってハジ小夜成分を醸し出そうとしているのが良くわかる回になってしまった。。
   どんどん訳の分からない度が進んで行く今日この頃。ここから走り気味になっているので書き直したい。。が。現在プチオンリーの原稿中のため、中々進んでおりません。orz。。

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