16.

   「ハジ・・・・」
「大丈夫です」
食堂へ戻るとなったとたん、小夜が不安そうな顔でハジを見上げる。ハジは監禁されているにもかかわらず、そこを強行してここへ来たのだ。確かにミハイが不審そうに言うのも無理はないと思う。だがハジは、自分のリスクを考えずに小夜のために行動した。それを非難する謂われはないはずだ。
一方のミハイはかなり不服そうだった。ハジが監禁されることについて、自分の発言も影響しているのではないかと気にしていた割には態度が悪い。
「あんたは本来ここにはいない人間のはずだ」
「でも、ハジが来てくれたから小夜も、私たちも無事だったのよ」
「格好よく登場して、英雄(ヒーロー)気取りかね。だがあんたの疑いは晴れていない。いや、部屋を破ってここまで来たことによって益々立場が悪くなるだろうな」
「ミハイ。何が言いたいの? ハジは最初から自分が犯人ではないと言っているじゃないの」
ハジが監禁されたのは、マリ・シールの不安を鎮めるため。彼と同じような黒衣の人物を見たと言う彼女とミハイの言葉のためだったと言うのに。それに素直に従っていたハジを、ここまであからさまに言うなんて。私は憤っていた。大体、最初、私がそれまで行方不明だったミハイを見つけたとき、手伝ってくれたのはハジだったのだ。言わば恩人とも言えるだろう。彼はハジの隣にいる小夜に目を向けた。私は思わずミハイの方へ一歩踏み出した。ハジと共にいる小夜にまでミハイの非難が向けられたらたまらない。小夜は自ら進んで危険を冒して電源を入れに行くことを申し入れるような少女なのだ。
だが反対に彼は小夜のことを心配していたのだった。やはり女の子だからか、怪我をしたり怖い思いをしていないか気にかけているようだ。そう言えば、彼にも一人娘がいたという話だった。
「やっぱりおれ一人が行くべきだった。食堂に帰ったらゆっくり休ませてもらおうな」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
そう言いながら、無意識にだろうか、ハジの傍らにぴたりと身を寄せるようにしている小夜は、なんだか微笑ましかった。守りたいのか、護られたいのか。ハジの方はほとんど表情を変えなかったが、いつものことのようで私はこの短時間にすっかり慣れてしまったようだった。
私にはハジに対して恐れも疑惑も少しも湧いてこなかった。多分、最初に彼の演奏を聴いたからかもしれない。ああいう独奏というのはどうしても演奏者の内面が出るものだ。悪いものではなかった。むしろ純粋すぎるくらい、いや何と言えばいいのか、純粋さと老成を綯い合せたと言ったらいいのか。不思議な演奏だったのだ。
このことに関しては私は自分の勘に自信があった。だからこうして二人を見ているのも悪いものではないと思っていたのだ。だが食堂に帰り着いたとき、そんな私の気分を吹き飛ばすような出来事が私たちを待っていたのだった。




「一体今まで何をしていたんだ?」
突然フロント係りのホイヤーが私たちを見るなり噛みつくように言い、私は面食らった。
「何を言っているんです? 私たちは電源を入れに行ってきたんじゃありませんか」
「どうしてこんなに時間がかかった」
「こんなにって・・・・。どういうことです?」
自分の言い方がきついものになってくることが止められない。私たちは化け物に襲われて、それでも電源を入れることに成功して帰ってきたと言うのに。だがホイヤーの口調も止まらなかった。そこへ料理長がやってきた。
「どうもこうもない。それに、なぜハジが一緒にいるんだ?」
「扉が破られてた――あんたが破ったんだろう?」
料理長がホイヤーに重ねるようにして問いかける。彼もフロント係同様、険しい顔でハジを見つめていた。――ミハイの態度から少しは予測できたことだったが、皆のハジに対する視線は敵意に近いものがあった。どうやらハジが監禁されていた部屋から扉を破って出たことは彼への疑惑を決定的にしてしまったらしい。ハジが扉を破った直後、彼らは物音に気がついてその部屋を見に行き、頑丈な扉があっさりと破られたのを見て驚愕した。
私たちが地下へ行っていることもあり、ヤキモキしながら私たちを待っているところへ、涼しい顔でハジが小夜や私たちと一緒に帰ってきたので彼らは再び驚くと共にハジに対する疑惑はより一層強まった。
どういうことなのか、今すぐ答えを聞かせてもらいたいと厳しい口調で言うホイヤーに対して、ハジは全く無表情でその視線を受け止めており、逆に小夜の方がまるで焦っているように口をはさんだ。
「あの、ハジのせいじゃない。私が悪いんです。私がハジを呼んでしまったから」
「呼んだ?」
じろりとホイヤーがハジを見返し、小夜はあの・・・・と口ごもった。
「呼んだだと? あんたたちは地下にいた。それなのにそんな声がどうして聞こえる? いい加減なことを言うんじゃない。
第一、あの扉は頑丈な木材でできていたはずだ。おいそれとは壊れないのに、どうやった? それに、疑われていると知っているのに、どうして出た?」
「それは・・・・。私が、呼んだから・・・・」
矢継ぎ早の質問に、小夜の声が小さくなる。そのときになって、私はハジがどんな類の危険を冒してあの地下室に、小夜の元にやってきたのかを認識した。ハジは自分が疑われるかもしれない立場にいるのを知っていた。こうして無理やり小夜の所に来れば、どんな疑惑が深まるのか、自分にどんな不利になるのかわかっていた。わかっていながら小夜の所へ来たのだ。
「待ってよ。私たちは電源を回復させてきたのですよ? それに・・・・。ハジは小夜を助けに来てくれただけなのに」
「助けにだって?」
「どういうことです?」
「また出たのよ。化け物が――」
小夜が襲われた――。だがそのことを言う前に、ミハイが言った。
「小夜は俺たちをかばって、大変な目にあっていたんだ」
皆の視線が自分に向けられ、小夜は恥ずかしそうにハジの上着を掻きあわせた。
「そいつは・・・・」
はっと小夜が首筋を押さえたので、フロント係りを始め、皆はぎょっとなった。だが小夜は慌てたように首を振った。
「大丈夫です」
「血を・・・吸われそうになったのか?」
小夜がうなずくのを見て、私は慌てて出入り口付近に積んであった防寒用ショールのようなものを取り上げて、小夜に着せかけた。自分のブローチで止めてやると、青年の大きな上着よりも小夜の身体にはずっと馴染んで私はほっとした。青年の上着を身につけているだけでは、何と言うか、華奢な肩に対してその大きさが痛々しく感じられたのだ。
「じゃあ、やはり犯人は・・・・・」
『吸血鬼』という言葉をホイヤーは飲み込んで、白い顔の小夜を見つめた。
「休ませた方がいい」
ミハイが割って入るようにホイヤーに向かってそう言った。
「厨房に・・・・」
「マリ・シールはどうしていて?」
「おとなしくなさっていらっしゃるようだ。ダーナが時々様子を見ている」
仕事を押し付けてしまったようで私はダーナに悪いことをした気分になったが、今は小夜の様子が気がかりだった。厨房で休ませてやらなくては。だがホイヤーはハジの姿にひどく険しい顔をした。
「ハジの疑いは晴れてはいない。それに、お客様を刺激するようなことは止めてもらわなくては」
「じゃあ、小夜だけでも厨房に」
だが拒否したのは小夜自身だった。
「私、大丈夫です」
「いいや。休んだ方がいい。中にはダーナもいる」
「いいえ。私は、ハジと一緒にいます」
自分のために監禁されていた部屋を抜け出してきたハジを気遣っているのだろう。ハジが何かを言おうとしていたが、小夜がそちらに強い視線を投げ掛けたので黙ってしまった。それでも彼のわずかな不服がこちらの方にも伝わってきて、彼が小夜をどれほど大切に思っているのかがわかる。こんな状況だと言うのに、私はほんのりと心が温まった。
だがそのとき
「誰か――。来てください。お客様の――マリ・シールさんの様子がおかしいんです」
ダーナだった。ハジの処遇に苦い顔をしていたホイヤーも、ミハイも、その場にいた従業員全員が食堂から厨房へと急ぐ。食堂にいた他の客たちの何人かがちらほらとこちらを見ているのが気にもなったが、私もそこまで考えている暇がなかった。
厨房に入るとマリ・シールが髪を振り乱して苦しんでいる姿が目に入った。
「どうしたの!?」
駆け寄ろうとした私を止めたのはマリ・シール本人の悲鳴のような言葉だった。
「来ないで!」
「どうなっているの?」
「食事をなさっている最中に、突然苦しみだして・・・・」
その後、彼女は繰り返し吐き戻し、身もだえするように苦しみだしたと言うことだった。
「来ないで!なぜ、私が・・・・」
彼女はちらりとハジの姿を見かけると、さらに混乱の度合いを深めた。
「なぜ!? なぜあの人がここに? 私は彼が怖いと言ったはずだわ!・・・・私は・・・・。私が――」
その恐慌とも言える異常な状態に、私もどうしてよいのかわからずにマリ・シールを宥めようと手を差しのばそうとしたとき、不意に傍らの小夜の姿が頭を押さえるようにしてよろめいた。
「小夜・・・・?」
花が散るように倒れ込む小夜の身体を、しっかりとハジが受け止める。小夜の顔は先ほどよりも真っ青だった。マリ・シールを見つめて小夜は唇を震わせていた。
「なぜ・・・・。マリ・シールさんが――」
私は呆然と小夜を見つめるだけだった。




マリ・シールがハジを見止めたとき、小夜は恐れていた事態になることを覚悟して身体を固くしていた。マリ・シールが勝手に監禁されていた場所から抜け出してきたハジを一番糾弾することはわかっていた。なぜだかマリ・シールはハジを異常に怖がっている。庇うように前に出たが、それでハジの姿が隠せるはずもない。
「来ないで!」
ハジに対する叫びは自分自身が鞭打たれているような痛みを小夜にもたらしていた。思わず目をつぶる。だが小夜が目を開いたのは、そのとき、その場にそぐわない微かな歌声を聴いたからだった。
(なに・・・・?)
透き通るような声。瞳だけでその音源を辿った小夜は目の前に信じられない光景を見た。マリ・シールの肩を抱くように、幽霊のように透明な女性の姿が彼女の身体に巻きついている。自分のものだとでも言うように、愛おしげに所有を主張して。まだ若い女の姿。その姿を見た途端、小夜の身体からそちらに向かって、力が流れ去っていくのを感じた。眩暈を受けたように身体が震える。そのまま少女はよろめいてうずくまった。その肩を押さえるようにハジが支えてくれる。
その力強さが嬉しかった。
「なぜ、なぜマリ・シールさんが――」
小夜にはわかった。あの姿は、自分の夢の中に出てきた女性。自分と彼女の絆のようなものを感じる。
(あれは・・・・誰・・・・? あなたは・・・・誰・・・・?)
彼女は小夜に向かってにっこりとほほ笑むと、後ろから身体を巻きつけるようにして、マリ・シールの右の額隅にくちづけした。
『あなたには感謝するわ』
(え?)
『あなたがやってきたから。だから、私は自由に・・・・』
(私の・・・・私の・・・・せいなの?)
彼女はふふっと笑った。その笑顔は在りし日のディーヴァそっくりだった。
(ディーヴァ? ディーヴァなの?)
『あなたとあなたの姉妹の間にどんな血闘があったかなんて、私は知らないし、知りたくもない。・・・・でも、面白いこと。あなたはそれに対して罪悪感を憶えている』
不思議ね、と若々しいのに、歳月を感じされる目が小夜を見た。
『女王の理に疑念を抱くなんて。じゃあ、あなたはいったい何者なのかしらね?』
(お願い。もうこれ以上、ここにいる人たちを傷つけないで)
『もう遅いわ・・・・』
(なぜ・・・)
『だって。もうシステムが稼働し始めてしまったもの。あなたにも、あなたの騎士にも、止めることなんてできないわ。それにね――もうすでに、この人は私のものよ』
そう言って、やさしくマリ・シールの頬を撫でた後、彼女は消え失せた。
(待って・・・・)
顔を上げた小夜を、心配そうな目でハジが見つめている。
「ハジ・・・・。今のを見た?」
「?」
黙ったまま自分を見つめるハジの表情に、小夜は今の光景を見たのは自分一人だと察した。女王と女王。他にはいない。
「あの女性が、すべての元凶――この建物に出現している翼手の始祖。あの人、私の夢の中に出てきて」
「小夜?」
少女はハジの目を見て唇をかみしめた。
「マリ・シールさんが」
止まっていた時間が動き出したように、マリ・シールはハジから離れようとずるずるを後ろに下がっていった。追いかけるように近くにいたダーナがマリ・シールを止めようと腕をつかむ。だがそのとき
「え?」
いつの間にか、逆にマリ・シールの方が若いダーナの腕を掴んでいた。
「マリ・シールさん?」
ダーナの声には不思議そうな響きがあった。
「ダーナ! 逃げて!」
気がついた小夜が叫んだが、そのときにはすでにマリ・シールの雰囲気ががらりと変わっていた。まるで内側から皮が剥がれ落ちていくように、姿は変わっていないと言うのにマリ・シールの皮をかぶっていた存在が変化していくようだった。怯えた表情がどこか恍惚とした表情に変わり、微笑みを浮かべている。やがてもう片方の手がダーナの肩を掴んだ。
「ダーナ!」
夢中で叫んだ小夜が、ハジの腕の中から飛び立つようにして身体ごと二人の間に滑り込ませた。マリ・シールの腕がダーナを放し、小夜が庇うようにしてダーナを背中に押し込んだ。
「どうしたの?」
「マリ・シール・・・・さん・・・・」
微笑むマリ・シールの様子は先ほどあれだけハジに怯えていた姿とはまったく異なっていた。ひどく歪んだ、まるで生理的反応の一つであるような、気味の悪い笑い。わずかに変色しつつある皮膚の色。そして、その目は――。白めの部分にまで虹彩が拡大され、暗い二つの穴のようだった。
「な・・・・に・・・・? どうして、私・・・・、私をそんな、目で見るの?」
小夜は涙ぐみながら左右に首を振った。こんな光景をもう二度と見たくなかった。
「どうしてみんな、私から、逃げるの・・・・?」
「嘘・・・・」
小さな声でダーナが喘いだ。誰も動く者がいなかった。不用意に身体を動かしたら、この場の緊張が途切れてしまう。そのとき、真っ先に襲われるのは目の前の二人の少女なのだと言うことを、誰もが了解していた。皆の見ている前で背が曲がり、皮を破るように衣服が破れて身体が盛り上がっていく。すでに背丈は二人の少女をとうに越え、さらに大きくごつごつとした身体に変化しつつある。――異形だった。誰もが息をすることすら忘れ、その姿に、変化に見入っている。
そのとき、大きな黒い物体がマリ・シール――いや、マリ・シールだった存在を押しつぶすように、凄まじい勢いで投げつけられた。強い衝撃と破壊音がした。正確に頭部をめがけて投げつけられたそれは箱のような形状をしており、変化の途中でマリ・シールはひしゃげた身体を残して頭部をつぶされ、黒っぽい液体と共に何回か痙攣のように身体を震わせた後、ぴくりとも動かなくなってしまった。
沈黙がその場を支配する。
「どうした?」
「何があったんだ?」
食堂の方から声がして、初めてその場の空気が動き出す。ここが食堂から間仕切られた場所であることは幸いだった。
「大丈夫です。なんでもありませんから」
いち早く正気に戻ったホイヤーが中から声を発した。
「物が壊れただけです。今、片づけてますから」
そう言ってからホイヤーはすぐ傍に全く無表情で立ち尽くしている青年のことをまじまじと見つめていた。今、投げつけられたのが、いつの間にか持ち出されていた青年自身のチェロケースであること、それがこの細身の青年のどこからそんな力が出てくるのか、信じられない力で投げられており、マリ・シールの頭部を綺麗に押しつぶすほどであったことを見て取ったからだった。








以下、続く。。。



2012.03.23

  すみません。。どうしても私が書くとどんどん話が黒くなる。。
   ハジ小夜成分があるのかないのかよくわからない、訳の分からない話になってしまってすみません。。
   もうしばらくお付き合いくださいませ。。。24話+エピローグで終了予定です。

Back