15.

   翼手が奪った少女の血はそれほど多くはなかった。やはり別種の女王の血は口に合わないのか、それとも単なる味見だけだったのか。だが反対にその牙はやけに長く少女の肌に留められ、小夜はその間中為されるがまますべての力を奪われて、時折小さく身体を痙攣させるだけだった。弱々しくあがく少女の力を嘲笑うかのように奪わずに、さらに深く牙が沈められ少女は喘いだ。
   次の瞬間、突然周囲の闇より黒い影が滑り込むように翼手と少女の間に割り込んだ。一瞬早く気がついた翼手が、あっさりとその牙を細い少女の首筋から引き抜き、攻撃を避けるとともにまるで襤褸人形でも投げ出すかのように少女の身体を青年に向かって投げつける。力の抜けた少女の身体は力強い腕に抱き留められていた。
   一瞬強く抱き締められた後、壊れ物のように丁寧な仕草で床に下ろされる。だが少女は感覚をかき乱されたまま、ぼんやりと視線を漂わせていた。呼吸が浅い。身体に力が入らなくて指一本動かせない。肉体的というよりも、精神的な衝撃が大きかった。遅れて身体中に細かい痙攣にも似た震えが走る。身体の反射に翻弄されながら、少女は必死に目だけを動かそうとした。霞む視界の先にハジがいた。見慣れた黒い衣服とその背中。自分を守るように立ちはだかっているハジの姿に心底ほっとすると同時に愕然とした。これほどまでに怒りに満ちたハジを見たことはなかった。後姿からさえもわかる、震えるほど激しい怒りが青年の身体全体を覆っている。
(ハジ・・・・)
   相手は面白そうに青年を見つめると一歩下がり、それから口の中にあった血液を吐き出した。その瞬間、それが先ほど奪われた小夜自身の血であることを青年も少女も理解した。それが意味しているものを。――つまり、あの行為は飢えを満たす吸血という行為ですらない。単に女王を貶めるためだけにこの翼手は小夜から吸血したのである。わざとらしくそれを示すため、そして自分の余裕と優位を示すため、二人の目の前でその小夜の血を吐き出してみせたのだ。それがわかった途端、小夜の身体が激しく震えだした。まるで、自分自身のどこか大切にしていた部分が汚され、穢されてしまったようだった。
   人間と同じような精神を持つとは言え、翼手の女王としての小夜にとって、それでも吸血という行為は神聖なものであった。かつて、血を奪われたことがなかった訳ではない。ディーヴァのシュヴァリエの一人は、共に死するために小夜の血を奪った。だがすでにディーヴァもディーヴァのシュヴァリエたちも滅び、小夜の血を求めるものもいない今、この強制的な吸血行為が意味するものは単なる侮蔑に過ぎなかった。
   そしてもう一つ。小夜はすでに無垢ではなかった。それが吸血とどのように結びつき自分自身に作用するのか、それまで小夜にはわからなかったのである。夜のもたらすもの、その陶酔と快楽。吸血という行為に付随するその感覚が。吸血によってどのような感覚が引き出されるか。だが今、小夜にはわかってしまったのだ。
   身体中をおぞましさが走る。未だ起き上がることさえできないまま、引き裂かれた衣服を掻きあわせ、翼手に吸血された首筋を辿り、小夜は震えながらその感触を確かめた。すでに傷そのものは跡形もなく消え失せている。だが未だ残っているあの感触。焼き切ってしまいたいほどの。
   少女は自分自身を守るように肩をすぼませ、傷のあった首筋を覆いうずくまった。身体が芯から震え出す。だがそのとき、覚えのある気配を感じた。ハジから。何かがハジの内側から奔出し、その存在全体を取り巻いているような。小夜は目を見開いて自分自身の騎士を見つめた。ハジがかつてないほどの怒りをその身をまとっているのがわかった。いつでも少女のことを自分自身よりも大切にし、それゆえに自分の感情すらも置き忘れたように感じられるあのハジが。その両手が変化していることに、少女は気がついた――。対峙している相手と同様の形態、翼手のそれに。
   無言のまま高速で動いた青年が相手に肉薄すると、その衝撃とともに相手も強靭な腕で青年の攻撃を受け止めた。互いの力はほぼ同じだった。赤黒く、関節が飛び出したような異形の手と手。常に静謐な雰囲気を漂わせている青年の姿の中で、人間でないものの証明のような突出した両の手だった。ぎりぎりと音がするほど両者の力が拮抗し、硬質と硬質が擦れる嫌な音が響く。相手の翼手はまだ人の姿のままを取るハジよりも一回り大きく、体格でハジを圧倒しようと上から力で押し付ける。まるで火花が飛び散るように、金属製の音にも似た不快な音が響き合い、わずかな軋みに両者の力の移り変わりが表われていた。押す力、引く力。微かな駆け引きの応酬が空気を震わせ、やる者、やられる者の推移が細かな均衡をとどめた後、やがて青年の力が徐々に相手を凌駕し始めた。そのときになって初めて、相手の余裕がわずかに揺らいだ。
   上から押されていた力の重心が、緩やかに上方へと移行していく。翼手の上半身が仰け反り始めたとき、相手は身体を半分開くようにしてハジの攻撃をそらせ、その反動を利用しようとした。だが青年は逆にその勢いを利用して、相手の首筋辺りに手刀を喰いこませようとこちらも身体の向きを変化させる。その攻撃はぎりぎり相手の頭部を掠めて逸れた。血が滴る。
   翼手が再び押しかかるように爪を打ち下ろしたとき、青年の行動は一瞬速かった。躱されたその攻撃の隙間に入るように、今度は青年が上から打ち込んだ攻撃を、翼手の爪が押し留める。
   そのときだった――。
「ハ・・・・ジ・・・・」
   少女が小さな声で青年を呼んでいた。とたんに青年の力が一瞬ほどける。――その瞬間を逃さず翼手は床を蹴り、青年との間隔を取った。同時に青年が庇うように少女に寄り添う。一頭身ほどの距離に対峙している二つの影は、互いに翼手でありながらその手以外は全く似通ったところがないモノだった。激しいほどの蒼い瞳と興味と皮肉とわずかな嫌悪の色をはらんだ赤い瞳。一瞬鋭い視線が交された後、翼手の方が闇に溶け込むように姿を消していった。含み笑いのようなものが響いたような気がする。ハジがはっとするほど厳しい顔で気配を追ったが、既に気配はない。
   そのことを確認してから青年は少女の様子を確かめよう向き直り、その様子にひどく心配そうに眉を寄せた。
「いやだ。いや・・・・」
   見ないで――。少女は青年にさえ聞き取れないほど小さな声で繰り返し、もがくようにして身体を起こそうとしていた。衰弱が激しく、取り乱したようなその姿のまま。思わず抱き起こそうとした腕の中で、だが小夜は小さく首を振った。
   見ないで、見ないで。怯えたように繰り返して傷つけられた首筋をその視線から避けようとする少女の姿に痛ましげな目を向ける。なおも少女は弱弱しくあがいた。
   はっきりとした意志を持つ翼手のおぞましい好奇の目。そして、ハジの視線。今までハジの前ではどんなことでも安心していられたのに。貶められたこの、首筋。自分自身への嫌悪感。這い上がってくるあの感覚。吐き気がする。自分自身が許せない。私に、触れないで――。けれどもすでに小夜の体力は限界だった。弱々しく足掻いて離れようとする少女の身体を青年は痛みとともに強く抱きしめた。一瞬小夜は震えあがった。一人で抱え込んでいた苦痛の壁を、もっとも知られたくない相手に開かれる。けれども青年にはわかっていた。たとえ拒否されようとも、今ここでこの小さな肩を抱きしめなければならないことを。彼こそそれを最もよく知っている者の一人でもあった。その拒絶と苦悩をそれごと抱え込まなければ、今のまま苦痛は深い傷となって少女の心を蝕むことになるだろう。だから青年は固くその華奢な身体を離さず、益々強く抱きしめた。身体ごとその苦痛を癒すように。なおも身悶える小夜が、やがて落ち着きを取り戻すまで。辛抱強く。
   少女にとって重荷にもなりかねなかったその腕が、すべてを飲み込んで守るように回されている。いつの間にか人間の形に戻ったその冷たい手が、繰り返し繰り返し、小夜の髪を撫でていた。
   その腕の確かさに、感触の暖かさに、少女の中に徐々に冷静さが戻ってきた。ハジのやさしい手。どんなことがあっても揺るがない手。自分自身の身体があり得ない快楽に曝されたとしても、その事実そのものがひどく忌まわしく、後ろめたい苦痛をもたらしたとしても、今はそれを追いやって考えなければならないことがあることということを、小夜はその確かさの上に思い浮かべることができた。自分で自分を許すよりも前に、ハジは少女を受け入れて許しを与えることすら必要でないことを絶えずわからせてくれる。
   身体を大きくふるわせた後、小夜は青年の胸から顔を上げた。
「ごめん。ハジ・・・・。なんでもないよ。――もう、大丈夫だから」
   取り乱した自分を恥じるように、小夜は身体を離そうとした。まだ力無く震え、冷たく強張った身体を無理やり動かしながら。
「マリエラさんたちを、見に行かなくちゃ。それに電源を入れなくちゃ」
   それでもハジの視線から首筋を隠すようにして、震える喉から必死で言葉を絞り出し、立ち上がろうとする小夜の腕を青年が強く引いた。
(え?)
   再び力強い腕の中に抱き留められ、少女は訳が分からず戸惑った。一瞬、ハジは小夜の頬に慰めるように触れていき、それから自分の襟を寛げる。
「小夜・・・・」
   白い首筋が差し出された。雷に打たれたように小夜は身体を震わせた。少女にとって今当然必要とされている行為。こうまで衰弱しているならば、回復させるにはシュヴァリエの血が必要なのだ。
   だが今まで当然のように行われていたその行為を、少女は身体を固くして首を振った。
「できない」 とうとう少女は言った。
「私、できない。できないよ」
   今、自分自身の首から血を奪われて。その同じ行為を、ハジにすることなどできなかった。どこかで声を上げて泣きたい自分があった。涙を見せたくなくて小夜が目をつぶったそのとき。真新しい血の新鮮な匂いが鼻腔をくすぐった。
(え?)
   思う間もなく、さらにしっかりと抱きしめられると頤をやさしく、だが有無をも言わせずに持ち上げられ、唇が降ってきた。やわらかく唇がこじ開けられ、深く深く。結び付けられるとともに口の中に、少女の身体が一番必要としているモノ、新鮮な血液が流し込まれる。一番甘く、一番馨しく、自分自身の一部となる血液。帰属の血。ハジの血――。
   一瞬目を見開き、少女は力いっぱい抵抗した。鋼鉄のような腕の中で悶える小さな小鳥のように。だがその抵抗はやがて収まった。がくりと肩を落とした後、小夜は身体中の力をすべて抜き、青年の腕に身を委ねた。少女が何を思っているのか、何を怖がっているのか、言葉にしないままに理解をし、それでも必要としているモノをこうして与えてくれているハジ。少女の眦から涙が一滴、零れ落ちる。
   少女の腕が上がって青年の衣服をしっかりと握りしめた。




   しばらく朦朧としていた意識がようやく戻ったとき、私は自分の額がずきずき痛んでいるのを意識した。思わず触れてみると、温かな濡れたモノが手につく。ああ、出血しているのだな、と他人事のように感じた。それよりも気になっていたのが小夜だった。私には物音しか聞こえなかったが、気配はしていた。何かが、何か大きなものがここにいた。そして小夜が・・・・。
   とにかく明りが必要だった。そのときだった。がくんと音がして、何かが上がる音。それが1,2,3・・・・5回ほど続いた後、突然システムが光を放ち始め照明がついた。
「復旧した?」
   思わずつぶやいた声にこたえるかのように
「無事か?」
「ミハイさん!」
   そのときのミハイの姿ほど力強く頼もしく感じられたものはなかった。ミハイも私と同じように額から血を流しているようで、なにやら頭に布を巻きつけてある。今の音は彼がブレーカーを入れ直した音だったのだ。
「無事だったのね」
「なんとか、という状態ですがね。お客様もご無事でよかった。小夜・・・・は?」
「わからないのよ。私もたった今、気がついたばかりで――」
   そうじゃない。私はうっすらとした記憶の残り香のようなものが頭の隅をかすめているのに気がついた。一瞬だけ取り戻した意識の中で、小夜の声がしていた。この部屋の外から――。何か大きな獣のような気配。物音。そして小夜。再び気を失う直前、小夜は私の見ていない何と対峙していたのか。
   化け物、という言葉が頭に浮かぶ。従業員達がおびえていたのはなんだったか。小夜やダーナが出会ったのはなんだったのか。見回した私の目に、熊手のようなものでひっかいた痕がある扉が映った。そうだ。あのとき、小夜は何かと格闘しているようだった。あの華奢な身体で。必死になってあの娘は――。私たちが気を失っている間に。
(小夜。無事でいて・・・・)
   いつもどこか必死だった小夜。恐ろしいはずなのに、そんなそぶりも見せなかった小夜。健気で、どこか他人とは異なって、でも人恋しそうにしていた大きな目。
   そのときまで私は最悪の事態を予想していた。ミハイや私が何故無事でいられたのか。化け物だって若い少女の方が良いに決まっている。なんで逃げなかったのか。憤りすら感じて私は胸が痛くなった。どうしてこんな所まで自分で来ようとしたのか。どうして大人しくしていないのか。ハジが監禁されていく姿を凍てついたような目で見つめていた少女。まさか自分のせいだとでも思っているのではないのか。もしもそれならば、私は・・・・。
   私は少女の無惨な姿を見たくないと言う気持ちと、それでも確認しなければ、という気持ちとに引き裂かれながら、恐る恐る部屋の外をのぞいてみて――。驚いた。
   そこに見たのは、今ここにいるはずのない人物。監禁されているはずのハジの姿だった。非常灯のわずかな明かりの中で、黒々と彼の黒衣は際立ち、白い彼の顔色と対比していた。まるで背中に闇を負っているように。けれどもそれよりも、私が腰を抜かしそうになるほど驚き、同時にほっとしたのは、ハジの腕の中に小夜の姿を見たことだった。
   ハジは固く、腕の中に少女の身体を抱きしめていた。白い花を抱くように。その腕の中で小夜は本当に華奢で弱々しく見え、私は胸を衝かれた。ただこの青年の腕の中でだけ見せる、すべてを委ねきった一番弱い姿のようにも思える。ハジは愁眉を寄せ、今までになく憂いに満ちた顔をしていた。まるでようやく取り戻したものが消えうせるのを恐れているように、どことなく周囲を寄せ付けないような、いや、自分から関わりを断とうとしているような、他人を寄せ付けない雰囲気をしていた。今までもどこか浮世離れしているような雰囲気をかもし出していたというのに、一体何があったというのか。
   だが次の瞬間、私は小夜が怪我をしている可能性に思い至り、慌てて彼らに近寄りながら声を掛けた。
「小夜・・・・。何があったの?」
   私の声に気がついたのか、ハジの腕の中で小夜は身じろぎして顔を上げた。黒衣の腕が解かれて、その中からゆっくりと少女が身体を起こして立ち上がろうとする。まだ足に力が入らないのか、よろめく身体を青年が支えようとする。まるで介助するように。
   だがそのとき、その拍子に小夜の衣服の左肩辺りからそれまで覆われていた布がぱらりと落ち、私の目には少女の衣服が裂かれていることがわかり、私は自分の頬から血の気が引くのをはっきりと感じ取った。ハジがどうしてそんな風に小夜を抱き締めていたのか、化け物と対峙していた小夜に何があったのか。私は嫌な考えに思い至り、一瞬のうちに胸が悪くなった。
   小夜が慌てたように前を押さえると、青年はこの気温にためらいもせず上着を脱いで少女に着せ掛ける。
「小夜・・・・。無事・・・・なの?」
   私は自分の声が震えているのがわかった。
「大丈夫です。マリエラさん」
   小夜の声は思ったよりもしっかりしていて、私はほっとした。
「服を破られただけ。ハジが来てくれたから――」
「服を、破られたって・・・・」
「それよりも気をつけてください。マリエラさん。ヤツはまだいます。近くにいるのかどうかはわからないけれど」
   あんな化け物と対峙していたのに、小夜の声色には怯えはなく、ただ自分に対する失望と何かに対する焦りのようなものが感じられ、それが少女の外見とは不釣合いに思えて私には不思議だった。でも小夜は小夜なのだ。
「私・・・・」
   そう言って青い顔で小夜が首を押さえたので私は再び顔色を失った。『吸血鬼――』そうマリ・シールは叫んだのではなかったか。急いで小夜の元へと走り寄る。近寄って私が小夜の手をやんわりと退けると、そこには傷一つない真っ白な肌が表れたので、私は再びほっとした。隣でハジの雰囲気が鋭いものに変わったような気がしたが、構ったものではない。私には小夜の具合を看る義務感のようなものがあると思ったのだ。
「良かった・・・・。本当に無事なのね」
   小夜が未だに青い顔でうなずいた時、
「ハジ!あんた、どうしてここへ・・・・」
   ミハイだった。その問い掛けに幾分非難めいた色を聞き取り、私は密かに憤った。
「あんたは閉じ込められているはずじゃなかったのか?」
「ハジが小夜を助けに来てくれたから無事だったそうよ」
   ミハイと同時にどこか噛みあわない別々のことを言いながら、それでも取りあえず三人、いや四人とも無事で私はほっとしていた。電源も無事に復旧している。とにかく早く食堂へ戻りたかった。








以下、続く。。。



2012.03.09

  すみません。色々とさらっと。。本当はもっとハジを戦闘させたかったのですが、ちょっと設定的に力不足でヌルくてすみません。。
   ですが前回と今回のことを書きたかったのもこの話を作った動機でもありますので脳内放出できて満足です。
   多分、25話で終了予定。多分ですが。。。

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