13.

   マリ・シールが放った『吸血鬼』という言葉は、なぜだか支配人の心情を揺さぶるものだったらしい。だからだろうか、ハジの身柄の拘束とともに彼がすぐに行なったのは、亡くなった客人の遺体の確認だった。本来警察が来るまで遺体を動かさないことは鉄則なのだが、いつ止むとも知れない冬の嵐には即時の対応は期待できず、加えて建物の中は暖房が入っている。彼が遺体を貯蔵室に移動させたのは苦肉の策だった。
   客への対応のためにダーナとミハイを残し、他の従業員を引き連れて、支配人は貯蔵室の扉を開けた。何を恐れているのか、できるだけ大勢で事に当たりたいと支配人は思ったのだろう。ハジと共にここへやってきた人間だとわかっているのに、彼はこの確認に小夜をも同行させていた。ハジを本当に疑っているのか、それとも客の一人を鎮めるために仕方なくハジを監禁したのか。支配人の行動にはよくわからないものがあり、それは小夜をどちらつかずの奇妙な不安に陥らせていた。
   案内された貯蔵室はひんやりとした廊下側よりもさらに気温の低い場所だった。横たえられていた遺体はそれだけで無惨なものを感じさせる。長期滞在の客ではなかったが、少女にとっては逆説的な意味で印象深い人の一人でもあった。何かと目を光らせていて、何度も呼び止められて答えに窮するような質問を投げ掛けらたこともあったし、対応が悪いと怒られてばかりいた。どうして自分が目をつけられてしまったのか、わからないままどうにかダーナやマリエラに庇われて対応してきた。それでもこんなことを望んではいなかった。横たわる姿は痛々しく、この理不尽に奪われた命に対して悼むと共に、彼を死に至らしめた翼手に対する怒りが身体の奥から湧き上がってくる。――少女だけは、この死体が翼手による犠牲者であると言うことを、確認される前から知っていたのだ。
   発見されたときと変わらず、蝋のように白く固まって仰臥していた。衣服にも顔や手足にも霜がおりている。だが支配人は物言わぬ死体に歩み寄ると、着衣の喉元を緩め、シャツの首のボタンをはずし、死体の首周りを明かりの中でよく見ようとした。もしも吸血鬼ならば。そして、吸血鬼の民間伝承が正しかったならば、恐らく発見されるだろうものを支配人は探そうとしているのだ。まるで医者ででもあるいは学者ででもあるかのように、何の感情も見せないまま、支配人は躊躇いも、死者に対する気遣いもなく、一個の物体として遺体を取り扱っていた。襟元を大きくくつろげさせた後、支配人は死体の首をまず右に傾ける。そこには何もない。だが左に傾けたとき。普段より幾分落ちた電燈の下で晒されたその首筋を見たとき、そこにいた者たちは皆息を呑んだ。
   そこにははっきりと痕があった。二つの穿たれた穴のように見える傷。牙の痕だった。
   一同が息を呑む間に、いつの間に用意してきたのか支配人は銀色の十字架を取り出すと死者の首にかけ、さらにニンニクの塊を胸の上に置いた。本当は死体の胸に杭を打ちこむことまでしたかったのではないかとも思われたが、そこまで流石にできなかったのは、後々警察がやってくることを考えてのことだったのだろう。支配人が遺体を調べている間、小夜は黙ったままその様子を見守っていた。翼手による死体を見慣れていた小夜には、喉元に牙の痕があることもわかっていたのだ。
   自分たち以外の翼手の存在。自分の血が効かない存在。気配が掴み取れない存在。
「やっぱり本当に。吸血鬼なのか・・・・」
   ホイヤーがぽつりと言った。
「間違いあるまい」
   どことなく満足げに支配人が言う。だが他の者達は信じられないような気持ちでその死体を見つめていた。まるで悪夢が現実のものになったような気がしているのだろう。化け物の影を見ただけだったホイヤーと料理長すらも同様だった。
   小夜は居たたまれない思いでその場に立ち尽くしていた。こうして翼手の存在が皆に知られてしまった以上、自分たちの正体も知られてしまうのは時間の問題だろう。急に少女は身体を冷たい風が吹き抜けていくような薄ら寒さを感じた。隣にハジの気配がない。いつも通り、同じ建物の中にいると言うのに、その距離の遠さが心許ない。一瞬後、そう思ってしまう自分のハジへの依存度を後ろめたさと共に苦々しく思った。こうしていつでもハジに何かの負担をかけてしまうのだ。自分に類が及ばないために敢えて拘束に同意したハジ。自分のためだけに生きているのだ、とささやいてくれたハジ。存在全てで包み込んでくれるようなハジ。眠りのたびに、目覚めのたびに。それなのに――。
   これからどうなってしまうんだろう。胸の中で小夜は密かにつぶやいていた。
――その思いは誰の胸の内にもあるものであったらしく、彼らが厨房に戻ってきて従業員の間で報告がなされた後、ミハイが同じような言葉をぽつりとこぼし、小夜をはっとさせた。




「どうしてこうなるんだろうか。これからどうなってしまうんだろう・・・・」
   厨房は、いつの間にか彼ら従業員の控えの場であり、会議の場にもなっていた。隅の方ではマリ・シールが簡易寝台でうつらうつらしている。今まで食堂でマリエラが看ていたのを、再び行方不明になったのをきっかけにこちらに移したのだった。ここならば、出入り口は食堂へ通じる扉と、いつも使っていない裏口と二つしかない。
   そんな中で支配人はこの建物の中で何が起きているのか。化け物の出現と吸血鬼の犠牲者の確認。それから停滞状態である嵐のことなど、一つ一つ確認しながら話していき、最後に仕切りなおすように締めくくった。
「少し遅くなってしまったが、とりあえず夕食の準備をしてもらいたい」
   恐ろしい痕跡のある死体を見てきた衝撃は、それでもやらねばならないことを前にすると多少は落ち着いてくる。あの死体を見ても、黒い影を見ていても、まだ現実としては認識できず、頭の中のどこかで吸血鬼などという代物を否定する方向に傾いている従業員達にとっては、それらごく普通の仕事が自分たちの現実だった。それが普通の人間の傾向なのだ。実際に見てきたホイヤーと料理長がそうなのだから、報告だけを受けたミハイやダーナは余計に何が起こったのかわかっていない。ただ何となく不吉なこと、今までにないことが起こっている、あるいは起ころうとしている、そんな認識だった。その中でダーナと小夜はただ黙々と作業をこなし、食事と配った。
   マリ・シールが行方不明になってから見つかるまでの短い間に、料理長は簡単だが身体の温まるモノ、また腹持ちが良いモノを既に用意していた。スープとしっかりとしたパンや燻製肉を細かく裂いてつなぎで固め、焼き上げたモノを野菜と共に出すなど、簡単だがレトルト食品では味わえない料理だ。今日の最後の食事を、客も従業員も不安定な雰囲気の中で流し込むように詰め込んだ。
   だがそうやって身体を動かしながらも、小夜はこれからのことを考えて不安でしょうがなかった。無事にこの夜を乗り切れれば、何とかなるかもしれない。だが翼手が姿を現した以上、このまま一晩彼らを見逃すとも思えない。必ず何か次の動きがある。夜はこれからなのだ。
   従業員は一晩中厨房で交代で仮眠を取ることにしていた。宿の客も誰ひとりとして部屋に帰りたいと言う者もおらず、食堂に集まったまま身を寄せ合って一晩明かすことになった。支配人に指示で毛布が何枚も配られ、暖炉の炎も絶えないようにされ、こうして押し寄せる闇の時間を退けるわずかな努力をしている。
   厨房ではダーナが小夜にくっつくようにして座り込んで、うとうとしていた。
「これを」
   不意に頭の上から声がした。見上げるとミハイが毛布を持って立っている。客に配った残りを従業員たちが分け合っているのだ。夜はだいぶ冷え込んできていた。
「あ、ありがとう」
   少女が戸惑ったように受け取ると、ミハイは一瞬迷ったようだったが言葉を続けた。
「悪かった」
「え?」
「あんたの、その・・・・。彼が閉じ込められたのは、俺がつまらないことを言ってしまったもの原因じゃないかって」
「そんなこと――」 それから不意に思いついて小夜は言った。
「でも、もし別の誰かがいたり、別の何かを見たと思ったら、教えて欲しいんです」
   ミハイはやせて青白い顔を難しそうにしかめていたが、やがて頭を振って言った。
「本当に何も思い出せんのだよ。思い出せたら本当にいいんだが」
「いいんです」
   多分ここにいる誰のせいでもない。小夜は自分が見たおかしな夢のことを考えていた。まるで夢の中から語りかけてきたような。そして、おかしなことが起こり始めたのはその直後。ミハイが一旦行方不明になったのも、その直後なのだ。
   もしもこの建物そのものが、翼手と関係していたら? もしも自分がここにやってきたことが、自分が30年の眠りから目覚めるように、この建物のどこかにいる誰かを目覚めさせてしまったとしたら?
   小夜はぞっとして毛布を引き寄せた。だがアレは女王ではなかった。小夜がダーナと一緒にいたとき襲ってきたアレ。武器庫で自分の血で斬りつけたとき、平然としていたアレ。アレは男性体だった。それでは女王は? 夢の中に出てきた『彼女』は?
「おい、大丈夫かい?」
   気がつくとミハイが心配そうにのぞきこんでいた。
「すみません・・・・」
   大丈夫という言葉は口から出てこなかった。代わりにこぼれたのは謝罪の言葉。もしも、自分たちがここへやってこなかったなら、もしかしてこんなことは起こらなかったのかもしれない。一瞬どこかで遠吠えのようなものが聞こえてきたと思ったが、良く聞いているとそれは単なる風の音だった。
「夜が深まっていくな」
   厨房の中で誰かがぽつりとつぶやいた言葉がやけに大きく聞こえた。




   照明は一段落としてはいたが、安全性と安心感のためにかなり光源は明るくしてあった。その光源が不安定になってきたのは、夕食を終えてしばらく経った頃だろうか。以前から不安定なときもあったが、しばらくずっと安定しており従業員は皆安心していたときだった。
   光源が強くなったり弱くなったり、瞬きを繰り返す。こういうときのために支配人は蝋燭や蓄電式のランプを随所に用意させていたのが、大きな光源が不安定になることは、従業員、客、双方に不安感をもたらしていた。
   不安定なのは光源だけではなく、温暖設備であるセントラルヒーティングシステムもおかしくなってきたのか、ある時点から急に室温が下がり始めた。
「薪をもっと足すように。できるだけ暖炉のそばに皆が集まって」
   厨房では普段は使わない炉に火が入れられた。焙肉用の炉が、本来ではない使用方法に曝されることに料理長はいい顔をしなかったが、背に腹は代えられない。暖炉の炎が勢いを増し、そのあたりだけはようやく暖かくなってくると、反対にますます高原の光は弱まっていき、皆の不安を煽った。
   そのうちに、灯りの前に薄い紗が降りていくようにすっと明りが消え失せた。一瞬、客の何人かが悲鳴を上げる。だがほっとしたことに、次の瞬間灯りは元に戻った。
「電源システムが不安定になっている――」
   とうとう支配人が難しい顔をしてつぶやいたとき、小夜はいつの間にか炉の近くで横になっていたマリ・シールが立ち上がっているのに気がついた。声をかけようとしたとき、再び光源が不安定になる。
   はっとして見回したときには、すでにマリ・シールは出入り口の方へ向かっていた。
「待って――」
「小夜?」
   ダーナが驚いたように立ち上がった小夜を見つめていた。
「マリ・シールさんがまたどこか行こうとしている。追いかけて連れ戻さなきゃ」
「も、もしかして夢遊病ってやつ?」
「かも。ちょっと待っていて。すぐに戻るから」
「あ・・・・。小夜」
   見失わないように、小夜は慌ててマリ・シールの後ろを追って薄暗い廊下に出た。
「どこに・・・・」
   見回したとき、マリ・シールの薄い色の髪が見えたような気がして、小夜は急いでそちらに向かった。彼女が向かっていたのは、あの武器庫。小夜が襲われた部屋があるあたりだったのだ。またもしも翼手が出現した。必死だった。それに小夜は夜目に強い。マリ・シールに追いついて、声をかけようと思ったとき、突然辺りが真っ暗になった。光源がまた落ちたのだ。
   うっすらと息づいているマリ・シールの温かな身体。小夜はそれに手を伸ばそうとして――。突然、動けなくなった。
(誰かが――。私を見ている)
   まるで舐めるように。ねっとりと、上から下まで観察するように。まるで、欲しくて欲しくてたまらないモノを、手を出せない状態で覗き見ているような視線。
「誰?」
   小さな声でささやくと、暗闇が返事をしているようだった。だが――
――おまえは、・・・・・違う。人間ではない。我々と同じモノだ――
   突然まるで耳元でささやかれたような錯覚に陥って、小夜は息を呑んだ。背筋をぞっとさせるような声だった。期待を裏切られたような失望に彩られた「男性の」声。小さな忍び笑い。そのとたん、小夜は自分自身から活力がごっそり抜け落ちていくのを感じた。足元から地面にどっと落ちるような。
「誰なの!?」
   正体不明のそれに、少女が息を突きながら、思わず声を荒げたとき
「小夜?」
   マリ・シールの声だった。同時に照明が再び点く。
「マリ・シールさん・・・・」
   思わずほっとした。少しだけ活力が戻ってきたような気がする。
「私、いつの間に・・・・」
「探しに来たんです。一緒に厨房へ戻りましょう」
「声が聞こえたような気がして・・・・」
「わかりました。とにかく戻りましょう」
   うながすとまるで赤ん坊のように素直な表情で彼女はうなずいた。マリ・シールはどこか夢を見ている者のようで、そのまま厨房に連れ帰ると、物も言わずに同じように炉の近くで横になってしまった。
「やはり夢遊病なんじゃないのか?」
   腕組みをして料理長が言うと、ダーナがうなずく。
「きっと今までのもそうなんだと思うけど」
「じゃあ、ハジは――」
   期待を込めて小夜が言った言葉は、反対意見に打ち消された。
「だがミハイはどうなんだ? それに、あの客の死体はどう説明する?」
「つまり、それと、マリ・シールさんの場合とは別ってこと?」
「そうだな」
「待ってくれないか」
   支配人の言葉はどっしりとした重みをもっていた。
「憶測でモノを言うのはやめないか。ハジに別室にこもってもらっているのは、客のお一人が彼を怖がっているからであって、彼が犯人だからという訳ではない。もちろん後程誤解は解かねばならないが、今は不安を取り除くことが先決だったと言うだけのことだ。
   犯人と言うが、我々が行うのは、この建物の中のどこかにいる化け物――「吸血鬼」から身を守ることなのだぞ」
   その言葉で今までの気分が消し飛んだ気がした。支配人の言葉が現実を翻させ、そこにある恐怖と不安をあらわにしたようだった。自分たちが正体のわからない化け物と一緒の建物にいる不安。いつ襲い掛かられるかわからない不安。首に噛み傷がある死体。自分の番がいつ来るか――。
「じゃあ余計に、ハジを監禁するのはまずいんじゃないですか。彼はあれで中々強力だし器用ですから、こちらの要員として大きな戦力になるんじゃないでしょうか」
   ちらりとマリ・シールの様子を見て料理長が言う。マリ・シールはもうほとんど眠っているようだった。つまり、マリ・シールに姿を見られなければ大丈夫なのではないか、と彼は言うのだ。
「そうだな――」と支配人は言った。
「そろそろ考えてみようか」
   支配人が言ったとき、突然照明が落ちた。一瞬みんなが息を呑む気配を感じる。だが今までどおり、おとなしく再び電気系統が復旧するのを待っていた彼らにやがてじわじわと動揺が走った。照明は灯らなかったのである。








以下、続く。。。



2012.02.11

  なんだかお久しぶりでございます。これを記入している時点で、私は『ヒーローズファンタジア』というPSPゲームに夢中になっておりまして。半分ほど正気を失っておりますので、本来推敲しなければならない部分がぐだぐだになっている・・・ような気がしております。すみません。。
   連載中にゲームにはまるなどおきて破りなのですが、このゲーム。藤咲さんが監修されていただけあって、ハジ小夜部分(ベトナム直後当時??)はうなずく部分、ときめく部分があって中々嬉しいゲームでした。
   特にハジが、B+メンバーの外から客観的に見た場合、どんな風に映っているのか。再確認できたような気がします。(私は・・・・という意味で)
   次からまた頑張ります。。。そしてまだまだ終わらない。。涙。

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