12.

「ちょ、ちょっと待ってください。ずっとハジは誰かどうか一緒にいました。お客様を襲うことなんてできません」
   小夜が困惑したように言った。私から見ても、マリ・シールは錯乱して誰かとハジを取り違えているとしか思えなかった。彼は小夜についているか、誰かしらと一緒に働いているか、どちらかだと思われたのだ。少なくとも私にはこの物静かな雰囲気を持つ青年がそんなことをするとは到底思えなかった。彼は傍から見ていても小夜以外は目に入らないようであり、それ以外に神経を割くような意志も余裕もないようにと思える。その場にいた料理人も、ダーナや小夜も、青年が厨房と自分たちの部屋以外にはどこにも行っていないことは証言してくれた。
   だがそう言い聞かせられてもマリ・シールは納得いった顔をせず、ハジを見つめて薄気味悪そうにしている。そんな風にあからさまな態度を取られている当の本人はマリ・シールの態度にはほとんど動かされず、ただ静かな面と不可解な眼差しを伏し目がちにしてほとんど表情を動かさなかった。確かにその様子は浮世離れしており、何を考えているのかわからない風でもある。初々しい表情を持っている小夜とは対照的だ。だからこそマリ・シールにとっては胡散臭いのであろうが、この扱いはあんまりだと私も思った。
   それから私たちが見守っている中で、ぽつりぽつりとマリ・シールは話し始めた。最初に襲われたときに、見た真っ赤な目のこと。生臭い匂い。それからうつらうつら食堂で眠っている間に見たのは、黒い髪をして真っ黒な衣服を着た男の姿だった。周囲の何もかもが薄ぼんやりしている中で、それは唯一の現実のように、暗くはっきりとしていた。
「なぜだか、どうしてもついていかなくてはならない気分になったのよ」
   マリ・シールは語った。まるで魔法に掛けられたようだ、と私は思った。その場にいた私たちもマリ・シールがいつ立ち上がり、いつ出て行ったのか気が付かなかったのだ。
「それからはあまり憶えてないの」
「なんでもいい。何か見たモノは――。身体の大きな真っ黒い化け物、とか」
「大きな化け物? いいえ。そんなものは見ませんでした」
「『吸血鬼』・・・・と叫んだのは憶えていらっしゃいますか?」
   支配人が言うと、マリ・シールの顔色はさらに青くなったようだった。私自身も今この時にそんな言葉を聞くなんて思っていなかった。この非常時にお化け話なんて冗談ではない。
   だがマリ・シールはそうではないようだった。
「血が飲みたい。頭の中でそういう声が聞こえた。私、私夢中で逃げ出して・・・・」
   その言い方に、我知らずぞっとした。彼女はまるでこの世ではない所を垣間見てきたような声をしていたのだ。
   けれどもそれは一瞬だった。次の瞬間、元のとおり弱弱しい声でぽつりぽつりと彼女は話した。気がついたらあそこに、あの部屋にいたと言う。あの部屋と言うのが多分小夜たちが探しにいっていた少し広めの物置のような部屋なのだろう。私自身も一度入ったことがある。絵画やら緞帳やら石像やらがごちゃごちゃに置いてあるあの部屋。
   マリ・シールはきっと混乱して絵か何かを見間違えたのだろうと私の正気は判断している。けれど、一方でそれだけではすまない何かがここで起こっていることも確かだった。人が一人死に、発見されているとは言え、行方不明になる人が二人出ている。いや、本当に二人だけで済むのだろうか。だから皆ぴりぴりしているのだ。何かが起こっている。この、内装は設備が整えられているはずの建物の中で。
   支配人やフロント係たちはどう思っているのだろうか。どうしてなのか。小夜さえも蒼い顔をしてマリ・シールを見つめていた。私が知らない何か、この建物の中で起こっている何かを、従業員は知っているのか。
   そのことに私は眉をしかめた。せめて何が起こっているのか、知っていることだけでも教えて欲しい。でなければどこへ行けばいいのか。何をどう避ければ良いのかわからないではないか。そう思いながら、小夜が自分の部屋へ休みに行く前に聞こえてきた、ドーンという激しい物音のことを私は考えていた。従業員の誰も何が起こったのか説明してはくれなかったが、その後小夜はふらふらになって戻ってきたし、そのすぐ後にマリ・シールはいなくなり、弱った身体なのに探しに行った小夜とハジに対してこうして不可解なことを口にしている。
   何もかもが不安であり、何もかもが曖昧で違和感だらけだった。その中で小夜はひどく不安そうで、ショックを受けているようだった。それはそうだろう。小夜はぴたりとハジの傍らに身体を押し付けるようにしており、その様子は健気で必死さが表れており、私は思わず傍に行って大丈夫だと声をかけてあげたくなっていた。




「私をここから連れ出して。でなければ、この人をどこかへやってちょうだい。それじゃないと私。安心できない」
   まるで駄々っ子のように言うマリ・シールに一同が閉口していたとき、
「そう言えば、ミハイも最後に黒い服を着た人影を見たと言っていたような」
   支配人がぽつりと言って、小夜は氷水を浴びせられたように感じた。
「でも、そのときだってハジは私とずっと一緒にいました。――そうだ。マリエラさん。マリエラさんが私たちを見たって」
「ええ。そうよ。だから、襲ったのはハジではありえない、と言っているのです。その従業員の方も、マリ・シールあなたも」
「本当に?一瞬も離れたことはないって言えるの?」
   マリ・シールだった。その言葉は糾弾するように小夜を打ちすえた。
「それは・・・・。でも私と一緒にいないときには、誰かしらと一緒だって、皆たった今――」
   小夜は助けを求めるように支配人を見た。先ほど皆、ハジではないことに同意してくれたではないか。それに、ハジは支配人と私と、三人でマリ・シールを探してくれた。私につきあって。支配人が、この錯乱している女性を宥めてくれれば――。
   だが彼がちらりとハジを見た視線は良いものではなかった。悪意はなかったが、異邦人を見るような目つきで、今初めて彼を見たような目つきだったのである。小夜は急に不安になった。青年は独特の雰囲気をまとっている。空気のようにも自然にその場にいるというのに、気がついてみると他の人間達とは異なっているような。まるで遠くにいるような存在――。そんなこと、ないのに。そう思う心の端から、他者がハジを見つめる視線を思い浮かべて小夜は不安を募らせた。
   どうして急にこんな風になるのか。
「だって、ハジは・・・」
「化け物が出たんでしょう?」
   マリ・シールは言った。
「化け物ならば人間じゃない。彼がそうじゃないって、どうして言えて? 化け物ならば、この建物のどこへ出没するか、誰にわかって? もしかすると同時に二か所に出現することだってできるかもしれない」
「ハジじゃない」
「なんでハジを疑うの?」
   助け舟を出してくれたのはやはりマリエラだった。
「いい加減なことで他人を中傷――、いいえ今回はもっと悪いわ。誤解させるようなことを言わない方がいい。第一、その化け物って何? 」
   ああ。と小夜は目を瞑った。マリエラは知らないのだ。小夜が襲われた翼手のことを。ハジではない。でも本当に化け物はいる。従業員だけが知っている出来事だった。だからここにいる人たちは、いったんハジを疑惑の目で見始めると不安になってしまうのだろう。自分たちは人間じゃない。どこかにその痕跡が表われるのかもしれない。
「ホイラーさんも料理長さんもダーナも一緒にその化け物を見ています」
   それでも小夜は言った。
「私が化け物に襲われるところも、ハジが助けに来てくれたところも。だから――」
   ハジへの疑念を振りほどこうと小夜は必死だった。人間が不安に陥ったとき、誤解からどんな非情なことをするのか、ハジも小夜も知っている。特にこういう外界から隔離された中、通常では起こりえない恐ろしい出来事が次々と起こっている場合。普通ではありえないの感情が人を動かす。
「俺たちが見たのは黒い大きな影が部屋から出ていくところだけだった」
「血糊のついた剣を持っていたな。あれはハジがやったと言っていたが――。一体、何に斬りつけたんだ?」
「あの影は――。本当に逃げたのか?」
「待って。待ってください」
「自分のパートナーのことを信じたいって気持ちはわかるわ」
   マリ・シールが言った。すでに周囲は同情の目で少女を見ていた。疑惑の目で見ている者もいる。
「ちがう!だって――」
「それとも、あなたもそうなの? そうよね。ずっと彼と一緒にいるんだものね」
「違う。ハジも、私も――」
「小夜」 少女の言葉を止めたのは意外にも青年自身だった。
「私は大丈夫です。ここにいる皆、不安なのです。何が起こっているのかがわからないので」
   それから支配人の目を静かに見つめて、青年は言った。
「私ではありません。しかし不安なのでしたら」
「ハジ!」
「小夜――。永遠に吹雪が続くわけではありません」
   その間だけの話だとハジは言っているのだ。だが本当にそうだろうか。自分自身に対するものではなく、青年に対する不安でいっぱいになった目を見て、青年は憂いを浮かべたが、それでもそうしておかないと、少女にも類が及ぶ危険性があることも青年はよくわかっていたのである。
「この天候の中を追い出すようなことはしない」 支配人は言った。
「だが見張らせてもらいたい。できれば部屋からでないようにして」
「そんなの、監禁じゃないの!」
   そう言ったのはマリエラで、彼女はかなり怒っているようだった。
「構いません」
「じゃあ、私も。私も一緒に――」
   少女が言ったが青年は必要がない、とでも言うように首を振った。
「必ず誰かと一緒にいるようにしてください。何か異変があったらすぐに私の所に。あるいは――」
   私を呼んでください。言葉にせずにそう告げた後、支配人が立ち上がったので青年は目を伏せた。
「ちょっと待って」 マリエラが口をはさんだ。
「どうしてハジを――。マリ・シール。あなた、なぜ――?」
「だって・・・・。わ、私は怖いんです。この人が」
「だからって、なぜ? ハジがあなたを襲った当人じゃないって皆わかっているじゃない」
   なぜそんなにマリ・シールの言う言葉を信じるのか。おかしいではないか。ハジを監禁するなんて、かえって他の人たちの不安をあおるだけではないか。
「こんなの変だわ」
   続けざまに言葉を放つマリエラに支配人が言う。
「仕方がないことです。不安と言うのは伝染するものですから。この状況ではお客様にできるだけ不安を与えないようにして無事にこの夜を乗り切るしかないのですよ」
   なぜ支配人が急にハジにこんな対応するのか、小夜にもわからなかった。けれど不安を鎮めなければ、と言うのはわかる。マリエラは憤慨しているが、彼女はあの小夜とダーナを襲った化け物の姿を見ていないのだ。小夜は絶望的にそう思った。もしも、あれが皆の目の前に現れたら――。そして、小夜には一つ不安があった。突然起こる原因不明の消耗状態。ハジが最も危惧しているのもそのことだと少女にはわかっていた。
   人間の拘束などハジには無きに等しい。だからこそハジは不安解消のための監禁にも同意したのだし、いざとなったら小夜の所へ駆けつけることも可能だ。けれどその時は、自分たちも人間ではないこと――翼手だと言うことが皆の目に明らかになるだろう。
   マリエラさん、ダーナ。短い間にやさしい交流をしてきた人たちの視線を思い浮かべると、軋むような痛みが胸に湧き上がった。こんな状態で、これはハジを巻き込んでの自分の我儘なのかもしれない。でも、このやさしいものを失いたくない。




   小夜は何かを諦めたように、目をつぶっていた。その様子に私は納得いかないまま苛立った。どうしてそんな風にしていられるのか。自分の大切な人が、こんな状況に陥っているというのに。けれど二人の間には二人にしかわからない同意のようなものが存在しているようで、私はそんな二人の諦観がどうしてもそのとき理解できなかった。
「小夜。どうして納得してしまうの」
   その場にいた小夜以外の従業員、支配人、フロント係、料理長の三人に囲まれるようにしてハジが別室へと向かった後、私はこんなことを今更言っても仕方がないとわかっていたが小夜に言わずにはいられなかった。マリ・シールは厨房でダーナがみている。
   小夜はしばらく放心したように暖炉の傍から動かなかった。多分、動けなかったというのが正しいのだろう。
「マリエラさん・・・・」
   そのときの小夜は、はっとするほど儚い目をしていた。途方に暮れた哀しい目。わずか16,7の娘が、どうしてこんな目をするのだろう。一瞬私はかける言葉を失った。
「私・・・・」 それから小夜は首を振った。
「仕事、しなくちゃならないから」
   ダーナが待っているから。そう言って小夜は痛ましいほどの笑みを浮かべて私に向かって微笑んだ。こんな状況で、自分以外の何に心を配っているのだろう。小夜が? それともハジが? この二人は何かを背負っている。私にはわからない何か、想像もつかない何かを。ハジが演奏していた音楽を思い浮かべながら私は思った。あの音は若者たちには不似合いな深い調べを帯びていた。
「小夜」 思わず私は言った。
「我慢しなくていいのよ」
「え?」
「泣きたかったら泣けばいいの。あなたくらいの女の子が、我慢していい訳ないわ」
   そのときの小夜の目は、思いがけない言葉を聞いたようでもあり、いたたまれないようでもあった。瞳が次第にうるみ始める。だが小夜は泣くことはせず、再びわずかにほほ笑むと、私に対して小さな声でつぶやいた。
「ありがとう、ございます」
   それから厨房に向かって歩いて行った。私にはわからない。その表情はつい昨日まで、元気一杯に働いていた同じ少女の笑顔とはあまりにかけ離れていた。
   私は追いかけることも出来ずに、ただ残っていた暖炉の炎のわずかな温かさを見つめていた。火掻き棒を引き寄せて、燃えさしを動かすと近くにあった木切れをそこに放り込む。するとしばらくして炎はまた元通りの勢いを取り戻すのだった。マリ・シールについているべきなのかもしれないが、こんなことの後で、そんな気になれない。せめてもう少し心を落ち着かせてからと、私はしばらく炎の色を見つめていた。だから私はそのとき、何が起こっているのか知らなかったのだった。







以下、続く。。。



2012.01.27

  ひと月2話。と心の中で思っている課題をようやく今月もクリアしました。。
   1月は月始めからバタバタしてましたが、少しずつ話を進めていきたい・・・。と思っております。
   しかし読み返してみると、私の美形への解釈っぷりがわかってしまう。不気味な状況への恐れ>美しさ・・・・みたいな。外見の美しさなんて、どーでもいいというような。。。ひたすら内面に関する描写しかしていないような気がする。。すみません。。。
   そしてこの話から、どんどん奇妙な話になっていくのであった。。。

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