11.

「ねえ、ハジ」少女は小さな声で青年を呼んだ。
「私なら、私たちなら探しに行っても問題ないよね」
「いいえ。まだ相手の正体がわかっていません」
   対峙しての消耗具合。しかもまるで眠りの中にまで干渉するかのように、いつの間にか再び少女は活力を失っている。異常な事態だった。
「あのときの相手は、貴女だけを狙っているようでした」
「なら余計に――」
   小夜の言っているのが、自分が囮になることだと知ってハジの気配が鋭いものに変わった。一言も発してはいないというのにハジがまるで怒りを孕んでいるようで、小夜は首筋にひやりとしたものを感じる。
「支配人に伺いましょう。あるいはフロント係に・・・・」
   それがハジの出した折衷案だった。普段小夜の意志をできるかぎり尊重するハジの、一歩も引かないような対応に小夜は事態をハジがどのように見ているのかを思い知った。確かにまだ打つ手はあるのだろう。けれどもいよいよとなったなら、青年が何と言おうとも少女は自分にしかできないことを自らに課すつもりだった。誰かが傷ついたり、倒れたりするのを見るよりもずっといい。それが少女の密かな決意だった。
   二人が最初に相談したのはフロント係のホイヤーだった。二人が訪れたとき、かれはミハイと一緒に厨房の奥で灯油の分配をしていた。ミハイの顔色は未だ悪かったが、それでも数時間休んだせいか起き上がれるまでにはなったようであり、多少無理を押しても動いていた方が気がまぎれるのだと彼は言った。誰かが死んだ建物の中で、ひとりで寝ているよりも皆と起きていた方が安心なのだろう。
「では誰もその方が出ていった姿を見なかったと言うんだな」
   小夜が上に休みに行っている間、彼らも忙しくて食堂には行っていなかったのだ。大勢人が居るし、食堂ならば安心だろうと思っていたのは小夜たちだけではなかった。
「誰かが探しに行かないと」
「それはそうだ」
   ホイヤーは難しい顔で考え込んだ。食堂に居た客全員がどうして気がつかなかったのか。大体それからして不気味である。何がこの建物の中にいるのかわからない。危険だと言うことだけははっきりしている。
「支配人さんに相談した方が・・・・」
「わかっている」
   彼は何故だか言いよどんだ。
「聞いていないのか。こんな状況だ。きっと不寝の番が必要になるだろうということで、男性陣は今のうちに順番に眠っておいてもらうということになったのさ。支配人は自分の部屋で休んでいるし、料理長は厨房の奥で横になってる。あんたを含めて我々は後だ。だから支配人は今眠っている番なんだが・・・・。
   こんな状況だ、とにかく起きてもらおう」
「あ。じゃあ私たちも・・・・」
   小夜としてはごく自然について行こうとしただけだった。
「いや、あんたたちは――」言いかけて、ホイヤーはためらった。
「そうだな。こんな事態なんだから、あんたたちにも一緒に来てもらったほうがいいかもしれない。こうなったら、なるたけ大勢で行動した方がいい。食堂のお客様方にはすぐ戻るからと伝えてくれ。いや、食堂で皆と一緒にいた方がいいな」
   最後の言葉はダーナに対して発せられたものだった。ダーナはホイヤーにではなく、小夜に向かってうなずくと小さな声で言った。
「マリエラさんたちと一緒に居るからね」
   小夜は小さくうなずいて、ホイヤーとハジの後ろをついて冷たい廊下を再び通り、階上の支配人の部屋へと上がって行った。




   こうしてここに入るのは二度目だと少女は思った。最初は雇ってもらったとき。そして今回。まだ一週間も経っていないなんて、何だか日にちの感覚がおかしくなっているような気がする。ホイヤーはすぐに大きな音を立てて部屋をノックした。
   部屋の中では人の気配がしていたが、やがて扉が開けられた。支配人は上着を脱いで、ゆるめたシャツにガウンをひっかけただけの恰好で、仮眠を取っていただけのようだった。
「お休みのところ、すみません。また問題が起こりまして」
   ホイヤーが説明し始めると、支配人は眉を寄せ、それから小夜たちに気がつくと部屋に入るように促した。
「こんなところに女性を立たせておくわけにもいくまい」
   電気が使えないときのために、部屋には小さいが食堂と同じように暖炉がしつらえられてあり、その周囲だけは温かかった。
「で。どうしたのかね」
「また、不明者が出ました」
   支配人は青白い顔をこわばらせ、一瞬言葉も出ないようだった。
「見つかってはいないのだね」
「実は・・・。食堂を離れてまで探しに行っていないんです。我々従業員もこれ以上の人数を割けませんし」
「だがそのままという訳にもいかないな」
   だからホイヤーは支配人を起こしにきたのだ。誰もかれも恐怖におびえている場合、それを軽くしてさらに「起こりうる」出来事の責任を取ってくれる人物を欲する。今それに相当する立場にいるのがこの宿の支配人という訳だった。
「仕方がない。私が行こう」
「独りでですか?」
「いや、さすがにそれは・・・・。誰か一緒に探してくれる人物を探さなくては」
「じゃあ、私たちが一緒に行っていいでしょうか」
   青年の気配が固いものになるのを感じていたが、少女はすでに決意していた。
「それは・・・・・。もちろん進んで行ってくれるのはありがたいが」
「じゃあお願いします。三人でいれば、何かあっても大丈夫でしょう?」
「だが・・・・。君は女の子だ」
「ハジも一緒ですから」
   少女が無邪気な顔でにっこり笑ってそう言うと、青年を含めその場にいた三人は何も言えなくなる。
「わかった。それでは頼もうか」




   ホイヤーを食堂まで送り届けると、マリエラが心配そうに近寄ってきた。
「本当に大丈夫なの?」
   マリエラは小夜の安否がどうしても気になるようだった。何が起こっているのかわからない危険のある現場に、いくら従業員とは言え、小夜のような少女を行かせるのがどうしても納得言っていないようすだ。
「私が行きたいんです。何もなかったらすぐに引き返します」
「小夜・・・・」
   支配人が後を引き取った。
「三人いれば何かありましても対応できるでしょう。私が不在の間はホイヤーにご相談ください」
   すぐ戻りますからという言葉と共に、支配人は二人を引き連れて宿の中を見回りに出かけた。まず建物の出入り口を見に行き、しばらくは誰の出入りの無いことを確認する。その後はすぐに建物内部の探索に移った。建物の内部は大まかに二つに分けられており、ひとつは宿舎。こちらに客室や食堂など、実際いつも機能している部分がある。だがもう一つは展示室のようになっている部分があり、昔の什器やら絵画、嗜好品、美術品らしきもの、すべてがごちゃごちゃと置かれていた。支配人はマリ・シールが迷ったとしたら、そのあたりから探さなくてはならないと思ったのだろう。客室は廊下辺りをざっと見まわっただけで、すぐにそちらの方へ足を向けた。
   小夜が襲われた武器の置いてあった部屋は特に念を入れて確認が行われた。そこはまだ建付けの棚も壊れたまま放置されていたし、何よりも何やらわからないモノの生々しい血がそのままで、一見胸が悪くなるような場所だった。
「ここにはいないか・・・・」
   支配人は言い置いて次の場所に向かった。そこは嗜好品や骨董品やら置いてある多少大きめの部屋だった。色々なものがまとめておかれている感じがしてならなかったが、この場所を確か一度、マリエラやダーナと共に見て回った記憶が小夜にはあった。
   あのときも、絵画、それも肖像画ばかりが多いと思ったがその印象は変わらない。壁に掛けてあるものもあれば床に立てかけっぱなしになっている物も多い。ただ今はあの時とは異なって、それらはどこか虚ろで排他的な顔を小夜に見せていた。支配人は左右にそれらを見回しながら、一つ一つ置いてある壷や机の様なものの影を確認していく。今は何をしなければならないかを思い起こして、小夜は慌てたように、支配人が確認している場所とは少し離れたところを確認しようと動いた。良くわからないカーテンが下げられたり、古い織物が乱雑に放り出されていたり。その一つ一つの影を確認し、覆われた場所から引きはがし、ほこりだらけになりながら人影はないか、誰か倒れていないかを確認していく。見落としは許されなかった。
   しばらくガタガタやっているうち、部屋の奥まった隅の方に小夜はひとつの彫像を見つけた。古いもののように見えるのに、まるで生きているように瑞々しい。薄い衣のひだが肩から足元までゆったりと表現され、肌はなめらかで頬のあたりの線など触るとやわらかい感触が伝わるようで、よほど腕の良い職人が作ったのだろうと思われた。女性が腰をひねって、何かに寄りかかっている構図だった。
   台座に何かが彫ってある。
「『ともに生き、ともに愛する』」
   少女が何の言葉かよく見ようと思ったとき、後ろからハジの低い声が聞こえた。
「ラテン語?」
「古典詩の一つにそんな言葉がありました。ですがこの像自体はそんなに古いものではありません」
   小夜は見ているうちに、その文言と彫像の中に込められているある種の無邪気さに胸が一杯になった。
「この彫像と言い、肖像画と言い、女の人ばっかりがあるね」
   ここのご主人だった人は女性ばかりをあつめる趣味だったのかも。胸の中の不思議な感慨を、なぜかハジには知られたくなくて、小夜が冗談めかしてそう言ったとき、急にハジが何かを感じたように振り返った。
「?」
   何かが倒れるような大きな音がした。
「お客様!」
   支配人の声が虚ろな部屋に響く。支配人の腕の中にぐったりと倒れ込んでいたのは、マリ・シールだった。
「しっかり!」
   ふらふらと不安定な身体を抱き留めて軽く両頬をたたくようにすると、マリ・シールはぼんやりと目を開ける。生きている、と少女は思った。安堵のあまり涙が出そうになった。
「良かった・・・・」
   マリ・シールは目を開いてどこか虚ろに視線を彷徨わせると、弱々しく口を開こうとした。何とか言葉を出そうとしているのがわかる。かさかさで真っ青な顔色は半分凍りついたようであり、ただならぬことが彼女の身の上に起きたことだけは見て取れた。どれだけ行方不明になっていたのだろう。小夜が眠っている間だから、そんなに時間が経っていないはず。なのに、面変わりしたようにマリ・シールの顔には何かが張り付いていた。恐怖なのか、それとも――。
   だが彼女の視線がハジの黒衣を見とめると、その瞬間、彼女は恐怖に怯えたように足掻きはじめた。
「いや。嫌よ。やめて――」
「どうしたんです?」
   支配人が言っても彼女は聞かずに、逃れようというかのように暴れる。この初老の女性のどこにこんな力があるのか、と言うほどの錯乱ぶりだった。青年の表情は変わらなかったが、それでもわずかに戸惑っている。だが
「来ないで!」 震え声でマリ・シールは言葉を放った。
「私に・・・・。私に触らないで!やっぱりあなたなんでしょ。私を、どうするつもりなの――」
   明らかにハジを誰かと間違えているようだった。だが次の言葉は少女にとっても大きな衝撃をもたらした。
「誰か・・・・、助けて・・・・。寄らないで――。化け物! 吸血鬼!」
   はっとなって小夜がハジと視線を合わせたとたん、不意にマリ・シールの身体がぐったりと重くなった。再び気を失ったのだ。
「やれやれ」
   暴れるところを押さえつけていた支配人はほっとしたように額をぬぐった。
「とにかく無事だった。とりあえず食堂に運ぼう」
   彼自身がマリ・シールを持ち上げようとしたが、思いのほか重いようで足がやせて青白い顔をした支配人はふらついていた。見かねて小夜はハジを見上げた。
「私が――」
   少女の視線に青年が支配人の腕から重さを受け取った。同じようにほっそりとしているというのに、ハジの腕は軽々とこの婦人を抱き上げる。それがハジにもそして小夜の中にもある、翼手としての能力だとは支配人にはわからないだろう。
「ああ。助かる」
   だがその支配人の目の中に、何かの影がよぎったような気がしたのは気のせいだったのか。小夜は先ほどのマリ・シールの叫びが胸の中で疼いて仕方がなかった。吸血鬼――。この冬の日々、一時人々の間で生活していたから忘れていた。自分たちは人間の血を摂取することによって生きているのだ。人間ではないモノ。化け物。吸血鬼、そんな言葉が当てはまるのが、自分たちなのだ。そして、この建物のどこかに、この一連の事件を引き起こしている翼手が確かに存在する。小夜たちの感覚をかいくぐり、ひっそりと息を潜めて。身体のどこかに冷たいものが生まれ、みぞおちに溜まっていった。本物と誤解と。その差が生じる可能性がないとは言えない。そしてマリ・シールはハジを見て言ったのだ。「吸血鬼」と。
   それでも食堂に着くと、幾分ほっとしたように小夜は息を吐きだした。先ほどの遣り取りが現実のものではないように感じるのは、やはり大勢の人がいるからだろうか。生きている人々の確かな存在そのものが小夜を慰めていた。ずっとハジと二人きりで旅してきたというのに、いつでも少女の中のどこかが人恋しくてたまらない部分があり、それは彼女に希望と同時に寂しさをももたらしていた。その寂しさをずっと抱えて生きていく。3年と30年を繰り返しながら。それが小夜の運命だった。
   食堂ではダーナがホイヤーの指示で夕食の準備をしていた。このときになると、自然に客の中の何人かが従業員を手伝うようになってきた。他にやることもなかったし、皆で協力することでこの不安ばかり増す事態の中で何かしらの安心するような心持ちになれるような気がしたのかもしれない。
   マリエラもその一人だったが、小夜の姿に気がつくとその手を止めて急いでこちらの方へ近寄ってきた。
「小夜!
   ああ。良かった。無事で――。随分時間が経ったから心配してたの」
   それからハジの腕の中のマリ・シールを見つめる。
「彼女も無事で――?」
「気を失っているだけです」
   支配人は淡々と言って、温めたブランデーを持ってくるように言いつけた。暖炉近くに下ろされたマリ・シールはブランデーの強い匂いにわずかに反応し、気つけに唇からほんの少しだけ湿らせる程度に液体を注ぎ込むと、むせこんで身体を起こした。
「気がつきましたか?」
「ここは・・・。私、どうして」
「憶えてないんですか?」
「何も・・・・」
   いいえ、違う――。と言いながら、マリ・シールは怯えと恐怖の混じった目で後ろに立っているハジを見た。嫌な予感がした。その場にいた支配人やホイヤ―。マリエラまでもがさっとハジの方を見つめた。先ほどの、とても現実とは思えないようなマリ・シールの言葉がよみがえって少女の鼓動を速くした。見つめられたハジは無表情にマリ・シールを見かえしている。
   氷のような不安を抱えながら小夜は次にマリ・シールが何を言うのかを見守っていた。
「あなたは。あなたは誰なの?」
「どういう――」
「黒い恰好。そんな風に、冷たい雰囲気。私は、覚えている。私に触れた冷たい手。 私を襲ったのは――」
   あなたではないの。マリ・シールの言葉は小夜の心を切り裂いた。







以下、続く。。。



2012.01.15

  設定の甘さが否めないところを無理やり運ぼうとしている今日この頃。
   書きたいことと、書こうと思うことと、書けることの差を痛感してもいます。

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