10.

   多分厨房だろうという私の予想は半ばあたり、半ば以上外れていた。そこにいた料理長の言葉によれば、さきほどまでここにいたのは確かだったが、今はハジに付き添われて自分の部屋へ戻ったと言う。
「大丈夫かしら?」
「ああ・・・・、たぶんね」
   安心などとは程遠い、歯切れの悪い言葉だった。私はダーナの姿を見つけると、急いで近寄った。
「ダーナ。小夜は大丈夫なの?」
「大丈夫だと思います。でもきっとショックを受けてて――」
「ダーナ!」
   鋭い叱責が飛んだ。すぐにダーナは口を滑らせたと言うように口元を押さえたが、憮然とした表情で料理長を見た後に私をまっすぐに見て言った。
「でも小夜は無事です。ちょっと休んだらすぐに戻ってくるって言ってました」
   実直な彼女の言葉は嘘もごまかしもない。不安はあったが、とりあえずダーナの言葉に、小夜を待ってみることとした。




   なんなのだろうか、この不安は。ハジに支えられるようにして自分たちの部屋に戻った小夜は自分の手が細かく震えていることに気がついた。厨房に戻ったときからすでにその兆候は出ていた。それは小夜にとって、はっきりとした一つの身体的な特性の兆候だった。
   血が足りない――。
   戦闘のためばかりではない。もう何日も少女は血液を摂っていないのは確かだったが、こんなに消耗するなんて。
「小夜。大丈夫なの? 顔色、真っ青だよ」
   最初にそれを指摘したのはダーナだった。
「やだ。そんな顔、してる?」
「ねえ。ちょっと休んだ方がいいんじゃない?」
   眩暈、息切れ。すでに出始めている症状。だが小夜は首を振った。
「大丈夫」
   休んではいられない。あれは確かに翼手だった。それも自分たちと系譜が異なる翼手。初めての体験だった。
「でも・・・・」
   言い募ったダーナが、そのとき少し気おくれしたように一歩下がった。どうしたのかと彼女の視線を辿ってみると、厨房の手伝いが終わったハジが近づいてきたのが見えた。
   その顔が強い視線を帯びている。
「小夜・・・」 ハジはまっすぐに小夜に向かって歩みを進めた。
「少し休んでください」
   ダーナと同じことを言われて一瞬、小夜はひるんだような目をした。
「でも・・・・」
「支配人には言ってあります」
「そうだよ、そうしなよ。ここはしばらく私だけで大丈夫」
「でも一人ではいないようにって――」
「私は他の人たちと一緒にいるって」
   その時初めてダーナがいることを認識したようなハジが、彼女に向かって目礼する。それで小夜もようやくうなずいた。半ばハジに支えられながらも小夜は部屋へとたどり着いた。途中ちらりとマリエラが小夜を見つけて何か話しかけようとしたようだったが、そんな余裕はすでに少女にはなかった。消耗が激しかった。
「ハジ・・・・。私は――」
   それでもまだ部屋に入ってからさえも小夜は躊躇っていた。ハジが何のために部屋へと促したのかも、どうしなければならないのかもわかっている。それでもこの時間だけは、今人々共にいるときだけはそれを忘れていたかった。そんなこと不可能だとわかっているのに。
   だが青年は深い目をして少女を見つめた後、わずかに襟元をゆるめて少女をやさしく抱きしめた。息が詰まる。それが欲求からなのか、ハジのやさしさに胸が詰まっているからなのか。それすらもわからない。自分自身が呪わしい。欲求が募ってくる。その反対にそれに対する嫌悪も同時に。少女はきつく眉を寄せた。
   ハジはこの運命も、少女の運命も、それ丸ごと受け入れているというのに、その元凶である自分自身の覚悟の無さ。それがハジも自分自身もがんじがらめにしている、それを自覚しているというのに。でももしも自分の中からその苦しみの記憶がなくなってしまったならば、自分は自分自身ではなくなってしまうだろう。それもわかっていた。だから――。少女は目をつぶり、ひんやりとした体温と力強い鼓動とを併せ持つその首筋にそっと唇を寄せた。
   こうしていつ何がどうなるか、わからないときだからこそ、青年はこの直接的な首筋からの吸血が少女の心に何を起こすかわかっていながら、少女に吸血を促している。少女にとって一番効果的で、一番浸透性が高く滋養が高まる摂取の方法。同時に少女の心に一番苦しみを起こさせる方法で。だからこそそれが自分自身の身体にどんな刺激になるか、青年は少女に気取られないようにいつもいつも息を殺す。すべてを受け入れ、すべてを飲み込み、すべてを押し殺す。それが以前からずっと続いてきたこの二人のやり取りだった。お互いにわかりすぎるほどわかっている――。
   少女の牙が首筋を噛み破る瞬間は、いつも陶酔と快感と強い自制tのせめぎあいだった。引き延ばされる永遠にも似た一瞬。少女はいつもそんなに多くは摂らなかった。ためらいがちに穿たれた傷跡から自分の女王の中に取り込まれる自分自身の一部。その悦楽は恐らくシュヴァリエ以外の存在にはわからないものなのだろう。けれどもその感覚は罪悪にも似た感情をも青年の中に引き起こしていた。小夜の悲しみと表裏一体となるこの感覚を、少女のために引き受け、決してそれを肯定しない。
   やがて少女が口を離した。小さな二つの穴以外には何も残っていない綺麗な跡だった。ほんの少し待っていれば、やがて肉が盛り上がり、まるでなかったことのようにその傷は消え失せる。その前に青年は襟を整え、傷そのものが少女の目から見えないようにしてしまった。少女は小さな喘ぎをこぼす。己の身体中に必要な滋養がいきわたっていくのを感じていた。手の震えがおさまり、身体全体に熱がいきわたっていく。覚醒していくようだった。
   温もりを帯びた少女の体温に、微かに青年の顔に安堵がよぎる。
「少し、休んでください」
「え? でも・・・・」
   休むと言ったのは血を与える口実だと思っていたのだが。思いがけない言葉と、ハジの視線の強さに怯んだ少女に青年は言った。
「すぐに戻るのは不自然です。それにまだ体力が回復していない」
   優れた身体能力を持ってはいても、女王である小夜はシュヴァリエよりもはるかに体力的に劣る。それに小夜は夕べほとんど眠っていないのだ。
「今のうちに少しでも休んで――」
   本当は翼手が出現したこんなときに休んでなんていられない。だが小夜は先ほどの戦闘で自分が思っていた以上に体力を消耗しているのに気がついていた。まるで相手に力を吸い取られてしまったように。
「ハジは――? ハジもあのとき翼手に向き合ったよね。何か感じた?」
   だから心配してくれているのだろうか。
「いいえ。私はただすれ違っただけですから。けれどあなたの消耗が激しい」
「あの翼手――。私を、私だけを狙っているようだった」
   青年の顔が厳しくなったが、彼はただ小夜を寝台の中に包みいれながら、いつものように静かな声でささやくだけだった。
「眠って。体力を回復させてください」
   その声が眠りを連れてくる。青年の眼差しに見つめられながら、少女はいつの間にか眠りの中に引き入れられていった。




   小夜は不安定な夢の中にいた。
(ここは・・・・どこ? ハジ――。ハジは?)
   一昨日から続けざまに見ている夢と同種のものだと感じられた。誰かが自分を引き寄せようとしている、あるいは少女がどういう者なのか、見定めようとしている。
『結局、貴女は私たちからの贈り物を拒むと言うのね・・・・』
   面白そうに声が言う。
『それならば、仕方がない。私は・・・・・・なければならない』
(何? 誰なの?)
『私たちは人の定めの上を行く者。決して人とは交われないというのに・・・・・』
   蔑むような声だった。
(違う! 私は――)
『そう。多くの者たちは人間を受け入れ、人の間に交わって生きている。けれどもそうなできない者たちもいる。私たちは人間とは異なる存在だから』
(違う。私は知っている。翼手だとわかっていても私を受けれてくれた人たちがいた。私を家族だって言ってくれた)
『でもその人たちも永遠には共にいられない。ある者は私たちを置いて行き、ある者は結局私たちを見限り、私たちと人間との間には、食するモノとされるモノの区別しかないのだから』
(そんなことない!)
『ならば貴女も多くの者たちと同様に、愚かしいのね』
その言葉はずっと以前。ロシアの大地で敵のシュヴァリエが擬態していた美しい少女の口調とよく似ていた。
『それならば私は判断しなければならない。貴女を排除しなければならないと』
   同時に激しい衝撃が小夜を襲った。
『残念だこと。貴女が来なければ、私もまた眠りに就いたまま目覚めなかったというのに――』
   闇の中から真っ白な手が伸びて、小夜の首に巻きついた。力を込めている訳ではない。ただ、その指先に自分の力が吸い取られていくように感じられた。あの、翼手と対峙してからずっとまとわりついている感覚に似ている。
   ああ、と小夜は思った。せっかくハジに血をもらったのに。こうして奪われてしまうなんて――。
・・・・小夜・・・・・
   夢の彼方で声がする。ひどく懐かしく、遠い呼び声が・・・・。夏の空。遠い雲。今はそんなものが思い浮かんでこない。吹雪の中。オレンジ色の炎。低いチェロのやさしい音。首筋が寒い。寒くて凍えてしまいそうで・・・・。
――小夜・・・・。――
「小夜!」
   少女はかっと目を見開いたまま飛び起きた。その瞬間、力強い腕が少女を支える。
「ハジ・・・・」
   すがりつく青年の腕の中で、今度こそ少女は身体の震えを止めることができなかった。あれは、純粋な悪意の塊だった。蔑みと敵意。小夜が従順でないとわかったとたんに向けられた感情。しばらく触れていなかったその感情に少女は深く傷つけられていた。誰が、なぜ、そんな感情を向けてくるのかもわかっていないというのに。
「何かがいる――」
「?」
「あの翼手の後ろに誰かがいるの。『彼女』が――。私が来たために目覚めたって言っていて・・・・」
   自分でも何を言っているのか支離滅裂な言葉だった。だがハジは黙ったまま注意深く少女の言葉に耳を傾け、少女の様子とその言葉の内容に眉をしかめていた。
「夢だって、言わないんだね・・・・」
「消耗が激しいようです」
   暗い日々の間、常に少女の悪夢の夜を見守ってきた青年には今までの夜と異なることがわかっているのだろうか。会話にならない言葉を吐きだして、青年は小夜を支えた。少女は不安をため息とともに吐き出して青年の腕の中から身体を起こす。
「無理をしないで――」
「ううん」 だが少女は首を振った。
「あの夢の主は私を目指していた。あれが夢でないなら、私は――」
   私はなんだというのだろうか。言わなければならない言葉を探して少女は唇をかみしめた。
「休んでなんか入られない。行かなくちゃ」
   その様子は昔、ディーヴァとその眷族を狩っていたときの少女を髣髴とさせ、青年は胸の中に馴染みのある痛みが起こるのを感じていた。こういうとき少女は自分ひとりですべてを抱え込み、決して他人に頼ろうとも踏み込ませようともしなかった。頑なに前を向き、ディーヴァ一人を見つめていた小夜。あのときの哀しみは時間とともに薄らいでいったとしても、決して小夜の中から消え去りはしないのだった。
「わからない? これが翼手のせいなら、これ以上の犠牲者がでないように私が防がなきゃならないんだよ」
   自分自身を追い詰める目で小夜は身じろいで青年から身体を離した。消耗している身体で立ち上がろうとする少女に手を貸しながら、その宿命とも言える少女の哀しみを青年はしっかりと見つめていた。
「小夜・・・・」
   もう一度だけ青年は少女を強く抱きしめた。そのまま片手で再び襟元をゆるめる。
「ハジ?」
   少女は青くなりながら、震え声でわかっている答えを問いかけた。
「戻る前に――」
「私・・・・」
   わかっていた。再び消耗した体力を回復させるにはハジから血を奪わなければならない。いつも、いつも。どうしてこうなのか。哀しみのまま小夜はハジの黒い上着を強く強く握りしめた。




「小夜?」
   そろそろまた食堂にしつらえてある軽食の補充をしに行くようにフロント係のホイヤーに言われ、厨房の奥から食堂へと出たダーナは、黒い服の青年に連れられて階下に降りてきた小夜を見つけて駆け寄ろうとした。もう少し休んでいるかと思ったが、考えてみるとハジが傍についているは言っても、こんな状態でゆっくり眠れるはずもない。人が一人死んでいるのだ。
   それでも少女の顔色はだいぶ良くなっていてダーナは安心した。だから最初、食堂がざわめいている事にダーナは気がつかなかった。小夜に声をかけようとしたときだった。
「また誰かが行方不明なんて」
「けど居なくなったのは一回消えて、どこかに倒れていた人だろう? 最初から何かがあったんじゃ・・・」
「やめてちょうだい」
   低い女性の声がざわめきを抑えるように響いた。
「マリエラさん?」
「とにかく、探しに行かないと」
   いつも見ていたマリエラの落ち着いた顔が今初めて心配と不安に歪んでいるのを見た。
「冗談じゃない。こんな何がおきるか危険な場所のどこを探そうと言うんだね」
「ここの支配人も、できるだけ一人にならないように、大勢で固まっている方が良いと言ってたじゃないか」
「じゃあ、探さないでこのままにしておくって言うの?」
   女の声が糾弾するように吐き出されると一旦は静まるように思ったざわめきだったが、ほどなく再び湧き上がった。誰も自分から進んで探しに行こうとする者はいないのだ。
「マリエラさん・・・・。どうしたんです?」
「ああ。小夜。具合はどう? 大丈夫?」
「何があったんですか?」
   マリエラの目が戸惑うように泳いだ。
「マリ・シールがね」 マリエラの口は重かった。
「ちょっとだけ目を離したすきにいなくなってしまったの。私が厨房へ様子を見に行く前には確かにここに横たわっていたのよ」
   それが帰ってきたらいなかった。横にいた人の話だと、ふらふらと起き上がって一人で食堂の扉の方を眺めていたのが最後だったという。それ以降、いつの間にか消えていたのだ。
「どうして? だって誰もひとりにならないようにって」
「そう。お互い気をつけていたはずだった。でも彼女が立ち上がった姿を見かけていても、誰も外へ出たことにも姿を消した事にも気がつかなかった」
「そんな・・・・」
「だから、探しに行きたがらない。誰一人としてね」
   今は未だ昼間だというのに、その口調は外の吹雪の音とともに重く沈んだものとして二人の間に落ちていった。







以下、続く。。。



2011.12.28

  本当はクリスマス・イブに更新を賭けるつもりでしたが、諸事超多忙のためこんな日に。。なんと奇妙な話をお贈りいたしました~~。。。
   必ず吸血シーンを入れずにはいられない私。まだまだ続きます。。。なるべく早く終わらせられるように頑張りたいのですが。。

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