1.

  取材しようとしていたのは新進のバイオリニストだった。小さな東欧の国出身というその音楽家はめったに自国から出ないということだったが、今回の受賞は彼にも彼の母国にも栄誉をもたらしてくれるはずのものだった。それがどんなに小さな雑誌であろうとも、評論家の間に身を置くものとしては、自分が以前から注目していた演奏家が評価されることは自分が評価されるのと同等の喜びをもたらしてくれる。取材の取り付けは思った以上に困難だったが、それでもようやく密着取材ができるとあって、私は期待に胸をふくらましていた。そうなるはずだった。
それがどうしてこんなところで立ち往生する羽目になったのか。彼の住んでいる村には鉄道の先はいつ来るともしれないバスか、あるいはレンタカーを使うしかなかった。タクシーなどという便利なものはもちろんない。そこで私は今にも壊れそうな車を一台、地図と共に借り出すことにした。車を貸出た店主が、なまりの強い言葉で、天候が崩れそうだから気をつけるようにと心配そうに注意を促してくれたが、取材相手のことばかりを考えていた私はほとんど気にも留めていなかった。
少し陰気だが車一台通るには十分に広い山道に慣れてくると、この困難さすら取材を引き立たせる要素の一つの気がして、否が応でも期待は高まる。しかしながら私の楽天的思考も雪が降ってくるまでだった。ちらちらと白いものが舞ってきたなと思ったとたん、急に空気が差すように冷たくなり、私は車の窓を閉めなければならなくなった。それからあとは転がり落ちるように視界が悪くなった。ワイパーが利かなくなり、私は何度か車を止めては手で雪を払い落とさなければならなかった。段々辺りが暗くなってくる。
悪いことに、ただでさえ年季の入っていた車がこの寒さにビシビシ言い出した。エンジンの調子が悪いのだ。こんなところでエンジントラブルだけは起こしたくない。そう思っていたというのに、このおんぼろ車の不平はますますひどくなり、やがてゴホンと咳き込んだような音と共にまるっきり動かなくなってしまった。車内の温度が一気に冷える。その頃には周囲は薄墨を刷いたようになっていた。自分の足元がようやくわかるほどの明るさしかない。ここで一晩過ごすか、あるいは助けを求めに行くか。
そのとき遠くの方に間違いなく人口の光を見つけた。建物があるのだ。すぐさま私は自分の行動を決めた。とりあえず車をここに置いてあそこまで行こう。一晩だけ宿を借りるのだ。それから先はどうにかなる。足元がまだ見える今のうちに行動しなければならなかった。最小限の身の回りのものを持ち、できるだけの防寒用品を身体に巻きつけ、私は意を決して車外に出た。雪は足首ほどに積もっており、歩きづらいことこの上もなかったが、今はそんなことを言っている暇はなかった。とにかく必死になってあの明りの元へたどり着かなくてはならない。
思っていた以上に道は悪く、時間がかかりようやくたどり着いたときには周囲は真っ暗だった。それでもようやく近づくにつれて建物そのものの灯りで道がわかるようになってくるとほっとした。ここまでくればもう大丈夫。助かったという意識が強かった。
それはかなり広くて頑丈な、古い館のようだった。何世代前のものなのだろうか。けれどきちんと手入れされているようだし、電気も通っているし、近代的な設備もそれなり整っているように見える。建物そのものが生きているように思えた。
ぼんやりしていたのは最初だけで、寒さに押されるようにして私はそこの扉を開けた。どっと暖気が押し寄せてくる。建物の中は思った以上に温かく、先ほどまで自分が凍りついてしまうほどの雪の中にいたときとは別世界のようだった。白と灰色の世界から彩色された世界へ押し出され、戸惑っている。そうしているうちに右手の方にカウンターがあって誰かがこちらの方をじっと見ているのにきがついた。枯れ枝のような身体に幾分くたびれたシャツと焦げ茶のベストを着込み、新たにやってきた客人をしげしげ見つめている。
「あの・・・・」
声をかけたと同時に目の前にノートが開かれた。いつの間にカウンターの前にやってきたのだろうか。記帳するように身振りで示されながら、私は相手の様子をちらりと見た。骨張った手足に年齢不詳の顔立ち。中年なのか初老なのか。彼は仕方なさそうにむっつりしたまま私の手元を見ているようだった。
「夕食は用意してもらえる?」
書き終わってから訊ねると彼はうなずいて顎で指し示した。
「あっちが食堂だ」
「ありがとう」
荷物はほとんど無かったので、私は部屋の鍵を受け取ってそのまま食堂に直行することにした。とにかく何かお腹にものを入れたかった。なんでもいい。スープの一口。パンのひとかけら。葡萄酒があればなお嬉しい。観音開きの扉を開けると、明るい光とこじんまりとした広間が飛び込んできた。入り口の陰気さとはうってかわったような雰囲気だった。各テーブルには花が添えられ、向こう側にはグランドピアノと簡単なステージのようなものがしつらえられている。無人ではあったが放置されているような感じではなかった。
しばらくぼんやり眺めていたからだろうか。
「あの・・・・」
声をかけてきたのはお盆を以て所在なくたたずんでいる少女だった。まだ子供といってもいいような、あどけない東洋風の顔立ち。澄んだこげ茶の瞳に短い黒髪。向こうの人たちは若々しいと聞いているが、いったいいくつなんだろう。
考えていると少女が言った。
「お食事ですか? それとも何か飲み物を?」
向こう側にはカウンターバーもある。けれども私に必要なのは今は湯気の立った食べ物だった。
「食事を」
「ではこちらへどうぞ」
決まった後では少女はきびきび動く。予め整えられていたテーブルの一つに案内すると、メニューを置き、注文をとるためにメモを取り出した。とにかく温かい葡萄酒。他にどれが一番早く出てきて一番身体があったまるのだろう。メニューを見つめていると不意に横から声がした。
「これなんてお勧めです」
無意識に口に出してつぶやいていたらしい。少女が示したのはオニオングラタンスープだった。湯気の立つブイヨンと良く炒めた玉ねぎ。パンとチーズ。私は思い浮かべた。
「じゃ、それを」
すると少女ははにかんだように微笑んだ。素直な良い笑顔だった。
「他には? 何かおすすめでも?」
「あの・・・・」
少女の唇が答えようと開かれたとき
「おい、まだか!?」
向こう側のテーブルで一人座っていた男が不機嫌そうに少女の背中に声を放った。
「あ。すみません」
「わかった。あとはパンとハムステーキとポテト。いいわ。とりあえずこれだけで」
ほぼ満足がいく選択だった。慌てた様子で少女はぺこりと頭を下げる声をかけた男の方に小走りに寄って行った。あの手の客はしつこくて嫌な感じがする。あの少女のことが少々気の毒になって見守っていると案の定、いちゃもんのようなことをつけられて、少女は困り切った様子でそれでも一生懸命何かを男に説明している。中々放してくれそうにない様子に、助け舟を出そうと席を立とうとしたとき、ようやく少女は解放されて慌てたように厨房の方へ飛んでいった。しばらく待っていると大きなお盆を手に、まず最前の男のところへなみなみ注いだ麦酒を渡し、それから私用に温かい葡萄酒をカップに入れて持ってきてくれた。正直ありがたかった。すっかり体が冷えてしまってこのままではどうしようもないと思っていたのだ。
「あなた、ここで働いているの? 長いの?」
「え? いいえ。つい3日前からです。支配人のご厚意でちょっとの間ですけど働かせてもらえることになって」
こんな辺鄙なところで人手がいるのかとも思ったが、少女は特に気にしている様子はなかった。短期のアルバイトのつもりなのだろう。どこかの学生という感じでもなく、かと言って根無し草のようなどこか不安定なすさんだ様子もない。どことなく育ちの良さからくる素直さを感じさせる少女だった。
「どこから?」
その問いかけに少女は一拍おいてから
「日本からです」と澄んだ声で答えた。東洋の一番東の国。黒い髪と黒い目の人々の。日本人の支援活動というのは割合と聞くが、これと言って有名な観光名所があるわけでもないこの辺りに、こんな年齢の少女がやってくるのは珍しかった。
「あの・・・?」
無作法に見つめてしまったのだろうか。
「ああ。ごめんなさい、随分遠くから来たのだと思って――」
彼女は何も言わずにふわりと首を振ってから目礼して仕事に戻って行った。ぱたぱたと、よく動く。しばらくすると彼女はスープ他一式乗せてもう一度やってきた。
注文をすべてテーブルの上に並べ終わった頃だろうか。不意に照明がやや落とされ、何かが始まる前の緊迫したざわめきが起こった。顔を上げて見回すと、先ほど目についたピアノの横に椅子が一脚おかれ、そこに人が座ろうとしている。持っている楽器はチェロだった。こんなところでチェロの独奏とは珍しかった。ついつい職業意識が先に立ち、取り上げようとしていたカトラリーを下ろしてしまう。その拍子にナイフがお皿に当たって大きな音が出た。びくりとしたのは少女の方だった。彼女も向こう側を見つめたまま、動けずにいたようだった。
「あ、すみません」
慌てたようにつぶやいて、お皿の位置を並べなおしたが、彼女自身の注意もあのピアノの横にいるチェロ演奏者に向かっているようだ。もう一度向こう側を見て納得した。そのチェリストは印象的だった。
痩せて背が高く、どこか浮世離れした風情であり、同時に空気に溶け込むように質感が感じられない。女のように長くのばして、後ろのやや高めの位置で一つに結んでいる黒髪。黒い服。まだごく若い。彼は弓を取り上げると、一瞬だけ目をつぶってから弾き始めた。
――それは驚くほど深みのある音だった。まだ青年と言っていい年齢のはずであるのに、その音は円熟したまろやかさを帯びていた。がなり立てるように激しい主張はしておらず、かと言って弱々しくはない。均衡と抑制された雄弁さ。プロの独奏者であると言っても通用するだろう。一種ひどく古風な佇まいがその音にはあったが、年寄によくありがちな頑固さはなく、それは何というか、年老いた年長者から最初の教えを受けたような印象を受けた。だが悪くない。
ふと隣を見ると、少女はお盆を胸に抱きかかえるようにしてじっと奏者の方を見つめていた。憧れと言うのともまた違う、何か哀しいような瞳をしている。胸を突かれるような表情だった。けれども私の視線に気がついたのか、ふいと私の方に視線を流して私が彼女を見つめていたと知ると真っ赤になって頭を下げると再び厨房の方へと飛んでいった。まだラストオーダーには時間があり、厨房は忙しい時間帯だった。
私は温かい葡萄酒を含みながらゆっくりと演奏を楽しむことにした。
バッハの無伴奏5番。難曲で有名な曲だ。古い楽器で演奏されていたこの曲は、現代楽器と異なる手法を用いていたと言われ、これを今の楽器で弾きこなすのにはかなりの技術が要求される。だが彼の演奏はよどみなかった。良く弾き込まれている。多少音が重いような気もするが、重く沈み込みがちな弦の音は、そこまで落ち込まされずに制御されていた。弾きこなすには技量が必要とされる曲だったが、技量の方は申し分ない。一体どこで手ほどきを受けたのか、ところどころ面白い技巧を使う。興味深い。それが私の感想だった。
やがて一曲目が終わり、とりあえず拍手を贈られた青年はそのまま無言で次の曲の準備に入っていた。ほとんど全く観客に興味がないような様子がどこか浮世離れしているこの若者には似合っているような気がする。
ベートーベンのチェロソナタが始まった。古典を選択することは当人の実力を明かすことにもなる。抑えた華やかさと簡潔さ。解釈も申し分なかった。車の調子が悪くなったことと天候の急激な悪化は不運だったとしか言えないが、時にはどうしてなかなかその不運が思わぬ出来事をもたらしてくれる。これは拾いものをしたと私は思った。――そのときは。
演奏はよくあるように三曲あった。最後の曲がコダーイ。あまり一般的とは言えないが、なかなかの選択だった。それぞれに見事な演奏だったし、選曲もいい具合にバランスが取れていた。終わるころにはすっかり食事は冷めてしまっていたが、口に運ぶものとは反対に心の中は満たされていた。良い演奏を聴かせてもらったものだ。
あの演奏者のことを聞きたくて、先ほどの少女がやってくるのを待っていたが、彼女はまだまだ忙しく立ち働いている様子で中々こちらの方へやってくる気配がない。仕方がなくもう一人、偶然通りかかった店員の一人に聞いてみた。
「私もあまりよくは知らないんですが、先日入ったばかりの新人で、たまたまチェロを弾けると言うんでこうして夕食時にでも弾いてもらおうということになったらしいですよ」
「新人? 演奏家ではなくて?」
「まさか」と言うのが相手の答えだった。
「こんなところにプロを呼ぶことなんて無理ですよ。第一あの人、宿の仕事がメインで雇われたんですから。うまいとは思いますよ。でも本人も手慰みに弾いているとも言っていましたしね」
手慰みにしてはいい腕だった。私は礼を言って席を引き払った。






以下、続く。。。



2011.08.05

   連載させていただきます。今のところ「ハジ小夜」話では一番長くなる予定のお話。まだまだ作っている最中ですので、無事に終わることができるかどうかも甚だ不安でありますが。。大体月に2回ほど更新できたらと思ってます。その間に短い別の話も書いてみたりして。。。のんびりと更新させていただく予定でございます。

   この何年かハジ小夜修行に明け暮れていたわけですが、その成果がどこまで出せるのか。。。。100年くらい後の話。多分中欧あたり。あの辺りは、ずっと昔ながらの共同体生活が今でも続いておりまして。きっと100年後も変化ないかと思われます。そんな中で起こった翼手についての出来事に巻き込まれる話。
   どこまで表現できるかわかりませんが、しばらくお付き合いいただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。。

Back