同じ潮風でも沖縄とベトナムが異なるように、やはりフランスでも違う風が吹いていた。漁港を中心とした街並みは朝の市場の喧騒を通り過ぎると落ち着きを取り戻し、後には置き去りにされた搬送用の荷台と、大雑把に洗って干されている木製の棚が野ざらしにされているだけだった。賑わいの中にあるうらびれた影が、それでも生きていることを主張して少女に何かを語りかけてくるように思える。
   不意に強い風が吹いて少女の短い髪を耳元から乱して駆け抜けていった。思わず一瞬目をつぶり、留めるように傍らの青年の手を握り締める。だが同じように風に吹かれながら、一瞬早く青年が足を止め少女の方に視線を寄越していた。その蒼い目が心配そうな気配を含んでいることを感じとり、少女は安心させるように微笑を返した。あの闘いを終えてから、目覚めている時間の間中、ハジは過保護になったような気がする。それは身を削るようにして自らを闘いに駆り立てていた少女に、自分自身もただ闘いに駆り立てる言葉しか言うことを許されなかったことへの反動のようにも思えるし、不意に開けた新しい扉から互いを見つめ合っていることの証拠のような気もした。
   そんなに心配そうな顔をしないで、とも、大丈夫だから、とも言わなかった。微笑みかければ微笑みで返される。それだけのことだったが、胸の中に満ち足りた想いが広がっていく。ただやさしい微笑で見詰め合っている。長い眠りの間の短い目覚めの時期だからこそ、時間というものがなおさら大切に感じられるのかもしれない。
   そのとき、一際高い声で海鳥が啼いた。思わず首を巡らせてみると、遠くにシルエットのようになって白い鳥が見えた。
「あれ・・・・。白鳥?」
   少女は翼手としての能力を使ってはいなかった。
「いえ、あれはウミカモメでしょう。同じように白い鳥ですが白鳥のように長い頚椎を持っているわけではなく、くちばしがやや尖っているのが特徴です」
   同じように翼手の能力を使わなくても、青年は少女よりも目が良いようだった。翼手としての能力を使わないときにもシュヴァリエの方が能力的に高いのか、あるいは元来彼の持っている資質が高かったのか。だが始祖である女王よりも眷族であるシュヴァリエの能力が高いのは、彼らが女王の守護を司っているからなのだ。わかってはいても時折ほんの少しだけ、理不尽なことに感じられる。
   そう思ってしまってから自分の中の醜い部分が嫌になって少女はため息をついた。これでは昔の、『動物園』時代と同じ。全然変わってない。あのとき、ハジに我が儘ばかり言っていた時代からまるで成長してないみたいだ。
「小夜?」
「鳥が・・・・・何羽も飛んでいる。空を舞っているみたい」
   気分を変えるように上を眺めて言う少女に付き合い、青年も視線を空に合わせた。青空に悠々と風を切って飛ぶ鳥たちは地上の何にも縛られることなく、自由にこの世界を往来しているようだ。何かの憧れにも似て、胸の中を揺らめく感情がかすめていく。手を伸ばせば届くようなあの世界の中に――。
「今は彼らの食事時で、餌を求めてやってきたのでしょう」
   だが青年の幾分のんびりした言葉に、小夜の心は一気に現実に引き戻された。食事時という言葉に触発されたように少女のお腹が盛大に鳴って本人を慌てさせた。周囲に聞かれていないか思わず回りを見回してしまう。青年が目の端を緩めた。そうするとその蒼い目の印象ががらりと変わってやさしくなる。
「どこかに食事に入りましょう」
   青年の言葉に顔を赤らめながら小夜はうなずいた。




   遅めの昼食時だったので、残念ながら開いている店はあまりなく、たった一軒やっていた酒場を兼ねた大衆食堂のようなところに彼らは入った。大衆食堂とはいえ、酒場仕様のカウンター席と食事用のテーブル席が分かれた構造になっており、こざっぱりした店構えに安心して腰をおろすと、少女は期待に満ちた目でメニューを眺めた。
   魚介に僅かな白ワインとデザートにコーヒー。それが海辺の食堂の定番メニューだった。こういうとき大抵ハジが、小夜の好みそうなものを見繕ったり、時折少女本人に質問を投げながらいくつかの品を注文する。小夜は食事をするときにはそちらに集中するタイプだった。次々に運ばれてくる料理に目を輝かせる。もちろん好き嫌いはない。ナイフとフォークを手に取ると、少女は目の前の皿に集中し始めた。
   夢中になって食事を頬張ってはいても、小夜の食べ方は決してがさつでも無作法でもなく、いつもむしろ気持ちの良いくらいの食べっぷりを見せる。少女は見かけにそぐわない健啖家だった。この華奢な身体のどこに収まるのかというくらいの量がたちまち少女の胃袋に消えていった。青年の目の前に置かれた皿も、いつの間にか少女の方に回されて、次々と積み上げられていく。回収が間に合わないほどの速さなのだ。
   あまりの量に他の客達があっけに取られているのにも気がつかず、彼女はさも美味しそうに食事を続けていた。魚介と香辛料の匂い。熱い具沢山のスープと少し固めの自家製のパンがついてきて、全く異なっているのにその素朴な味は沖縄でよく学校帰りにカイと一緒に寄っていた沖縄蕎麦の店を思い起こさせた。前菜を何皿かとメインを幾つも頼み、綺麗にそれが片付いた頃を見計らって、デザートが出てきた。洗練されてはいなかったが親切な対応の仕方で、青年はその店に好感を持った。
   やがてデザートのお皿も綺麗になり、そこで少女はようやく人心地ついたように、ほっと一息ついて青年ににっこりと微笑みかける。一欠けらの影も持たない、花のような微笑みだった。見るからにくつろいだ様子の少女を見つめて、青年自身もわずかに口元を緩める。あるかなきかの微笑は少女の姿にだけに注がれ、その微かな表情の変化に気がついているのもまた少女だけだった。
   二人とも特にこれといった会話を交わしてはいなかったが、青年の持つ穏やかな静けさが小夜を心地よく包んでいる。窓の外は相変わらず青い空に溶け込むように海が広がり、沖合には何隻かの船が出漁している。たとえディーヴァの一族が暗躍していたとしても、最後の一日まで人間たちの営みは変わらないのだろう。それが人間と言う種族の強さなのかもしれない。そう思うと何かしら、熱いものが小夜の胸の中に湧き上がってくる。
   最後に頼んだ紅茶がやってきて、柔らかな雰囲気の二人をちらりと眺めると微笑みながらカップを置いて立ち去って行った。青年の手がカップを取り上げるのを見て少女はほっとした。人間のものをほとんど口にしないハジも、飲み物だけは口にする。共に紅茶の香りを楽しみながら、少女は今、自分たちが世界の中に自然に溶け込んでいるのだと感じていた。旅行者としての空気をまといながら、それでもこの店の中にいる皆と同じように食事を楽しみ、くつろいで、会話を楽しむことができる。同じテーブルにつき、同じ紅茶を飲み――。二人が翼手であることを気づかれず、またそんなことも関係なく、この世界は回っている。
   だが。そのとき小夜はふっと気がついた。なんとなく周囲の視線が痛いような・・・・。少女の様子と、テーブル上の皿の数と、少女の前に座っている青年の姿。紅茶を置いて行った店員は最後に皿を下げるのを忘れて行ったのだ。それらの視線はその三つを順繰りに眺めているようだった。自分への視線も恥ずかしいが、積みあがっているお皿の数を見ると急に別の意味で恥ずかしくなって、小夜は真っ赤になった。今まで食欲を満たすことの方が重要だったのに、誰かに見られているということが妙に意識される。特に何も不自然な事などないような顔をして座っているハジを見ていると、その感覚はますます強くなった。まるでハジの分まで恥ずかしくなってくるみたいに・・・・。
   それは今更ながらハジと二人だけで旅しているのだと自覚し始めた少女の新らたな物事のとらえ方だった。世界と自分の間にある自然な繋がり。
「ね、ハジ。もう出よう・・・・」
   小夜は慌てたように青年を促した。




   支払いをキャッシュで済ませ、扉の所で待っている少女を紳士的な態度で先に通してから青年は店を出た。既に夕方近く、蒼い空に茜色が混じっていた。海鳥たちもねぐらに帰っていったのだろう。
「もういないんだね」
   寂しそうに少女がつぶやいた。もう一度あの空を飛んでいる姿を見たかった。自由にこの広い空の下を――。あの姿の中に何か胸に響くものを感じていた。それが何なのか確かめてみたい。
「小夜。あれを――」
   青年が指差す方を見てみると、薄紫に変わりつつある空を一羽の白い鳥が飛んでいた。一瞬少女の顔が目的のモノを見つけた嬉しさに耀いた。一羽だけだというのに、その鳥は悠然と翼を広げて風を切っていた。まるで自由を誇示するように。孤高であることすら誇るように。
(うらやましい・・・・)
   どこまでも独りで、どこまでも優美に。時々羽ばたいて進路を保ちながら、その鳥は突き抜けるような夕空を悠然と飛んでいた。自分ひとりがそこにいるかのように。力強い姿だった。その姿を抱きとめるように空は美しい色を掃き、一日の終りの顔を見せ始めている。
   少女は鳥にと言うよりも、その鳥が今飛んでいる空そのものに憧れるような目をしていた。孤独を抱く空。何も考えず、地上のしがらみにも縛られず、あの高みから空を飛ぶことができたなら、どんなに良いだろうか。足元の地面ではなく、空気の流れを身体全体で感じ、耳元でうなる風を友にして独りで飛び立つことができたなら・・・・。そこには何もないのだろう。しがらみも、ぬくもりさえも――。
   女王である彼女自身が空を飛んだことは一度たりともない。それでも翼手という種族である小夜は空に心を寄せるのだろうか。心を飛ぶ鳥に溶け込ませるようにして、ひたすら空の彼方に向かって意識を放っていた。地上の何物からも離れるように――。
   不意にその小さな手が大きな冷たい手の中に包まれるように握りしめられた。
「ハジ・・・・」
   ぼんやりと相手の名を口にしながら、深い淵の際から引き戻しているような手だと小夜は思った。その蒼い目がいつもよりも強い力で少女を見ている。真剣で切実な色をしていた。
   青年にはその手をつかんで引き留めておかなければ、そのまま少女は空の中へ消えて行ってしまうように見えたのだった。こうしてあの闘いの時間からすでに幾たりかの年月が経っていても、時折少女はこのようにどこかに行ってしまいそうな雰囲気を放つ。この世ではないどこかに半分身を寄せるようにしているのは、もしかすると妹であるディーヴァをその手で狩ったからかもしれない。ずっと少女は妹と共にこの世から消え失せることだけを心に描いてきた。その想いがどれほどのものだったかを、改めて思い知らされる。どんなに二人でいる時間が満たされたものであっても。快活な、幸せそうな笑顔が小夜に戻るときがあっても、それは一瞬で取って代わられることがある。あの『約束』のときのように、一人でどこでもない所へ行こうとするかのように――。
   だが小夜はじっとハジの姿を見つめていた。その手の冷たさ、なめらかさが小夜にハジのシュヴァリエとしての存在を感じさせた。ハジの翼手としての存在。ハジの大きな黒い翼――。ああ、そうだ。ハジにはできる。その翼を以て、この大地を蹴り自由に空を飛ぶことができるのだ。しがらみに縛られずに一人飛んでゆくことがハジにならできるのだ。
「ハジの翼が、好きだよ」
   昔、『動物園』を脱出するとき、最初にその翼を目にした。あのときは何もわからず、ただハジの姿に自分自身の血の持つ力と、自分自身の呪わしさだけしか見ることができなかった。変わってしまったハジの姿に、怯えていた。あれは自分の運命への恐怖だったのかもしれない。そんな自分を見て、決して翼を出さなかったハジ。けれども二度目に目にしたハジの翼は力強く美しかった。
「大好きだよ」
   あの翼を解き放ってしまいたかった。この地上から、運命から、そして小夜自身から。自分自身ではできない、あの大空を翔ることがハジにならばできる。
   少女は微笑んだ。
(飛んで。ハジ。飛んでいけばいいよ――。空の中に、自由の中に――。過去から、しがらみから、地上から、すべてから、私からも――)
   祈るように心の底でそう思いながら、そう思う小夜の目から一滴、涙が零れ落ちた。少女は微笑んでいた。微笑みながら泣いていた。
「小夜・・・・」
   ささやくような声で名を呼んだのはハジの方だった。少女の心の中の願いを痛いほど理解し、それでも決して手を離そうとはしない。離すことなどできない。自分のためではもちろんない。青年の中には今でも少女に必要ならばためらいもなく自分自身を投げ捨てる決意があった。そして誰よりも、小夜自身よりも、ハジは少女のことを知っているのだ。
   小夜の心の中にある哀しみと喪失の痛みが彼女を連れていこうとしている。小夜が自分に対して罪悪感を抱いていたことは知っていた。それは長い年月を経て、闘いが終わった後にそうなった運命を少女自身が受け入れても少女のどこかに残っているようだった。共に歩くことが青年自身の願いでもあるとわかっていても、こうである存在を青年が自ら受け入れていることを知っていても、それとは別に小夜自身がそのことに負っている引け目はぬぐいきれない。だから時折小夜はこんな目をする。ただ一人、消えて無くなってしまいたいというような。青年を自分から解き放ってしまいたいというような。――泣きながら・・・・。
   次の瞬間、小夜はハジの腕の中にいた。黙って青年は少女を抱きしめていた。ぬくもりを失った身体の中で、それでも少女を温めたかった。小夜は一瞬だけ肩を震わせ、それからおとなしくハジの腕の中に納まって目をつぶった。そうしながら見つめていた青年の顔を思い浮かべる。その顔に同情はなかった。ただ理解があった。激しい理解の色が。その激しさに、時折小夜は息を飲むように圧倒されてしまう。それなのに、こうしてこの腕の中にいることにどんなに安心するか、どんなに安らぐか。自分自身がどれほどハジを必要としているかを実感する。そしてハジの想いを――。
   そのとき唐突に理解した。そうだ。ああやって、地上のしがらみから解き放たれた大空をうらやましく思うのも、ハジをこの空の中に解き放ちたいと思うのも、同じひとつのことから出ている。きっと自分自身がそうやって解放されたいからなのだ。そういう自分の想いを、ハジに、あの空に見ている。まるでハジが自分自身であるかのように。
「ハジ・・・・。私は――」
   だが言いかけたその先を言葉にする前に、まるで言葉も何もかも包みこむように深く、ハジは小夜を腕の中に抱き込んだ。身体に回されたその腕に自分の身体を実感する。自分自身。ハジではなく。思いも異なる。言葉も、思考も、記憶も。小夜には小夜の想いは小夜のものであり、ハジの想いもまたハジのもの。それをわかっているのもまたハジなのだ。混同しているのは小夜本人だけなのだろう。だからこそ、ハジは小夜を語らぬ言葉ごと抱き留める。




   いつか。私が本当に生きている意味を実感できたとき。私が今までのことを懐かしい気持ちで思い出せるようになった時。そのとき自分はあの大空を飛ぶことができるのかもしれない。寂しさなど感じずに。永遠に寄り添い合う者の存在を感じながら。だから、それまでは――。
   この地上で確かな腕の強さを感じていればいい。この腕の力強ささえあれば、それで――。おずおずと抱きしめられたその背に腕をまわし、少女の細い手はいつの間にか青年の黒衣をしっかりと掴んでいた。




END



2011/05/30


最初のテーマは『二人で旅先デート』でした。本当は甘い話が書きたかった。。それが何故このような話に・・・・。小夜はただ食べているだけ。ハジは紅茶しか飲んでませんし。やっぱりキスシーン一つありません。
 私の中に存在しているこの二人深く結びつき方を書いてみたかったのですが。小夜が泣いている話になってしまいました。。
 本当は甘い話が・・・(以下、略・・・)涙。

 甘い話を目指したとはまた別に。実は、とあるサイト様が書かれていたSSのオマージュにもなっている話です。もう大分昔のことで、もうすでにネット上にはないお話ですが、とても心に残っていた話なので今更ですが・・・・。こっそりお捧げ。。

 ありがとうございました。。。

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