温かな光の中で少女は微睡まどろんでいた。柔らかな色を帯びた光が古びた窓ガラス越しに少女の上に落ちかかり、少女の白い額にも、愛らしい眉や丸い頬にも、赤い唇にさえもやさしい色をかぶせている。どこかで鳥のさえずる声が聞こえていた。微かな呼気とともにその胸がゆっくりと上下している。
   少女の顔は穏やかだった。苦行のような最初の百年が終わり、すべてが終わった後、日を夜に次いで、いくつもの永い眠りの果てに今再び、この三年を少女は目覚めて生きている。もう剣を握ることはないのです、と言われた時のまま、闘いの無い穏やかな日々を彼女は過ごしていた。まるで闘いにまみれ、ひたすら滅びに向かって歩んでいたあの暗い日々の方が夢だったかのようにも思える。悲しみの記憶を小夜が忘れることは決してないのだろうが、それでも今は光の中で微睡み、それを邪魔するものは誰もいない。
   それは何か偶然に与えられた恩寵のようなものだった。光の中で微睡む少女の姿はそれ自体がどこか神々しく、祝福されているような気がする。ガラスが和らげたやわらかい陽光が少女の輪郭を浮かび上がらせ、それ自体が光をはらんでいるようにも見える。手を触れるのもためらわれるような、そんな光景だった。
   短い前髪も、円らな瞳を隠す青白い瞼も、ふっくらした頬も、まるで幼子のようにどこか無垢で、それでいながらすべてを通り越した者だけが持つ深い静かな諦観にも似た、何かに洗われたような表情が、そこには存在していた。赤い唇が微かに開いて何かを誘うように静かな呼吸だけがこぼれている。怒りと哀しみを友として、様々な時を駆けてきた少女だった。たえず拒絶と受容の間に立たされ、自分自身にはまぶしい明日を見つめることさえ許さずに、だが人々のために明日を護ることを願った。自分自身は決して許されないと思い込んで。あの頑なな瞳が運命の果てに得た悲しみと安らぎ。その悲しみは決して己を損なうものではなく、あの時の安らぎは決して漫然とした中の安逸ではなかった。すべての記憶と感情を存在で包み込んで、眠りにくるまれている。『動物園』時代にあった少女特有の、ほんのちょっぴりの我儘と、寂しがり屋の一面もその表情のどこかに隠されているように思えた。何も知らなかった過去の無垢な幸せを思い起こさせる、そんな懐かしい表情をも眠りの中に露わにしたまま、少女の微睡は守られている。
   こんな風にあどけない表情で少女が眠ることができるようになった事実は、胸に迫るような感慨を運んできた。あの『動物園』の日々はすでに遥かになり、闘いの日々も遠く後ろに置いてきて、そのまま不安定な生の道を歩き続けてきた。永い、長い時間だった。その果ての眠りだった。光が少女の睫毛に溜まり、時間が吐息と共に吐き出される。幾度その眠りと目覚めを見つめてきただろうか。ただ独り。その眠りを護る時間さえも至福の時と感じながら。
   瞼にかかるその前髪にそっと手を差し延ばす。




   目裏ごしに注ぐ光の陰影に、動く影が差しこんできたことを少女はうっすらと感じていた。ゆめとうつつの境目のように、おぼつかない意識の、目覚める一歩手前の状態は、自分の存在そのものが空気の中に溶け込んでいきそうに感じさせられる。その中で、やさしい空気がまぶしさをさえぎり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
   夢を見ているのだ、と少女は思った。まぶしすぎて溶け出してしまいそうになる光の奔流からその影は少女を救い上げ、安らぎの中で憩わせてくれた。その存在が近くにいるというだけで、空気さえも穏やかなものに変わっていく。
   こんなにも穏やかな空気の中で、今ならば何もかも受け入れられるような気がした。今までの哀しみも、苦しみも、怖れも後悔も、自分自身さえも。
   その翳は瞼に溜まった周囲の熱をほんの少し払うようにして、少女の前髪に触れた。幾筋かを右から左に撫で付けるようにそっとかすめ、ちらちらと光を揺らめかせたと思うと前髪から離れ、今度は触れるか触れないような指先で少女の頬に触れていく。まるで少女の眠りを妨げるのを恐れるかのように。微かなその感触はやはり幾分ひんやりとして心地よかった。この心地よさを良く知っている。かつて長い眠りの前の、地面に引きずり込まれそうな暑さをそれは退け、つかの間の眠りの時には安らぎを、悲しい夢の時には慰めを運んでくれた。その感触を実感するのはいつだって眠っているときだった。おぼろげな記憶の中で、触れているのを恐れるかのように、そっと離れていった。
   言葉にできない感情が波となって記憶を揺らしていく。幾多の哀しみと苦しみと。だが覚醒までは到達しないその波は、記憶とは逆に少女の心を穏やかさで包み込み、ともすれば白波立つ記憶を安寧の中に沈静させてくれた。
   静かな手。やさしい手。いつもいつも傍にいてくれたその手の持ち主を。夢の中に拡散してしまいそうなその欠片を手放したくなくて、小夜は身じろぎしようとした。動かない身体がもどかしい。浮上する夢の中で小夜はもがいた。
   優しい感触は小夜の頬を離れてその名残りだけを後に残す。気持ちが感情を後追いするように、冷たい体温の手に対する恋しさが少女の中に湧き上がった。それは言葉にして形作れば、消えてしまいそうなほど微細な想いの欠片だった。夢の中なのに、気持ちのどこかが起きていて、何かを伝えたいと思っている。誰に対するのか、何をなのか、それすらも夢の揺り篭の中で形にならないというのに。それなのに・・・・
――手を伸ばしたい。――
   そのとき、そのやさしい感触は再び少女の元に戻った。頬ではなく、その右手に。名残の寂しさを含んだままに。指先から滑り込んでくるようなその手は、ひそやかな温度と共に、指と指を重ね合わせ、手のひらを重ね合わせて、今度こそそのままじっと少女の体温を感じているようだった。言葉も意識もない交流。じっとその温度を感じているだけで。触れている指の先から何か心を満たすものが少女の存在そのものに染み透ってくる。それは押し付けがましいところが全くない、それでいて想いの深さだけが浸透してくるような触れ合いだった。少女の唇が微かに震えた。幸福感が泉のように心の内側から湧き上がって満たされていく。自分の心が思いがけないほど強く、喜びを歌うことを自覚して小夜は息を吐き出すようにして身体中の力を抜いた。
   同時にゆっくりと深い沼の中から浮上するように身体が覚醒に向かって準備を始める。記憶の泡が少女を包んだ。――昔、休眠期直前の小夜の体温をじっと感じ取っていた青年の姿。目をつぶったまま眠りの境で感じ取っていた。低くなっていく体温。近づいてくる運命の時。少女の体温の中に聞くその運命の足音。その手に包まれた中で見上げる、透明な蒼い瞳。その目の中に浮かんでいる、包み込むようなやさしさと痛みの影。その奥に隠されている熱のようなもの。何回でも見つめていたいその目。その手の感触。
(ハジ・・・・)




   少女の瞼が震えている。目覚めが近いのだった。触れた指先が眠りの安らぎを破り、覚醒を促したのか。安らぎから引き戻したことに微かな痛みを覚えながらも、その目覚めを震えるような心地で見守るしかなかった。いつも、自分自身が持ち得ぬその眠りの中から少女が浮かび上がるたび、その瞼が開く一瞬を息を殺しながら待っていた。彼岸から少女が此岸へ戻ってくる時。眠りを見守る至福のときが終わり、その輝かしい赤い瞳が煌めくような光を宿して自分を見つめるその時を。そのとき見守る時間は終わり、共に歩む時間が始まる。世界が彼らに向かって開かれる瞬間だった。すべてが生き生きと息づき、自分自身が生きている実感が戻ってくる。たとえそれが短い間だけだとしても。繰り返し。
   目覚めの兆候に少女がわずかに眉を寄せ軽く身じろぎをした。唇が何か物言いたげに震えている。前髪が幾筋か再び白い額に散っていった。幾度直しても前髪の癖はすぐに少女の瞼にかかってしまう。昔からそれが気になって仕方なかった。それともいつの間にか少女に触れる小さな免罪符になっていたのか。それを直そうと手を伸ばすと、目覚め前の少女はその微かな空気を感じたのか再び身じろぎする。はっとなって凍りついたようにその手が止まった。温かな少女の頬の微かな感触が白く冷たい手に感じられた。それだけで。その接触だけで、少女が自分の中に抱え込んでいる体温と存在の柔らかさを改めて教えてくれた。
   少女を包む光のやわらかな温かさが、染みとおるように冷たい身体に浸透してくる。遠い日の痛みも苦しみも、すべてを少女に捧げ、全てを引き受けて歩いてきた。暗く長い道のり。絶望しか見えないような道のりでさえ、そのことそのものには意味を置かず、ただ共に歩むことにだけに意味を見出してきた。幾度もの眠り、幾度もの別離と孤独。固く、固く、少女の存在だけを胸に抱いて――。この瞬間、すべてが報われて余りあるような気がした。光の中に安らぐ少女。その柔らかな体温が自分自身の存在の何かを包み、慰め、祝福してくれている。まるで少女に与えられた光の祝福が、自分自身にも与えられているように。
(小夜・・・・)




   蒼い目がかけがえのないものを見る瞳で少女を見つめていた。その手は前髪を直すと、やさしい手つきで少女の額にそっと触れ、こめかみに、そして頬に触れていった。まるで少女の眠りに沿うように最新の注意を払って。言葉にできない想い。形にできない感情。
   触れていくその手が、少女の存在をいとおしんでいる。いや、確かめているのかもしれなかった。確かな存在としてここにいることを。夢の中から今再び、この場所に戻ってきていることを。




   微睡まどろみの作り出す柔らかな光の中、あの穏やかな表情と、深みをたたえた蒼い瞳に会いたくて、夢の持つ安寧に満たされ、赤ん坊になったように無邪気でやわらかな心地のまま、少女はゆっくりとその瞼を開こうとしていた。





END



2011/03/04


今回こちらをバレンタイン記念にしようと思ってました。が、チョコレート一枚、キスシーン一つなかったので、どうしようかと思っていたところ、別の話をSSblogのコーナーにあげさせていただきました。今回改めてアップ。
 やっぱりキスシーン一つありませんし、小夜に至っては眠っているだけ。けれどもそういう色っぽい関係を超えた部分でも(無いとは言いません。。笑)この二人は深く結びついていると思ってますので、そのあたりを書いてみたかったのです。
 30年後でも、60年後でも、100年以上後でも。どんな時間軸でもと思って作った話です。

 ありがとうございました。。。

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