日常の中で一瞬無防備な心の隙を捕えるようなそんな光景に出会うときがある。少女が夜中に目を覚ましたとき、誰もいない部屋の中で窓に映った光景はまさにそれだった。何が映っている訳でもない。そうではなく、逆に何の影もない、そこは全くの闇だったのだ。一瞬どこにいるのかわからなかった。夢の続きなのか、現実なのか――。単に闇夜の中で、光の陰影の恩恵を被らない景色が少女の目にそのように見せたのだと頭の隅ではわかっている。
 だが夜が落とし込まれるようなその闇を少女は見つめて戸惑っていた。こんな風に昼とは異なった世界を覗き込むとき、不意に時間の奥に埋没していたはずの暗い記憶がよみがえってくることがある。凝った記憶のその重さに少女は思わずたじろいだように息を呑む。それは心の奥に封じられたようにひっそりと存在している記憶だった。




「ハジは――。サヤ、あなたの騎士(シュヴァリエ)になりました」
「シュヴァリエ?」
「純粋なる翼手の、その眷属。それを生み出す存在を女王と言うならば、それに従う騎士のようなもの――。唯一絶対の主である女王。それを護り、支え、長い時間の中を歩むもの。それがシュヴァリエ。それが今の彼です」
 そしてあなたはその主である翼手の女王。その声の持ち主は語った。
「ハジは・・・・」
 目の奥に浮かんでくるのは黒い大きな翼をもった異形の姿だった。硝煙の匂い、カタカタと微かな音を立てている壊れた馬車の残骸。誰も意識のある者はいなかった。自分たち以外。その中央に胸に抱えた傷口を庇うように背を曲げて、うつむいているハジの姿があった。怪我をしているのだろうか。片方の手がだらりと下がっている。けれどもその背に生えているのは。あれは――。
「ハジはもはや人間ではありません。あなたと同じように・・・・」
 あれは誰の言葉だったろうか。ジョエルではなかった。あらゆる世代のジョエルの印象を小夜は覚えている。最初のジョエル以外、その言葉はこちら側に決して踏み込んでこようとはしなかったが、丁寧である種の畏敬が込められていた。
 あれはジョエルではない。恐らく一、二回、言葉を交わしただけの・・・・。男の声だったのか、女の声だったのか、それさえも記憶の彼方に遠くかすんでいた。ただその内容が身を切られるような痛みと共に襲い掛かってきたことだけを憶えている。




 あの頃。自分が他の人たちと異なっていることは既にわかっていた。けれども自分は本当に何を知っていたというのだろうか。と少女は時折自分自身に問いかける。異形に変わってしまったハジの姿。あのときの姿が目に焼き付いて離れなかった。ハジがどんなモノに変わってしまったのか、少女はその異形と共に、人にはあるべくもない強大な力に対しても、そして穏やかだったハジがためらいもなく人を傷つけた事実に対しても、ひどく自分を責めていた。
 ハジの穏やかさが好きだった。真綿でくるまれたような『動物園』の日々の中で、あの時期だけは健やかな成長と歩み寄る変化を少女の内面にもたらしてくれた。険のある目をしていると思ったのは最初の内だけで、ハジは自分の意思ではなく連れて来られた曰くありげな場所で、ただひどく傷つき怯えていただけだったのだろう。その証拠にわだかまりを解いた少年は口数こそ少ないものの、少女の良き話し相手となり、ジョエルを除けば唯一少女に触れてためらわなかった。『動物園』の日々はハジに穏やかさをもたらした。まだ背の低く幼いと言っても良かった少年はサヤについて回り、ジョエルが忙しいときには二人で『動物園』を歩き回った。柔らかな日差しの午後には二人でチェロを弾いたこともあった。そして昼のお茶にはジョエルと三人でたわいない話で笑い合う。



 今から考えるとそれは十年にも満たない時間だった。かつてあった気の強さの代わりに忍耐強さを獲得した少年は、弟のようであった時代を超えて、いつの間にか少女の背を越え青年になっていた。幼い感情を包み込むようにして成長していったハジ。平穏な日々がもたらした穏やかさはそのまま彼の中に吸収され、彼の本質そのもののようにもなっていった。声を荒げることもなく、激しい感情の隆起もなく、ただ流れていく平和な時間。お互いに一緒にいることが自然で、違和感がなく安心していられる。まるでもう一人の自分のような存在で。それはハジの持っている雰囲気による部分も大きかった。柔らかな眼差しも、少女をたしなめるようになったその声も、少女をその存在すべてとして受け入れてくれている証拠だった。それはジョエルとはまた異なった、存在することへの安心感を確認させてくれるような感覚だった。
 退屈だけが招かれざる客であり、日の長さと風の変化だけが時間をめくっていく。そんな日々。その安らぎと穏やかさに包まれた日々は突然失われた。
 気がついたときにはあたり一面炎に包まれていた。折り重なる死体。ジョエル。炎を背に佇む自分と同じ顔の少女。どうやってその場を後にしたのか、今となってはもう覚えてない。少女が覚えている次の記憶は、一塊の瓦礫と化したジョエルの館の光景と、自分を追い立てるようにしていた人々の姿だった。そして――。
 穏やかで、口にすることはなかったが、動物が好きで、声を荒げて怒ることさえめったになかったハジが――。ハジの背に真っ黒な翼が出現し。叫び声のような咆哮。彼は異形の姿をむき出しにしたまま、我を忘れて少女を捕えにきた人々を容赦なく傷つけた。獣のような姿だった。
 すべてが終わったその後の、茫然として何か言葉を吐き出そうとする一方手前のような、それでいて何も言葉になっては出てこないハジの様子もサヤは鮮明に覚えていた。その動揺を映した顔がこちらを向き、同じように動揺している自分の顔を見た途端、無理やり呑み込むようにすべての感情を押し込めて、彼は身体を起こした。同時に翼が折りたたまれるように消え失せて元通りのハジの姿になる。そのすべてを、声も出せず、口元を震える手で押えたまま少女はじっと見つめるしかなかった。ハジの目が押し殺せない痛みをたたえてこちらを見ている。
 二人とも無言だった。




 人と異なることを誰よりも自分はわかっているはずだったのに。その辛さも悲しみも。その自分が、異質さを受け入れてくれたハジに対して与えてしまったことを小夜は長い間許せずにいた。それはハジがそれさえも受け止めて、受け入れてくれたこととは関係ないところにある、自分自身に対する深い嫌悪と自責の念だった。それは少女が自らの内に見ている運命と無縁ではなかった。
 目をつぶると記憶の底から浮かび上がってくる遠いニューヨーク・オペラハウスでの運命の一瞬。天井の亀裂から降り注ぐ雨と雷鳴の夜。どうしてあの一瞬に、自分が「生きたい」と言えることができたのか、小夜は不思議に思うことがある。決して後悔しているつもりはなかったが、自分がついにディーヴァの一族から人間の世界を護り切った喜びと、自分自身がそれまで行なってきた宿業と、その狭間に立って一体どう折り合いをつけてよいのか、少女はわからなくなるのだ。
 それまでずっとすべての絶望とすべての頸木は自分とディーヴァが滅びの世界へ戻ることで相殺されるだろうし、そうであることを小夜は願っていた。人間の側に立ち、闘い続けているうちにわかってきたこともある。自分たちはこの世にいてはいけない。翼手の呪われた力を目にしてなお、自分たちの権益と欲望にそれを使用しようとする人間が存在し、さらにその人間を利用しようとしているアンシェルたちディーヴァの眷属の行動に小夜は深く絶望していた。翼手の残忍さと人間の貪欲さと、それらは決して互いに相容れないだろうが、互いを喰らい合おうとするように、永久に連鎖を続けていくだろう。
 わずかに救いだったのは、ジョエルの血筋が創設した『赤い盾』がそのような利権にとらわれることなく純粋に対翼手としての機関であり続けたことだった。『赤い盾』はジョエルの血統によって統率され、かつての出来事、つまり『ボルドーの日曜日』のすべてを決して忘れることはなかった。彼らがサヤに差し出したのは援護の盾と無言の願いと、そして彼らが背負わざろうえなかった翼手との闘いの宿命だった。幾多の犠牲がそこにはあった。戻ってくる者もあったが、ついに戻ってこない者もあった。翼手の存在を知ったときから、そして『赤い盾』の構成員となり『ジョエルの日記』を読んだときから、彼らには安らぐ人生などなくなっていた。構成員のすべてが何らかの形で翼手の犠牲となっているというのは象徴的ですらあり、サヤとハジは二重の意味で彼らの願いを一身に背負って翼手に望まなくてはならなかった。
 それが崩れたのはベトナムでの暴走だったのだろう。『赤い盾』との関係も、自分の願いも、自分自身の中に存在していた呪われた本能にはかなわなかった。ディーヴァへの怒り。自分自身への怒り。運命への怒り。血が。喉の渇きではなく。流れる血が。すべてを斬り倒す暴力的な欲求が――。何の罪もない人を切った。関係ない、翼手の存在さえ知らなかっただろう人たちを。ハジにすら刃を向けて。殺して、殺して、殺しつくして――。
 許されない。決して許されない行為は存在するのだ。それを、自分が。ディーヴァではなく、自分自身が行って――。あのときだけのことだったならば、まだ救われもするだろう。だが再び「それ」は起こった。同じくベトナムで。サンク・フレッシュの実験農場で。過去の記憶と血の匂いに混乱したまま、歌声に導かれるように少女の中の狂暴性が自我の亀裂から吹き出し、肉体を掌握した。血の匂い。焔の赤。敵意。どこもかしこも血に溢れていた。少女にとって残酷だったのはそうやって意識を持っていかれたときも、肉体の記憶が微かに少女に届いていることだった。再びその手は罪のない人間の血で赤く染まった。
 ディーヴァを斬ったとき、自分自身のその部分も葬り去ってしまいたかった。けれどもこうして生き延びてしまった今、その一番罪深い部分も背負い、ディーヴァから背を向けてしまったことも背負い、少女は歩いて行かなくてはならない。小夜にとってそれはひどく恐ろしく、後ろめたく、そして寂しい道だった。
 だからこそ、ディーヴァとの決着がついた今でも、時折未来に立ちすくむ自分がいることも、こうして暗い記憶の濁りを覗いてみるときに、思いもかけない陰鬱さで過去の記憶が甦って少女を時間の墓場に残してきた筈の虚無の汚泥に引きずり込もうとしていることも、少女は気がついていた。
 あのときに生きることを選択したのは自分だったのに。カイ。ハジ。奏。響。沖縄の皆とかつての「仲間」達。胸が痛くなるほどの記憶と想い。決して後悔などしているはずはないのに。
 けれども生を選び取ったことと、自分自身を許すことはまったく異なる次元の事柄だった。そして自分自身の存在の呪わしさをサヤは嫌と言うほど自覚していた。この世は輝いている。その世界を守れたことはこんなにも喜びをもたらしてくれるのに。
(姉さま・・・・)
 闇を覗けば奥の方から懐かしい呼び声がする。闘いの間も、眠っている間も、本当は気がついていた。ずっとディーヴァは自分を呼んでいた。ディーヴァ。私の半身。一緒に逝ってあげられなかった私の妹。もう一人の私。やさしいとさえ言えるその腕が少女を招く。
(小夜姉さま・・・・)
 あちら側に行ければどんなに楽だったろう。ディーヴァを想うとき、自然に少女の頬に涙が伝う。すべての宿命と罪科を背負い、それでも生き一歩を踏み出すことが、少女にとってどれだけの勇気と力を必要としているのか。
 それを一番知っていながら、小夜に未来と笑顔を望んでいる者があった。
(ハジ・・・・)
 生きたいというあのときの言葉を後悔している訳ではない、と小夜は再び強く思った。そうではなく、ただ怖いのだ。ベトナムの出来事のように自分自身の思わぬ自分が自分の中にいる。幾多の目覚めに記憶の断絶した自分が存在し、少しの要因で過去の自分と異なる自分が出現してしまう。そうなれば過去も現在も意味を失い、自分自身が誰なのかわからなくなる。その自分をやはりハジは受け入れて見守るのだろう。それがシュヴァリエの定めとは言え、その瞳に映る憂いを小夜はまざまざと思い浮かべることさえできると思った。そんな運命を幾度も繰り返し、そのたびにハジを哀しみに突き落とし、そして大きな罪を引きずりながら生きるしかない自分にどのような価値を見つければよいのか。
 それでも選んだのは自分だった。生きたいと言ったのも。カイが、受け入れる人間(世界)が在った事実があれば。そして――。ハジが傍にいてくれさえすれば。ベトナムで傷つけてしまっても、自分の方が背を向けてしまったときも、ハジは必ず戻ってきてくれた。記憶を失って、拒否した自分を突き放すことなく寄り添ってくれた。だから――。
 オペラハウスで瓦礫の下に埋もれていくハジを見たときの絶望を、どのように表現したらよいのか小夜にはいまだによくわからない。腕の中の赤ん坊がいなければ、どうなっていたのかも。ただもう一度会いたい。胸の奥の、日常から深く沈殿した心の核の部分で、焼け付くようにそう思っていた。まるで淡雪のようにはかない望みを。眠りに就くまでの時間、決して誰に対しても口に出したことがなかった。この身が沈みこんでいく絶望の中に、微かに存在する不確かな灯をどのように消さずにいられるか――。そうして30年後。ハジ――。
 ずっとずっと、一番許して欲しかったのは彼からだったのかもしれない。けれども本当はわかっていた。ハジは最初からすべてを許してくれていた。『動物園』での出来事も、オペラハウスでハジを置いてきてしまったことも、ベトナムでの出来事さえも、拒絶も依存もすべて受け入れて。それがシュヴァリエだからなのか、そうでない部分で受け入れてくれているのか。ずっと少女は後ろめたさと共にどちらなのかを悩んでいた。悩んで、悩んで。今は――。おぼろげながら、大切なのはそれかあれかではないことが少しわかってきたような気がする。




 不意に少女の耳にチェロの音が響いてきた。どこか遠くの方で。少女の眠りにそっと寄り添うように奏でられるその調べ。いつでも言葉よりも雄弁に少女の元へと届く想い。
 あの暗い記憶はいつでもそこに在り、寄せては返す波のように繰り返し少女に打ち寄せる。そのたびにきっと迷うのだろう。けれどもわずかずつ前を向いていけることが。繰り返し受け入れて、夜曲のように打ち寄せる想いの中で、自分自身が少しずつ歩こうとしていくことが。足の指先から感じる微かな夜の温かさのように。その変化の兆しを、少女はチェロの音の中にはっきりと予感することができたのであった。





END



2011/02/01

本来1月中に上げようと思っていたのが、こんなに遅くなってしまいました。申し訳ありません。
 これを書くきっかけなのですが。。実は以前ブログの方(2010年11月20日~22日)で力いっぱい小夜語りをし手しまっているのです。。が、それに伴うようなSS書いてはいなかったな~。と思いまして今回急に思い立ち、書き上げてみたというのがその経緯です。
 萌えも何も全然ありませんが、30年後、小夜が自分自身を受け入れるには時間がかかったのではと私は思ってますし(その辺りは個々人のハジ小夜観ということで一つ、よろしくお願い申し上げます)、その過程をゆっくり書いていけたらいいなあ。と思っての作品です。ノクターンって、「夜想曲」と一般的に書きますが、「夜曲」とも書くそうですので、今回はこちらを使わせていただきました。本来ノクターンって、ピアノ曲だという突っ込みはなし、ということで。よろしくお願い申し上げます。。。

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