「もう太陽があそこまで落ちちゃっているんだね」
 窓辺で夕日を見つめながら、赤銅色の光の中で少女がつぶやいた。潮騒が鳴っている。海の音はどことはなしにチェロの音に似ている、と小夜は思った。
「まだ・・・・。怖いのですか?」
「ううん。もう大丈夫」
 目覚めてすぐ、少女は夕方になるとかすかな怯えの表情を見せていた。ハジはそれに気がついていたのかと思うと少女の胸がわずかに痛む。それは長い闘いの中で失った多くの命への悼みに似ていた。
「おかしいよね。以前沖縄で目覚めて記憶がなかったとき、やっぱりこうやって夕日が怖かった。暗くなる前触れのようでね。今は記憶があるっていうのに・・・・」
「小夜」
「――ごめん。あのときのこと、ハジは知らないのに・・・・」
「すべて、あなたの大切な記憶です」
 青年の左手がそっと少女の頬に添えられ引き寄せられた。夕日の赤い光の中で、ハジの気配が急激に近づいてくる。小夜は目をつぶった。やさしく降ってくるハジの唇の気配。その感触。波の音が響いてくる。ひんやりとやさしく触れ合わされ、やがて青年の唇がそっと離れていった。少女が目を見開いて、じっとハジの顔を見上げている。
 まだ大丈夫。と小夜は思った。まだ昼の光が残っているから、だからハジの顔には苦痛の影は浮かんでこない。ほっと息をつくと、ハジがわずかに問いかけるような表情で少女を見下ろした。その目に向かって、なんでもないとわずかに首を振りながら小夜は視線をそらせて海の方を見つめた。



 夕日が海の中へと落ちていく。もうすぐ夜がやってくる。波の音はいつの間にか静かになっていた。そっと指先で唇に触れてみると先ほど感触がよみがえってくる。
 昼間のまぶしい光の中でくちづけを交わすとき、少女はこの触れ合いがこれまでにない密接さで二人の距離を埋めてくれるのに気がついていた。『動物園』の時代を含めて、近くにいながら長い長い間互いに一言も語らなかったその心の繊細な部分。30年前のニューヨークオペラハウスで交わしたくちづけと愛の言葉を思い浮かべる。あの時。初めてハジの想いを受け、引き寄せられるようにくちづけした。
 柔らかい日差しを感じながら青年を見上げると、眼差しに甘さがこもり、誘われるようにくちづけを受ける。目をつぶって触れ合わせる唇に陶然となりながら少女はその感触を受け入れていた。血を与えられるのとはまた別の、いや血の記憶があるからこそ内面の深いところからの求めが少女の身体を震わせているのかもしれない。悦びと言うのはこういうものなのか。触れ合うだけのくちづけの後にやさしく抱き締められる。
 その行為は言葉少ないハジの、その感情を感じさせてくれる数少ないもののひとつでもあった。心がより近く、よりいとおしく感じる瞬間。満たされる感情。その触れ合いは少女にこれが血であがなった関係ではないと実感させてくれていた。あの長い戦いの後、まるで何かの恵みのように降り落ちてきたこの日々だった。そのくちづけ。寄せる波のように心に満ちてくる幸福感。そして気恥ずかしさ。――長い間を一緒にいたのに、ハジのまつ毛がまっすぐなことに少女は改めて気がつき、ハジの体温の低い唇のやさしさに時折胸を突かれ、こうして新しい距離感を小夜は歩いていった。慰めではなく、互いに慈しみ合うことを感じられる時。長い間凍りつかせてきた小夜の、少女らしい感性がためらいながらも開かれていく。
 口移しで血を与えられたこともあるこの少女は、唇の触れ合いよりももっと深い触れ合いがあることももちろん知っていたが、彼女はまだ無垢であり、それ以上の何かを知りながらも今の状態に満足していた。いや、むしろそれに触れ、今の状態が壊れるのが怖かったのかもしれない。確かに生きているハジ。唇だけのやさしい触れ合い、柔らかな感触。これ以上何を望んだらいいのかわからない。それは羞恥であり、ためらいであり、感覚的な戸惑いの中にあるわずかな怯えでもあった。好奇心のようなものがないわけではなかったが、今思っていた以上に満たされているその関係から、一歩進む必要を感じていない。少女はそれでいいとさえ思っていた。
 それに――。いつの頃からか、青年がこのやさしい触れ合いの直前に、ほんの一瞬にも満たない時間不思議な表情を浮かべるときがあることに小夜は気がついていた。
 最初は気のせいかと思った。本人も気がついていないほどそれは瞬間的なものであり、少女にはその青年の表情の変化がなんであるのかわからなかった。それはある種の苦悶の色に似ていた。もちろんこのくちづけを、触れ合いを、ハジが嫌がっていないことだけは少女にもわかる。求めること、求められること。ハジもそれに悦びを感じている。すべての感情を押し殺すようにして自分に従ってきてくれたハジが・・・・。その悦びが互いの心をこんなにも満たしていくのかと、少女は自分自身にそれを許すことをためらいながらも肯定したのだった。ハジの気持ち。自分自身の気持ち。過去の出来事を忘れたわけではないけれど、今はこの感情に素直に身をゆだねるのも正しいことのような気がしている。
 だからこそ、わからなかった。なぜハジが時折そのような苦悶に近い表情を浮かべるのか。本人も気がついていないだけにそれはかえって少女を戸惑わせ、悲しませた。自覚していないだろうから言葉にして問いかけることすらもできない。そのうちに小夜はそれが起こるのがいつも決まって夜の時間であることに気がついた。少女の悪夢の夜も、獣のように闇に潜んで敵に対峙していた夜も、すべてを見守ってきたハジ。夜の唇の触れ合いに青年の眉が切なげに顰められるのは、きっと過去の記憶がハジを苦しめているからなのだろう。どんな想いで長い時間、眠りを見守ってくれていたのだろうか。その苦しみがおそらく夜になるとハジを苛むのだ。
 それなのに、ハジはことさらやさしく小夜に触れてくれる。特に夜には。――苦しかった。自分の中の何かがまだハジを苦しめていると思うと、過去の記憶も相まって小夜の胸の中に身の置き所の無いような哀しみが湧き上がった。
 今までの闘いの中で、男女間にあるできごとなどほとんど省みてこなかった少女にとってそれが何を意味しているのか検討もつかないし、ましてや翼手の男性の生態など少女にはわからない。自分に触れるのがどんなに苦痛をハジにもたらしているのか、それだけが少女にとって意識するすべてだった。



 やがて夕日の名残がすべて海の中に隠れ、辺りに夜の始まりがやってきたとき、少女はそっとハジの傍から身体を離した。濡れたような目が青年を見つめ、そのまま少女は自分から身を離そうとしている。少女が必要としているものが何なのか。態度とは裏腹の少女の想いを感じとり、青年が腕を伸ばした。
 だがそのやさしい腕を拒絶するように小夜は振り払い、下を向いて首を振った。
「小夜?」
 青年が珍しく戸惑っている。
「だって――。ううん、なんでもない」
 もういい。もう既にハジは十分苦しんできた。これ以上ハジの目に苦痛の色を見たくない。夜になりつつある海を見つめながら小夜はごまかすように顔を背けた。説明できない、きっと言ってはいけないことだから・・・・。
 だが青年はそれを許さなかった。
「小夜。言ってください」
 昔からハジには決心すれば一歩も引かない強さがあった。それともこれはハジに対する引け目なのだろうか。少女は再び戻ってきた波の音に押されるようにして、ようやく言葉を口に出した。
「・・・・いつも、いつも、眠りの間、私のことを見守ってくれていたよね。活動期の間中。その記憶がハジを苦しめているんだとしたら。私・・・・」
「いいえ。小夜。――あなたの眠りを見守る時間は私の至福の時でもありました。その記憶はいつでも私と共にあり、私を支えているのです」
 よどみなく、ささやくように低い声でハジが答える。
「でも――!」 一度発してしまった言葉は止まらなかった。
「その記憶がハジを苦しめてるんでしょ? わかるんだよ、私。 だって決まってハジが苦しそうにしているのって夜のときなんだもの。私といる時。わたしと、その・・・・」
 一瞬息を飲む気配がして、小夜は青年が自分の言葉の意味を肯定したのだと思った。翼手の女王とそのシュヴァリエの関係を、彼らに教えてくれる存在はどこにもおらず、少女の不安を払拭してくれる存在もまたいなかった。愛の言葉もくちづけも。大切なものが手のひらから零れ落ちていく感触がする。自分自身の存在がそのものがそういう気がして、それが少女には切なかった。
「いいんだよ。無理して私に触れなくても――」
 だが答えはなく、その代わりに腕を取られ激しい勢いで抱き締められた。
「ハジ・・・・?」
「小夜」
 拘束は一瞬だった。それから胸に押し付けられていた頬が、下から掬い取られるように青年の手の中に包まれる。
「それは、違います」
 青年の薄蒼い瞳が強く揺ぎ無い力を込めて少女を見つめていた。夜触れ合ったときに見せていた切ない表情が今、再びはっきりと青年の顔に表れ、そして唇が降ってきた。これまでにない意思を込めて――。
 少女はいつものように目をつぶってそれを受けた。薄い唇が微かに震えているように思えたのは気のせいだろうか。その唇がやさしく触れ合ったあと、さらに強く押しつけられる。今までと異なる情感を込め、それまで抑えられていたすべての想いを乗せたように。いたわりよりも感情を、やさしさよりも熱を、青年が優先させた瞬間だった。



 普段物静かで穏やかなハジが、どこか抑えたところに激しさを秘めていることを少女は知っていた。それが今、自分に向けられている。その感情の発露に呼吸すら苦しくなって、わずかに開いた少女の唇に深いくちづけが入ってきた。その感触に小夜は一瞬怯えてからそれを受け入れた。艶めかしく、表皮に覆われていた内側の、生々しい濡れた感触。そこに込められている感情が少女に何かを伝えようとしている。
 血を与えられるとき、時折口移しで与えられていた少女にとって、それは初めての動作ではなかった。だが一方でくちづけとしては触れ合うだけの行為しか知らなかった彼女にとって、血を与えられているときとはやっぱり異なっているその行為は、ためらっていた一歩を無理やり進められたようで、どう扱ってよいのかわからない。その感情と感覚に小夜は混乱していた。身体を引き寄せられ、これまでになく密着し、ぴったりと重なり合うことを意識する。導かれ、怯えている少女のその部分に触れ、激しい接触を求めてくる。どうしようもなかった。ひんやりと濡れているハジの感触がより密接に絡みつき、口腔内を辿っていく。血を与えられているときよりもさらに激しく、息をするのも苦しくて、そのくせ身体のどこか深いところでその接触の深さに、求められる悦びに、湧き上がる感情があった。内側から寄せてくる波を感じる。波濤が砕け散っていく。
 頭の芯が痺れるようになって自分が変わっていくことを感じた。ハジによって変わっていく。感触も感覚もくちづけの仕方さえ、その意味さえも。自分と異なる体格、自分以外の感触。それまで感じていたものよりも、もっと異なった感覚が少女の中に芽生え始める。たとえば花を散らすような欲望、波に浸されるような感覚。少女は戸惑っていた。それが自分の中にあることも、そしてハジの中にも確かにそれが存在することも。心の中に満ちていた何かが熱を持ったものに変わっていた。もっと生々しい感情の何か。穏やかさの向こう側に在った艶めかしく激しいもの。今までまったく見せてこなかった、これがハジが持っていたものだった。波にさらわれるような感覚があった。
 ようやくわかったような気がする。昼間のくちづけの向こう側にあったものがなんであったのか。血の介在しないくちづけがどういう意味を持っているのか。そしてなぜ夜、ハジの顔に苦悩に近い切ない表情があったのか。30年前のあのコザ商業高校で受けた目覚めの血が甘かったのは、固く自制していた青年の感情のわずかな表れだったのだ。眩暈がする。
 唇が離れたと思ったらまた奪われ、角度が変わり、触れ合う深さが変わり、何度も何度も重ねられる。くちづけがこんなに甘いものだなんて。こんな激しさが、疼きが、ハジの中にそして自分の中にあったなんて。哀しみでもなく、苦しみでもなく、悦びとも異なった感情が胸を打ち、涙となって眦にたまった。ハジの唇に導かれて身体の中心に甘い疼きが生まれている。何も考えられない。ただ唇の激しさだけがそこにあった。
 胸の動悸が激しくて。耳元で血管が鳴っている。波が・・・・。――波が満ちてくる、と少女は思った。いつの間にか胸の動悸は海の音と一つになっていた。夕日にひとたびは静まっていた潮騒が再びこちら側へ寄せてくる。あらゆるものの源である海。そうして想いと静寂に抱きしめられたまま、少女は自分の中に何かがひたひたと、海の響きのように満ちてくるのを感じたのだった。





END



2010/12/29

クリスマス話と言いながら、結局間に合いませんでした。。。申し訳ありません。。。
 どうせなら、クリスマスには幸せな感じになってもらいたい。といつも思っているので、最後はいつも甘い感じに。。したつもりなのですが、いかがだったでしょうか?? キスシーンしか描いてませんが、精一杯艶っぽくしたつもりです。
 小夜が色っぽいお話は他所の素敵サイト様方のところで楽しんでいただくとして、うちの小夜はこういう方面に関しては無垢だったり天然だったりして(100年ストイックな関係だったと某監督インタで書かれてますし、私もその通りだと思っていますので)。そっち方面が本当に無知だったら面白いな、と。無知なら無知で楽しみ方があるなあ、と。
 真面目な文体で、傍から見ると笑えるシチュエーションを書いてみました~~。。本当はもっと赤面モノの、書いていてかゆくなるほどのものを目指したのですが、どうも中途半端に終わってしまいました。こういう甘いハジ小夜を書いてみると、まだまだ修行中だなあ。。。と実感します。

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