馬車を降りて、一人昏い道を歩きながら、アンシェル・ゴールドスミスは自分の後をつけてくる足音を確かに聞き分けていた。できるだけ足音を立てないようにしているものの、人間ではない彼の聴覚は確かにその音をとらえていた。いや、音をとらえる前からその気配には気がついていた。これだけあからさまな殺気を放っていれば、闇の中でも大声で叫んでいるのに等しい。彼が一番危惧する相手、ディーヴァの対の女王であるサヤとそのシュヴァリエであるハジではなかった。
 『ただの』人間の足音。
「心得違い者めが・・・・」
 彼は苦く笑った。わずかな失望を感じる。もしもこれがサヤであったなら・・・・。あのサヤと会ってみたいのか、そうでないのか。彼は自分自身に問いかけながら、そのどちらでもないことに気がついた。自分はそこまでサヤに対して興味を持てない。自分の『花嫁』であるというのに、研究対象としてすら興味が薄いのだ。アンシェル・ゴールドスミスは自分たち翼手の生態について思いを馳せた。
 調べたところによれば、ディーヴァが番うべき相手は、対の女王のシュヴァリエであるし、サヤの番うべき相手はディーヴァのシュヴァリエ――。つまりディーヴァにはハジ。自分にはサヤということだった。にもかかわらずサヤに対するこの関心の無さはどうだろう。つくづく自分はディーヴァのシュヴァリエなのだ。ディーヴァのための自分。自分のためのディーヴァ。まだハジに対しての方が少しは関心が湧くというものだ、とアンシェルは思った。――ハジ。今の時点では唯一、ディーヴァの『相手』となりうる存在。
 アンシェルは自分が泥溜のようなところから拾い上げて、ジョエルの元へ連れて行った少年のことを思い出した。うるさい縁故がおらず、多少出自は怪しくても、見目良く下品でなく、ある程度の知性のありそうな子供を探していたところへ、旅回りの一座の中に『彼』を見つけたのだった。
 一座の中にいて、明らかに彼は浮いていた。容姿が整っていたというだけではない。天涯孤独の身の上であるのに、身分や生まれとはまた異なった気の強さと、打たれてもなお頭を上げ続けようとする誇り高さをその幼い少年の中に見て取ったように思った。世の中のすべてを知ってなどいないだろうに、その誇り高さは恐らく周囲には容易に溶け込めない一因となっていることだろう。毛色の変わった雛。いや、全身毛を逆立てて威嚇している子犬のような少年だった。
 珍しいモノを見つけ出したような気がした。一風変わったこの少年を彼女たちに娶わせてみたいという欲求が湧き上がってきた。研究者としてのインスピレーションにも似たその感情は、この紳士をして少年を引き取るという行動に出させた。引き取るといっても、彼を買い取るという形で、である。旅回りの一座にとって、この少年はある種の厄介者であったのかもしれない。値段を問うと、その日の糧食ひとかけらを要求されただけだった。彼にとってただ同然の買い物であった。
 アンシェル・ゴールドスミスは研究者であると同時にまた、商才をも有していた。この買い物が有用であるように、磨きをかけなくてはならない。原材料を購入するよりも、加工して売り出すことの方が重要性を持っていることも彼は知っていたのだった。価値を付加しなければならない。サヤに、あの翼手目の女性態が受け入れるだけでなく、ジョエルの眼鏡にかなうだけの資質をこの商品に付加しなければならなかったのである。幸いなことにこの「買い物」も実に有用性が高く、容姿や性質だけではなく、能力もまた良いものを有しており、成長とともにどのように変化していくのか十分期待に足るものであった。アンシェルは今度も自分の眼力に満足していた。後はサヤが少年に興味を抱き、やがて成長とともに当然成人した人間が示す生殖衝動を待つだけのはずだった。少年の出自をアンシェルはよく理解していたからである。
 少年は最初こそ反抗的だったが、すぐに適応し、サヤと親しみ始めていた。とは言え、それは弟が姉を慕う、あるいは子犬が主人を慕う、そのようなものではあったが。彼もジョエルも急ぎはしなかった。こういうことは焦ってもどうにもならないということを、彼らは多くの観察から知っていた。




 いつからだろうか。すべての事柄に乖離が生じ始めたのは。サヤとハジの仲は、期待通りには中々いかず、人間の男子がもっとも理性を利かせることを不得手とする思春期という衝動期もハジが抑制を利かせ、またそれを過ぎてしまうと逆にハジがサヤに保護者のように接するようになってきた。これは彼の出自を知っているアンシェルにとっても意外なことであった。同時にジョエルに変化が訪れた。老齢という名の変化だった。すでにその兆候はサヤたち二人の生殖活動に焦点を絞ったときからあったことではあったが、老齢に拍車がかかるにつれて、別の意味の変化がジョエルに起こっていったのだ。人恋しさ。理想の家族。やさしい感情。それは少しずつ表れていた小さな乖離が、大きなものへと変化する前触れだった。
 アンシェル・ゴールドスミスが、主筋の家であるジョエル・ゴルトシュミットに見出され、彼の研究の助手に抜擢されたのはもうずいぶん若いときからだった。ジョエルの莫大な財力を背景とした収集癖と研究熱は趣味や道楽といった範疇を大きく超え、社交界では何かと噂になっていたものだったが、若く野心にあふれたアンシェルにとって、それは実に好ましく、頼もしいものとして映っていた。そのジョエルに助手として招かれることは彼にとっても光栄なことだったという記憶がある。アンシェルはジョエルの助手として動物園すべてを把握し、ジョエルの指示のもと、共に研究し、知的好奇心を満たし、それに満足を覚えていた。
 あの遠い日に北欧の原住民が祀っていたミイラを運び入れた時にも、それを解剖し繭を取り出したときも同様だった。アンシェルの血で繭が目覚め始めたときのことを彼自身、今でもはっきりと覚えている。あのときのえも言えぬ感情。恐怖などなかった。充実感と期待。未知のものを最初に明かす人物になろうとしているという眩暈のするような昂揚感。そしてその期待が結実した瞬間の興奮。ジョエルも同じだったと断言できた。主催と助手とは言え、同じ志向を持つ他者との一体感。それが分たれたのは――。
 ジョエルは生まれた双子の一方を自分の子供同然に育て始め、もう一方は高い塔の上に監禁し、両方ともにどうなるのか行動学的な観察を試みようと考えた。アンシェルにはあれが契機だったように思えてならなかった。
 触れると凝固する互いの血液を含む体液や身体能力の研究観察を同時に行いながら、ジョエルはサヤと名付けた個体を育て始めるとそれに夢中になっていき、はた目から見てもその観察に注ぐ力の方が大きいように思えた。そして自然にもう片方の、名前すら名づけなかった方はアンシェルが面倒をみることになっていく。ジョエルは塔に閉じ込めた方の個体には次第に興味を失っていったものの、生態に関する観察については怠りなくチェックを入れさせるようにしていた。自分が育てている個体との比較をしていたのである。ジョエルは自分が育てている個体が、塔にいる個体に比べてすべての面で人間的であり、また能力的に勝っていることに非常な満足を覚えているようだった。
 まるで疑似家族のようですね、とアンシェルが皮肉を込めて言うと、実験のためだよ、とジョエルは応じていた。だがジョエルの中の満足の表情が、確かに親が自分の子供の優秀さを発見したときのように輝いているのを本人は知らなかった。研究者らしい冷徹さの中に、人間の一番善なる部分である愛情深さと慈しみの表情が生じているのを。驚いたことにアンシェルが見ていると、ジョエルの中の研究者の部分を、その部分が凌駕していると思える瞬間がたびたび見受けられるのだった。研究者とはすべてにおいて客観的な視点を保持していなくてはならないはずであるのに。これは裏切りに似た激しい逸脱だった。ジョエルの研究はすでにジョエルひとりのものではなかった。ジョエルがその最初の意思を遂行できないのならば自分がやるしかない。――アンシェルはそのときの自分が微笑みを浮かべていることに気がつかなかった。
 だが最初のうちは、二つの比較対象である個体に、同じような視点を投げかけることのできなくなったジョエルを不思議に思っていたものの、次第にアンシェルもジョエルの気持ちがわかるようになってきた。すなわち一方に偏った関心を寄せることを理解したのである。彼には双子のもう一方がいた。彼女さえいるのならば、自分はすべてを賭けることができる。アンシェルにとってもそれは運命であった。




 『食事』を持っていくにしろ、身づくろいさせるにしろ、彼女はアンシェルのことを唯一自分に関心を持ち、世話をしてくれる存在と認識しているようであった。関心――。そこに愛情に似たモノがあったのか、アンシェル自身にもわからない。だがあのとき。「彼女」が初めて人間の言葉を――自分の名前を口に出したときのことを彼は忘れることはできなかった。
「わたし、の、なまえ、は、ディーヴァ・・・・」
 彼女はそのとき、名前を持たない存在から『ディーヴァ』になった。アンシェルの知らないところで。アンシェルが手を触れぬうちに。一瞬怒りにも似た吹き上がる感情の波を彼は感じた。だが同時にアンシェルには誰が彼女に名前を付けたのか、即座に理解できた。――サヤ。あの双子の片割れが彼女に出会ったのだ。ディーヴァが自分以外の存在に関心を寄せているということに、アンシェルは我知らず動揺していた。それまでディーヴァが関心を寄せていたのは、食料と歌を歌うこと。そして僅かながらアンシェルの存在にだけだったからである。
 時間を止めたような翼手たちを見ていると、その内面も全く変化しないように思える。だが外的刺激に対応して内面、つまり精神が変化することは十分考えられた。その時点を境にディーヴァは「言葉」を獲得し、同時に彼女の中には「人間に似た」感情のようなものが生まれ始めた。サヤと同様の状態がディーヴァにも見られたのである。冷静になって考えてみると、これはこれで面白い現象だった。サヤと『ディーヴァ』。基本的には彼女たちの感情というものは、人間のそれに倣うということがこのことから結論付けられる。それがどのように変化していくのか。この双子の間にある感情を観察すること。それはおそらくジョエルには知り得ぬ状況でもあった。ジョエルが知らないことを自分が知っている、観察しているという一歩踏み出た優越感を感じたのはそのときが初めてだった。
 それはジョエルが双子の生殖機能を調べようと言い出したときにも変わりはしなかった。おそらくジョエルは自分の年齢と体力の衰えを感じ始めていたのだろう。相手を与えることによって、それぞれの個体がどう変化していくか。だがサヤは男を知らず、またジョエル以外には決して心を開こうとしなかった。他者と交流させてこなかったジョエルの、これは落ち度とも言えた。これは慎重に事を進めなければならない。ジョエルに対してひそかな優越感を持ちつつあったものの、ジョエルとアンシェルの認識はこのことでは一致を見せていた。彼らはまずサヤに慣れ、サヤも彼を受け入れられるような環境を作らなければならないと考えた。連れてこられたのは「少年」だった。こうしてサヤはハジに出会ったのだった。
 アンシェルにとってさらに意外だったことは、サヤに親しくなっていくハジを見つめているうちに、ジョエルの目にはサヤに対するものと同様ハジに対しても慈しみに似た光が浮かび上がるようになってきたことだった。当初から事が成った暁には、標本にする目的であるにもかかわらず、である。この頃になるとアンシェルは皮肉を込めた視線でジョエルを見つめるようになっていった。ジョエルへの尊敬はその研究者として持てるすべてを差し出してでも真実を見つけようとする崇高なる使命感にあったはずであり、ジョエルへの失望はひそかな彼への軽侮と転換されアンシェルの胸の奥にしまわれていた。
 そうしてあの日が来たのである。




 考えてみると『赤い盾』が「ボルドーの日曜日」と名付けた惨劇の日は来るべくして来たのだと思われる。アンシェル個人としては、それが来ても来なくてもどちらでもよいことだった。いや、ディーヴァが自分自身の足で歩き始めたことは、シュヴァリエとしては喜ぶべき事柄だったと言えたが、反面ディーヴァを自分だけのモノとしておきたかったアンシェルの別の部分では、それは決して歓迎すべきできごとではなかった。
 だがディーヴァはアンシェルを自分のシュヴァリエと定め、共に自分の居場所を探し出すことを求めた。シュヴァリエとしての自分。研究者としての自分。だがアンシェルの中ではそれが矛盾することなく同居していた。すでにディーヴァはアンシェルにとって、存在意義そのものとなっていたのである。ディーヴァの望みをかなえること。それが自分自身の望みに合致している――。
 アンシェルが研究者としてひどく落胆したのは、ディーヴァにとって交配可能であるのは、対の女王のシュヴァリエのみであると知ったことだった。ディーヴァの繁殖の相手は自分ではない。あの「ハジ」であったことは、実は少なからずアンシェルの自尊心を傷つけるものでもあった。だが彼はそれを決して認めようとはしなかった。元来、ハジはディーヴァとサヤ、両方の繁殖相手を視野に入れて迎え入れられたはずであるにもかかわらず、ハジがシュヴァリエになったことは自分と同等、いやディーヴァの相手としてはそれ以上の価値存在となったからである。出自の差が変化をして、それまで欠片も価値を見出してはいなかった青年に、無理やり価値を認めなくてはならない。アンシェルのような人間にとって、このことほど困難なことはなかった。だがシュヴァリエとしての、これは義務でもある。アンシェルはディーヴァのシュヴァリエとしてあらゆることについて行動を起こした。
 ディーヴァのためにハジを連れてこようとしたこともあった。だがディーヴァの方がなぜかそれを拒んだ。『動物園』時代の何かがディーヴァに拒絶をさせているのだろうか。それともハジの方が不遜なことだがディーヴァを敵と思い定め、ディーヴァもそれを認識しているからだろうか。
 ディーヴァが彼を拒んだことにアンシェルは落胆と安堵との両方を感じた。ディーヴァの子供を――次世代の翼手を見ることはアンシェルの望みの一つだったからである。
 一方でアンシェルは、繁殖すべき女王であるディーヴァを省みようとさえしないハジに激しい不快を感じていた。本来あるべき繁殖を存在そのもので拒絶しているような、あの薄蒼い目の頑なな青年。『花嫁』に従わず、運命を拒絶するような目で自分の女王しか見つめることのないシュヴァリエ。なぜディーヴァの花婿が彼なのか。おまけにもう片方の女王であるサヤはあろうことか、ディーヴァを滅ぼそうとしている。決して許されることではなかった。だが彼らの、サヤとハジの背後にはジョエルの血族を長官としていただく『赤い盾』があった。




 彼らがなぜ自分たちを倒そうとするのか、ディーヴァには理解できなかっただろう。彼らはディーヴァを、翼手を忌まわしいものとして人間の敵と判断し、公にせず滅ぼそうとしているのだ。同じ血を持つサヤすらもディーヴァを討つために剣を取り戦いに身を投じている。アンシェルは無邪気で残酷な彼の女王を思い浮かべた。彼女の獲得した精神の純粋さと残酷さは彼にとって心地よいものであった。完璧なる翼手の女王。だがもう一人いる。――アンシェル・ゴールドスミスは闇の中で真っ赤に輝く瞳を思い出した。サヤそしてハジ。サヤの血のみがディーヴァを滅ぼしうることを、アンシェルも、そしてサヤも知っていた。自分自身の血でもって、もう一人の己であるディーヴァを滅ぼそうとするのか。その行為はひどく歪んだものであるようにアンシェルには思えた。自分自身のことを知らず、そしてディーヴァをも知ろうとしない、もう一人の女王。狭い人間の考え方にとらわれて――。本来あるべき女王の道から外れた存在。彼はディーヴァを守らなければならなかった。
 アンシェル・ゴールドスミスの中には、本能のように確固たる決意が存在していた。ディーヴァはジョエルの館にいた人々の血を飲み干して殺害したあと、生まれて初めての自由を謳歌するように奔放に振る舞った。同時に危険に対してはひどく無頓着に。不本意だが一人では守りが不十分になる。アンシェルはディーヴァを守るために、どうしても他のシュヴァリエが必要になった。自分の手足となり、同じ血につながる兄弟を。
 歩き始めたディーヴァは中々すぐにはシュヴァリエ候補を受け入れず、その代わりにアンシェルがとった手段とは、人工的な翼手をディーヴァの血液から造りだすことであった。これにはディーヴァも興味を惹かれているようだった。もっともディーヴァの興味はすぐに飽きる程度のものであり、これから恒常的に『赤い盾』からディーヴァを守っていくのには不十分だった。もっとも、アンシェルはシュヴァリエとなってからもディーヴァの身体の研究を怠ることはなかったため、ディーヴァからの血液の提供は無尽蔵にあると言え、人工的なシュヴァリエの研究には不自由することはなかった。この手段はアンシェルにとって二重の意味の効果を持っていた。一つはディーヴァへの守護の手段であり、同族の中でディーヴァを本来あるべき女王として嘉すること。もう一つは――翼手という種族の実験である。どちらもアンシェルには切り離せないほど重要事項であった。
 シュヴァリエの主人への傾倒と相まって、彼の中のディーヴァへの欲求は尽きなかった。いや、アンシェルにとってむしろディーヴァへの興味は益々募るばかりだった。思慕というには強制的で、愛情というには執拗なその感情は、ディーヴァが何を見つめていくのか、ディーヴァがこの世界で求めるものは何なのか、探求という名の形となってアンシェルの中に固定された。
 ディーヴァのための世界。ディーヴァのための研究。ディーヴァをその腕に囲みながら、世界と時間を亘っていく。それがアンシェル・ゴールドスミス。ディーヴァのシュヴァリエの誇りであり、生きるべき道であった。




 不意に刺すような殺気が彼を襲った。
(なんとうるさく無作法な殺気だろうか)
 たかが人間の分際で。黒いシルクハットの影の中で、薄い笑いがその口元を覆う。その奥で、犬歯が鋭く尖りはじめていた。
「アンシェル・ゴールドスミス!」 闇の中で憎々しげに武器が輝いた。
「父の、兄弟の、仲間たちの恨み、今こそ受けてもらう!」
 衝撃が身体を貫いた。血液が流れる。人間の呼吸がうるさい。殺意を持つとき、人間はこのように心を乱すのだ。悦びではない。ただのストレス。それが翼手と人間との相違だった。アンシェルが軽く腕を振るうと、簡単に開いての身体は刃物ごと振り払われる。滴る血液がすぐに収まり、肉体の再生が始まっていた。
 闇の中に轟音が何度も響く。身体の中の圧力がうるさい。用意周到という訳か、とアンシェルは嗤った。刃物の他に銃弾も用意していたとは。少しだけ力を込めると、弾丸が体内から押し出され、石畳に音を立てて落ちた。
「そんな・・・・バカな。銀の、銀の弾丸だぞ」
「そうか・・・・」 アンシェルの声が闇の間を震わせた。低く艶やかな魔物の声だった。
「私には効かないようだな」
 先ほどの威勢はどこへいったのか、相手が悲鳴を上げて逃げ出した。恐怖に駆られ、何も考えられず、銃も刃物も何もかも余計なものを捨て去って。逃れるためなら魂すら悪魔に売り渡しそうな勢いで。思い込んでいた寄る辺が崩れ去った者がよく取る態度だった。
 アンシェルの外套が一瞬、裏地を翻す。次の瞬間、彼は逃げ出した相手の正面に姿を現していた。
「やめろ・・・・」
 相手の顔は恐怖で醜く歪んで震えていた。圧倒的な相手、圧倒的な恐怖に対面した人間がよく見せる顔だった。恐怖。そして絶望。心地よいほど醜い。そう。人間が最もよく取る容貌。アンシェルにはよくわかっていた。
「いやだ。・・・・頼む。やめろ。やめてくれ――」
 人間を捕食するモノが、人間をどう扱うか――。アンシェルの真っ白い牙が闇の中で、一瞬きらりと光った。

アンシェル


     END


2010/11/06

思いっきりアンシェル話。アンシェルを書いていた方が実は楽だという、ダメダメサイトマスターでごめんなさい。。長くなってしまいましたが、10000字は越えなかったので、一つにしてしまいました。。見づらくて申し訳ないです。
本当は某お祭り(2010.8~2010.10)に投稿しようとした文章でした。が、あまりに長くなってしまったのでサイト収納。代わりに別物を投稿させていただきました。。

 ありがとうございました。。。


2010年12月5日追記: Dolce Vitaの三木邦彦様よりアンシェルのイラストをいただきました。。。ここでは挿絵として飾らせていただきます。昏い夜の雰囲気を見事に描き出してくださいました。素晴らしいです。ありがとうございました~~。

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