小夜:涙

輪  郭りんかく



   昼と夜のあわいの中でひっそりと啼く鳥がいる。



 少女は夜に向かって闇色に移ろう景色を眺めていた。時が移ろい、昼が夜になり、世界の中の隠されていた一面を剥き出しにする。この時間は自分たちに似ている、と少女は思った。人間の形状を取っていても自分たちは人間ではない。昼と夜が違う容貌を持つように、他の人にはわからない顔を、経験を、少女たちは持っているのだ。
 それが悲しいわけじゃない。今はもう、自分が翼手であることを呪ったり厭ったりする感情は小夜の中にはなかった。ただ見てこなかった事実が心に響くだけ。記憶が胸に迫ってくるだけ。少女の小さなつぶやきに、夜の気配をまとった人影がひそやかに寄り添った。
「お願いが、あるの」
 無言の肯定を感じ取ると少女は青年に向き直り、この時間の手触りを映したような青年の瞳を間近に見上げた。押さえた表情の中でいつも薄蒼いその瞳が様々な感情を映し出すことを何度も少女は見つめてきた。昔の、生き生きとした表情を失っていてもハジが感情を失ったわけではないことをわかっている。誰のせいでハジが表情を失くしたのか。二人の間に横たわる年月の重みと記憶が――。誰よりも近くにいたから何も言えなかった。言わなきゃいけないことさえも。
 少女は黙ってハジの右手をそっと取ると、自分の左の頬に押し付けた。驚いたような気配がする。だが青年は何も言わないまま、少女の好きなようにさせていた。
 沈黙が二人の間に流れていく。


「ハジ・・・・」
 少女は次の言葉を言うことにひどくためらいを憶えていた。もしかすると青年にとって残酷なその言葉を。それでもそれ無くしては伝わらないことが少女にはあった。
「ハジの本当の手を見せてほしい。擬態じゃなくて、翼手の形を、私に見せて」
 思いもよらない少女の言葉だった。小夜は恐れていた。ハジがこれ以上傷つくのを。恐れながらも口に出した。命令ではなく、願いとして。その少女の心を感じ取って、次の瞬間、青年の繊細な手が内側から剥がれるように、いかつい奇怪な異形の手をむき出しにする。半ば無意識だったのだろう。青年の目の中で、ひどく戸惑う気配がした。
 ひっこめられるものならひっこめたかったのだろう。だが小夜はそれを許さなかった。かつて包帯の中に隠されていた翼手の手。その手に少女はためらいなく頬を寄せ、目をつぶった。
「この間、沖縄で目覚めて出会ったとき、ハジの手はこの翼手のままだったよね」
 恐ろしかったあの手、記憶と悔恨の象徴のような烙印だった。それをハジはずっと、30年近くも一人で抱え続けていたのだ。そして出会った沖縄の日。
「今は思うんだ。こうしてあの時、ハジの手を抱きしめていたかったって。あの時、この翼手の手を」
 ひっそりと、少女の手が翼手の手に重ねられる。
「小夜。私は・・・・」
「ベトナムで・・・・」
 少女は怯えているかのように、長いまつげを伏せて青年の目を見なかった。華奢な手が微かに震えている。
「私が、ハジの手を」
「それは――」
 青年の言葉を遮るように少女は続けた。
「切ってしまったから・・・・」
伝えたいと思って。触れたいと願って。だがかつてはそのどちらもできなかった。包帯越しの手。決して直接触れることはせず、それでも、その手の感触はいつでもひんやりとやさしかった。その記憶。
「ずっとずっと謝りたかった。ハジは・・・・やさしいから、必要ないって言ってくれるけど。私が私じゃなくなったとき、またハジを傷つけてしまうかもしれない私がこんなこと、言っちゃないのかもしれないけれど」
 でも、今言っておかなくちゃ、きっと後悔するような気がするから――。
「ごめん。ごめんね、ハジ」
 許してね――。その言葉を小夜は何回繰り返したことだろう。翼手シュヴァリエにしてしまったこと。約束させてしまったこと。この血の呪いを。許して。ごめんなさい。この運命を――。
 生まれてきてしまってごめんなさい。
 謝罪の言葉しか口にできないように、少女はそれを口にするのだ。止める言葉すら聞かないように。
「小夜。私はあの時。」
「ハジ」
 少女は名前を呼ぶだけで青年の言葉を遮り、その代りというように頬をその異形の手に強く摺り寄せた。何も言わなくていい。ううん、言わないでほしい。形にできない想いや言葉にできない記憶が長い年月降り積もっている。それがわかっているから。口に出して形作ってしまうと、その本当の部分が壊れてしまうような気がした。
 慰めの言葉も、救いの言葉もいらない。今はただこの手の感触だけを確かなものとして感じていたい。なめらかな人間の手ではない、翼手の手を。
「私の、ハジ」
 このいとおしい手を。離さないで。離れないで。少女は指の一本一本を重ねるように、その右手で異形の手に触れていた。そうすることによって心を重ね合わせることができるかのように。別々の存在。別々の祈り。別たれる30年の時間が二人の間に存在している。けれど、今ここに重なり合うように・・・・。変わってしまった、変えてしまったこの手のいとおしさ。伝えたい、その温かさにどんなに慰められているかを。この胸に触れてくる、苦しいほどの感情を。生きることの意味。明日を信じることの意味。それを見つめてみたいと、そう思っていることを。


 誰を切ってきたのだろうか。何を斬ってきたのだろうか。翼手の本能が暴走するとき、小夜の願いと裏腹にすべての存在を滅ぼす衝動が少女の身体を駆け抜ける。翼手を斬るその手が、人間にも向けられたあの日。血にまみれ、汚泥に汚れ、この手が血に染まっていた。誰の悲鳴も聞こえず、ただ斬って切り倒す。焔だけ。『動物園』でもベトナムでも。何もかも飲み尽くす焔だけ。その人生を。この血にまみれた手を、ハジだけが知っていた。そしてこの自分の血が変えたハジの手を、この手がこの身の内に巣食う怒りが切り落とした。
 誰かに許して欲しかった。それができなければ、なかったこととしたかった。この生を。けれども命と共に過去は追いかけてくる。何者も自分自身から逃れることはないのだ。そのことを小夜は多くの経験から知っていた。ドイツ、そして沖縄・・・・。過去を捨てたらば自分が自分ではなくなってしまう。記憶と喪失と眠りとは常に少女の人生に横たわって少女を苦しめていた。
 目の前で虚無が大きな口をあけている。その中に多くの者が堕ちていった。ディーヴァ。彼女のシュヴァリエたち。小夜はそれをじっと見つめ続けていたのだ。自分自身もその中に堕ちていきそうになりながら。小夜を留まらせておいたのは、ディーヴァから世界を護るというその一念。そして共に滅びの道に戻るというその決意だけだった。
 あのとき、ディーヴァをこの手で殺しておきながら今なぜ生きているのか、時々小夜にはわからなくなる時がある。今までの自分はなんだったのか。自分たちの因果に巻き込まれて殺されていった人々はなんだったのか。自分自身の手さえ人間の血にまみれているというのに。血にまみれた手のままで、どうして「生きたい」と言えたのか。だからカイを見つめるのと同様に、響や奏の、あの穢れない真っ白な手をまぶしく感じる。
 それでも翼手が跋扈する歪んだ世界から皆を守れたという小さな満足だけは胸の中にあった。それが少女の中で微かな灯となっている。だから明日を願いたいと思うのだ。
「小夜・・・・」
 青年がため息のようにささやいた。今なお少女の奥底に存在する悲しみを見つめるように。自分が背負っている運命を少女は知っている。血も本能も過去も。頬を寄せながら少女はすがりつくようにそのいかつい翼手の手の感触を確かめた。
 これがハジの真実の手ならば。過去は無くすることはできないけれど。それでもこのやさしい体温を感じていたい。そう感じられる自分を失いたくなかった。明日のために今日を生きてと願ってくれた人の体温を。すべての罪を知り、それでも生きてと言ってくれた。ディーヴァの子供たちの、命の輝きが生まれるのを共に見つめていてくれた。だから――。
 自分の宿業の証のようなこの手だけれど、擬態していないこの手の素直さ。直接はっきりと触れるその真実は波に翻弄される船の錨のように少女に存在の確かさをもたらしてくれている。過去は振り捨てられず、新たな目覚めにはどんな自分が目覚めてハジを苦しめるのかわからない。それでも――。いつでも差し伸べてくれたこの手。どんな場所でも、どんな時代でもきっときっと忘れない。


 夜が蒼い帳のように二人を包む。昼の光を掻き分けるようにして周囲の輪郭そのものをあやふやにしていく。そのしめやかな匂いを感じながら、少女はすべての想い出に身をゆだねた。伝えられる想い。今この記憶。
 時の輪郭のあわいの中で、その目に一粒の涙が光って消えた。

ハジ:その眼差しの先に・・・

    END

2010/11/16

 『BLOOD+4th Anniversary Linking Heart』祭投稿作品 : 
 『Dolce Vita』の三木邦彦さまの祭投稿作品『涙』に触発されて書き上げた、祭リンク作品です。さらにこれに三木さまよりリンク絵として『その眼差しの先に・・・・』を投稿いただいた記念的作品。今回、ありがたくも提供のお申し出を頂戴しましたので、サイトの方にも掲げさせていただきます。(これらの作品は『夢ノ回廊』(茉莉子さまサイト)の祭格納場にて掲げられております)
 小夜の目じりに光る涙の切なさと、ハジの蒼い目にこもっている情感をご照覧あれ! 私の文章にこんな素敵な絵を描いていただけるとは・・・。感涙。。ご許可、ありがとうございました。

 小夜の性格というのは、故意のなのか偶然なのか、『BLOOD+』アニメ本編放映ではかなりわかりにくく描かれていました。そのために各サイト、色々な小夜解釈があったりして。。そこで私はアニメで描かれていた物語というのは、長い翼手の物語の中にある、サヤ(とハジ)の物語の中の、さらに一時期のみの話だと解釈しております。
 そうするとアニメで描かれていた小夜の性格や悲しみ・苦しみの形というのは彼女のほんの一面なのではないだろうか。。という疑問が。。。そして、それでは小夜の本質的な部分というのはなにか?? ということをいっつも考えてます。もうそれは何度も何度もぐるぐると。。アニメで描かれていなかった彼女の苦しみ=生きる絶望というのが、本来は描かれるべきではなかったか。あのハジが、すべてを捧げられるだけの存在とは?? シュヴァリエだから、というだけではない何かがある。それは一体どんなもの??
 それをどこまで深読みできるか!というのが、小夜という存在の解釈の差になってくるのかも。。。

 ま、あくまで二次創作ですので、そのあたりは個人差ということで、よろしくお願いします!(笑)

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