月の光が辺りを照らしていた。


 南の島においても、遠いボルドーの地においても、あるいは最果てのロシアにおいても、思い出すとその光は冴え冴えとして胸にしみいるようだった。高台においては海から渡る風が強く吹き付ける。星の瞬かぬ夜だった。月は丸く、辺りの闇を冷たく払い、ただ渺茫と吹く風が青年の黒い髪を散らし、黒衣の裾を翻して駆け抜けていく。青年は薄蒼い瞳をじっと一点に凝らしていた。その先に僅かに見える石造りの建造物が、この度の少女の棺だった。その前の眠りの時期には目にすることができなかった場所。別離の間少女の眠り続けていたその場所に再び少女は眠りつくことを望み、それはこうして叶えられている。
 人間の世界をいとおしみ、それを守り抜くことを自分の死によって完結しようとしていた少女が。今、安らかに眠りについていた。そのことは青年にとって望む以上のことだった。「生きたい」とただそれだけを口にし、未来に初めて目を向けて。――それはいつもいつも青年が心の内で願っていた、少女の笑顔に繋がる道であり、すべてを引き換えにしてもいいとさえ思っていた彼の心の奥底からの願いでもあった。
 絶望が初めて希望へと変化を見せた瞬間だった。それだけですべての日々が報いられたような・・・・。青年は目の中に独特の墓の形を焼き付けながら目を閉じた。




 百年という年月の間、人間たちが、世界が移り変わっていくのを見つめ続けていた。世界も、そして自分たちを取り巻く環境も。変化しないものなどなかった。
 最初の変化はなんだったのだろう。『赤い盾』が変わっていったのか、それともディーヴァとその眷属シュヴァリエたちが変わっていったのか。ディーヴァたちの意図に対応して、『赤い盾』の意識が手段を選ばぬようになっていったのはいつからだったか。小夜の人格を変化させ。小夜を無理やり目覚めさせようとし。彼らにとって自分たちは仲間人間ではない。それはよくわかっていた。翼手であること、自分自身であること、人間だった自分。そして小夜・・・・。目覚めるたびに彼女が背負うものは大きくなっていった。絶望も共に・・・・。
 だが小夜は人間を信じていた。たとえ相手からどう思われようとも、信じることをやめなかった。それが小夜の強さであり、悲しさだったのだろう。時折、奇跡のように与えられるわずかな人間との交流は確かにあり、人々のやさしい感情は少女を温めた。たとえ他人からどう扱われようともそれを信じる少女のまっすぐな目。それらすべてのいとおしさ。想い出は絶えず青年の中に降り積もり、少女の真実を確かにする。
――小夜が間違っているとは誰にも言わせはしない。
 他者から受け入れられた小さな思い出のために。その温もりを守るために、少女は常に刃を手にして戦ってきたのだった。その代償はあまりに大きかった。自分たち以上の能力に対する人間の畏怖を、恐怖と嫌悪を、少女は何度となく味わい、疎外感と孤独とは小夜を苦しめた。同時に自分たちの無力と絶望をも。少女の傍らに常に控えてその苦しみと哀しみを目にしていた青年にとって、それは常に自分の無力さを噛み締めることにもなっていた。自分では少女を温められない。青年は目をつぶったまま微かに眉を寄せた。
 苦しみはいつでもそこに存在する。『動物園』の日々を失った時から少女には安らぎなど存在しなかった。沖縄のわずか一年を除いては。常に傍らにいて、少女の苦しみを支え続けながら、共に血を流し、少女の盾となったとしても。少女の苦しみも悲しみも、見続けるだけで代わって背負うことができなかった。小夜の苦しみ、悲しみは小夜にしか背負えない。どんなに望んだとしても少女を彼女自身の宿命から解き放つことはできないのだ。
 そう思い込んでいたというのに、少女の顔に笑いが戻ってきた日々があった。ベトナムの日の別離を経て再開したあの日。花のような笑顔がそこにあった。終わりの日々は遠くに逆巻き、『その日』に向かってただ足を運ぶ日々。それが続いていくのだと思っていた。それが覆る時。自分では為し得ない、だがもしかして可能性があるのかもしれないと。そう思った瞬間だった。道がある。その道の先。解き放つこと。委ねること。
 青年の顔に懐かしさと綯い交ぜになった憂いの影のようなものがかすかに映る。沖縄から始まった今回の闘い。逃れられぬ運命さだめと記憶と。運命に促すことしかできない自分と、かすかな希望の灯のようなもの。激しさも、悲しみも、絶望も、思い出した小夜はすべてを再び味わいつくし。そして運命の日。闘いと滅び。
――「生きたい」というあの言葉。




 遠い日々は二度と戻っては来ない。だが常に世界は移り変わっていく。少女自身がそれを体現しているように、今再び眠りに就いた少女の元には、人間たちが、僅か3年と言う月日であったが確かに彼女と絆を結んだ人々が訪れている。あの百年の闘争の日々の間に誰がこのような光景を想像できただろうか。
 受け入れて欲しい。生きていていいと言って欲しい。少女の胸締め付けられる想いをかなえることは、青年にはできないことだった。少女が望んだのは、「自分たち以外」の存在人間から受け入れられることであり、青年は少女にあまりに近い存在でありすぎた。しかし彼女には自分しかおらず、そのことは常に青年にとって自らの存在の矛盾をつきつけられているようなものでもあった。沖縄であの笑顔を見てからは特に・・・・。
 手をさしのばして欲しい。受け入れて欲しい。少女が求めていたのはそんな単純なことであったというのに。遠い昔、その肯定を青年に与えてくれたのは他ならぬ少女であったというのに。それを少女に与えられない自分自身。そしてあの約束。与えるのではなく、明日を奪うことを運命付けられ、それすらも青年は受け入れてきた。支えきること、少女の意志に従うこと。
――少女の想いのままに生きてきたことを後悔はしていない。だがそれだけではかなえられない望みもある。それがこの、最後の闘いの目覚めによって沖縄で築いた絆だった。余人にはわからぬ百年に及ぶ宿命と闘いの日々の間、人間を信じて愛することをやめなかった小夜。新しい家族を得、それを失い。それでも絆を結びあい、仲間を見つけ。それらすべての結果がここにあった。宮城家の先祖に見守られ、穏やかに憩っている小夜を想うとひたひたと胸に寄せる波のように温かな想いが湧き上がる。
 その一方で、この光景が永遠には続かないことも青年にはわかっていた。翼手という存在をどれだけの人々が許容するだろうか。カイという人間たちの存在の方が稀なのだ。
 それでもこの奇跡のような巡り合わせに感謝せずにはいられない。




 青年は愁眉を解き、静かな表情おもてを取り戻した。
 闘いの日々は過去のものとなり、遠い未来はまだ来ていない。未来は不確定なのだろう。ボルドーで、ロシアで、ドイツで、ベトナムで。小夜の目覚めは常に悲しみと共にあった。だがこのひと時だけは。次回の目覚めだけは穏やかでやさしいものになる。そのことを青年は確信めいた予感で感じ取っていた。
 こうして目をつぶっていると、眠りに微睡む小夜の存在が自分に何かを語りかけてくる。今、月の光に抱かれて、安らぎを得ている彼の大切な少女。かつての眠りの時期同様に、少女の鼓動さえすぐ傍らに聞こえるようだった。それが暖かな希望に包まれていることに深く満たされる。
 青年は目を見開いた。白い光の反射が目の隅に映る。潮騒の音と月輪のにじむ夜。そうして夜の中に想いは溶け込んでいくのだろう。青年の白く静かな表情の中で薄蒼い瞳が夜の輪をかすめた。やわらかく輪郭を包み込むような光の中で、漆黒の翼が広がる。
 黒い鳥が羽ばたくような音が聞こえ、次の瞬間、そこには誰もいなかった。

ハジ:翼


     END


2010/11/16

 『BLOOD+4th Anniversary Linking Heart』祭投稿作品 :
 ブログサイト『Let me tell it more!』の樹さまの祭投稿作品『Fullmoon』を起点としたリンクへの投稿作品。樹さま『Fullmoon』→祭ご主催茉莉子さま『望月』→に繋がる作品としてこの話を投稿させていただきました。(この話のリンク元2作品につきましては、『夢ノ回廊』(茉莉子さまサイト)の祭格納場にて掲げられております)

 祭終了後に、この文章のラストシーンにと樹さまより翼を広げようとしているハジの絵を、わざわざ頂戴いたしました。嬉しくてこうして自サイト格納時に共に掲げさせていただきました。。
 樹さまより、「このあと一度ピンと翼を伸ばして、一つ羽ばたいたら、もうそこにハジはいないのだと思います」とのお言葉をいただいております。。なんてありがたい!そして素敵!!! ハジの万感を抱きながらも静謐な表情が。。。その雰囲気が。。。。いただいたときに端末の前で狂喜乱舞してしまったことはここだけの話にしておいてください。。
 樹さま、ありがとうございました。

 ハジほど小夜のことを理解しているキャラクターはいないと同時に、自分たちの存在を一番客観的に見ていたのもハジだったと思ってます。長い時間の流れを俯瞰的に見つめ(『BLOOD+』アニメ本編の話はその一部にしか過ぎない)、これからも長い時間を過ごしていかなくてはならない自分たちの存在を受け入れること。それも能動的に受け入れていたのがハジというキャラクターだと、私は解釈してます。。(まあ、このあたり、二次ですので、あくまで私個人の意見ということで。。ひとつ、よろしくお願いいたします。。)  

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