沖縄の梅雨は始まるのも終わるのも早い。梅雨のあけた沖縄は日差しが強く、照りつける太陽がじりじりと肌を焼くようだった。もちろん翼手である小夜はやろうと思えば日焼けなど起こそうはずもなかったが、かつて沖縄で過ごした記憶がそうさせるのか、うっすらとその肌に小麦色を留めていた。
「ああ。暑いな」
 今ではすっかりいい大人になったカイが、人のひけた後の店で片足を膝に乗せながら行儀悪い格好でだらしなくうちわでばたばた襟元を扇いでいる。
「ちょっと。カイったら、ひどい格好」
 そう言った少女も汗びっしょりだった。
「仕方ないだろ、空調が壊れてるんだから」
 暑さには強い沖縄県人であるカイも今年の異常とも言える暑さには、まったくの冷房なしではかなり堪えるようだった。
「それよりあいつ、どうにかならないのか?」
 わざとらしく眉をしかめて言った扉の奥には長袖の黒服姿があるはずだった。
「ハジのこと?」
 驚いたように小夜は言った。
「なに??ハジがどうかしたの?」
「なにって。このくそ暑いのにあんな格好だぞ」
「でも・・・・ハジは暑さを感じないから」
 暑さだけではない。寒さも感じない。感じられない。そういう身体にしてしまったのは私だから。少女は心の中でそっとつぶやいた。
「そんなこと言ってんじゃねえよ」
 だがカイは少女の声色を無視するようにむっつりと言った。
「あいつがそうだってことはわかってる。そんな仕方ないことを言ってんじゃない。あいつの服だよ。見ていてこっちの方が暑くなっちまう。別に脱いだらまずいってことはないんだろ?」
「・・・・うん」
「だったらせめて上着くらい脱いだらどうなんだ?」
 かつて猛暑のニューヨークでも同じように空調が壊れたことがあった。そのときにはハジに誰も何も言わなかったのに。どうして今更カイはそんなことを言うのだろうと、小夜には不思議でならなかった。ハジがシュヴァリエであること、とうの昔に人間とは異なる皮膚感覚になってしまったことは、小夜の胸に未だに小さな刺を立てている。いや、闘いが終わったから余計にそう思うのかもしれない。闘うことで自らの存在意義を認めていられた小夜にとって、役割を失ったことは自分の存在の依って立つべき位置を失ったような不安を抱えることにもなっていた。そんな自分にハジを縛り付けている。もうなんの義務もないというのに。それが血の力なのか。それとも・・・・。
 ハジの想いを受け取った今ですら、小夜の中にはハジに対する悔恨の気持ちがどこかにある。約束を引き受けてくれた時よりも、闘いの最中よりも、その想いはずっと強かった。ハジが季節にも気候にも関係なく同じような衣服を身につけていることは、人間の世界からもこの世からも距離を置いていることの証拠のように思えて切なく少女の胸を切り裂いた。ハジをそうさせてしまったのは自分。本来ならばその苦しみを負うのは自分のはずなのに。それなのに青年はその苦悩も、長い年月の孤独も、蒼い瞳の中に鎮めて穏やかに少女を見つめるのだ。
「そうだね。そう・・・・。上着でも・・・・。上着でも脱いだら、そうすれば少しは・・・・」
 そんなハジに何を言えるだろうかー―。
 だがカイは最後まで少女の言葉を聞かずに、ため息さえつきながら顎と視線で少女と青年がいるはずの方向をつないでみせた。
「言ってこいよ」
「え?」
「だから。小夜、おまえがあいつに言ってやれよ」
「私が?」
「他に誰がいるって言うんだよ」
「でも・・・・」
「でも、じゃねえ。俺じゃ何の意味もないんだよ。いいから言ってこい」
「?」
 どうしてカイがそんなことを言うのか、その意図がわからなかった。それにどうして自分じゃなくてはダメなんだろうか。昔から多少強引なところはあったが、こんな風に藪から棒に服装なんかを言うなんてカイらしくない。
 疑問を抱いたまま、それでも小夜は奥にいるはずのハジの気配に向かって歩きだした。




 青年は小夜に気が付くと一見無表情に見えるその貌を微妙に動かし、やさしい表情で出迎えた。
「あの、ね。ハジ」
 さり気ない様子で青年のそばに寄りながら、そのじつ少女はどう切り出してよいものやら思案にくれていた。カイに言われたもののハジにそんなことをハジに言うこと自体、いまひとつ納得してはいないのだ。
 ハジをそんな状態に追いやった当人が今更何を言う資格があるのか。何をどう言えばいい?そんな格好で暑くないの?と聞いてみてもハジなら私は暑さを感じません、と答えるだろう。けれどストレートに見ていて暑苦しいと言われたから上着を脱いで、ともさすがに言えない。必死で言葉を探してみる。だが胸の中をいくら捜してみても適切な言葉は見つからなかった。それが少女に見つけられないのは、おそらくカイに言われたから、という理由だけでハジに言おうとしているからだろう。上着でも脱げばいいのに、とカイに言ったのも暑さからというよりも、ハジに皆と同じように振舞って欲しかったからだ。だが一方で少女はハジの見慣れた格好に時間も場所も関係ない懐かしさと穏やかさも感じていた。
 誰もが時間の流れのうちに自分たちを置いていってしまう中、ハジだけが待っていてくれる。いつまでも変わらず。たとえ人間の時間から遠ざかっているとしても、ハジだけは。いつも変わらぬ服装をしているハジは時間も何も超えて存在しているような気がして、それは確かに少女にとって安心できる心象であった。
 そしてもうひとつ。小夜は気になっていることがあった。カイたちと一緒にいるとき、いやカイの側に立っているとき。あるかないかの微かな感覚のうちに、小夜はハジに対して何か透明な壁のようなものを感じるときがあるのだ。それがハジ本人が置こうとしている距離なのか、それともやっぱり自分(小夜)のせいでハジはこちら側に来られないのか。
 こちら側と向こう側と。向こう側に追いやった当人が今度はこちら側に来てくれなくちゃ嫌だと駄々をこねているようでたまらなかった。本当は自分こそが向こう側の存在なのに。向こう側にいてくれるハジに安心している癖に、自分はこちら側にいてハジが来るのを待っている。そんな自分が嫌だった。夏の陽射しの暑さに頭がくらくらする。上着一枚のことなのに。こんなことさえうまく伝えられない。――以前の小夜ならば何も考えずにそのままハジにそのことを言うだけで済んだだろう。本人は命じているとも自覚しないうちに。
 その躊躇い。それは小夜本人はそれとはわかっていなかったが、あの戦いの後二人の間に流れるものがある種の変化を見せている証拠だった。
 だが少女の様子を見た青年の方が早かった。
「何か、あったのですか?」
 静かな眼差し。微かな違和感。30年前はこんな風に自分から訊ねるよりも、小夜の状態を見守るか、あるいは小夜が話してくれるまで待っていただろう。その青年が、今は微妙に変わっているような気がすると少女は思った。初めて気がついた。これが30年の歳月の結果なのかも知れない。そう思ってから少女は自分がいかに時間に取り残されているのか、頭の隅がちりちりする思いで自覚させられた。誰にも置いていかれている。自分一人だけ――。向こう側に留まっていると思っていたハジさえも、視点を変えてみると時間の流れという点では自分を置いていってしまう。世界に取り残される。こちら側にいると思っていたのは自分だけなのだ。
 同じように30年の眠りを持っていたディーヴァは既にこの世にはなく、少女のその悲しみを理解できる者は誰もいない。その事実は少女の孤独感をいや増した。先ほどまでハジの孤独がたまらなかったというのに。それともハジの孤独がたまらなかったのは自分の孤独感をそのまま映しただけなのだろうか? 一体ハジにどうして欲しいのか。どうしたいのか。自分の気持ちは矛盾だらけだった。
 その少女の変化を青年が見過ごすはずはなかった。
「小夜?」
「な、なんでもない」
 不安と憂欝と。こんな気分になるのはきっと夏の日差しが暑すぎるせいなのかもしれない。視線を合わそうともしなくなった少女の頬に青年の手がやさしく添えられて、こちらへ促された。
 青年の目には最初気遣うように寄せられていた少女の視線が見る間に、悲しげに苦しそうに変化するさまが見えていた。百年の闘いを終え、眠りを超えて目覚めた少女。この沖縄の、穏やかな地ではせめて何も思い煩うことなく心安く過ごして欲しい。そのように願ったはずなのに。それなのにどうしてこのような顔をさせてしまうのか。少女の変化は明らかに自分の僅かな対応に反応しているのだと彼は理解したのだった。何よりも大切なこの少女。それなのに、今はこの自分のことに何かを感じて傷ついており、それが何であるのか青年にもわからない。彼は目を細めて少女を見つめた。その蒼い瞳に痛みの影が映る。
 なんでもないって・・・・と言いながら、少女はハジの手を退けた。視線を合わせることができない。今いる自分の位置さえわからずに、ハジにどうして欲しいのかも分かっていないのに。 ハジがシュヴァリエになったのはハジのせいではない。今でさえ彼の目の中に痛みの色が見えるというのに。
 だが青年は無言のまま再び少女の頬に手を添えて、やさしく促した。
「ハジ・・・・」
 もの思わしげな表情の中で、ハジの眼線が強くなったような気がして少女は口籠もった。ディーヴァを追うようになってからは滅多に表すことがなくなったが、『動物園』時代、よくハジは咎めるように、甘やかすように、こんな視線と口調で小夜に言葉をかけていた。懐かしい記憶・・・・。
 あのときの無邪気な二人はすでに遠く、長い過酷な年月とあらゆる種類の痛みの中で少女も、そして青年も変化していた。青年の面からは表情が失われ寡黙さが増し、少女は常にかたくなさと悲哀の衣をまとい自分を顧みることなく、ただ一人、血を分けた『妹』だけを見つめるようになった。けれどもその百年を超えた今、青年があのときのような視線で少女を促している。
 ううん。違う。と少女は思った。あの時代もこんな目をしてはいなかった。こんな風に揺るがずに、老成しているとも言えるように深い瞳は記憶にない。年月を超えた青年の瞳。痛みは確かにその目の中にある。けれどもそれだけでは言い切れないものがそこには存在していた。これも過酷な年月の結果なのだろうか。自分が追いやってしまった結果なのだろうか。人間の世界から向こう側へ行ってしまったハジ。不安と後悔と。そして自分にもそれが何かわからない、あふれるほどの切望が少女の胸の中を吹き荒れていた。
「言ってください」
 ひんやりした手の感触が頭の中の熱く焦げ付いている部分にやさしく浸透してきて夏の暑さを退けた。30年前、自らの身を犠牲にしてまで少女の明日を望んだハジ。追いやるとか、追いやらないとか、向こう側とか、こちら側とかー―。そのやさしい感触の前には融けて流れてしまうような気が少女にはした。シュヴァリエになってからは変わらないその温度の中で、蒼い視線の、その強さだけが意識される。
 それに促されるように小夜は口を開いた。
「あの。暑いから・・・・」
「・・・・」
「上着でも脱いだらどうかって・・・・」
 ああ。と青年の瞳に理解が浮かんだ。青年には誰がそう言ったのか、何のためにそう言ったのか、すぐさま理解したように見えた。同時に少女の変化も。あるかないかの安堵の影が頬を掠めた後、青年は小夜の頬から手を引いた。ひんやりと心地よかったその手の感触が自分を離れてしまったことに少女は思いもかけない淋しさを感じ、それからそんな自分に戸惑った。
 ハジは少女から少しだけ身体を離すと、一連の動作で上着の金具と留金を外し、そのまま腕からそれを引き抜くと引き落としてからもう一度少女に向き直った。
「カイは」と青年は言った。
「人間の世界に私たちの居場所を作ってくれようとしているのです」
「うん・・・・。わかってる」
 その頬に再び、今度は包み込むように青年の両手が添えられた。いとおしそうに、蒼い瞳が少女を見つめる。
「カイはこの私にも、居場所を与えようとしてくれる。あなたの傍らに――」
 低いささやくような声はともすれば抑揚のないようにも聞こえる。そこに少女は熱情の影を見つけたような気がしてはっとなった。
「長い、長い時間。共に過ごしながら、私はカイの言葉がなければ本当の望みも、願いも、口に出すことができませんでした。あのときの彼の言葉がそれまでの私の何かをつき動かしたのです。
 そして今。記憶を持ちながら貴女は確かに笑顔の包まれている――」
 30年前のあのとき。カイが促さなければ、青年は決して自らの本当の望みを口にすることはなかっただろう。そして、それなくしては決して少女はこの世に止まることを選択しなかったことも確かだった。カイという人間が二人に与えたものの大きさを意識せずにはいられない。あのときと同様、今再びカイはこの二人に「何か」を促していた。それを少女を通して、青年は確かに受け取ったようだった。この場所にいる自分。この世界に在る自分を。
 かつて人間であったハジ。少女が眠っている間、人間の間に身を置いて。眠りを持たな身体。人間とは異なってしまった生態。『赤い盾』の保護の元に存在していることは、自分自身が人間ではなくなったことをより一層ハジに自覚させることだったのだろう。少女自身が人間と翼手の間で悩み続けていたと同様、ディーヴァのシュヴァリエたちのように人間を自分たちより劣った別種のものと突き放すこともせず、ただ自分たちが人とは異なる存在だということだけを意識して。たった一人で――。
「わかっている・・・・」
 わかっていた。ハジがとっくにこちら側に、少女の傍らきてくれていたことを。だからこそ上着などどうでも良かったのだ。ハジの手。頬から伝わるやさしい温度。夏の暑ささえも退けて、涼やかさを運んでくる。その温度は今更ながらハジの存在を身近に感じさせ、反対にその視線の強さが今までとは異なった意味でこんなに近くにいることを少女に意識させた。あらゆる季節にも、長い年月にも変わらない。差し出される想い。包まれる記憶。自分だけに触れてくるその手の感触。運命を受け入れ、人間を受け入れ、少女のすべてを受け入れ。共に行くと。
 ああ。そうだ。と小夜はそのとき初めて理解した。カイは私にも言いたかったのだ。一緒にこちら側に来いと。ハジを私の手で連れてこい、と。この冷たい手。人間と異なる存在である翼手も、やっぱり自分たちと一緒に生きているのだと。
 少女の存在を受け入れて、青年の存在を受け入れて。人間はそんな風にも他者を受け入れることもできるのだと示してくれて。だからこそ、ハジもこうしてそのことを受容している――。
 たとえ人とは異なっていても、私たちは包まれている。私たちを身近に知っている人たちの想いに。そして何か名付けることのできない大きなものに。今ならそれがわかるから。
「ハジ。私は――」
 胸がつまってそれ以上言葉が出なかった。自分たちを取り巻いている暖かな想い。それがこんなに胸にしみる。生きることの受容と切なさと。孤独感はおそらく完全に拭いさることはないだろう。けれども――
 何も生み出せず、背後にただ累々たる死体の山を築き上げてきたような、この人生でも。何かを望まれている。望んでくれる人たちがいる。
「いいのです、それで」
 そんな少女の言葉をくみ取って青年は穏やかな声で静かに語った。
「思うように生きること。それは誰にとってもむずかしいことなのでしょう。けれどもカイが、沖縄であなたが絆を結んだ方たちが、今あなたの存在を確かなものにしてくれている。人と共に歩みたいというあなたの想い。その想いに応えてくれているのです」
 それをハジは何よりも大切に思ってくれている。頬に添えられた両手が想いを伝えてくる。一人ではない。共に行く人がいる。自分にとってのハジ。ハジにとっての自分。
 ひんやりしたその感覚に身をゆだねたくて、少女はゆっくりと瞼を閉じた。





END



2010/09/23

『BLOOD+』放映終了4周年記念祭りへの投稿作品のサイト用バージョン。台詞はほぼ同じでも、何となく微妙に違うものを書いてみようと思いました。。
 結果は・・・・。二人の感じ方やその認識の差が描けていればいいなあ。と思ってます。ハジは変わらない立ち位置で。
 カイ、男前シリーズ第二弾でもあります。祭り場に上げたものもこちら側も、カイがこの二人に関わった本質が描きたかったのです。特にアニメ本編ではこの二人に関わるカイというキャラクターって重要な位置づけだと思ってますので、その辺りを描けたら・・・・と思って書きました。人間として彼らにどんな風に関わっていったのか、その辺りがカイのポイントだったとともに、アニメ『BLOOD+』で語りたかった、語られるべきポイントだったのだと(まあ、それが上手く伝わるように表現されていたかどうかは別として)。。。
 ハジはベトナム以降、二人の関係を見つめなおさずにはいられない場所に追い込まれてしまい、物事全体を俯瞰する目を獲得せずにはいられなかった。と思ってます。そんな目を持っているハジだから、物語を通してカイの言いたかった事や小夜の心の動きをきちんと把握できていたのではないかと思うのです。
 ありがとうございました。。。

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