その日、窓辺に座って小夜はハジが花を入れ替えようと片腕に花束を抱えて食堂に入ってきたようすをぼんやりと眺めていた。なぜだか昨夜は夢見が悪かった。闘いの夢でも、悲しみの記憶でもなく、悪夢とも言えないような、ひどく居心地の悪い不快な夢だった。あまり思い出したくないような・・・・。
   そんな少女のようすをおもんばかり、気分を換えようとしてか、青年は黙って真新しい花を用意していた。ハジの腕にすら溢れんばかりの花束はそこだけ光を放っているようにも見え、それを見たとたん少女はそちらの方を振り返った。
「ハジ。その花・・・・」
「今朝届きました。ボルドーから送られてきたものです」
   それだけで小夜には充分わかった。ボルドーには小夜の姪たちがいる。彼女たちが小夜のために送ってきたのだ。それはそれは見事な薔薇の花束だった。一つ一つが大輪の、目の覚めるような華やかさを持つ美しい花束。それを玄関にではなく、小夜の目につく食堂に飾ろうとしていることは、気鬱に陥っていた小夜の目を楽しませ、慰めるために青年が行おうとしている細やかな心尽くしのひとつなのだろう。
   だが少女が思わず振り返ってしまった理由は別にあった。普段ならば姪たちが小夜のために贈った花は、彼女の目を喜ばせてくれたことだろう。その花は真っ青な空の色をしている。技術革新のおかげで今ではどの市場にも『青薔薇』は珍しくない。だがバイオ関連事業が起こる遥か以前、自然にはあるはずのない色をした青い薔薇。それはボルドーの『動物園』にしか存在しないものだった。姪たちは懐かしい貴重なその薔薇を小夜のために空輸で送ってきたのだ。ディーヴァとの闘いが終わって長い時間が過ぎ、今ではあの青い薔薇も小夜にとってはディーヴァを想い起こさせる、大切な思い出深い花になっているはずだった。
   だがなぜか小夜は顔を強張らせてそれを見つめていた。
「小夜?」
   ハジが怪訝そうにこちらを見ている。
「え?・・・・何?」
   思わず強い口調でそう返したものの、小夜は再び黙りこくった。少女の脳裏にあの奇妙な夢が強烈な印象で甦ってくる。


   あれは『動物園』の夢だった。ディーヴァの歌が響く中、少女が鍵を持って塔を駆け上がっていく。絡み付いている蔓薔薇たち。赤から青に移り変わる色。その中で、少女は大きな扉の前に立つ。
――だめ――。開けてはいけない――。


   小夜は頭を再び目をつぶって夢の記憶を退けた。何故今頃こんな夢を見たのだろうか。次に目を開けたとき、小夜は多少無理しながらでも笑って受け答えできる自分に安堵した。
「すごい・・・・薔薇だね。二人とも苦労したんじゃないかな」
「小夜の喜ぶ顔が見たかったのでしょう」
   青年はわずかに目を細めて花瓶の中の薔薇の花を眺めた。それは完璧さを求めて活け具合を確かめる、冷静な作業的なものであるはずだったが小夜は再び息を呑んだ。ハジのその動作は何よりも薔薇に心を砕き、集中しているように見える。そこには他人の介在を許さない雰囲気すらあり、小夜は声をかけることもできなかった。ハジと青い薔薇。その二つを少女は凍りついたように見つめている。
   青い青い薔薇――赤い薔薇よりもピンクの薔薇よりも、その色はハジの蒼い目に映えてよく映っていた。本来彼に似合うのは青。自分の瞳のような赤ではなく。不意にそんな考えが思い浮かんだ。その考えに足元の力が消え失せるような不安が押し寄せてきた。愚にもつかないことだとわかっていた。ただの夢。ただの夢なのに。――想いを受け止め、かけがえのないものだと認識し、触れ合って。幾度共に夜を過ごしたことだろう。その度に重ね合う想い。温もり。その記憶。たとえ眠りに隔てられていたとしても――。
   互いに誰より近くにいた。心を分かつこと。魂を寄せること。生きること。その意味を、ハジと共にいるからこそわかる。ハジだから感じられる。それが何より大切なのだ。――そのはずだった。
   わかっているのに不安になるのは何故なのだろうか。少女は唇を噛み締めてうつむいた。嫌な夢の残香が甦ってくる。あの扉の向こう側。夢の中で。開けられたあの扉には、いつでも小夜が見たくないモノがあった。沖縄の父の姿。リクの姿。そして・・・・。
   夕べの夢では扉の向こう側に見慣れたハジの黒衣があった。こちら側に顔を向けていないので青年の髪に隠れた横顔だけしか小夜は見ることができなかったが、それでも表情はわかる。ハジは微笑みかけている。目の前にいる少女に向かって。長い黒髪。紅い唇。まるで鏡を見るように自分とそっくりの顔立ち。だがその目は――。誘惑者の視線。蠱惑的な微笑み。そしてその目の色。その瞳は鮮やかな青色だった。
   ハジが自分とそっくりな少女を見つめてうっとりと微笑んでいるのを小夜は呆然と見つめていた。やさしい熱をはらんだ微笑。その微笑みはかつて自分に微笑んだディーヴァのシュヴァリエのそれそっくりだった。
――あなたのために僕はすべてを捨ててきた――
――僕はあなたのシュヴァリエになる――
   そう言ってディーヴァの元を離反した騎士。甘い熱と言葉の持ち主の。その熱は頑なに拒もうとする少女をうろたえさせ、戸惑わせた。自分の女王よりも対の女王を取ったシュヴァリエ。彼の小夜への気持ちに嘘偽りは無かった。だからこそそれが少女に届き、少女を困惑させたのだった。小夜の望みのために自分の女王たるディーヴァすら殺そうとした彼。遠い過去の、同じ夢を口にした彼。『僕の花嫁になって』と彼はささやいた。その好意と熱情。遠い夢の残滓が木霊する。あきらめた夢に、希望の言葉をささやいて。共に生きようと語った。だがそこにまったく種の保存としての本能がなかったと言い切れるだろうか。
   ハジは彼ではない。それもわかっている。小夜がディーヴァではないように。ハジは決して小夜の手を離すことはないだろう。いつ、どんなときも、ハジは小夜を必ず見つけ、あの深い蒼い眼差しで包んでくれた。例え何が起ころうとも、小夜が何になってしまっても、どんなに離れ離れになってしまっても。フランス。ドイツ。ロシア。そしてベトナム。日本。目覚めのたびに確かに出会い。だが・・・。
   ハジの心がシュヴァリエの、自分の女王に対する思慕の本能からくるものなのか、そうでないのか、答えは今もわからない。それが不安かと聞かれると、答えに詰まる自分もいる。ただ、それを踏み越えて何かがあると、そう信じている。それが大切なのだと今ではわかっている。わかっているのに――いつの間にか当たり前になってしまったハジのその心が、その眼差しが、万が一失われたら?
   あの夢は小夜の心の一番奥深くにある不安を映したものだった。自分がハジに対して未だに抱いている、ある種の不安と申し訳なさの反映なのだ。すでにハジをシュヴァリエにしたことに対して申し訳なさや後悔よりも、共に生きる喜びの方が大きいということを少女は受け入れていた。けれども・・・。
「小夜?」
   ハジの声が小夜を現実に引き戻した。
「なんでもない」
   傍から見ていると、とてもそうは思えない表情で少女は立ち上がった。
「なんでも・・・・ない、から・・・・」
   誤魔化すように少女は生けられたばかりの薔薇の花を一本、花瓶から取り上げた。綺麗に刺を取りのぞかれたそれを指の間でくるくる回してから、その匂いを吸い込んでみる。ディーヴァの匂い。芳しい、蠱惑の匂い。
   急に胸の中に毒のように醜い感情が浸透してくる気がして、小夜は慌てて顔を上げると持っていた1本を元通り花瓶に突っ込んだ。少女らしくない乱暴なようすに青年の表情がわずかに曇る。
「小夜・・・・」
   ため息のように名を呼ぶと、距離を詰めて青年は少女に触れようとした。思わずはっと少女は身体を固くする。
「どうしたのですか?」
   何かあったのか、と心配そうに問い掛ける青年に小夜は首を振った。すぐ傍にあってほとんど密着しようとしている青年の身体がひどく気恥ずかしく、後ろめたさと認めたくない奇妙な感情に揺れている自分を意識する。そんな感情を彼に知られたくなかった。触れられれば知られてしまうような気がして一歩下がろうとすると、その前にハジの腕が伸びてきて少女の肩を拘束する。
   少女の身体が強張った。いつでもこうして抱き寄せて欲しい、その腕の中の安心感はなにものにも代えがたい。そう思っていた。でも今は。抱き寄せられて自分の心を見透かされるのが怖い。自分の不安がハジにわかってしまうのがとても怖かった。口に出してしまえば、きっと慰めの言葉を言ってくれるだろう。慰めていつも共にいるとささやいてくれる。何があろうとも変わりはしないと。けれども自分が欲しているのはそれだけじゃないことはわかるから。言葉ではなく、確認でもなく。自分自身でもわからないモノを、どうして欲しいと言えるだろうか。それならば――
   甘い雰囲気から逃れるように、ハジの腕の中で身をよじって小夜は逃れた。
「――私。ハジの『花嫁』じゃないから・・・・」
「小夜?」
   一旦口に出してしまうと止まらなかった。こんなことを言うべきではない。ハジを困らせるだけなのに。けれども小夜にはわかった。わかってしまった。本当に不安なのは・・・・。本当に求めているのは・・・・。


   求めるのはいつも小夜の方から。ハジの方から求めることはない。


「私。私たちが一緒にいるのは――。私は本当は・・・・。 もしも。もしもだよ、この場にディーヴァがいたら、ハジはその・・・・」
   その言葉を口にすることができなかった。怖くて。もしも小夜がディーヴァを狩ると決めなかったとしたら。自分たちの立ち位置は変わっていたかもしれない。そして、もしかするとその時ディーヴァが『花婿』として選んだのは――。    そして、ディーヴァが心から望んだとき、ハジは――。シュヴァリエの血の中に、対の女王に惹かれる本能が潜んでいるなら・・・・。自らの女王と、対の女王。それはすべて本能からなのだろうか。自分へのハジの想いは。ハジの本来の『花嫁』は――。翼手が自然に繁殖していくものならば、その子孫を残すと言う意味でハジにとって・・・・。
   ハジは元々「私たち」の相手として『動物園』に連れてこられた。
「いつもいつも、私が望めばハジは私に触れてくれる。でも・・・・」
   ハジの言葉を疑ったわけではない。愛の言葉も優しい視線も、ハジの想いの深さも。でも、小夜が求めるとき、あるいは必要としているときにしかハジは少女に触れようとしなかった。そのハジの穏やかな態度が、その思い遣りが、少女が心の奥底に持っている不安や申し訳なさを揺さぶるときがあるのだ。ハジがやさしければ、やさしいほど――。
   自分にはハジが必要。けれどハジにとっては・・・・。眠っている間、30年もハジを孤独にしてしまう自分には――。
「私は小夜『しか』欲しくありません」
   一瞬の間があった。それからその言葉の意味が染み透ってきて、沸騰したように少女の顔が真っ赤に染まる。不安から一挙に飛んで理解と恥ずかしさに及ぶ。それは直接的な夜の行為を語るようで、初心な少女を動揺させるには十分だった。
「~~~~っっ。ちょっ・・・・・ちがっ・・・・そんなことじゃなくて、私が。私が、言ってるのは・・・・」
   むきになって言いかけて、小夜は不意に言葉を切った。背の高いハジの顔を近くで見ようとすると、どうしても下から覗きこむような格好になる。小夜はじっと青年の表情を見つめた。
   どうしてそんなことを言うのかわからないと言う顔をしている――。しかし、見つめこんでいるうちにふとハジの顔に微妙な変化が表れた。笑いをこらえているような。やさしいような。その蒼い瞳の奥深くからこぼれるように柔らかな光が差し込んでくる。
「小夜・・・・」
   ハジは左手でやさしく小夜の頬に触れた。微笑がわずかに口元を覆い、青年の内側から滲み出てくるものがあった。
「――! ハジ・・・・。もしかして。全部、わかってて・・・・?」
   青年の表情の微妙な変化でそれを知り、小夜は別の意味で真っ赤になった。ハジは知っていた。自分の不安を、自分が何故不安定になっているかを。真剣になっていたのに。本当に本気で落ち込んでいたのに。からかわれた。こんなことで。青年の左手を払いのけ、その腕から逃れるように身をよじる。その視線から表情を隠そうと後ろを向いて――。
「ハジの――。馬鹿!」
「すみません。小夜」
   謝罪の言葉だったが、その口調は決して悪びれておらず、明らかに笑いが籠もっていた。ハジが笑っている。胸を突かれたように小夜は再びハジの方を見た。もちろん闘いが終わって30年後、再会してから自然な微笑みは度々浮かべるようになった。しかしこんな風にからかって笑うなんて。そんなハジを見たのは実に『動物園』以来だった。そうだった。ハジにはこんな風に抑えられたユーモアも持っていた。
   小夜の目の色に、今度は青年の方が戸惑ったような顔になる。不意に小夜が自分の方からハジの方へ身体を寄せた。下から覗き込むようにその蒼い目を見上げて小夜は息をつめた。懐かしさといとおしさが籠もったような小夜の視線。その視線が潤んでいる。
「ハジ。私も――」
   急に恥らうように頬を染めて、ささやくように、内緒話でもするかのように小さな声で少女は言った。
「私も。ハジしか、欲しくないよ・・・・」
「小夜・・・・」
   一瞬ハジは驚いた顔をした。それから青年の腕が少女の腰を強く抱き寄せる。蒼い目が伏せられて、背の高い身体を屈めるようにして少女の額に自分の額を押し付けた。そのひんやりとした感触から、ハジの想いが伝わってくる。少女は再び確かなものとしてその想いを受け止めた。小夜しか欲しくない、冗談に乗せて伝えられた言葉の真摯さも。本当のことも、真情も、ハジはいつもギリギリになるまで心に秘めて話さない。だが、この言葉は――。
   小夜に捧げられるものだけではなく、小夜がハジを求めるだけでなく、ハジが求めているもの。いつもいつも、少女の求めに応じて触れるようなハジだったからこそ。おそらく少女の不安も呑み込んで。
   青年の唇が降ってきた。やさしく触れ合うように何度も交わされていたくちづけが、徐々に激しくなってくる。深く求められ、導かれる。その触れ合いに眩暈のようなものを感じながら、小夜の心の中にしびれるような歓びが湧き上がった。求める喜びと等しく求められる喜びと。それを実感する。


   だが青年はその腕に少女を閉じ込めながら、別の事も考えていた。もしも。少女が自分の『花嫁』だったならば。決して自分は彼女に触れなかっただろう。どれほど小夜がそれを望もうとも、どれほど自分が小夜を求めようとも。決して。――子供を宿すことによって、「血」の力を失っていたディーヴァ。その力を失った女王にどういうことが起こるのか。死の可能性。それが、青年が一番怖れている不安だった。ハジは目の前でディーヴァの死を見ている。血の力を失った女王の末路がどういうものであったか。たとえその可能性がわずかであっても、その危険を冒すことは青年にはできなかった。誰よりも何よりも大切な存在。小夜が生きているだけで、それだけで生きていける。たとえ長い年月を一人で過ごすことになろうとも。だからこそ、どれほどの苦しみを互いに感じようとも決して決して触れることはしなかっただろう。そして。だからこそ、ハジは少女が自分の『花嫁』ではなかったことに、心から感謝していた。こうして触れ合えること、求めること。たとえ自分たちの間に子孫を残せないとしても。
   自然と唇が激しくなる。




   目の隅で光のように青い薔薇の花束が揺れている。ハジの激しさを感じながら、少女は今までに無く満たされた想いに胸を震わせていた。




END



2010/04/06

あ、あれ?? なんだかちょっとダークな部分が入っているような。。。
 聞いていて、「ああ。二人でやってなさい」と言いたくなるほどのバカップル話を書こうと思ったのがきっかけです。
 これが甘いのか、それともそうでないのか、自分ではさっぱりわかりません。。。orz

 私の中のこの二人は、結構照れ屋さんなので、こんな会話をするのはきっと60年後以降。
 それで。いつもこの二人は小夜の誘い受けになることが前提条件です。(何が?とは訊かないで。。)
 でもそう思っているんです。。なんとなく。誘うというか、小夜がハジに対して、触れてもらうことが必要だという雰囲気を出して初めて、ハジが彼女に触れるという感じ??   それを小夜もわかっていて。。。それで、今回の話はこういう展開に。。。
 はっきり言って難しかった。。私には。こういう話って私には苦手なのね、とあらためて思いました。人生、いつも修行中。。
 私の中ではこの後、すぐには雪崩れ込まない。。。。(何がと訊かない・・・・以下略・・・) 昼間は節制している二人だったり、でも夜は・・・・。と妄想してみたり。自分で勝手に楽しんでしまう。。。あれ??この流れで裏が1本書ける??とちらりと思ったことは内緒です。。


 ありがとうございました。。。

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